久我山昔話






井の頭線の車両
地下鉄の電車は、どこから入れるの?との漫才が有りますが、井の 頭線の電車を昭和 24 年頃は、人見街道から入れていました。
終電車の後に、車台はレールを通って、車体は人見街道をゆっくり、 ゆっくり、トレーラー自動車で運ばれてきました。沢山の電灯を点 けて、下り線に大勢の作業員で送り込みました。踏切の近くでは、 朝まで眠れませんでした。
今は、永福町のバス車庫の奥で車台と車体を組み立てています。 (平成22 年1月 13 を修正)


井の頭線の車両2
昭和 24 年頃の事じゃつた。
2両編成の電車で久我山から澁谷方面に走り始めると、車体がユッ サ・ユッサと震わせながら進んだもんだ。吊革が一斉に揺れ、 振り 子運動をして握りの輪が網棚の横棒に激しく当たりガチ・ガチ鳴 ったもんだ。脱線・転覆するんじゃ無いかとヒャヒャしたもんだ。 久我山~富士見ヶ丘間は、田んぼに線路を敷いたので、軟弱地盤が レールを波打たせたんだとさ。(平成 22 年2月 14)


一時間に一本
今、井の頭線の電車はラッシュ時に、上り下り合わせて、1時間に 約40 本も走しっとるが・・・・。東京急行電鉄(TKK)と呼ばれてお った戦後は、1時間に1本だったのじゃ。それはなぁー、空襲にな ると車輌を永福町に有った車輌庫に集めたので、爆撃を受けて燃 えてしもうたのじゃ。その後は、久我山と三鷹台間の切り通しに取 り残され、車輌庫に戻れなかった一車輌で、走っておったからなの だ・・・・。(平成22 年6月 18)





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