コビは九州なら陸路よりも瀬戸内海を船で航海する方が早いので、理解できるが、東方遠征がまさか船によるとは思いもよらなかった。再び大和川から盛大に見送られて船団が出ていくことになった。
 その日は、淡路島と紀伊半島の間の友ケ島水道を抜け、紀伊水道を南下し、紀伊半島を左手に見ながらぐるっと志摩半島から伊勢湾に立ち寄った。
 じつは新羅の渡来人が対馬海流に乗って容易に出雲や丹後に行き着けたと同じように、黒潮に乗る、このルートは弥生時代の昔から行なわれていた。だから南方系の漂着者が九州だけでなく、東海地方や東北地方にも達していたのである。
・・・伊勢で船団を休め、ミコトとコビ、ヲワケの臣、それに数人の側近は、ミコトの叔母の伊勢・倭比売(ヤマトヒメ)の処に身を寄せ、厚い待遇を受けた。ここでも熊襲征伐の話で持ちきりになったが、最後にヤマトタケルノミコトは、遠征、遠征という余りに苛酷な大王の仕打ちを彼女に訴えた。しかし、倭比売は、
「そなたの武勇を見込んでの大王の願い。いま討たなければ、いつ、だれが討ってくれようぞ。そなたには辛いだろうが、行って蝦夷を征伐してくるのじゃ。・・・そなたの持参した神器・アマノムラクモノ剣は、この伊勢に奉納するのは、そなたが遠征から戻ってきてからにしよう。持って行くがよい。これがいかなる災難からも、そなたを守ることであろう。そしてコビどののお相手としてオトタチバナ姫を一行に加えることにしましょう。無事に役目を果たして戻ってくることを望みます」
 そう言って、三種の神器の一つである剣を神にいったん奉ったあと、再びヤマトタケルノミコトに渡した。
 オトタチバナ姫はちょうどコビと年格好も同じくらいで、鼻筋の通った端正な顔立ちと大きな目、長い髪、そしてその神々しい姿態は見る者を夢の中に誘い込むようであった。
 
 翌日、伊勢から伊勢湾を北上し、船団は木曽川に入り、錨を降ろし上陸した。濃尾平野を視察するためである。
 途中、知多半島沖で数隻が一団となった海賊に出会ったが、武装したヤマトの兵にはひとたまりもなかった。船もろとも、あっという間に滅ぼしてしまった。コビは、あまりに素早い彼らの攻撃とヤマト軍の応戦に、巫女としても成すすべもなく、ただ呆気に取られて見守るばかりだった。聞くと、彼らは 斐川や木曽川に入って、里に上がっては掠奪を繰り返して生活している土地を持たない蛮族であるとのことだった。そういえば瀬戸内海にも、航海する船を襲っては、交易品を掠奪する海賊がいた。
・・・陸路の場合は鈴鹿山脈を越えなければならない。しかし、この時代にはまだ確定した陸路というものはなく、十人程度の移住者が旅することはできても、一千の軍勢が移動できるような道はなかった。
 そして養老山地もある。これを抜けると、広大な水田が拓けた一面の濃尾平野である。
「この地方もヤマト大王の支配下なの?」
コビは、整然とした立派な田園に目を見張って、そばにいた指揮官の一人に聞こえるようにつぶやいた。
「はい、左様でございます。この豊かな土地によって倭の国が栄えております。歴代の倭国大王が百済からの移住民の多くを、この地に派遣し、開墾と農耕の仕方を土着の人々に教え、いまの平和があるのでございます」
 その会話が聞こえたのか、ヤマトタケルノミコトがつかつかとやって来た。
「この地方には渡来人が多く住んでいる。・・・鵜飼いといって、鳥を使って魚を取る習慣があるとも聞いておるぞ。それも渡来人によってもたらされたものだ」
「そうなんですか。<こんな昔から・・・>ウを使ってアユやフナを取るんですね。・・・岐阜の長良川が有名だわ」
「え?ナガラガワ?」
「いえ、こっちの事・・・」
<まだ長良川という名称はないんだ>、コビは歴史の重みを感じた。
 九州遠征でもそうだったが、ヤマトタケルノミコトは行く先々で、名もない川や山に名前を付けていった。また、その土地の豪族に祭事を教え、民、百姓から取る年貢も決めていった。武装したヤマト軍を見るにつけ、豪族は反抗するものは殆どいない。ヤマト大王に従属することを誓っていった。東海道の基礎を築いたのは、江戸時代ではなく、じつはこの東方遠征の帰路だったと言われている。
 
・・・遠州灘を航行し、駿河湾にも入って視察、さらに伊豆半島を周り、相模湾に入ったのは二日後である。
 疲れが溜まった頃だが、それに追い打ちをかけるように風が強くなり、船が大きく揺れるようになってきた。
「もう少しで蝦夷に着くから!」
と、ヤマトタケルノミコトはコビに元気付けるように説明した。<天気が良ければ富士山が見えるだろうに、蝦夷はすぐそこだと思っているのね>、コビは何も反論しなかった。
 小さな二、三十人乗りの船は、木の葉のように揺れ始めた。コビは悪天候の中、地理を頭に浮かべて、いまどの辺を航行しているのか一生懸命に見渡した。いよいよ風が強くなり、雲行きがあやしくなってきた。きっと雨も降りだすに違いない。
「台風が近付いているわ」
コビは、大きく揺れる船と空を見てヲワケの臣に言った。
「タイフー?」
「嵐よ。雨と風がひどくなるので、船を早く港につけて互いに縛ってないと、沖に流されてしまうわ!」
「それは大変だ!」
 ヲワケの臣は急いで船を近くの港につけるよう指示を出したが、何十捜もの船に、それが伝わるには時間がかかった。
「風向きから判断して、そう大きな台風ではなさそうだけど、早めに入江に入った方がいいわ」
 巫女の言うことだから、指揮官などにとっては絶対的である。伝令が右往左往し、船は大きく進路を変えている。コビは地理感に間違いがなければ、正面にうっすら見えているのは房総半島で、左が三浦半島だろうと判断した。左に大きく回って東京湾に入れば、波もかなり小さくなるはず。しかし、もうそんな余裕はなかった。夕刻も迫ってきた。一刻も早く入江に入る方が安全だろう。
 どう考えても、そして、いくらコビでも、見えている三浦半島の先端が城ケ島側か、観音崎側かなんて分からない。
 だんだんと雨も強くなり、いくつかの船は座礁したり岩に打ち上げられたりし始めた。少々苛立ってきたとき、大変な事態が起きた。
「コビどの!来てください!」
ヲワケの臣が悲痛な面持ちで甲板をよろよろしながらやってきた。
「なーに?なんなの?」
「オトタチバナ姫が・・・」
「姫がどうしたの?」
 船酔いでもして、具合が悪くなったのかと思い、コビはヲワケの臣と一緒に船底の彼女の休み処に急いだ。
 すでにヤマトタケルノミコトも来ており、頭を垂れて姫にすがっている。家来達も床に頭をすり付けて泣いている。姫は落ち着いた表情で、みんなを眺めていたが、コビとヲワケの臣が入ってくると、静かに言った。
「わたしが海の神の生け贄になれば、この嵐はおさまります。・・・往かせてください」
コビはやっと情況がわかった。これは大変だ。そんなことをして台風がおさまるわけがない。
「オトタチバナ姫!よしてください!姫さまが生け贄になったからといって、嵐がおさまったりはしません!」
コビは叫んだ。
「タケル大王さま!あなたからも止めてください!」
「・・・」
「どうして!どうしてなの!」
コビはその場の不思議な雰囲気にぎょっとした。
「ヲワケさま!大王に言ってください!そんな事をしても無駄なんです!迷信なのよ!」
「メイシン?」
「そう、迷信。人の命で自然現象を変えることなんて出来ないんです!」
「大王!どうか姫どのに思い留まるよう説得してください!」
ヲワケの臣は、ミコトのそばに行って嘆願した。
「・・・」
「コビどのの呪術を信じて、どうか姫のお命をお助けください!」
 なおも、ヲワケはミコトにすがって頭を垂れたが、ミコトはそれに応じなかった。
「わたしは天下を治める現人神(あらびとがみ)である。オトタチバナ姫は神に仕える巫である。コビどのでも海神の怒りを鎮めることはできない。姫にはそれができる。この嵐を鎮めるのは姫以外にはいない」
「それは違います!間違っているのです!あしたになれば、この嵐はおさまります。どうか尊い命を無駄にしないでください!」
コビは懸命にミコトと姫に向かって叫んだ。そしてミコトのそばに行こうとしたが、家来達に止められ、動けなくなってしまった。
「どうぞ、悲しまないでください。わたしは海の神のおそばに参ります」
「やめて!」
 コビの声は姫の耳には入らなかった。姫はすっくと立ち上がり、甲板に向かって歩き始めた。
「やめて!お願い!」
コビはありったけの力を振り絞って家来の腕を払いのけて、姫の後を追ったが、間に合わなかった。オトタチバナ姫は自ら海に身を投じた。
・・・コビは、またも自分の無力を知らされて甲板に泣き崩れた。嵐は吹き荒れ、何艘も船は転覆し、多くの兵士が海に呑まれた。コビ達の船はようやく入江に入って難をのがれた。
 
・・・次の日、悪夢の台風は嘘のように過ぎ去り、真っ青な空に晴れ上がった。この事件は、後に、走水(はしりみず)の海でオトタチバナ姫が生け贄になって神の怒りを鎮めたという神話になって語り継がれることになった。走水は現在、三浦半島の観音崎の近くに地名として残っている。一行が非難した入江は浦賀と久里浜である。
 しかし、ヤマトタケルノミコトは蝦夷に流れ着いたと説明した。コビは三浦半島であることは分かっていたが、とくに教えようとは思わなかった。
 無事だった兵士は直ちに呼び集められ隊の編成を組み直したが、総勢五百くらいになっていた。しかも船の損傷も甚大で、武器や食料も大半失われ、あの、強力な軍事力を誇るヤマト軍とはとても思えない状態になっていた。
 
 一行は浦賀水道を通り、現在の東京湾に入った。やがて船団は河口に入って行ったが、コビにも、そこが多摩川なのか、隅田川なのか、あるいは荒川なのか、はたまた江戸川なのか見当はつかなかった。極度に疲れていたし、方角を確かめて頭の中で地理を思い浮かべるなど、とてもできる状態ではなかった。もとより、ヤマトタケルノミコトやヲワケの臣にも分かるはずはなかった。
 船団は、かなり河川内部まで航行できた。両岸は水田が拓け、耕作技術は濃尾平野で見たものと殆ど変わらない。
 ところどころ村落があり、ヤマト軍一行を百姓らしい人影が遠くから恐る恐る見守っていたが、ミコトが説明する蝦夷の蛮族らしい攻撃など全くない。ミコトはいまもって、この地を蝦夷と思い込んでいる。
 やがて船団は、船の補修をする者と、あらぬ攻撃に備えて居残る兵士数十人を置いて、ヤマト軍は徒歩で行進して行った。
「油断をしてはならぬぞ!」
 ミコトは非常に神経質で、いつ蛮族の攻撃があるかと神経をとがらせていた。
・・・かなり内陸に入って来た。やがて百戸ほどかたまっている村をヤマト軍は包囲するような陣を組んで止まった。ミコトはすぐ、使いを出し、この村の首長に会いたいと折衝したが、この村には首長はいないと言う。もっと北の方だという。その夜は厳重な警戒のもとに野宿であった。
 次の日も行進は続けられた。同じく百戸ほどの群落があったので首長に会いたいと折衝したが、いないと言う。もっと北だという。全く武器を持たない平和な農民そのものである。更にヤマト軍は河川に沿って進んだ。また百戸ほどの集落があったので、首長に会うことを折衝したが、やはりいなかった。もう少し北の方に行くと森が続き、小高い丘陵があり、そこに首長が住んでいるという説明であった。
 ヤマトタケルノミコトは、蝦夷を討つという使命感からだろうか、何かに取り衝かれたように行進した。ここは蝦夷ではないんだとコビは何度説明しようと思ったか知れない。しかし、その度に無駄な口論になるようなことはやめようと思いとどまるのだった。
 やがて丘陵が見え始めて、コビはやっとこの辺りが、どこか分かった。来る途中ずっと左に見えていたのは狭山丘陵であろう、そして向こうに見えてきたのは、武蔵丘陵だ!そうだ!それに違いない、右前方遥か遠くに見える山は筑波山だ、その左に見える山々は日光山地(足尾山地)だ!コビはいささか興奮した。
<戻って来た!沿って来た川は荒川なんだ!関東平野はなんて広いんだろう!>、水田の続く向こうは、まだ開墾されてない広々とした緑の続く原野だ。ずっと続いている。なんにもない。原野そのものだ。
 
 ヤマトタケルノミコトは、小高い丘陵の裾に土塀で仕切った比較的大きな藁葺き屋根の屋敷が点在するのを見付けた。明らかに農家ではない。そこの一軒に使いを遣った。
 やがて召使いを数人連れて出てきた主人は、ヤマトの軍勢を見るなり、土下座をして地面に平伏した。
「ヤマトの大王さま!私はジンウイと申します。ここの国王は私ではありません。チュモン国王に、お引き合わせ致しますので、どうぞこちらへ」
 そういって、頭を垂れたまま、
「さ、どうぞこちらへ」
と、案内し始めた。ミコトは兵士を丘陵の裾に残したまま、ヲワケの臣以下十数人の家来だけを従えて用心深く付いていった。三軒目の屋敷に着いたところで、しばらく待つように言われた。
<蝦夷の蛮族が、こんな立派な屋敷に住んでいるのか>、ミコトは半信半疑であったが、なおも戦闘の構えを崩さず待った。三軒といっても、一軒当たりの敷地が広いので、兵士達がいるところからは数百メートルはある。
 やがて、屋敷の中に入るよう使いがやってきたが、ヤマトタケルノミコトは、それを拒み、首長の方から、こちらに出てくるよう指示した。屋敷内で何が待ち受けているか分からないと判断したのだ。何かあれば、即座に攻撃を開始し、一挙につぶすだけの心の準備はしていた。
 広場に立派な木製の椅子が二つ用意され、ミコトの要望どおり、外で会見が行なわれることになった。さっきのジンウイという人物と、ひときわ飾りの多い着物を着た首長らしい人物が、数人の側近を連れて出てきた。全く武装はしてない。
「さ、どうぞ、お座りください。わたしがチュモンです」
 落ち着いた物腰で少しも敵意を示さない。ミコトの方はコビの巫女姿以外は全員完全武装で、少しでも動くと兜の音や剣のかちゃかちゃこする音がする。相手側は絹づれの音である。大きな違いだ。ミコトとチュモンが椅子に座り、向かい会った。
「わたしは現人神(あらびとがみ)ヤマトタケルノミコトである。ヤマト大王から命を受けて、この蝦夷の地を平定に来た。そちは国王と名告っているのか!」
ミコトはいきなり<国王とは気に入らない!>というように切りだした。
「え?ここは蝦夷ではございません。幸魂(さきみたま)でございます。もっともサキミタマという地名は、わたしどもの祖先が幸せを願って付けた名前で、ヤマト大王の命名ではございません」
 コビは<しまった!ここは蝦夷ではないことを、やはり教えておくべきだったか>と反省したが、もう遅い。
「なに?ここは蝦夷ではないのか!」
「蝦夷はもっともっと北の方の国でございます。・・・わたしの祖先は百済王族です。この地に渡来したのは、もう百年ほど前です。その頃はまだヤマト大王は、この地を治めてなかったと聞いております。倭の国に帰化した祖先は、この地を豊かな国にして、王として今に至っております」
「王はわたしだ!勝手なことは許さん!」
「いえ、決して勝手なことをしたわけではありません。先祖伝来の言い伝えによりますと、ヤマトとイズモが発展していた頃は、この地はまだ開拓しておらず、農民は貧しい暮らしをしていたと聞いております。サキミタマがご覧のように豊かな土地に変わったのは、わたしたちのもたらした農耕器具と指導によるもの。ヤマトの許しを得る必要はなかったはずです」
「王はわたしだと言っているのだ!百済の王族の子孫とはいえ、この地で王を名告ることは許さん。倭国王は、ヤマトにミヤコを持つ我々だ!」
「はい。いずれこの日が来ると言い伝えられておりました。・・・ヤマト大王に栄えあれ」
 コビは一部始終を見ていて、涙が出る思いだった。武力衝突は一切なしで、ヤマトに従属した彼らの柔軟な姿勢に頭が下がった。それに引き替え、武力をバックに話を進めるヤマトタケルノミコトは強引だった。一言一言が権威に満ちあふれ、逆らえば一刀のもとに首をはねてしまうぞという態度が、相手にひしと伝わっていた。・・・
「弓矢などの兵器を隠している倉はどこにあるか」
「武器はいっさい持っておりません。いままで、その必要がなかったからです」
「農民に武器を与えて、兵士を組織するようにはしてないのか」
「農民には農耕具を与えます。武器を与える必要はありません」
「他国から攻めてきたらどうする!」
「この百年以上、そういうことはなかったのです。渡来人がやってきても、サキミタマの住人はこころよく受け入れ、争いはなかった。そのため、この地方は広い範囲に渡って平和が続いています」
「わかった。・・・海を渡り、川を昇ってきたのだが、この地方を、わたし倭武尊(ヤマトタケルノミコト)の武を取って、武州と名付けよう」
 武州はのちに武蔵と変更されるが、そのルーツはここにあったのだ。そして幸魂(サキミタマ)は埼玉の語源として知られている。かくしてヤマトタケルノミコトは戦闘をすることなく、サキミタマをヤマトに従属させた。
 
・・・やがて、この噂は武州全域に及び、ヤマト大王の名のもとに統一されることとなった。
 ヲワケの臣の予想は的中した。その後の彼の活躍はすばらしく、広大な関東平野を駈けめぐり、大王直轄の屯倉(ミヤケ)を増設し、官僚を置いて監督させ、武州全域にその名を轟かせ、その功績からミコトに、この地に残るよう命令されたのだ。
 ヲワケの臣は承諾した。拒否することはできない。いや、命令だからというだけではなかった。この地は平和である。この平和を維持するためにも、この地に残ろう。そう思ったのである。
 
・・・長かった遠征の旅も、ここサキミタマでミコトとも別れることになった。
「ヲワケの臣よ。よくぞ、ここまで私に尽くしてくれた。思えば、わたしとそなた、それにスガルノオミとは子供の頃からいつも一緒だった。ヤマトの地でもっと一緒に漢語の勉強もしたいと願ったが、いまやスガルノオミは菊地の地に、そしてそなたは、ここサキミタマに残る。ヤマトのために尽くしてくれ・・・」
「はい、タケル大王どの!遠く離れていても、わたしの心はいつも大王のおそばにあります。・・・何かあれば、いつでもお呼びください。すぐ参ります」
 二人は広大な緑一面の関東平野を眺めながら語った。
 
「・・・ところで、コビどのの事だが。・・・そなた、コビどのをどう思っておるか」
「どう?と仰せられますと?」
「にぶい奴じゃ、わしと一緒にヤマトに戻ってもいいかと聞いておるのじゃ」
「・・・」
 ヲワケは、あまりの忙しさで、すっかりコビの事は忘れていた。コビも巫女ということで、新しい神社が建立されるたびに、この広い関東平野のあちこちに駆り出され、ヲワケとゆっくり話をする暇はほとんどなかった。今もジンウイの子供が病気だと聞いて、その屋敷に行っている。
「どうなのだ」
「はい、・・・コビどのと別れるのは辛ろうございます・・・しかし大王が・・・」
ヲワケは遠慮がちに、うつむいて答えた。
「わたしが?わたしがどうなんだ?わたしに遠慮することはない。・・・やはりのォー・・・コビどのを妻にする気はないか」
「え?」
 突然のミコトの言葉にヲワケは自分の耳を疑った。<そんな!あれだけの呪術を使う巫女どのを大王が離すわけはない>、
ヲワケはコビに初めて出雲で会った時から、ずっとそう思い込んでいた。
「コビどのを、そなたは妻にする気はないかと聞いておるのだ」
「大王とコビどのさえ承知してくだされば、わたしは・・・」
「そうか、それで安心した。・・・わたしは走水の海でオトタチバナ姫を失って以来、コビどのには悪いことをしたと思っていた。コビどのの悲しみは、わたしへの憎しみに変わっているようにも思えた。恐らくコビどのは、わたしとヤマトには帰らないだろう。そなた達二人が、この地に残ってくれれば、わたしはそれに越したことはないのだ」
「大王、有り難き幸せ!」
 ヲワケの臣は思わずミコトの足元に膝間づいた。コビには淡い恋情を抱いてはいたが、大王のそばに仕える巫女という事以外には到底考えられないことだったのである。
「わたしはいよいよ明日、ヤマトに向かうことにする。そなた達との別れだ」
「大王!」
 
・・・その夜は、盛大に別れの宴が催された。コビはヤマトタケルノミコトから、<一緒にヤマトに戻らなくてもよい、ここに留まるように>と言い渡されたときは、ちょっと信じられない思いだった。ヤマトに戻るように命令されるとばかり思っていた。もとより一緒に行く気はなかったが、こうすんなりと留まるように言われると、気持ちの整理に戸惑うのだった。
 しかし、ここに留まるとしても、そう長い間いるわけにもいかない。もうそろそろ帰らないといけない。ミコトともヲワケの臣ともいよいよ別れのときが来たことを、宴が進むにつれ強く感じてくるのだった。
 コビはミコトに酌をした。初めてヤマト川の土手の上で会ったときの事を思い出した。偉そうな高慢な態度が気に入らないと反感を持ったものだった。もう少しで切り捨てられそうになったものだ。しかし、長い遠征の旅を一緒にしてきて、こうして酌をし、明日は別れとなると、コビの胸に込み上げる熱い情が湧いてくる。目と目が合ったとき、コビはどっと涙が出てきた。
「そなたは泣いておるのか」
「・・・」
「嬉しいぞ。・・・わたしはそなたの言う事を聞かず、いつも勝手な事ばかりやってきたように思う。いまこそ謝りたい。許せよ、コビどの」
「いいえ、いいんです。わたしは大王の力になれるだけの巫女ではなかったのです。歴史は変えられませんでした・・・」
コビはうつむいて、小さな泣き声でつぶやいた。
「なに?何と申した」
「いえ、なんでもございません。わたしの力が及ばなかったのです。・・・大王は明日からヤマトへの帰路に旅立ちますが、お別れにどうかわたしの言うことをお聞きください。・・・相模の国で、そこの国造(くにのみやっこ)によって攻撃されます。枯草に火をつけられ、火の海に囲まれ、方角が分からなくなります。しかし、大王は出雲で手に入れ、倭比売(ヤマトヒメ)から授かった天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をお持ちでしょう、それを使って剣のおもむく方向に枯草を薙ぎ倒して進んでください。そうすると川に出て、ヤマト軍は無事にその戦いを乗り切り、相模の国を平定することができます。その剣は、その後は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼び、伊勢に祭ってください。・・・それから、甲斐の国、信濃の国を経て、尾張の国まで帰ったところで、ミヤズ姫という美しい姫に出会い、大王と親しくなりますが、そこの伊吹山の山賊が襲ってきます。その時も絶対に草薙剣を手元から離してはいけません。・・・こうしてヤマトへの帰路は東海道の基礎を築くことになり、やがてヤマトにお戻りになられたミコトは興大王のあとを継ぎ、武王と名告られ、倭が国の最高君主となられます」
「それは、まことか!」
 だまって聞いていたヤマトタケルノミコトは、目を輝かせて言った。
「はい、わたしの全力を傾けて占った呪術によって分かったことです。決して間違いはございません」
 コビは自信に満ちた視線を大王に向けて、はっきりと言った。
「そうか。・・・肝に命じて覚えておこう。コビどのの呪術によってわたしは救われた。礼を言うぞ。・・・この地に留まり、ヲワケの臣と二人で平和に暮らせよ」
「・・・」
 コビは二人で暮らせ、という言葉にハッとした。<ひょっとしてミコトは、わたしとヲワケどのを・・・それはいけない!不可能な事!>
「わたしも、まもなく故郷に帰らなければなりません。・・・大王!お願いがあります。大王のお持ちの剣で、呪祭用の長い鉄剣がありましたね。あれをヲワケの臣に授けてくださいませんか」
「おー、よくぞ気が付いた。わたしの証として、ぜひ授けようぞ!」
 さっそく、その鉄剣が用意され、ヲワケの臣が呼ばれ、宴を中断しての授受式となった。最高の栄誉である。
<これでいい。わたしが歴史を作った!>、コビは有頂天になった。
 
 次の日、いよいよヤマトタケルノミコトとも別れることになった。コビはもう涙は見せなかった。悲しみはなかった。多くの家来たち、兵に守られてミコトは去っていった。
「さようならー、ご無事で、さようならー」
 手を振りながら、声の続くかぎり、そして丘陵の影に見えなくなるまで叫び続けた。
 
・・・コビはふとわれに帰って、急に淋しくなり、泣けそうになった。それはミコトと別れた事ではなく、そばにいるヲワケの臣とも別れないといけないことだった。ヲワケの臣は自分の事を何も知らない。もう行ってしまう自分の事をどのように思っているのだろうか。胸が締め付けられる思いで悲しかった。
「コビどの・・・」
「はい、ヲワケさま」
 コビは瞬間的に、ヲワケの臣の目を見て、それが何を言おうとしているのか分かった。・・・<いけない!それを言ってはいけない!>
「コビどの・・・」
「はい、ヲワケさま。わたし、あなたにお話したい事があるの」
「・・・何でしょう・・・」
「タケル大王から授かった鉄剣の事ですけど、あの鉄剣に文字を刻んで欲しいの」
「え?どういう事ですか?」
「わたし、ヲワケさまのご先祖はオホヒコさま、タカリのスクネさま、テヨカリワケさまであることを知っているのです」
「そうでしたね。熊襲征伐に行く途中、船上で・・・」
「ええ、そのご先祖さまとヲワケさまのこと、そしてヲワケさまがタケル大王にお仕えした事を鉄剣に刻んでほしいのです」
「それは・・・大王から賜った鉄剣に、そういう傷を付けるなんて、・・・いくらコビどののご命令でも・・・」
「お願い!わたしの願い聞いて!固い鉄片で文字を刻むのよ。そして錆びないように、その文字の上に金箔を押し込めるの」
「なぜ、そういうことをするのですか?」
「わたしだと思って・・・」
「・・・」
「その鉄剣、わたしだと思ってやってほしいの・・・お願い!」
「・・・」
「わたし・・・わたし、ヲワケさまとお別れしないといけないんです。この地に留まることはできないんです!」
 コビは、今まで我慢してきた感情が堰を切ったように、どっと吹き出して泣き崩れた。
言葉を失い、茫然とするヲワケの臣だった。<本当だろうか>、信じられない表情で、ヲワケの臣はコビを抱き起こした。
「コビどの!」
「ごめんなさい、ヲワケさま・・・もう何も言わないで。わたし、遠い国に帰らないといけないんです。・・・ヲワケさまは、この地を統率する首長になられた方です。わたしは・・・わたしは・・・」
「コビどの!分かりました。・・・長い遠征の旅で、どんなにコビどのに勇気付けられたか、そして楽しいひとときが得られたか、生涯忘れはしません。そしてコビどのの言われる金錯銘(きんさくめい)鉄剣は必ず作ります。わたしの宝剣として、いやコビどのの宝剣としてお守りします」
「ヲワケさま!」
 二人はしっかり抱き合った。
「ヲワケさま、さようなら!・・・目をとじて!」
 ヲワケの臣が目を閉じた瞬間、コビは大粒の涙を残してワープした。
 
「コビちゃん!、コビ、何をそんなところで泣いてるの。もうバスに集合の時間よ!」
麻美がコビの肩を揺すった。
「先に行ってて!」
 コビは稲荷山古墳の斜面を抱くように泣き崩れていた。
(完)(1993年夏)