【vol.254】伊藤一彦歌集『歌の小舟』短歌研究社
山蛭もわれも前世を知らぬまま雨の森にてけふ出会ひたり
額(ぬか)に傷もちゐる人とすれちがひわが頬の傷かすかに痛む
交番の前に思へり自首せよと言はれたら何(なに)自首するか
曼珠沙華まぬがれ得ない紅(くれなゐ)に身を染めて立ち此岸(しがん)ゆ逃げず
みづからは色もたぬ光いつさいに彩(いろ)をあたへて情(こころ)はもたず
テフロンのやうな夜空に翼竜が飛膜ひろげてゐる雲浮かぶ
一日は玉のごとくにあらねどもぬばたまの夜しらたまの朝
紅葉(もみじ)せぬ日向(ひうが)の山にあけび熟れからすうり熟れなほくらきなり
夜の空に声なくすがたかへてゆく七変化の雲やがて月抱(だ)く
「こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに」(佐藤文香)
聞いたこゑ一つ残らず身の内に発酵させて酒に作(な)したし
朝まだき空(そら)に空席さがすらし雲の合間をしろたへが行く
知らぬまにつきし手の傷たましひの飛白のごとく思へば隠す
人間でない千年を生きたしよ樹々と語らひ秋は黄葉(もみじ)して
おろおろと夏つばき花こぼしつぐ終りある恋をはりなき恋
宮崎は樹木多くて樹木葬するに宜けれど樹々らはいかが
朝まだき小雨ふる径ゆくわれを五歩みちびける背黒鶺鴒
定型への絶対的信頼のもと、痛みの身体感覚、罪悪に関する心理、色彩の美しさ、自己認識が入れ替わる飛躍等を詠む、安定の第17歌集。