久我山昔話





 
電車の車庫は田んぼだった
井の頭線の富士見ヶ丘車庫は、永福町〔今はバス車庫〕から移転を して来たぁんだ。
今から、50 年程前(昭和35 年-1960) 神田川の水の流れが下水化 してしもうて、田んぼ全体が黒ずみ、稲が植えられ無くなってしも ぅた。線路と神田川の間の田んぼを、電車車庫にする話がまとまっ た。 線路と田ぶち通り間は、宅地分譲になった。それまで居たイナ ゴ・ドジョウ・蛙・田螺(たにし)などは、皆消えてしもうたのだ。 (平成23 年5月 28)


久我山の田んぼ
久我山の田んぼは、摘田(つみた)〔軟らかく足が埋ってしまうので、 田植えが出来ず、稲の種と肥料を混ぜて畔より蒔く田〕だった。昭 和20 年代迄は、お米を作っていたんだ。
神田川に下水が混入して汚れてしまい、昭和30 年代には、休農と なってしもうた。困った農家は、京王帝都電鉄に田んぼを売ったの で、富士見ヶ丘に電車の車庫が出来たんだ。 (秦暢三さん筆 久我 山を回想してより)(平成 30 年1月107)


富士見ヶ丘1号踏切
人見街道の踏切は、40 年程前まで踏切番が居(お)って、電車が近 ずくとハンドルを回して、遮断していたんだ。
踏切番の相澤与吉さんは、聖蹟桜ヶ丘駅近くの和田から、毎日通っ ておった。
富士見ヶ丘1号踏切とは、富士見ヶ丘駅から、初めての踏切だから 1号と言うんだ。馬車道〔ピーコック近く〕の踏切は、久我山1号 だ。(平成 25年7月 53)




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