『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』['85]
『鉄砲玉の美学』['73]
監督 森崎東
監督 中島貞夫

 今回の課題作には、自滅とも破滅的野垂れ死にとも言える末期を辿るアウトサイダーを捉えた作品が並んだ。

 先に観終えた『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』は、十五年前に、あたご劇場森崎東監督の三日間で観て以来の再見だ。奇しくも同胞['75]で三十路半ばの倍賞千恵子を観たばかりのところで、三十路最後の実妹の代表作の一つを観る巡り合わせとなった。ちょうど十年の開きのある作品だが、描いている世界の対照ぶりが際立つ。

 敦賀発電所から始まって現在、15基の原子炉があるという福井県、おいそれと数えきれない程の米軍基地を抱えている沖縄県、いずれも地元民のための施設ではなく、脆弱日本の理不尽な皺寄せを極端に押しつけられているように思える二つのトポスを浮かび上がらせた作品だ。

 流れ者の踊子バーバラ(倍賞美津子)と半グレ者の宮里(原田芳雄)が復帰前の沖縄から不法移民として本土に渡ってくる切っ掛けになったというコザ暴動は、二ヶ月余り前に観た宝島['25]でもクローズアップされていたが、二人が手に手を取って沖縄を逃げ出してきたのは、十九の春ということになっていたからそれからちょうど十五年経った'85年には三十路半ばになっていたことになる。裸で舞って本土を渡り歩いて糊口を凌ぐバーバラと、放射能防護服をまとう原発ジプシーとして彼女に連れだって渡り歩く宮里の皺寄せの極みのような生涯を印象づけた心に残る映画だと改めて思った。

 劇中、驚くばかりの無茶が冒頭からして描き出されるのだが、それ以上に、国の原発政策と米軍基地問題ほどに無茶苦茶で理不尽な米国追従はなく、それによって皺寄せを受けた人々が舐めている辛酸と憤懣の堪え難さが象徴的に込められていたように感じるバーバラの発砲場面が印象深い。単なるヤクザの抗争事件として片付けられ封印されたことで、お咎めなしになっている顛末に至るまで、全く理不尽で無茶苦茶なその場しのぎの御都合主義というわけだ。

 そこには、高校教師からストリッパーのヒモを経て、原発作業員に転落していった野呂(平田満)の蒙った理不尽以上の理不尽があるということなのだろう。大事件を事も無げに蓋をして隠蔽するこれこそが日本社会の体質だと痛烈なパンチを利かせていたラストだったように思う。宮里の野垂れ死にまでというのがありがちなエンディングであるだけに、なかなかキツイ一発に改めて感心させられた。

 すると旧知の女性からこの映画を見るために窪川まで見に行ったのは40年ぐらい前だったので記憶はあやふやながら、当時「原発ジプシー」という言葉は一般的ではなかったし、それを取り扱った映画だからこそわざわざ窪川の自主上映会場まで行かないと見られない映画だった、と記憶しています。彼らの存在を知らしめたのが不幸な津波災害だったのと、1人の権力者の死によってしか社会に知らされなかった統一教会の被害者たちの存在が妙に私の中では被るものがあります。とのコメントを貰った。成程そうかと思った。僕自身は、十五年前に初めて本作を観る前から「原発ジプシー」という言葉自体は既に知っていたような気がするが、どこで知ったのかは覚えていない。山上事件以前から統一教会問題自体は知られてはいたけれど、もちろん今ほどではないのと似たようなことなのかもしれない。大震災や暗殺といったメディア祭りでも起きないと、一般にはそういうことなのだろう。だが、祭りで騒いだ群衆というのは、まさに祭りがそうであるように、一時的な盛り上がりで終わるとしたものだ。それでもホントの祭は、定期的に盛り上げられるからまだいいけれど、原発検査収奪や除染収奪、献金収奪や宗教収奪は、お祭りのようにさえいかないのが悲しい。

 また、大学の同窓生からはやたらと長いタイトルのみ記憶に残っていて未見のままの映画ですが、原発や沖縄を題材にしたものだとは知りませんでした。原田芳雄で原発と言えば『原子力戦争』の記憶が強烈です。その他『聖母観音大菩薩』とか『人魚伝説』とか、ATGはけっこう原発ものを作ってたな、ということを思い出しました。とのコメントが寄せられた。僕は人魚伝説は観ているものの『原子力戦争』『聖母観音大菩薩』は未見なので、「いつか観られるといいな」と返していたら、あっさりと合評会主宰者が『原子力戦争』を貸してくれることになった。御縁ある黒木監督作品だけに積年の宿題が片付くのが嬉しい。


 翌日観終えた『鉄砲玉の美学』は、まだ風俗街に“トルコ”を掲げた看板が林立している時代の作品だ。後年、異色アイドルグループの制服向上委員会とも近しかったPANTA(頭脳警察)の歌う♪ふざけるんじゃねえよ♪のなかで垣間見えたストリップのレズショーはバーバラの時代の十二年前になる。十九年前に観たっきりの日活ロマンポルノ『一条さゆり 濡れた欲情』['72]にも出演していた一条さゆりによる特出しショー以降、ステージが過激化して行き始めた時代で、'80年代のアイドル化以前のものだ。

 タイトルとは裏腹に些かの美学もないチンピラ清(渡瀬恒彦)の情けない顛末だった。大阪の暴力団天祐会の会長から血の気が多うて糞度胸があって…腕っぷしの強い奴と言われてぴったりのが一人いてまっせと選ばれたのがこの小池清かと些か呆れた。己が姿を鏡に映しながら、恰好を付けてワイは天祐会の小池清やと練習を重ねたり、抗争への発展を避けるために南九州を束ねる南九会の幹部杉町(小池朝雄)から差し出された、小池を刺した尾行者(川谷拓三)に杉町の思惑を越えた銃を向けながら震えていた小物ぶりに、天祐会自体の底が知れるような有様だった。

 平凡な幸せやマイホームを求めたり、傷口を舐め合うなんてことは負け犬だと嘯く、田中潤子(杉本美樹)との蜜月も杉町が時間稼ぎに送り込んだ用を満たした、清の二十四歳の誕生日に突如終え、最後には真夜中のカーボーイのラッツォ(ダスティン・ホフマン)の如く、バスの車中で死んでいき、神々の降り立つ霧島には辿りつけなかった小池清は、『…党宣言』の宮里ほどの気概の欠片もなかったような気がした。まさに勝手にしやがれのミシェルのように恰好だけの「本当に最低だ」というほかない青年だったように思う。両者とも相当にケチな野郎だったが、ミシェルに影射していたアルジェリア戦争への従軍とゲバ棒振るう学生運動ではこれまた比較にもならず、全く以て只のろくでなしだったような気がする。


 合評会では、3対1で『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』のほうに支持が集まったのだが、少数派の『鉄砲玉の美学』支持者も積極的に同作を支持するというのではなく、喜劇とされるのに全く喜劇として響いてこなかった『…党宣言』よりはこちらのほうがましだったという相対的支持だった。

 逆に『…美学』のほうが全く響いてこなかったというメンバーが、同作は、公開時にはけっこう支持を集めていたらしく、ヤクザ映画のジャンルのなかに芸術的作品が現れたという評価がされていたことが全く腑に落ちないと言っていた。僕自身は、そのような評を知らなかったのだが、そのように言われていたとするなら、まさしくそれは本作がヌーベルバーグの代表作としてやたらと名高い『勝手にしやがれ』の評価に対するアンサームービーとして中島貞夫が撮っていたように見受けられるからではないかと、その理由を説明すると大いに賛同を得た。

 つまりは、新鮮でカッコいいと持て囃される『勝手にしやがれ』に描かれていた世界というものの有り体は、こういうものに他ならないではないかという提示が『鉄砲玉の美学』だと読みとったのではないかというわけだ。『勝手にしやがれ』を下敷きにしているからこそ、いかにも唐突な警察官の登場となり、杉町から差し出されたチンピラさえも撃てなかった小池清が警察官に向けて発砲し、返り討ちに遭って命を落とすという展開となっていたのだろう。小池にすっかり馴染んでいたはずの潤子があっさりと離れていくのもミシェルを警察に通報したパトリシアをなぞっている気がする。杉本美樹は奮闘しつつもジーン・セバーグには見劣りがしたが、渡瀬恒彦はジャン=ポール・ベルモンドとは対照的に、あからさまに実に最低のチンピラ男を演じて圧巻だったように思う。数多くの日本映画を観ている主宰者もこんな渡瀬恒彦は初めて観たと驚いたそうだ。加えて、オープニングの些かグロテスクで露悪的なカットの連打によって、カッコいいとかお洒落とされるものの裏側に厳然としてある有り体を映し出すことの宣言がなされていたあたりも含めて、東大卒のインテリ監督らしいコンセプチュアルな企図を好感をもって素直に受け止めた人々が芸術的だと称賛したような気がする。だが、僕自身は、『真夜中のカーボーイ』もどきのラストも含め、それらがいかにもあざとく映って来て、あまり好もしく感じられなかった。

 すると、メンバーの一人がそれは非常に鋭い考察だと褒めてくれたうえではあるものの、多くの人がそこまで読み取れるわけがないから、一般的に芸術的だと評されたのは、私がそう思ったのと同様に、単にATGで撮られた映画だからというだけのことだったのではないかとの剛速球の如き異論を投げ込んできて、思わず打席で仰け反るバッターの心境に見舞われた。
by ヤマ

'25.12.22,23. DVD観賞



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