諏訪大社

神長官守矢屋敷の岐神
千鹿頭神
守屋山
建御名方命
御射山社
風間神社・善光寺・建御名方富命彦神別神社
安曇野

 

神長官守矢屋敷の岐神

 諏訪神社上社の神長官であった守矢氏の屋敷に、出雲神族の祖神であるクナトノ大神が祀られていることを、ホームページ『form 八ヶ岳原人』(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/hourivsjin.htm)で知り、諏訪の神長官守矢家邸に行ってみた。神長官屋敷の北側にあるイチイの生け垣の正面の祠が、屋敷神の岐神社であるといい、写真も載っていたが、門を通り、守矢資料館を過ぎるとその奥の右側に、生垣に囲まれて石の祠が見える。同ホームページでは神長官屋敷の北側、またそこで引用されている、高部歴史編纂委員会『高部の文化財』では入口左側と記されており、それらの記述とは違っているようにも思えるのであるが、写真で見るのと同じであり、生け垣内の西側にはもう一つ千歳(ちとせ)社という神宮寺石の祠があるというが、向かって左側にもう一つ祠もあった。手前に旧神長官屋敷と守矢資料館、その奥に御頭御社宮司総社と大祝廟の写っている写真でも、写真には写っていないが、御頭御社宮司総社の右手前にイチイの生け垣があり、守矢家の氏神とも屋敷神とも言われる岐神社と千歳社が座しているとあり、別の箇所では大祝廟から岐神の生垣が見えるというのであるから、ここで間違いないと思う。グーグルマップの航空写真でみると、守矢資料館から十メートルほど山側のところに角張った緑色の形が見えるのがそうである。一円玉が何枚か置かれていたので、それが出雲神族の大神であるクナトノ大神の祠であるとも知らず、祠ということで拝んでいく人がいるのであろう。さらに少し山側に上った左側に御頭御社宮司総社がある。御頭御社宮司総社が岐神の祠より高い所にあるということは、守矢氏ではミシャグチ神を岐神より高位の神としているということであろう。そのままさらに10メートルほど登って右側に行くと、戦前はイチイの生け垣で囲われていたという大祝の墓所である御廟がある。その近くの御頭御社宮司総社寄りには、大祝家の筆頭家老職として仕えた土橋家代々の墓もある。
 この大祝御廟と千歳社について、『高部の文化財』に「入口左側の祠にはいわくがある。大祝が前宮からやがて宮田渡の現在地に移り住んだというその昔のこと、ついては大祝家の墓地が必要となり、現在御廟と呼ばれる場所を大祝によこせと強要され、やむなく守矢家の墓地は百米上方の熊の堂と呼ばれる高部村の共同墓地へ移っていった。そのうえ墓石の裏、神長に面した所に朱で不動明王をほり込んで、神長をにらめつけたという。大祝対神長の対立・抗争の歴史の一頁にすぎないが、神長でも対抗して屋敷つづきの畑の中央に石積みし、その上に祠を造りにらみかえしていたが、戦後この畑を耕作者が水田に作り替えた。祠は行き場に困り、神長の屋敷神の生け垣の中に左側を北向きに祀ったのがいわれだと言い伝えられている。」と書かれているという。墓石の裏に彫られた不動明王であるが、何も知らなければそれが彫られたものだとは分からないであろう。知ってても、背後の火焔らしい凹みと、それが火焔ならこれが顔であろうというぐらいしか分からない。『form 八ヶ岳原人』に載っている写真には画像処理をしているとあるように、実物ははっきり分かるようなものではなかった。
 大祝御廟の移転時期であるが、『高部の文化財』では江戸時代でも早い時期と読め、守矢資料館で手に入れた『神長官 守矢資料館のしおり』でも江戸時代のここと書かれているが、八ヶ岳原人氏によれば明治期に頼岳寺から移転したことがわかったという。「大祝の墓は、明治初年神仏混交を禁ぜられしより墓石を土中に埋めたるに、知らぬ間に石工に運び去られて今は無し」と『諏訪史蹟要項』にあるが、実情は、高部の大祝廟へ運んだということでろうから、これで、高部の大祝廟へ移転したのが明治初頭とわかったというのである。八ヶ岳原人氏の言うとおりなら、そんな明治初頭の頃のことでさえ、諏訪では、あるいは神長官関係者では、事実と違うことが話される、あるいは曖昧にしようとする力が働くということになる。また、大祝側が強制したという話も疑問になってくる。江戸時代なら、大祝と同族の高島藩の力を背後にそのようなことは可能だったかもしれないが、明治期になってもそのような力が大祝側にあったのであろうか。といって、それは守矢氏側との合意のもとだったともいえない。そうなら、不動明王と屋敷の間に祠など造らないであろう。
 不動明王が神長をにらめつけているという話にも、疑問がある。それは、出雲神族において不動明王がどのような意味をもっているかを知らないから出て来る話のような気もするのである。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば弁才天と不動明王は、出雲神族の裏信仰だったという。不動明王が出雲神族の裏信仰であるとするなら、不動明王は神長をにらみつけているのではなく、神長官屋敷にある岐神の祠のほうを見ているとも考えることができるのではないだろうか。八ヶ岳原人氏も線刻の面を自身の背中に合わせてから正面を見ると、見事にイチイの生垣が見えたという。畑の中央に造られた千歳社は不動明王をにらみ返しているというよりは、不動明王が彫られた大祝の墓と岐神の繋がりを断とうとする神長官側の嫌がらせだったかもしれないわけである。江戸時代、大祝さえ仏式でしか葬式をだせなかったというが、大祝側としては明治時代になって仏教から解放されたので、単に祖神である岐神の近くに墓所を持ってきたいだけだったのかもしれない。もしそうなら、神長官側としても断りきれない話だったかもしれない。それで渋々承知したが、間に祠を造って嫌がらせをしたということではないだろうか。
 大祝の墓石は中央にある「祖霊」と刻まれた祠や、「大祝諏方家墓所」と刻まれた最近立てられた石柱を含めて西側を向いていて、神長官屋敷の方を向いているわけではない。しいていえば、上社本宮の方向、あるいは墓石の前に立てば前宮の方を向くということになるであろうか。不動明王が彫られた墓石も例外ではなく、大雑把にいうと三角柱の形をしており、正面は西を向いているが、他の二面の一つに不動明王が彫られており、それが岐神の祠に向いているということになるのである。岐神の祠に向いているのは、その他に裏に「三千年の光明なり 諏方一族 安らかに眠られし」と刻まれた、昭和六十一年に山梨奉賛会・横浜奉賛会などによって塊建立されたという石碑があるのみである。
戸矢学『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』では、守矢神長官屋敷の岐神祠を、岐神は道祖神であり、祀られる場所は国境や交差点であって、屋敷内に道祖神が祀られることはなく、屋敷の守護神であるならば氏神が祀られるのが通例であるから、この邸内社の岐神は守矢氏の始祖である洩矢神であるとする。これは、岐神が出雲神族の祖神であり、大神であることを考慮しない見解であろう。吉田大洋氏によれば、道祖神はクナトノ大神の零落した姿なのである。
 この出雲神族の裏信仰としての不動明王を、何時の間にかクナトノ大神の裏信仰と自分の中で思い込んでいたようで、そのように記してしまっているところもあるかもしれない。改めて『竜神よ、我に来たれ!』を読み直してみると、弁才天が裏信仰とされたのは古くから出雲系の宗像三女神のイチキシマ姫と同体視されたことによるのであり、不動明王についは出雲神族の一人であった役の行者が、天孫族に侵略され、怒りに燃えたオオクニヌシを不動明王にみたてて、守り本尊としたとあり、その記述からいえば大国主命=不動明王とすべきであろう。自分の中で不動明王がクナトノ大神と結びついたのは、その後に出た吉田大洋『謎の弁才天女』に、出雲神族四八九代の首長(かみ)・富當雄が身罷る数日前、吉田大洋氏に言い遺した言葉として「我々の大先祖はクナトの大首長(おおかみ)だが、もう一つ隠された女首長(めかみ)にアラハバキ(荒吐神)があった。体制側によってこれらが抹殺されようとしたとき、クナトは地蔵に、アラハバキは弁才天へと変身した」と語ったと記されていたからであろう。そこでは、クナトの大首長(岐神)は地蔵菩薩と結び付けられているが、前書で弁才天と不動明王が対になっており、後書ではクナトノ大神とアラハバキ神が対になっており、さらにアラハバキ神が弁才天とされていることから、不動明王とクナトノ大神が何時の間にか自分内部で結びついてしまっていたのであろう。クナトノ大神の裏信仰は地蔵菩薩ということになるが、ただ出雲神族にとってオオクニヌシ自身がクナトノ大神の代理であるから、不動明王がオオクニヌシの裏信仰とされたとき、オオクニヌシだけではなく不動明王がクナトノ大神と結びつくという側面もあったのではないだろうか。吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によれば、スサノオは出雲を制圧すると竜神信仰(すなわちクナトノ大神信仰)を捨てるように迫り、出雲人はやむを得ずオオクニヌシを代役に立てたのであり、天のホヒを首長とするホヒ族はそれをよいことに、オオクニヌシを出雲の主祭神に祭りあげ、自分たちの氏神のようにみせかけ、さらに熊野の大神をクシミケヌだとして、これをスサノオに当てたのだという。どちらにしても、不動明王は出雲神族にとって重要な裏信仰の対象であったということである。また、大祝の墓に不動明王が彫られているということは、不動明王を裏信仰にするという共通認識が出雲と諏訪の出雲神族の間にあったということであり、両者の交流が後代にまで続いていたということを示している。神長屋敷から大祝廟へ向かう道に面して、一段高い所に大祝廟があるが、その道に面した土手の上に三体の地蔵が並んで立っている。その地蔵は一体が南の山の方すなわち墓石の方を向き、二対が神長屋敷の岐神の方をまっすぐ見ているわけではないが、逆に北の方を向くという、不思議な並び方になっている。

 方位線的に見ると、上社前宮本殿と御頭御社宮司総社・岐神祠が西北45度線をつくる。大和岩雄『信濃古代史考』によると、『諏訪旧跡志』に御左口神について「おおかたは其の村々の鎮守大社の戌亥にあるべし。」とあるというが、神長官屋敷の御頭御社宮司総社は上社前宮の戌亥にあたっていることになるわけである。あるいは神長官屋敷の御頭御社宮司社が前宮の戌亥の方角あることから、鎮守の神社の戌亥に御左口神が祀られるようになったとも考えられるが、どちらにしても、前宮と御頭御社宮司総社の方位線が重要ということになるのかもしれない。皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』に載る、天正時代のものと伝えられる『上社古図』の前宮部分では、五間廊・帝屋の後ろ正面に四本の御柱に囲まれて御左口神があり、ミシャグチ神が前宮の中心的位置を占めている。それを見ると、前宮とはミシャグチ神を祀る神社と見なせるわけであり、前宮本殿と守屋屋敷の祠の西北45度線は前宮の御左口神と御頭御社宮司総社の方位線とも考えられる。それに対して、御左口神に向かって右側、一之御柱と四之御柱との線上に「前宮」が描かれている。これは神長官屋敷の御頭御社宮司総社と岐神の構図と同じであり、『上社古図』の前宮と神長官屋敷のどちらが先なのかわからないけど、どちらにしても前宮の御左口神と御頭御社宮司総社、『上社古図』の前宮と岐神祠が西北45度線をつくるということなのかもしれない。そうすると、守屋屋敷の岐神祠から、「前宮」とされる祠は岐神を祀っていたということも考えることもできる。しかし、そうすると征服された方の洩矢族のミシャグチ神が、征服したほうの出雲神族のクナトノ大神より上に祀られているということになってしまう。

  諏訪大社上社前宮本殿―御頭御社宮司総社(W0.015km、1.27度)―岐神祠(W0.013km、1.08度)の西北45度線

 上社前宮は上社本宮とも西北30度線をつくる。また、神長官屋敷の御頭御社宮司総・岐神社は三角点のある守屋山西峰の東北45度線上に位置する。

  諏訪大社上社前宮本殿―諏訪大社本宮硯石±(E0.023km、0.88度)の西北30度線
  守屋山西峰三角点―御頭御社宮司総社(E0.021km、0.27度)―岐神祠(E0.011km、0.14度)の東北45度線

 神長官である守矢氏の屋敷に、大祝である神氏の祖神である岐神が祀られているということは、何を意味しているのであろうか。出雲親族側が守矢氏側にもクナトノ大神を祀らせたということは考えにくい状況がある。肝心の大祝屋敷ではクナトノ大神が祀られていないか、祀られていてもひっそりと祀られていることが考えられるのである。平成14年に最後の大祝諏方弘氏が亡くなり、大祝家は断絶してしまったというが、中洲公民館刊『中洲村史』に、大祝屋敷について「住宅は1/3にも縮小されている。広い庭も荒れて惜しい。邸内には中部屋社があり、春日神社を祀る欅造りの社殿が見事である。この社の御柱は宮田渡の村中だけで奉仕している」とあるという(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/oohouritei.htm)。神長官守矢屋敷では御頭御社宮司総社が岐神祠より一段高いところに、より大きな扱いで祀られており、ミシャグチ神が岐神より上位の神として祀られている。それに対し、大祝屋敷では春日神社が目立つように大きく祀られているようなのであり、大祝屋敷でクナトノ大神は祀られていないか、祀られていたとしても神長官守矢屋敷の岐神と同じような扱いで、ひっそりと祀られていることが考えられるわけである。大祝屋敷でクナトノ大神を祀ることは、クナトノ大神が出雲神族の大神・祖神であることを考えると、どこかはばかれることだったのではないだろうか。あるいは大祝家では、春日大社神=鹿島神宮神=クナトノ大神とみなし、春日大社神=鹿島神宮神ということから、春日神社と見せかけてクナトノ大神を祀っていたということも考えられるが、その意味するところはクナトノ大神を直接祀ることができなかったということであろう。もし大祝屋敷でクナトノ大神を祀ることが外に対してはばかられ、秘かに祀られていたのだとすれば、大祝と対立・いがみ合っていた神長官守矢氏が、そのようなクナトノ大神を岐神としてその屋敷内に祀るであろうか。大祝屋敷でもひっそりとしか祀れなかった、あるいは弾圧されて祀ることができなくなったというなら、神長官側としてはもしそれが強制されたものなら、これ幸いと自分たちも岐神を祀るのを止めたであろう。神長官守矢氏が岐神を祀るのには、何か積極的な理由があったとみるべきなのである。また、岐神を祀らされたものなら、ミシャグチ神より上位の神として祀らされるのではないだろうか。
 神長官守矢屋敷の岐神が出雲神族側から強制的に祀らされたものでない、守矢氏が岐神を祀ることに積極的な意味があったとすれば、神長官屋敷の岐神の祠は、諏訪の出雲神族がそのクナトノ大神祭祀を神長官側によって取り上げられてしまい、岐神祭祀が神長官の管理下に置かれたということであろう。しかし、敗者である洩矢族が自分たちだけの力でそのようなことが行なえたとは考えられないから、協力者あるいは第三の力の存在が考えられ、そのような第三の力としては大和朝廷が考えられるわけである。主体は大和朝廷であり、守矢氏はそれに協力することにより、諏訪大社上社の実権を握り、クナトノ大神の祭祀権を出雲神族から取り上げ、自己の管理化に置くようになったということであろう。

 大和朝廷という第三の力の介入で、出雲神族と洩矢族の立場が逆転した時期であるが、欽明朝が考えられるかもしれない。大和岩雄氏は『信濃古代史考』で科野国造が欽明天皇の金刺宮やその子の敏達天皇の他田宮の名を冠した金刺舎人や他田舎人を称するのは、古代王権にとって重要な馬に科野国造がかかわっていたからであろうとする。しかし、出雲神族の継体朝とそれを滅ぼした欽明朝の関係を考えれば、信濃における金刺氏の役割がそれだけではすまなかったであろう。大和岩雄氏は駿河国造の一族にも金刺舎人・他田舎人がみられるというが、関東で蜂起した出雲神族を封じ込めるために、信濃や駿河の国造を自分に親しく仕えさせたと考えられ、信濃では特に信濃国内のやはり不穏な動きを見せたであろう出雲神族を押さえ込むという任務もあったのではないだろうか。その為に様々な工作が行なわれたであろう。大和朝廷の政策が出雲神族を抑えるために洩矢族を利用するということだったので、洩矢族は敵の敵は味方ということでそれに乗ったのかもしれない。あるいは、自分を守るに精一杯で、消極的に大和朝廷に協力することになってしまったのかもしれない。どちらにしても、それまでの出雲神族と洩矢族の関係によっては、大和朝廷と結びついた洩矢族の行動は、一種の裏切りだった可能性もあるわけである。例えば、最初にいざこざがあったとしても、長く平和共存する関係になっていたとするなら、大和朝廷による出雲神族攻撃に手を貸すということは、裏切り行為的な意味を持たざるをえないであろう。洩矢族からみても、出雲神族は必ずしも弾圧的であったとはいえないとするのであるから、諏訪に手を伸ばしてくる大和朝廷の勢力は、出雲神族・洩矢族共通の敵とみなすことのほうが自然だったとも考えられるのである。積極的であれ、消極的であれ、洩矢族には後ろめたさ的な感情がまったくなかったというわけではないであろう。そうすると、洩矢族の置かれた心理状態は複雑で、それが後々まで後を引いて、諏訪原住民的立場に立つ人たちに、ともすれば諏訪における出雲神族的なものを無視し抹殺しようとする立場をとらせたり、逆に出雲神族をできるだけ悪者にして自己の被害者性を強調しようとさせるのかしれない。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、『神氏系図』(大祝家本)の後書きに「神子八歳之時、尊神化現、脱着御衣於神子、吾無体以汝為体、有神勅隠御身矣、是則御衣着祝神氏有員之始祖也、用明天皇御宇二年、神子構社壇于湖南山麓」とあり、建御名方神の三〇世孫の神子が御衣着祝となったとする。神子については、『異本阿蘇氏系図』(田中卓著作集第二巻)にも記載があり、そこでは金刺舎人の始祖金弓君の子麻背君が科野国造に復帰し、その子倉足は諏訪評督に、倉足の弟の乙頴は「諏訪大神大祝」に任じたとあって、その乙頴の添書きに「一名神子、又云熊古、生而八歳、御名方富命大神化現、脱着御衣於神子勅曰く、吾無体以汝為体、盤余池辺大宮朝二年丁未三月構壇于湖南山麓、祭諏訪大明神及百八十神、奉千代田刺忌串斎之」とあるといい、金刺氏は下社の大祝であるが、そこでは乙頴(一名神子、又熊古)こそが諏訪大明神の化現であり、上社大祝の始祖であると主張しているという。皆神山すさ氏によれば、『神氏系図』(大祝家本)後書き部分で科野国造健隈照命(建御名方富命十八世孫の健国津見命の子)の九世孫、五百足は、兄弟の妻のなかに神の子を宿している者がいるという神告を夢のなかで聞き、生まれた男子を神子(また熊古と云う)と名づけたとして、最初の御衣着祝を神子として建御名方神の系統であるとし、阿蘇氏系図では乙頴を(一名神子、また熊古と云う)として、建五百建命(武五百建命)を始祖とする多氏系の科野直―金刺舎人直の系統であるとしているわけである。
 この神氏系図と阿蘇氏系図では、他に神氏系図では単に尊神とあるのが阿蘇氏系図では御名方富命大神とされている違いがあり、神氏系図にある「有神勅隠御身矣、是則御衣着祝神氏有員之始祖也」にあたる部分が、阿蘇氏系図では存在しない。すなわち、神氏系図では身を隠したとされる尊神がどのような神なのかが問題になるわけである。上社では現在でも祭神は建御名方命とされているのであるから建御名方命が身を隠かした神というには少し違和感がある。出雲神族という枠内で考えるなら、諏訪大社にその名が現れてこず、しかし出雲神族にとってはもっとも重要な神であるクナトノ大神以外に考えられないのではないだろうか。そうすると、現人神としての大祝とは出雲神族にとってはクナトノ大神ということになる。それに対して、大和朝廷側からは尊神とはあくまでも建御名方命であるという工作がなされ、大和朝廷に呼応して守矢氏側からは尊神はミシャグチ神であるという工作がなされたということであろう。神子が大祝に即位したのが用明二年であるということは、諏訪大社の祭祀からクナトノ大神を抹殺する方針の下、欽明・敏達朝を通じてその策動が貫徹され、用明二年に一応その策動の決着を見たということではないだろうか。
 あるいは、それは玉虫色の決着だったのかもしれない。大和朝廷としては諏訪大社の祭祀をクナトノ大神祭祀を諏訪大社から抹殺する、あるいは建御名方に一本化するということを、尊神を建御名方とすることによって達成し、守矢氏は尊神をミシャグチ神とすることにより、ミシャグチ神を復権させる、あるいはそれまでは出雲神族、洩矢族がそれぞれ自分達の祭祀を行なっていたとすれば、出雲神族の祭祀にミシャグチ神を押し込むことに成功したということになり、出雲神族は尊神を秘かにクナトノ大神と見なし続けることによって、クナトノ大神祭祀を続けることができたというわけである。ただ、表面上は出雲神族がクナトノ大神祭祀を続けることは禁止され、守矢氏がクナトノ大神祭祀を奪った、あるいは大和朝廷によってその役目を担わされた、その残存物が神長官守矢屋敷の岐神の祠なのではないだろうか。それは、大和朝廷による出雲神族と洩矢族の間に打ち込まれた楔だったとも考えられるし、洩矢族としても必ずしも積極的に大和朝廷と連合を組んだわけではないのかもしれない。

 上社ではないが、信濃二ノ宮とされる小野神社・矢彦神社は伊那谷の北端、霧訪山の山麓小野盆地に境内を接して並んでいる。小野神社の社伝では、建御名方命が科野に降臨し、諏訪へ入ろうとしたが洩矢神がいたために入れず、この地にしばし留まった後、諏訪へ移動したという。その旧跡に、崇神天皇の御代創祀されたのが当社で、坂上田村麻呂の戦勝祈願がかなったので、桓武天皇の勅によって社殿が造営され、四隅に御柱を建てるようになったという。また、矢彦神社の御由緒では、遠い神代の昔、大己貴命は御子、事代主命、建御名方命をしたがえて、国めぐりをしつつ国造りの神業にいそしまれたが、その折しばらくの御在所をこの里の彌比古澤の須賀の地に定められた。また、日本武尊が、東征凱旋の時たち寄られ、成務天皇の御代、勅使参向奉幣され、勅使の子孫が永く本社に奉仕した。欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、両殿を須賀の宮と称した。また、天香語山命と、熟穂屋姫命を南殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのった。天武天皇の御代の白鳳二年(674)、奉幣使高根使主(たかねのおみ)を迎え、勅使殿を創建し、このとき新宮を造営し正遷宮祭と御柱祭が七年毎の式年祭と定められた。また伊勢の両皇大神を境内にまつり、日本武尊の御狩場のあとに春宮、御射山の両社を建てた。 そして、桓武天皇の延暦二十二年(803)征夷大将軍坂上田村麿は、安曇郡の凶賊を討つため、本社に祈願したという。矢彦神社の伝承では、欽明天皇のときに矢彦神社としてのかたちがととのったといわれ、欽明天皇の時に小野神社・矢彦神社祭祀に大きな変化があったことが窺われる伝承である。それでも、上社では大国主命や大己貴命が摂社に追いやられているのに対して、建御名方命と大己貴命が並立しており、また大己貴命は御子、事代主命、建御名方命をしたがえてとあるように、大己貴命が強調されているところに、大己貴命に代わってはいるが、クナトノ大神祭祀的要素がまだ残っているともいえる。両神社の社殿の間には藤池があり、池の中の島には池生社と弁財天が並んで祀られている。池生社は建御名方命の御子神の池生命を祀っているのではないかともいう(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/hujiike.htm)。

 出雲神族と洩矢族の立場が逆転した時期としては、平安初期も考えられるかもしれない。皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、『諏訪大明神画詞』では、平安時代初期に八歳の有員に「祝は、明神の垂迹の初め、御衣を八歳の童男にぬぎきせ給いて大祝と称し、我に於て躰なし、祝を以って躰とすと神勅ありけり。是れ則ち御衣祝有員、神氏の始祖なり。」とあり、有員が御衣着祝の始祖となっているという。それに対し『神氏系図』(大祝家本)では、建御名方神の三〇世孫の神子が御衣着祝となり、そのまた子孫が有員とされているわけである。御衣祝の始祖として用明天皇の時の神子と平安時代初期の有員という二つの伝承があることになるが、あるいは有員の時代に出雲神族と洩矢族の立場が逆転した可能性もある。
 平安時代初期の有員の時代であるが、皆神山すさ氏によると、上社大祝の肇祖とされる有員については不明な点が多いといい、『神氏系図』大祝家本では延暦二十年(801)に田村麻呂に随ったとされるが、『神氏系図』前田家本では神子以下有員までの八人の子孫を記しておらず、有員を用明天皇時代としているという。『大祝代々職位伝授書』や『上社社例記』では、平城天皇の大同年間に大祝に立ったとされ、『神長守矢氏家譜』の清実の添書きでは、桓武天皇の第五の皇子で大同元年(806)に大祝に即位し、仁和二年(886)に御射山大四御庵(おおよつみお)において頓死したとあり、『大祝職位次第書』にも「御表衣大祝有員八十一歳ニテ御射山大四御庵頓死」とあるというから、800年頃から880年頃まで存在していた人物といえるであろう。この間の貞観二年(860)には「鹿島・香取・氷川・寒川神社と出雲神族」の鹿島神宮のところでも書いたが、吉田大洋『出雲帝国の謎』によると、出雲の富氏では王であることの象徴である出雲神族の亀甲の中に二つの矛が交差している神紋が、中の矛を大根にかえさせられている。出雲神族に何らかの理由で弾圧が強化された時期でもあったわけである。この出雲神族への弾圧は諏訪の出雲神族にも加えられたかもしれず、諏訪におけるクナトノ大神祭祀も禁止された可能性もあるわけである。すくなくとも諏訪大社の祭祀にも大きな変化があり、それが有員を大祝肇祖とする伝承につながっていったのかもしれない。あるいは大祝は有員から始まったのかもしれないが、その場合御表衣祝の始祖とは限らないであろう。『上社社例記』に「平城天皇御宇以来御表衣祝有員社務 是大祝肇祖」とあるのも、神子以来の御表衣祝であった有員が大祝の肇祖になったとも考えられる。有員を桓武天皇の皇子とするような系譜も、神長官家の記録ではあるが、出雲神族への弾圧の中で有員の出自を天皇に結び付けざるを得ないような事情が発生していたということも考えられるわけである。坂上田村麿が安曇郡の凶賊を討つため、矢彦神社本社に祈願したという社伝も、出雲神族につきまとう転倒した記述の一つと考えれば、平安時代初期に信濃でも出雲神族が絡んだ大きな動乱があったことを示している可能性もある。

 しかし、この有員が大祝であった時期には諏訪大社に対して、弾圧というよりは急激な神位の上昇という、朝廷による諏訪大社優遇が記録されている。承和九年(842)にそれまで無位勲八等にすぎなかった諏訪神社が従五位下に叙されると、それから二十五年後の貞観九年(867)には駆け足で従一位まで昇進している。これは、信濃の出雲神族が当時弾圧されていたことの否定なのであろうか。諏訪大社には下社の金刺氏も関係していることを考えると、一方では出雲神族が弾圧されながら、他方では金刺氏の関係で諏訪大社の位階が上昇するということはありえることであろう。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)はこの急速な昇進について、当時宮廷につかえていた科野国造の一族で、諏訪郡出身の金刺舎人貞長が神位をあげるのに活躍したからであろうとする。貞長の右近衛将監の役は宮廷でも天皇の近習であり、諏訪神の位階をあげるための活動に好適の役職であったとする。ただ、話はそのように単純ではないかもしれない。そもそも、天皇の一存でこのような急激な昇進が可能だったのだろうか。他の高位の貴族の同意も必要だったとすれば、果たして一介の公家でもない正六位上の人間がいくら熱心に動き回ったとしても、このような急速な昇進など可能だったのか疑問である。また、大和岩雄氏は史上に登場する多(太)氏で官位と活躍がはなばなしい人物の一人として平城天皇の時に活躍した多入鹿をあげ、入鹿の力によって上社大祝は世襲制になったと考えられるとするが、入鹿は薬子の変にかかわり讃岐権守に左遷されているというのである。このような最後は左遷されてしまった入鹿とつながる貞長にどれだけの力があったであろうか。
 諏訪大社の急速な位階上昇には、単に貞長の活躍といったことではなく、朝廷側にはそうする必要があったということであろう。その理由として桓武朝になってから激しくなった蝦夷との戦いとの関連があるかもしれない。朝廷としては蝦夷ともともと反体制的である出雲神族が連帯することは避けたいことであったろう。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、弘仁五年(814)出雲東部では正倉が焼かれる神火とともにエゾによる反乱が荒れ狂い、『日本紀略』には意宇、出雲(しゆっと)、神門三郡の未納稲十六万束をこの乱のために免除したと記してあるが、出雲神族の富家ではこの時「王者のしるしである並び矛を旗印に、エゾと共に進軍した」と伝えられているという。朝廷にとっては、奥州の蝦夷と全国の出雲神族が手を結ぶ憂いも十分あったのではないだろうか。またそのようなことがあったので、亀甲の中に二つの矛が交差している神紋が、中の矛を大根にかえさせられたのであろう。
 蝦夷と信濃の出雲神族の連携を妨げる為には、朝廷に出雲神族を繋ぎとめることが必要であったが、一方では出雲神族と蝦夷の連帯の可能性を考えると、出雲神族の力を弱体化することも必要なことと考えたであろう。結局、出雲神族に対する朝廷の政策は飴と鞭の使い分けということになり、諏訪・信濃の出雲神族に対する飴の部分が諏訪大社の位階昇進だったということであろう。信濃の出雲神族がどのぐらい反体制的であったかは分からないが、諏訪大社の位階昇進に金刺氏が関与していたとすれば、位階昇進はまた金刺氏が諏訪大社における存在感を増したであろうし、出雲神族の影響力低下=弱体化をもたらすことでもあったであろう。位階昇進を通じた間接的弱体化以外にも、何らかの直接的弱体化=弾圧もあったかもしれない。その結果、有員を桓武天皇の第五皇子とせざるをえないような状況が生じたとも考えられる。すくなくとも、出雲神族にとって自己の出自を天孫族系天皇に結び付けられることは屈辱であろう。あるいは、それが『神長守矢氏家譜』の添書きにあるということは、神長官守矢氏を利用した朝廷側からの揺さぶりだったのかもしれない。もしそのような宣伝が信濃中に行き渡れば、信濃の出雲神族がいくら大祝を立てて蝦夷と連帯しようとしても、天皇につながる大祝が朝廷に逆らう蝦夷と結びつくということが、多くの人には理解できない行動と受け取られるであろうし、従って同調する人間も少なく、蝦夷と連帯しようという動きも限定的なものにならざるをえないであろう。位階昇進を通じた金刺氏と下社の存在感の増大、あるいは直接的な朝廷による上社の出雲神族に対する抑圧は、クナトノ大神祭祀の禁止というような出雲神族にとって根本的な変化ではなかったかもしれないが、諏訪大社の祭祀にも大きな変化をもたらしたかもしれない。その変化が有員の時に起こったとすれば、クナトノ大神祭祀が禁止された神子の時代と有員の時代を重ねて捉えることもあったであろうし、それが有員に神子と同じような伝承を生じさせたのではないだろうか。小野神社の社伝では桓武天皇の時に社殿が造営され、四隅に御柱を建てるようになったというが、これも桓武朝の頃に諏訪周辺の出雲神族の祭祀に大きな変化があったことが根にある伝承とも考えられる。

 大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)によれば、柳田国男は『柳田国男集・第五巻』「一目小僧」で、諏訪大社の耳裂鹿や、神主の片目を傷つける話は、耳や目を傷つけることによって神のいけにえ、神の代表者たることを示すことだと推定し、「ずっと昔の大昔には、祭りの度ごとに一人づつの神主を殺す風習があって、その用に宛てらるべき神主は前年度の祭りの時から、籤または神託によつて定まつており、これを常の人と弁別せしむために、片目だけ傷つけておいたのではないか」「この推測には或程度までの根拠がある」と書いているという。さらに大和岩雄氏は、神主を殺す話で連想するのは、耳裂鹿が奉納されるいわゆる御頭祭の神使について、「神使に選ばれた御頭郷の十五歳の童男のうちに、祭後、ふたたびその姿をみせたものがない例がうんとある。密殺されたものらしい。そこで、その選をおそれて逃亡したり、乞食または放浪者の子をもらい育てておいて、これにあてたことがある」という、藤森栄一(『銅鐸』)が上社の旧神楽太夫茅野氏をたずねたときの談話であり、『画詞』や『信府統記』」や宮地博士の伝聞(「諏訪神社の研究」)等々、神使虐待の話はきりがなく、この「神使虐待」は「密殺」が「虐待」に変わったことを暗示しているという。そして、神使殺害について柳田国男は、殺される犠牲者は「死んだら神になるといふ確信がその心を高尚にし、能く神託予言を宣明することを得た」と書くが、一月の御占神事で決まった神使は、二月の初めから一カ月弱り、御左口付申(みしゃぐちおろし)をした精進屋に籠って御左口神になり、この御左口神を「密殺」「虐待」するのだから、神使は「死んだら神になる」のではないし、「犠牲」「いけにえ」の視点だけでは、神使の「密殺」「虐待」は解けないという。
 大和岩雄氏は神使殺害に、血は死につながり、死は生に転化するという信仰をみる。『播磨国風土記』(讃容郡)に、「妹玉津日女命、生ける鹿を捕り臥せて、その腹を割きて、其の血に稲種まきき。仍りて、一夜の間に苗生ひき」とあり、鹿頭を供物とすることは狩猟とかかわるが、稲種を一夜にして苗にする生命力は、鹿の血が酒と同じく「サクチ」であることを示しており、加毛郡雲潤里の条に、太水の神が、「吾は宍の血を以ちて佃る」といったとあるが、ここでも田作りに動物の血がかかわっており、雲潤の里は後に酒見郷になっているという。そして、記紀はイザナギがカグツチを斬った血によって、神々を生んだと記し、『古事記』ではスサノヲに殺されたオオゲツヒメの体の各部分から、穀物の種や蚕が成ったとあり、『日本書紀』にも、月夜見尊に殺された保食神の死体から、穀物や牛馬・蚕が成ったとあるが、記紀は、月夜見尊やスサノヲを黄泉の国の支配者と書くが、この「ヨミ」の神に殺されることによって五穀が生まれるのは、血によって一夜で種が苗になる話と共通する。黄泉の国は死の国であり、死を通して生があることをこれらの伝承は示しており、鹿の血の話からみても、御左口神(神使)は殺される必要があったという。そして、諏訪大社では殺す行為が「虐待」という形で残ったのであり、この神事がもっとも重要な神事とて伝わったのも、ミシャグチ神が「作(咲)霊(さくち)」の神だからであるという。
 戸矢学氏(『諏訪の神』)は単に神使が殺されただけでなく、かつては大祝も殺されたのではないかとする。御頭祭の祭壇の中央最前列に捧げられる御贄柱(御杖柱)について、もともとそれは人柱であり、柳田国男の「ずっと昔の大昔には、祭りの度ごとに一人ずつの神主を殺す風習があった」という言葉を持ち出すまでもなく、人身御供はとくに珍しいことではなかったし、諏訪の「古き神」も、これと変わるところはないだろうし、そもそも変わる理由がないという。そしても、御贄柱が身代わりとなっているのは、人間の中でも最上位の人間、高貴な立場、高貴な血統にある人間になるのではないかとし、先端を三角に切った白木の角柱は墓標そのものであり、大祝の墓標であり、祝家とは、人身御供となる神主を出す家柄のことだろうという。ただ、戸矢学氏のいうようにかつては大祝が生贄にされていたとすれば、毎年新たな大祝を供給しなければならないという問題が生じ、大祝を建御名方命の直系とみなされる者から選ばれるとればもそのようなことが可能だったのだろうかという疑問が湧く。

 このような人身御供・人の生贄の風習は、もともとの諏訪の原住民のものだったのだろうか、出雲神族のものだったのだろうか。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は「大林太良はオオゲツヒメなどの死体化生神話を粟を中心とした雑穀栽培の焼畑耕作文化の伝承とみ、佐々木高明は日本の焼畑で作られる作物のうち、もっとも広く栽培されている基幹作物は、ソバ、アワ、ヒエ、大豆、小豆だと書くが、保食神の死体から化生した「陸田種子」は、「粟・稗・麦・豆」であり、諏訪地方で「サクル」「シャクル」というのは、主に「畠」であって「田」ではない。御作神とは「陸田種子」にかかわる表記と考えられ、御左口神(神使)虐待の行為は、縄文時代からの諏訪(八ヶ岳山麓)の「サクチ」神事の名残といえよう。そのことは、御左口神の神体に縄文時代の石棒が多いことからもいえる。」いう。大和岩雄氏は生贄についてもともとは諏訪原住民の風習だったとみているといえよう。
 一方、ヤマタノオロチの話はヤマタノオロチへの生贄として娘たちが捧げられた話で、スサノオがそれを止めさせた話であるともされている。その説によれば、人身御供・人の生贄は出雲神族の習俗だったともいえる。ただ、吉田大洋氏(『謎の出雲帝国』)によれば、出雲神族の富當雄氏の話では「スサノオは、朝鮮から砂鉄を求めて、出雲の須佐の港にやってきた。ヤマタノ大蛇の一件は、砂鉄採集権の争奪戦であり、トーテム戦争でもあった。出雲神族はスサ族に敗れ、やがて婚姻によって習合した。もっとも、スサ族は出雲に永く住居せず、吉備のほうへ移動した」ということで、神への生贄の話とはなっていない。また、物部氏の直系を名乗る神魂神社の宮司・秋上武雄氏はこれに補足して「出雲神族は弓が浜を拠点とし、古志の人々を使って肥川を治水し、砂鉄を採っていた。古志人は、オオクニヌシの古志の八口征伐の話でもわかるように、なかなかの暴れん坊だった。鉄を求めてやってきたスサノオが、まず衝突したのはこれら古志人なんだ。」といっているという。そうすると、ヤマタノオロチの伝承をもって、出雲に人身御供・人の生贄の風習があったとは必ずしもいえないわけである。
 関祐二氏(『信濃が語る古代氏族と天皇』)は海との関係で人身御供の風習があったことを述べている。「魏志倭人伝」に航海の途中に病人が出たり暴風雨に巻き込まれたりすると、殺されてしまう持衰の話が出ているし、暴風雨で船が進まなくなったとき、海に飛び込んだヤマトタケルの妃の弟橘媛の話も人身御供に他ならないという。持衰の話は信濃の安曇氏につながるかもしれない。また、弟橘媛は穂積氏押山宿禰の娘である。そうすると、信濃の天孫族系にも人身御供・人の生贄の可能性があったことになる。
 大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、「『令集解』(律令の官撰注釈書。八三三年成立)の『職員令』の弾正台の条に、「信濃国の俗として、夫死なば、婦は即以つて殉ず」とあり、すでになくなっているはずの殉死の習俗が、平安時代の信濃にはまだ残っていると、官撰書に書かれている。三、四世紀まで殉死の習俗があり、その後この習俗をやめさせたことは、『日本書紀』(垂仁天皇二十八年条)に書かれているが、その後もつづいたようだ。しかし、九世紀までつづいているのは特例である。東北アジアでは殉死の習俗が強く『三国史記』の「高句麗本紀」(巻五・東川王)にも殉死の記事が載るが、「新羅本紀」の巻四・知証王十三年条(五〇二)に、いままでは国王が死ぬと、男女五人が殉死していたが、それを禁じたとある。国王の死についての殉死を禁じたのであって、夫の死に妻が殉じることは禁じていない。九世紀になっても、信濃国だけ、夫の死に妻が殉ずる習俗があったのは、渡来人の習俗が残っていたもいえるが、『令集解』の「職員令」の書く記事は、信濃国の本来の性格に、渡来の高句麗人の習俗が影響して、平安時代の信濃国人は、他の列島の人々とは違った殉死の風習を伝えていたといえるのではないだろうか。いずれにせよ、信濃の古代の歴史は、現在の長野県人の原点を示している。」という。その見解からいえば、人身御供・人の生贄も諏訪原住民にあった習俗に渡来人の殉死の風習が重なったようにも思える。
 戸矢学氏は祭祀の根本に関わることを変更するには何らかの超越的な圧力が必要になり、兎串や蛙串と並んで、元々が人間(の子供)を贄として捧げていたのであるならば、人間だけを植物の枝葉等で飾った串で代用することにしたのは、中央政府からの意向を汲んでのことであろうとし、その昔、ノミノスクネ(野見宿禰)は、殉死をやめさせるために埴輪を作ったというが、生贄をやめさせるために贄柱は作られたという。吉田大洋氏(『謎の出雲帝国』)によれば、富氏の談ではノミノ宿禰の本名はトミノ宿禰で、本来は出雲神族系の人物であり、『播磨国風土記』も弩美(とみの)宿禰と表記するという。殉死をやめさせたのが野見宿禰であり、野見宿禰が出雲神族であるとすると、その線からも諏訪における生贄は出雲神族の習俗だったとはいえないのではないだろうか。

 神使について、大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)によれば、「祠官は多くの場合には神主ではなかつた。神主即ち神の依坐となる重い職分は、頭屋ともいい或いは一年神主とも一時上臈とも唱えて、特定の氏子の中から順番に出たり、もしくは卜食によつてきめたりするものと、一戸二戸の家筋の者に限って出て勤める、いわゆる鍵取りなるものがあつたのである。」と柳田国男が書いており、神使には、一月一日の御占神事のとき、御左口付申の占いできめられる御頭郷の童男がなるという。また、「上社大祝は、本来は、神長(神長官)や神使(童男)を出す守屋氏や上社周辺の人々のなかから選ばれた童男であった。大祝が世襲になったのは、下社大祝の金刺氏の世襲にならったからである。」とも言う。上社周辺の人々とはどのような立場の人を指しているのかはっきりしないが、大和岩雄氏からいえば神使は洩矢族・諏訪原住民の子孫の中から選ばれるということであろう。それに対して、皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、神使御頭には信濃国中の神氏一族が輪番で奉仕しており、神使に当てる人は神氏族中の十五歳以下の童子を選ぶことになっていたという。
 神氏は普通大祝一族のことを言う。そのことから、神氏は出雲神族のことと考えられる。ただ、皆神山すさ氏の本(『諏訪神社七つの謎』)によると、神長(かんおさ)、祢宜(ねぎ)、権祝(ごんのほうり)、擬祝(ぎのほうり)、副祝(そいのほうり)という上社の五官はみな神姓であり、それぞれミシャグチ社と祖先の古墳をもっているといい、守矢氏も神氏ということになるわけである。大祝と神長官が同じ神氏というのは、どこかに作為的なものが紛れ込んでいるということであろう。同じようなことはミシャグチ神についてもいえる。五官はみんなミシャグチ神を祀っている。大祝については、大祝屋敷にクナトノ大神と同じくミシャグチ神についても祀られてるかどうか分からないが、大祝有員の居館をミソギ平ともミシャグチ平とも称した(皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』) というのであるから、大祝もミシャグチ神と密接な関係があったと考えられ、ミシャグチ神も大祝及び五官と結びついているといえる。しかし、皆神山すさのいうように、有員屋敷跡にミシャクグチ社を祭っていることから、「吾に体無し、祝を以って体と為す」(大祝家本神氏系図)と神勅した諏訪明神の実体は、ミシャグチ神であると推測できるとすれば、一方ではミシャグチ神は縄文時代からの諏訪の神ともされるのであるから、ミシャグチ神=大祝=建御名方命、ミシャグチ神=洩矢神となり、建御名方命=洩矢神となってしまうわけである。この場合、神姓についてはもともとは出雲神族と結びつき、ミシャグチ神については諏訪原住民と結びつくということがいえるのではないだろうか。相互乗り入れという形で、守矢氏は神姓を名乗り、大祝もミシャグチ神と自分を結びつけているということであろう。
 また、神使が神氏から出るということについても、上社の神事全般を掌握する立場で出雲神族との間で軋轢を多少なりとも少なくする必要があって神氏を名乗ることがあったかもしれない守矢氏はともかく、一般の諏訪原住民が神氏を名乗ることはないのではないだろうか。神使は出雲神族から出ているとすべきであろう。では、神使が出雲神族系から出ているということは、どういうことなのであろうか。人身御供・人の生贄が焼畑農業と結びつく風習だとすれば、神氏ばかりでなく諏訪原住民からも人身御供・人の生贄がでてもよさそうである。考えられることは、大和朝廷によって出雲神族に押し付けられた役割ではないかということである。信濃の天孫族系にも人身御供・人の生贄の風習があった可能性がある。また、大和岩雄氏のいうように、信濃の夫に対する妻の殉死が信濃国の本来の性格に、渡来の高句麗人の習俗が影響しているとすれば、神使の人身御供・人の生贄にも渡来人の影響があったことも考えられる。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、「信濃の牧は、マヤト王権御用の牧であったが、直接には、六世紀前半から中葉にかけては、物部氏の支配下にあった。物部氏は科野国造を統率下に置き、物部氏系氏族と配下の渡来人を信濃に送り込み、牧場の管理、馬の増産、牧場の開発にあたらせたのであろう。」といい、欽明朝の時の物部氏や多氏の信濃進出には渡来人系も伴っていたというのであるから、大和朝廷が諏訪原住民の風俗に自分たちや渡来人の風俗を加味して、出雲神族に押し付けたということは十分ありえるのではないだろうか。戸矢学氏は人身御供・人の生贄を止めされたのは大和朝廷とするが、その逆の可能性も考えられるのである。大和朝廷への服従の印として、ミシャグチ神に出雲神族の中から人身御供・人の生贄を出すことが求められと考えるべきかもしれないのである。

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千鹿頭神

 神長官守屋屋敷に岐神が祀られていることについては、守矢氏が出雲神族のクナトノ大神祭祀を取り上げてしまったのではなく、出雲神族が大和王朝の弾圧でクナトノ大神を祀れなくなったので、代わりにクナトノ大神祭祀を守っていたとは考えられないであろうか。もしそうなら、洩矢神と建御名方命の戦いも、神長官と大祝の対立も、実はクナトノ大神祭祀を守るために行なわれた、大和朝廷側の目をくらますための偽装だったということになる。  それと関連するともいえる興味深い伝承が諏訪にはある。八ヶ岳原人氏のホームページ (http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/tikatousin.htm) に、諏訪教育会『復刻諏訪資料叢書』「神長守矢氏系譜」の、洩矢神の二代目守宅神から千鹿頭神・児玉彦命の一部が転載されており、「【守宅神】生弖有霊異幹力、代父弖負弓矢従大神遊猟得千鹿、有一男名之曰千鹿頭神(生まれて霊異幹力あり、父に代わりて弓矢を負い、大神の遊猟に従い千の鹿を得る、一男有り、名これを曰く千鹿頭神)【千鹿頭神】(前略)千鹿頭社 諏訪郡の内鎮座、有賀・上原・埴原田・横吹・休戸、東筑摩郡神田・林両所に於て祭る、同地宇良古山に鎮坐す、往古は郡内三十余村の祭神なり、后神を宇良古比売命と云、口碑に伝ふ由同地に命の社あり、【児玉彦命】大神御子片倉辺命之御子也、大神之御言(みこと)之随(のままに)千鹿頭神之跡乎(を)継弖(つぎて)、主祭政守達神御子美都多麻比売神乎(を)娶弖(めとりて)八櫛神乎(を)生(うむ) 」とある。  これを見ると、大神之御言(みこと)之随(のままに)ということは、無理矢理に千鹿頭神の跡を大神の孫の児玉彦命に継がせたとともとれるわけであり、同ホームページによると、高部歴史編纂委員会『高部の文化財』の「神長は前宮にいた」の項では、上記の【児玉彦命】を挙げて、「 ここではっきり洩矢の血筋は絶え、祭祀の形式だけが守矢に伝わってきたことがわかる。こうして見ると、神長は神氏に従って前宮に来、すでに祭祀の形の整っていた洩矢の祭祀のやり方を学ぶため、千鹿頭神と数年を過ごしおよそのことが分かった段階で松本へ追いやったと思われる。千鹿頭神のいた宇良古は、当時は諏訪の北の境で、彼は更に奥州に追われたと伝えられる。」と解説しているという。八ヶ岳原人氏はさらに続けて、「改訂版」とも言える『続・高部の文化財』で「神長の先祖」の系図が解説されているとして、「守矢家一子口伝による系図によれば、四代目は児玉彦命で建御名方命の孫にあたる。建御名方命の子、守達神の娘御津多麻比売神を妻にして、五代目八櫛神を生んでいるから、洩矢族の血はここで絶える。三代目の千鹿頭神は、諏訪でも五社(往古は郡内三十余村)に祭られているが、東筑摩郡宇良古山に鎮座。さらに東北方面に社があるので、逐(お)われたのではないかという説がある。」という文を引用した後、明治初期に書かれた、神や命の時代の系図「神長守矢氏系譜」をどのように扱ってよいのかわかりませんが、建御名方命と洩矢神の関係を無理なく説明しているという。 『高部の文化財』『続・高部の文化財』に出ている見解では、単に児玉彦命が千鹿頭神の跡を継いだのではなく(例えば養子に入ったというような)、千鹿頭神は大神によって追放されたとされている。そのように記すのは、神長守矢氏に伝わる系譜以外の根拠があったということであろう。それがどのような根拠なのか分からないが、千鹿頭神社のどこかにそのような伝承が残っているのかもしれない。洩矢神から続く守矢氏ということであるが、建御名方一族はその守矢氏を乗っ取ってしまい、守矢氏は児玉彦命の時から出雲神族化したとするなら、神長官守矢氏が秘かに岐神祭祀を続ける役目を受け持ったとしても不思議ではないであろう。

 ただ、『高部の文化財』『続・高部の文化財』に出てくる見解には少し納得できないことがある。出雲神族は自分達で諏訪原住民の祭祀である洩矢神の祭祀を行う必要があったのだろうかという疑問が湧くのである。出雲では征服側の天ノホヒの子孫が出雲神族の祭祀権を奪い、出雲大社の祭祀権を握って出雲神族の神の祭祀を行なっており、ホヒ一族本来の祭祀を放棄しているようにも見える(あるいはひっそりと自分達の神の祭祀も行なっているのかもしれない。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、神魂神社の秋上氏が天ノホヒの祖神は天ノコヤネであると言っているという)。しかし、崇神天皇は三輪山の祭祀を大物主の子孫のオオタタネコに任せている。諏訪に入った出雲神族は天孫族に対する抵抗を諦めなかった部分であり、その抵抗の中には出雲神族の祭祀に対する祭祀権の剥奪への抵抗もあったと考えるべきであろうから、諏訪に入ったからといって簡単に自分達の祭祀を捨て、原住民の祭祀を奪って自分たちでその祭祀をするということは考えられない。諏訪の出雲神族がクナトノ大神を祖神とする自分達の祭祀にこだわったとすれば、原住民の祭祀は原住民にまかせたであろう。  出雲大社におけるナンバー・ワン出雲国造家とナンバー・ツー出雲神族の富氏の関係は、上社のナンバー・ワン大祝神氏とナンバー・ツー神長官守矢氏の関係に似ているが、祭祀の実権が出雲大社では国造家が握っているのに対し、上社では守矢氏が握っているという大きな違いがある。そもそも建御名方が諏訪に入ったのは、征服するためというより、天孫族に追われ、落ち着き場所を探し求めて行き着いたのが諏訪ということではないだろうか。もちろん、征服が目的であれ単なる落ち着き場所を求めてであれ、地元の洩矢族にとってはよそ者が入ってきたことにはかわりがないから、排撃しようとしたとしても不思議ではない。ただ、もし出雲神族が天孫族に追われて諏訪に入ろうとしたのだったら、そのような事例を世界的に見れば必ずしも排撃するとは限らず、受け入れてやるという事例もないわけではないし、実際には洩矢族は出雲神族を受け入れてやったのであり、建御名方命と洩矢神の戦いは後代に何らかの事情で作られた話ということもありえる。  争いを伴ったにせよ、洩矢族が暖かく出雲神族を受け入れてやったにせよ、出雲神族が諏訪に居場所を確保しただけであるとするなら、出雲神族は出雲神族の祭祀を行い、洩矢族は洩矢族の祭祀を行なったであろう。ただ、互いの祭祀には共通する部分も多かったかもしれない。出雲神族が北海道・東北から日本海側を通って出雲に移動したとすると、その間に絶えず縄文人とも接触していたはずであり、越の縄文人とも接触して互いに影響を与え合っていたということは考えられる。越の縄文人と諏訪の縄文人のあいだの祭祀にどのぐらい違いがあったかにもよるが、洩矢族と出雲神族の祭祀には似た部分もあったと考えるべきである。特に、龍蛇神信仰ということでは共通している。

 千鹿頭神が大神によって追放されたという話は、有賀に千鹿頭神社があることと矛盾しているようにも思える。有賀の千鹿頭神社は千鹿頭神が諏訪から追放されたわけではないことを示しているともいえるのである。『続・高部の文化財』の『諏訪資料叢書』収録の諏訪市有賀千鹿頭神社が保管している『有賀千鹿頭社文書』に武田の武将の「板垣信方奉書(写)」があり、「有賀千鹿頭社の賦役は、同郷(有賀村)・上原村・埴原田村・筑摩郡神田村」と書いてあるという。これを読んで、八ヶ岳原人氏は「茅野市の上原と埴原田・松本市の神田に千鹿頭神社が“現存”している理由がわかったような気がしました。本社から千鹿頭神を勧請した各支社の千鹿頭神社』は、長い歴史のうねりにもまれながらも、『本社・有賀千鹿頭神社』を頂点にした強い結束力で生き残ったのでしょう。」 (http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/tikatousin.htm) という。この八ヶ岳原人氏の言葉からいえば、松本市の千鹿頭神社は大神に追われた千鹿頭神が逃げていった場所ではなく、有賀の千鹿頭神社から分祀されたものということになる。もっとも現在の有賀の千鹿頭神社の祭神は千鹿頭神ではなく建御名方命の御子の内県神であり、戦国時代にはすでにそうなっていたようである。松本市の千鹿頭山の千鹿頭神社では祭神を千鹿頭神としているが、『信府統記』の〔千鹿頭大明神 林村〕にも、「本社は両社共に大明神にて諏訪勧請」とあるという(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/matikatou.htm)。  ここで、「本社は両社共に」とあるのは、松本市の千鹿頭山の尾根上には林村の千鹿頭神社と神田村の千鹿頭神が並んで建てられているからである。この二つの千鹿頭神社が並んで建てられていることについては、松本藩領であった神田村以南の地が諏訪高島藩領に移されたとき、千鹿頭山の尾根をその境界として林村と神田村に分けられ、それぞれが社殿を建てたことによるといわれる。ただ、八ヶ岳原人氏によると、この千鹿頭山に二つの千鹿頭神社があることは単純な話ではないという(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/matikatou.htm)。『松本市史』に所収慶長二十年(元和元年・1615)二月、『林千鹿頭神社御柱入用書上』に、「林之郷千鹿頭大明神御先祖の御産土(うぶすな)にして御座候、当年御柱立申候入用の事 (略) 一、御宝殿弐社立申候入用三拾石、同御宮移しに三石 (略) 一、御柱の儀馬打申候、馬五疋五官の祝乗り申候」とあり、ここに「本殿を二社建て遷宮した」と書いてあるということは、千鹿頭山を境界に松本藩と諏訪高島藩に分けられる以前のまだ松本藩小笠原氏の時代、すでに千鹿頭山には二つの千鹿頭神社があったことになり、前出永禄八年(1565)」の『板垣信方奉書』に筑摩郡神田村とあることから、永禄から慶長の頃には、すでに林村と神田村に千鹿頭神社が二社存在していた可能性があり、さらに原初から社殿が二社並立していたと考えることができるという。  さらにそれは、『諏訪郡諸村並旧蹟年代記』に「松本領筑摩郡林村 山家(やまべ)組也、諏訪領神田村之間相殿にて諏訪社・千鹿頭社」とあり、これは「両村の間に、相殿になった諏訪社と千鹿頭社がある」と読め、「相殿」は諏訪側の認識で、諏訪社と千鹿頭社の二社があったと理解すべきで、この史料を併せると、名称は「千鹿頭神社」でも、林側は諏訪神社で、神田側が千鹿頭神社ということになるという。これは、林側が諏訪社の分社に多い「立穀(梶)の葉」で、神田側が有賀千鹿頭神社の神紋「諏訪梶」であることからも頷けるはなしであるという。  八ヶ岳原人氏によると、二つの本殿の後方の何かの意志を持って遠ざけたとしか思えない場所に、木祠と石祠が並んで在り、その内一社は「服社」で、「林口」の鳥居脇の山辺歴史研究会・里山辺公民館の案内板の「摂社略記」には「服(はら)神 祭神は建御名方命(昔鎮守神として尊崇した)」とあるという。そして享保十八年(1733)頃に編纂された高島藩の『諏訪藩主手元絵図』に、前述の林千鹿頭神社の摂社・服社と同じ位置に「虚空蔵」と書かれた社殿と鳥居が描いてあり、「はら」は「原」で、御射山(みさやま)の「原山」に通じ、諏訪大社の摂社である御射山社には「原山社(はらやましゃ)」の別称があり、祭神は「国常立命(虚空蔵菩薩)」で、これは千鹿頭山の尾根に、「諏訪大社―御射山社」に対応する「千鹿頭神社(千鹿頭大明神)─服社(虚空蔵)」の社殿形式を再現させたことが明らかであるという。また、松本藩の公式記録である、享保九年(1724)『信府統記』の〔松本領諸社記・千鹿頭大明神〕に服社と同じ場所と思われる「本社の後ろに御手払ノ宮と云て今にあり…祭礼は七月廿七日」とあるが、「7月27日」は御射山社の例祭日と重なり、『諏方大明神画詞』に御射山祭を締めくくる大祝の柏手は、「御手払い」と呼ばれていることから、「御手払ノ宮」が、御射山社の代名詞であることが極めて濃厚であるという。

 千鹿頭神社は、古は先(まづ)の宮にあったのが、中世には戦乱によって社殿も焼失し、その後、現在地に移されたと伝えられているという。千鹿頭神社がもともと鎮座していたという先の宮は千鹿頭山の尾根の小高くなった先端部分にあり、祭神は大己貴神命(大国主命)である。千鹿頭山に「諏訪大社―御射山社」に対応する「千鹿頭神社(千鹿頭大明神)─服社(虚空蔵)」があるとすれば、この先の宮も諏訪の先宮神社に対応するのではないかとも考えられる。千鹿頭山の先の宮と諏訪の先宮神社が西北60度線をつくる。

  先宮神社―千鹿頭山標高点(W0.358km、0.94度)の西北60度線

 先宮神社の祭神は高光姫命であるが、丹後の海部氏の伝承では、大己貴神が多岐津姫命を娶って高光日女命を生んだとされ、『古事記』では、大国主神が多紀理毘売命との間に高比売命があり、母親が違っているが同じ宗像三女神であり、多岐津姫命=多紀理毘売命とすれば、これは高光日女命=高比売命と考えら、また『古事記』では高比売命=下光比売=下照比売ともされ、これから高光日女命、高比売命、下光比売命、下照比売命は同神で、出雲神族の伝承ではシタテル姫命は出雲神族の神となっているので、先宮神社の祭神である高光姫命も出雲神族の神ということができ、千鹿頭山の先の宮も祭神は大己貴神命(大国主命)で、この方位線は出雲神族の方位線ということになる。  しかし、先宮神社と先の宮の方位線は先宮神社と千鹿頭神社の方位線とも考えることができる。そうすると、先宮神社の東北45度線方向に有賀の千鹿頭神社があることも気になる。松本の千鹿頭神社・先宮神社・有賀の千鹿頭神社が方位・方向線で結ばれているとすると、やはり先宮神社は先住民の神を祀っていたという可能性も出てくる。この問題は、千鹿頭山の先の宮と千鹿頭神社のどちらが先に祀られていたかも関係するといえ、千鹿頭神社が先なら、千鹿頭神社―先宮神社ということになり、先の宮が先なら先の宮―先宮神社と考えるべきであろう。もし、建御名方命が越の方から諏訪に来たのだとすると、途中松本あたりを通ったと考えられる。その過程で千鹿頭山に出雲神族の神を祀ったこともありえる。その場合は、先の宮の祭祀のほうが早かった可能性が強くなる。また、追放された千鹿頭神が出雲神族の勢力範囲に逃げることはありえないから、千鹿頭神は松本あたりに幽閉されたということであろう。そうすると、千鹿頭神の祟りを恐れて千鹿頭神を千鹿頭山に祀ったということも考えられる。しかしその場合、先宮神社を先住民の神を祀る神社とすると、その先宮神社と方位線をつくる場所に千鹿頭神を祀るだろうかという疑問が生じる。 『古事記』では天孫族は建御名方を諏訪まで追ってきたことになっている。そうすると、千鹿頭神はすでに天孫族の勢力範囲に入っていた松本に逃げていったということになり、先宮神社と方位線をつくる場所に祀られるということは考えられる。しかしこの場合、出雲神族は差し迫った状況に置かれていたということであり、原住民の洩矢族との宥和を第一とするのではないだろうか。千鹿頭神の追放などということは、洩矢族との関係を悪化させるだけであるから、考えにくいことなのである。どちらにしても、千鹿頭山で千鹿頭神が祀られたのは出雲の国譲りからそう離れていない時期の古い古い時代のことということになるが、そうすると諏訪から勧請したという話と時代が合わなくなるのではないだろうか。また、千鹿頭山の現状を考えると、千鹿頭神が千鹿頭山に追放されたというより、千鹿頭神によって建御名方神が千鹿頭山から追放されたというほうが相応しいのではないだろうか。

  先宮神社―有賀・千鹿頭神社(W0.215km、2.53度)の東北45度線

 出雲神族の人間が守矢氏の中に入ったものの、結局、洩矢族化していき、出雲神族と洩矢族の対立は大祝と守矢氏の対立として後々まで残ったということも考えられる。吉田大洋氏(『謎の出雲帝国』)によれば、出雲神族はどんなに混血させられても、絶対に同化しない種族であり、富當雄氏は「富家の門をくぐった者は、かならず出雲神族化する。そして、反体制に徹する」と言い、出雲の富村に富神社があり、富家中興の祖的存在である富兵部大輔景教を祀っているが、その人物は国造家の三男で養子にきたのだという。同じことが洩矢族にもいえ、出雲神族から洩矢氏に入ったものも、洩矢族化してしまったということなのかもしれない。そうすると、神長官守矢氏が岐神祭祀を守ったというよりは、やはり出雲神族からその祭祀を奪ったということになる。もっとも、そうすると守矢氏の系譜で少し気になるものがある。守矢資料館で手に入れた『神長官守矢資料館のしおり』には守矢氏の系図が載っているが、そこでは千鹿頭神までと、児玉彦命の子とされる八櫛ノ神以降数代は神とされているのに、児玉彦は神ではなく命となっていて、児玉彦だけが異質な存在として扱われている。それは児玉彦命の時から洩矢族の祭祀を出雲神族が奪ってしまったということを、後々まで誇示する為に児玉彦だけが命になっているとも考えられるが、守矢氏の系譜は洩矢神の血筋が断絶し、出雲神族が洩矢氏を継いだとしても、やがて洩矢族化したとするなら、児玉彦だけを命とするのではなく、児玉彦神とするのではないだろうか。  あるいは、児玉彦だけが命となっているのは、後代に出雲神族の血を引くものとして児玉彦命が洩矢氏の系譜に挿入されたという可能性を示しているのかもしれない。そうする理由としては、守矢氏が出雲神族から岐神祭祀を奪ったとしても、単に大和王朝の力を誇示するだけではなく、自分たちにも岐神祭祀を行なう資格があるとして、そのことを正当化する必要も感じたということが考えられる。もし、守矢氏の系譜の中に出雲神族の血も入っているとするなら、そのことをもって自分たちにも岐神を祀る資格があると主張できるであろう。そのために、自分達の系譜の中に出雲神族の出身者とされる者を入れたのかもしれないし、千鹿頭神が追放されたというのは、それに尾ひれが付いた話なのかもしれない。「神長守矢氏系譜」は、千鹿頭社を東筑摩郡神田・林両所に於て祭るとあるが、高島藩と松本藩によって神田村と林村に別けられた際のことを記しているとすれば、「神長守矢氏系譜」にははるか後代のことも記されているということになる。「神長守矢氏系譜」に手が加えられ続けてきたのだとするなら、あるいは児玉彦命も後から挿入された可能性も否定できないであろう。

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守屋山

 八ヶ岳原人氏は守屋山が諏訪大社上社の神体山であることに疑問を呈している(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/sintaisan.htm)。理由は、上社本宮の境内から守屋山を見ることはできない、守屋山には東峰に「守屋神社奥宮」の祠はあるものの、諏訪大社に関わるものは一切なく禁足地でもない、さらに三省堂『大辞林』では明解に祭祀の対象となる「物・山」を「神体・神体山」としているが、諏訪神社上社に関する古文献と現在行われている諏訪大社の祭祀からは「守屋山を祀る」ことを見いだせず、中世の文献では「他社と異なり、上社の神体は大祝」と言い切っており、この“論理”では神体山は必要ないので、それを礼拝する神事がないのも頷けることなどである。平成21年12月に諏訪史談会主催「諏訪大社の謎に迫る」という講座があり、諏訪大社本宮参集殿で神職の話を聞く機会を得たが、この場で受講者から「御神体は守屋山と言われているが」との質問を受けた神職から、「本宮の御神体は、守屋山ではない」との明快な話を聞くことができたともいう。
 それに対し戸矢学氏(『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』)は、現在の諏訪大社では現役の神職が、守屋山は御神体ではないと公然と主張しているが、これも戦後の神社界・神道界の意向に合わせたものであって、三輪磐根氏が現職の諏訪大社宮司であった時に著した『諏訪大社』では、守屋山は諏訪大社の神体山であると明確に言い切っているという。また、見えないということでは宇佐神宮の奥宮・神体山である大元神社・御許山は神宮境内からまったく見えないし、大切にされていないということでは、富士山や秩父神社の神奈備である武甲山はとても大切にされているとはいえず、それをもって守屋山が神体山ではないとはいえないという。
 八ヶ岳原人氏の「諏方正一位南宮法性大明神御輿再造之事」と題された『諏訪頼忠慶讃(案)』のことについて書かかれたホームページを見ても(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/ganbun.htm)、守屋山が上社にとって重要な山だったことが窺われる。『諏訪頼忠慶讃(案)』とは諏訪頼重が武田信玄に殺された後に大祝を継いだ諏訪頼忠が、信長に上社が焼かれてしまった二年後の御柱の年に御輿を造った時に御輿に納めたもので、激動の中で荒廃した上社の「再建立一新」を願ったものといわれる。現在「真筆」は宝殿の中にある神輿の中に納められているというが、そこには「大工牛山因幡守長家、宮山の洞の中で潔斎禁足を百ヶ日、すでに御輿造終わり」の文言があり、宮山について八ヶ岳原人氏は、『諏訪藩主手元絵図』の〔神宮寺村〕に守屋山(守屋大神)のすぐ右側に「此所大明神御輿仕立し所」「御臺所」と書き込みがあり、また滝沢主税編『長野縣町村繪地圖南信篇』に明治7年作成の〔神宮寺村(その2)〕があって、「守屋嶽」から尾根伝いに目をやると「御臺處」があることから、「御臺所(御台所)」が守屋山の西峰であることがわかるという(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/mikosi.htm)。諏訪頼忠が万感の思いの中で上社の再建を願って造ろうとした御輿を、わざわざ守屋山の山頂で造ったということは、それだけ守屋山が重要な山だったということではないだろうか。『大祝信重解状』に「一、守屋山麓御垂跡の事」とあるらしい。それが『大祝信重解状』にそのまま使われている言葉だとすれば、上社から守屋山はみえないかもしれないが、上社が守屋山山麓に位置しているという意識は昔からあったということになる。
 出雲神族の伝承では、王が他界すると家人はツタで篭をあみ、これに死体を入れて山の頂上の高い桧に吊るし、三年が過ぎると篭から下し、白骨を洗って山の大きな岩の近くに埋めたといい、山は出雲神族の祖先の霊の眠るところであったという。また、高貴な人の婦人や子供が死ぬと、石棺に入れ、再生を願って宍道湖に沈めたという(吉田大洋『謎の出雲帝国』)。建御名方命が死ぬと、同じように埋葬されたと考えられる。桧に吊るされて風葬された山が守屋山だったのではないだろうか。そして女性や子供は宍道湖の代わりに諏訪湖に沈められたのであろう。『神氏系図』(大祝家本)の後書きに「用明天皇御宇二年、神子構社壇于湖南山麓」とあるのは、この時初めて現在の前宮の地に社壇が設けられたということを意味するなら、現在の諏訪大社上社が姿を現す前から、守屋山は出雲神族にとって祖先の霊の眠るところとして重要な山だったのかもしれない。あるいは、前宮本殿のあたりが桧から降ろされた建御名方命の遺骨が埋められた場所だったのかもしれない。もしそうだとすれば、出雲神族にとってそれぞれ遺体が桧に吊るされた山、遺骨が埋められた場所として個別に位置していたのであって、遺骨を埋める場所から遺体を桧に吊るした場所が見えるかどうかということは、必ずしも重要なことではなかった可能性もある。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、前宮は諏訪明神、建御名方神の墳墓の地であると伝えられているという。前宮社殿は御霊位岩という磐座の上に立つとされ、その後ろに「お山」とよばれる神陵があったが、今は墳丘は壊されてしまって原形をとどめておらず、瑞垣をめぐらして神秘的な区画として人の出入りを禁じているという。桧から降ろされた遺骨は大きな岩の傍らに埋められたというのであるから、建御名方命の遺骨が御霊位岩の傍に埋葬されたということはあり得るわけである。地元の諏訪人のあいだでは、この地にはミシャグジをまつると言い伝えられ、『上社古図』では御左口神が中心に描かれ、前宮は脇に建っているわけであるが、この場合前宮は建御名方命を祀るとしか考えられないから、この配置は建御名方命が勝利者として諏訪に入ってきた頃のままであるとすると、敗者の方が中心で建御名方命が前宮として脇にあることになっておかしい。その配置がいつ頃からのものかは分からないが、欽明朝になって大和朝廷の力を背景に出雲神族と諏訪原住民の力関係が逆転してからのものと考えるべきであって、それ以前の前宮の地は建御名方命と結びつく場所であったのではないだろうか。御霊位岩が建御名方命が諏訪に入る以前から諏訪原住民にとって磐座だったかもしれないが、それは磐座の一つにすぎないのに対して、御霊位岩の脇に建御名方命が埋葬されたとすれば、御霊位岩は諏訪の出雲神族にとって特別な岩だったということになる。

 守屋山西峰と神長官屋敷の御頭御社宮司総社・岐神祠が東北45度線をつくっていたが、守屋山東峰の東北45度線上に上社前宮がある。正確には所政社と方位線をつくり、前宮本殿とは方位線ではなく方向線であるが、守屋山東峰の方位線上に前宮があるといえるであろう。所政社は前宮の境内の外れとも、かつては境内内だったのではないかともいえる場所にあり、すぐ近くに子安社がある。本宮と守屋山の方位線であるが、本宮からの東北60度線が守屋山の中峰付近を通る。中峰周辺にはこれといった物や伝承はないが、守屋山の中央部ということでは、守屋山全体を意味するともいえ、守屋山と本宮が方位線を作っているともいえるかもしれない。また、八ヶ岳原人氏は守屋山は上社からは見えないが、下社から見えるという。守屋山西峰と下社秋宮が南北線をつくる。

  守屋山東峰±―前宮本殿(E0.185km、2.76度)―所政社付近(E0.008km、0.11度)の東北45度線
  本宮硯石±―守屋山中峰中央付近 (E0.093km、1.35度)の東北60度線
  守屋山三角点―下社秋宮(E0.033km、0.16度)の南北線

 中峰の東北60度線上に本宮があるのに対して、西峰の東北60度線上に「中十三所」では筆頭に位置する諏訪市中洲神宮寺の藤島社がある。広い意味で、守屋山の東北60度線上に本宮と藤島社があるといえよう。ただ、本宮と藤島社は東北60度線ではなく南北線をつくっている。先宮神社と本宮も南北線をつくっていたが、先宮・藤島社・硯石がそれぞれ南北線を作っている。

  守屋山三角点―本宮硯石±(E0.325km、4.48度)―藤島社(E0.047km、0.59度)の東北60度線
  藤島社―本宮硯石±(E0.016km、1.76度)の南北線
  先宮神社―藤島社(E0.144km、1.42度)―本宮硯石±(E0.160km、1.45度)の南北線

 『諏方大明神画詞』の洩矢神と建御名方命が戦ったという話は「藤嶋明神」の段に出て来る話で、「(そもそも)この藤島の明神と申すは、尊神垂迹(すいじゃく)の昔 洩矢の悪賊神居ををさまたげんとせし時 洩矢は鉄輪を持してあらそい、明神は藤の枝をとりて是を伏し給う、ついに邪輪を降ろして正法を興す、明神誓いを発して藤枝をなげ給いしかば即ち根をさして枝葉をさかえ、花蕊(ずい)あざやかにして戦場のしるしを萬代に残す、藤島の明神と号する此のゆえなり、」とあるといい(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/hujisimasya.htm)、藤島社は洩矢神と建御名方命が戦った戦場の跡ということになる。本宮と藤島社が南北線をつくるのに対して、藤島社と前宮本殿が西北45度の方位線をつくる。前宮本殿は神長官屋敷の御頭御社宮司総社・岐神祠と西北45度線をつくっていたが、藤島社も御頭御社宮司総社・岐神祠と西北45度線をつくる。西北45度線上に前宮本宮・御頭御社宮司総社・岐神祠・藤島神社が並んでいるわけである。

  中州藤島社―岐神祠(W0.008km、0.40度)―岐神祠・御頭御社宮司総社(W0.010km、0.49度)―前宮本殿(E0.005km、0.16度)の西北45度線

 もっとも、これらは現在の藤島社にいえることで、藤島社はもともと字御座免というところに在ったのが、八ヶ岳原人氏のホームページでは中央道(耕地整理)のためと書かれているので、中央道が通るためか耕地整理のために現在地に遷座したということらしい。字御座免の場所であるが、八ヶ岳原人氏のホームページでははっきりと分かる形で記載されていない。昭和23年の航空写真(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/hujisima.htm)から、八ヶ岳原人氏はここで間違いないであろうという場所を推測していて、字御座免はほぼ四角い形で、その角の一隅の黒いところが藤島社旧跡地ではないかという。その航空写真を元に現在の地図で旧鎮座地を探すと、守屋山と藤島社の東北60度線をさらに230mほど延長した場所付近になる。ただその場所は中央道から少し離れており、中央道を通すために移す必要のある場所ではない。また、耕地整理のために移したというのであれば、基本的には畦道を基に、それを直線化して道路を整備したであろうから、写真を見ると旧藤島社は角地であり、道路を多少動かしたとしても、神社自身はせいぜいその新しい道路の角に移動するぐらいではないだろうか。200m近くも移動させるということは、何か他にも理由があったことになる。
 とりあえず、航空写真から割り出した地点を旧鎮座地付近とするなら、旧鎮座地と現藤島社・守屋山西峰も東北60度線をつくる。前宮との関係では、旧鎮座地は所政社と西北45度線を作るが、前宮本殿とは方位線をつくらない。所政社は現在「マンドコロシャ」と呼ばれているが、本来は画詞に「所末戸」などとあり、「トコロマツ」だったという。所政社は地主神といわれ(皆神山すず『諏訪神社七つの謎』)、安国寺史友会が設置した「案内板」には「古書には『所末戸社』とも『政所社』とも書かれてあり非常に盛大な祭りが春秋の二季に行われたといわれているが江戸時代に至って全く廃れてしまった。かつては旧暦三月未(ひつじ)日に稲の穂を積みそのうえに鹿皮を敷いて大祝の座とし假家(仮の家)をかまえて神事を行っており、大祝が定めで参詣する社十三ヶ所(上十三所)のうち第一とされてあるからこの社の重んぜられたことがわかる。古くは上伊那の藤沢郷によって社殿が造営されていた。」とある (http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/tokoro.htm)。上社本宮の摂末社遙拝所の「所政大明神・前宮大明神・磯並大明神」が彫られた額を、中央ではなく一番右にあるのが最上位の格とみる立場から、所政社には前宮より格付けが上という説もあるらしい(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/suematu.htm)。

  藤島社旧鎮座地付近―:現藤島社(E0.011km、2.80度)―守屋山三角点(W0.036km、0.43度)の東北60度線
  藤島社旧鎮座地付近―所政社付近(W0.045km、1.49度)の西北45度線

 旧鎮座地は岐神祠・御頭御社宮司総社とも方位線をつくらない。ただ、大祝墓所が西北60度線方向にある。藤島社・大祝墓所ともそれなりの広さを考えれば、方位線をつくっていると見なしてもいいのではないだろうか。

  藤島社旧鎮座地付近―大祝墓所(E0.046km、2.14度)の西北60度線

 『諏方大明神画詞』では諏訪市中洲の藤島社周辺が戦場だったということになるが、建御名方命と洩矢神が藤の蔓と鉄の輪を持って戦ったのは、現在天竜川を挟んで鎮座している岡谷市川岸三沢の藤島神社と岡谷市川岸橋原の洩矢神社にそれぞれ陣取って対峙したともいわれる。この岡谷市の藤島神社と洩矢神社は守屋山西峰の西北60度線上に位置している。

  守屋山西峰三角点―洩矢神社(E0.184km、0.98度)―岡谷市藤島神社(E0.204km、1.06度)の西北60度線

 ただこの場合も、現在の洩矢神社は以前は別の場所にあったという。その旧鎮座地であるが、八ヶ岳原人氏(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/moreya.htm)によると、洩矢大神御舊趾碑というものが在るのであるが、肝心の旧鎮座地の場所がよくわからないということらしい。洩矢大神御舊趾碑の現在の場所は、洩矢神社の裏から山手すなわち中央自動車道へ向かい、トンネルをくぐって中央自動車道の側道を川岸方面に進み、下り坂の最鞍部に在るという。その場所には洩矢大神御舊趾碑とともに遷座記念碑というのもあり、それには「北西百米の社地から移転を余儀なくせられる。依って崇祖の心深き区民集いて新社地をこの地と定め、心魂を傾注して移転造営したるも、尚神徳を敬仰し神魂を安らかしめ、往古を偲ぶよすがとする。ここに碑石を建立し、以て之が御旧趾として後世に傳う。昭和五十三年戌午年十月」と記されているという。洩矢大神御舊趾碑自体が現在地の北西百米のところから遷座してきたということになり、その元の位置は「中央道の下に当たる場所にあった」としか読めず、洩矢神社からは、高速道に沿って右約300mの位置であるという(これは洩矢神社から高速道の方を見て右側ということであろう)。ところが、その場所を洩矢神社の旧鎮座地とすると、他の資料と矛盾がでてくるというのである。天竜川は東北から南西に向けて流れており、その左岸を天竜川に平行して中央道が通っている。北西百米というのは現在地から天竜川の方へ下って行った所となる。ただ、そこは天竜川の近くではない。しかし、伝承では洩矢神社は天竜川沿いから現在地に遷ったといい、諏訪史談会編『復刻諏訪藩主手元絵図』でみる、「橋原村」の絵図でも、天竜川の岸辺に「古宮跡」(絵図を見ると現洩矢神社の場所から天竜川に垂直に下ったあたり)と書いてあり、附近には「守矢大明神(洩矢神社)」しかないことから、そこが旧鎮座地ということが分かるという。八ヶ岳原人氏は洩矢大神御舊趾碑は洩矢神社旧鎮座地から一度遷り、さらにそこから現在地に遷ったのではないかと推測している。そこで、八ヶ岳原人氏はもともとの洩矢神社旧鎮座地について、古宮跡はJRのジャンクション下に当たるので、JRのジャンクション工事の際に「洩矢大神御舊趾碑は、遷座記念碑が言うところの旧跡地」に移転したことは考えられるとする。
 この洩矢神社旧鎮座地をJRのジャンクションあたりとする八ヶ岳原人氏の記述がまたよく理解できない。洩矢大神御舊趾碑の旧地が洩矢神社から中央自動車道を見て右側とすると、洩矢神社旧鎮座地はそこからさらに天竜川の方に下ったあたりということになるが、しかしそこはJRのジャンクションあたりではない。現洩矢神社から天竜川に垂直に下ったあたりは、天竜川を渡るJRの鉄橋あたりとなる。JRのジャンクションと洩矢神社の右側では、鉄橋を挟んで反対側になり、JRのジャンクションあたりから現在の洩矢大神御舊趾碑の北西百米の所に遷されたとすると、遠すぎるのである。旧鎮座地をJRのジャンクションあたりとするためには、洩矢神社の右側ではなく左側としなければならない。
 洩矢神社の右側か左側かであるが、洩矢神社から高速道路を見て右側、下り坂の最鞍部ともいえるあたりをグーグルマップのストリートビューでみると、八ヶ岳原人氏のホームページにある写真とそっくりの直角に交差した二つの鳥居のある石碑がある。その場所が、現在洩矢大神御舊趾碑がある場所で間違いないであろう。そうすると、守屋山西峰からの西北60度線が現洩矢大神御舊趾碑の西北北西百米の場所と洩矢神社の中間、旧洩矢大神御舊趾碑地寄りを通ることになり、旧鎮座地はそこから天竜川へ下った、旧洩矢大神御舊趾碑地からそう離れた場所ではないと考えられるので、旧鎮座地も守屋山西峰と西北60度線を作っていたとみなせる。

 岡谷市川岸の藤島神社については、八ヶ岳原人氏(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/fujisima.htm)によると、荒神塚古墳の上に在り、荒神塚古墳には古くから諏訪明神を祭神とする藤島神社が祀られ、建御名方命(諏訪明神)の入諏伝説が語り継がれてきたが、区誌『三沢の歴史』には、信ずべき古記録によると「陵明神(りょうみょうじん)」または「十五所明神」が正しい名称で、「荒神塚」も後に合祀された三宝荒神のことを村人が呼んだのであり、正しい名称ではないと記されており、天皇陵のように古墳に神社があれば、それは被葬者を祭神とすることになるので、この古墳を建御名方命(藤島明神)の墓とすることはできないので、対岸にある洩矢神社との絡めで成立した新しい話であることは間違いないとする。
 洩矢神社についても、八ヶ岳原人氏 (http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/moreya.htm) は守矢氏の氏神ともいわれているが疑問であるとする。守矢早苗著『祖父真幸の日記に見る神長家の神事祭祀』に洩矢神社の御柱祭や例祭に招待されたと記されており、「招待を受けたから参拝」という神長官家の立場が読み取れ、「川岸村橋原区鎮座守矢家遠祖洩矢神社」という記述からは、「守矢家の遠祖である洩矢神を祀る洩矢神社は、橋原区の鎮守社」ということになり、これらから「洩矢神社は、守矢家の氏神を勧請した祠(守矢家との直接の関わりはない)」という守矢家と洩矢神社の関係がハッキリわかるという。また、地元では洩矢神社を高遠の「物部守屋神社」と同一視しているようで、「(神仏戦争で負けた物部守屋を祀る)橋原村民は、“敵”である長野の善光寺には参拝するな」と伝えられているといい、洩矢神社の神紋も、物部守屋神社の神紋が「丸に三つ柏」であるのに対して「丸に一つ柏」で、諏訪大社の分社の多くが「立穀(梶の一枚葉)」を採用していて、この関係「本社−三つ葉・分社−一枚葉」がそのまま当てはまるという。

 守屋社(物部守屋神社)は里宮が伊那市高遠町藤沢片倉にあり、奥宮が守屋山東峰の山頂にある。皆神山すず『諏訪神社七つの謎』によれば、『天正の古図』といわれる絵図にも、守屋山頂に「守矢大臣宮」の祠が描かれ、『諏訪藩主手元絵図』にも、守屋山頂に「守矢大神」の記載があるといい、『藤沢村誌』の「守屋神社」の項では、祭神は物部守屋大連であるとしており、物部守屋の子息らが信濃国にはるばる逃げてきて、伊那郡藤沢に蟄居して、世間の人と交わらず、いくたの星霜を経て子孫繁栄して大連の霊を拝し祭りて氏神としたとあるという。
 物部守屋神社奥宮(守矢大臣宮)がある東峰ではなく、守屋山西峰と洩矢神社が西北60度線をつくっているわけであるが、守屋山西峰は物部守屋神社里宮とも西北45度線をつくる。物部守屋神社里宮は岡谷の洩矢神社・藤島神社とも西北60度線をつくるともいえるのであるが、洩矢神社の旧鎮座地の場所によっては方位線をつくるとはかぎらない。もっとも、物部守屋神社の奥宮が守屋山東峰山頂にあるということは、物部守屋神社と守屋山が密接な関係があるということであり、物部守屋神社にとって最も重要な存在は守屋山であったとするなら、里宮と洩矢神社が方位線をつくるつくらないはあまり重要な話ではなく、洩矢神社が守屋山西峰の西北60度戦場にあることが重要だと考えるべきであろう。里宮と洩矢神社は直接方位線をつくるというより、守屋山西峰を仲介にして方位線で結びついているとしたほうがいいのかもしれない。

  守屋山西峰三角点―物部守屋神社里宮(E0.015km、0.43度)の西北45度線
  物部守屋神社里宮―洩矢神社(W0.346km、1.57度)―岡谷市藤島神社(W0.326km、1.44度)の西北60度線

 物部守屋神社里宮は前宮本殿と東北60度線をつくっている。守屋山東峰とは違って、所政社とは方位線ではなく方向線になる。物部守屋神社奥宮の東北45度線上、物部守屋神社里宮の東北60度線上に前宮があるといえよう。

  物部守屋神社里宮―前宮本殿(W0.097km、1.20度)―所政社(W0.225km、2.67度)の東北60度線

 守屋山の守屋神社(守矢大臣宮)について、守屋資料館の話では物部守屋が蘇我氏に滅ぼされた後、子孫(メモをとらなかったのではっきり憶えていない)が逃れてきて、守矢氏の養子に入り、物部守屋を偲んで建てたという説明であった。皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、天保五年(1834)の『信濃奇勝録』には、「守屋氏は物部の守屋の一男弟君と号る者、森山に忍び居りて、後神長の養子となる。永禄年中より官の一字添て神長官と云う。森山に守屋の霊を祀り、今、守屋が岳といふ。弟君より当神長官まで四十八代と云。」とあるという。大和岩雄『新版 信濃古代史考』によると、『神長守矢氏系譜』の武麿の添書に、「三十一代用明天皇御宇物部守屋大連、為国殞身河内国渋川館児孫逃匿葦原或逃、亡長子雄君入美濃、次子武麿入于信濃州来弖娶神氏女嗣長職。」とあるという。これをみると、初代洩矢神から二十七代目の武麿が弟君ということになる。この場合の神氏は、守矢氏も神氏を名乗っていたことからくるのであろう。

 戸矢学氏(『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』)は、守屋山の守屋神社奥宮には諏訪地方の神社の特徴である御柱がなく、どんな小祠にも御柱を建ててしまう諏訪人の気質を考えると、関わりの深い神社に御柱がないのは不可解だという。山麓の守屋神社は伊那市(旧・伊那郡)であるため、諏訪ではないからという理屈が成り立たなくもないが、奥宮のある山頂は、諏訪・茅野・伊那の境目であり、本来は神体山であるにもかかわらず、公式には否定されていることに理由はみいだせそうであるとする。戸矢学氏によると、守屋山が上社の神体山であることが公式に否定されているのはごく最近のことといえるが、守屋神社奥宮に御柱がないのは、それよりはるか以前からのことと考えられるという。また、守矢氏に物部守屋の子孫が養子に入り、物部守屋の霊を祀ったというのであれば、その祭神が物部守屋であっても諏訪と関係の深い神社であることには変わりがないであろうから、それにも関わらず御柱が建てられていないことは不思議であるとする。これは、守矢氏と物部氏は近しい関係ではなかったか、逆に守矢氏自身が諏訪原住民とは異質の存在だったか、どちらかだということではないだろうか。
 守矢氏と物部氏との関係であるが、皆神山すさ氏(『諏訪神社七つの謎』)は、「神長官守矢氏は神姓にして神朝臣を称しながら、かたくなに物部守屋の子孫と称して守矢氏(守屋氏)を名乗ってきた。金井典美氏は『諏訪信仰の性格とその変遷』のなかで、神長守矢氏の出自は上社の神氏、下社の金刺氏とともに科野国造の系譜につながる同一氏族阿蘇氏であると述べている。系図のうえでは、神長守矢氏は阿蘇氏にも、建御名方神の子孫である神氏にもつながるのだが、それでもかたくなに物部守屋の子孫と称したのである。」という。守矢氏自身がかたくなに物部守屋の子孫と称したということは、守矢氏と物部氏が近しい関係ではなかったとは考えにくい。しかしそうすると、守矢氏が諏訪原住民とは異質の存在ということになってしまう。また別の疑問として、単に物部氏から養子が入っただけでは、かたくなに物部守屋の子孫を称するということがあるのだろうかということがある。守矢氏は自分が物部氏であると主張しているようにも思えるし、しかしそうすると今度は守矢氏の諏訪原住民的な性格が説明できなくなってしまう。
 奥州藤原氏は藤原氏でありながら母方の蝦夷的性格を色濃く帯びていた。守矢氏も同じような性格の氏族だったのだろうか。そうすると、守矢氏は実は物部氏だったという話にもなってくる。一方で出雲神族の存在、他方で物部守屋が蘇我氏に滅ぼされ、信濃にも蘇我氏が入ってくるという状況の中で、守矢氏はその諏訪原住民的な性格をさらに強めざるを得なかったのかもしれない。それでも物部氏としての最後の一線だけは守りたいというのが、御柱の無い守屋神社奥宮として現れたのかもしれない。
大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、守矢氏の系譜における武麿についての記述は、物部氏の家記『旧事本紀』の「天孫本紀」に載る物部麻佐良連公について「泊瀬列城宮御宇天皇(武烈天皇)御世、為大連奉斎神宮。須羽直女子妹古為妻生二児。」とあるのをヒントに、守矢氏と物部守屋を重ねて創作した記述であるとしている。そしてこのような伝承が生まれたのは、信濃と物部氏とのかかわりの深さも原因であり、「天孫本紀」の「奉斎神宮」は石上神宮だが、『新抄格勅符』によると、石上神宮の神戸八十戸は、信濃五十戸、大和二十戸、備前十戸で、信濃が一番多いが、このことも物部氏と信濃の関係を示しているという。しかし、信濃と物部氏の深い関係だけでは、かたくなに物部守屋の子孫を称する守矢氏の姿勢が出てくるとは考えられない。
 須羽直の女子と物部麻佐良の間に子供が生まれたのは武烈天皇の時であるとするなら、その子供は欽明天皇の時代にはまだ生きていたかもしれない。須羽直について大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、金井典美は「直」は多くの国造の姓だから、「須羽国造」のこととみるが、須羽国造が存在していたかどうか、文献上定かでなく、国造ではなくても土着氏族は「直」の姓をもち、物部氏が信濃とかかわること、武烈朝は五世紀の末で、古代ヤマト王権の信濃進出の時期と重なることからみても、須羽直は諏訪にかかわるだろうとする。須羽直の女子と物部麻佐良の子供の性格を考えるなら、奥州藤原氏のように物部氏でありながら母親の諏訪原住民的な性格も色濃く残していたかもしれない。守矢氏というよりは、須羽直の女子と物部麻佐良の子供にこそ奥州藤原氏的な性格が考えられるわけである。あるいは、守矢氏に養子に入った物部氏とは、須羽直の女子と物部麻佐良の子かその子孫ということだったのかもしれない。その性格が物部氏であり諏訪原住民的でもあったとすれば、守矢氏に養子に入っても物部氏か諏訪原住民かという葛藤に巻き込まれることもなく、諏訪原住民でありながら物部氏でもあるという意識を持ち続け易かったということがいえる。

 一般には、建御名方命と洩矢神が戦ったという話になっているが、大林太良『私の一宮巡詣記』に「宮坂光昭によれば、それ以前から諏訪にあった伝説は、中世にまで生き延び、記録された。もっとも古い記録は鎌倉時代の宝治三年(1249)の『大祝信重解状』である。守屋大臣の所領に明神が進出してきて、両者は論争と合戦を行なったが雌雄を決し難かった。そこで明神は藤枝を持ち、守屋は鉄鎰(てつかぎ)を持って引っ張り合ったが、明神が勝利し、ここに居を定めた。そして明神の持った藤枝は当社の前に植えられ繁殖した。」と書かれてあった。これを見ると、建御名方命と洩矢神が戦ったとする『諏方大明神画詞』以前の『大祝信重解状』では、建御名方命と守屋大臣が戦ったということになっているわけである(洩矢神社が物部守屋を祭神とする守屋神社と関係が深いとすれば、洩矢神社と藤島神社にそれぞれ陣取って戦ったという洩矢神と建御名方命の話も、物部守屋と建御名方命の話だったのかもしれない)。この建御名方命と守屋大臣の戦いは、欽明朝における信濃の出雲神族と大和朝廷・物部氏とに在った戦いを反映する伝承だったのかもしれない。ただ、それは守屋大臣の所領に建御名方命が進出したということになってしまうことでもあるから、洩矢神と守屋大臣が一体化されて出雲神族側には捉えられていたとも考えることができる。諏訪において守屋大臣とは物部守屋のことであり、大和岩雄氏(『信濃古代史考』)によれば、多氏・物部氏の両氏が信濃進出氏族の中心であった。科野国造はヤマト王権の大連である物部氏の強力な支援を受けて、伊那から小県へ進出したのである。ちなみに、金刺舎人・他田舎人がみられる駿河国造も、『先代旧事本紀』によれば珠流河國造を「志賀穴穂朝の御世に、物部連の祖、大新川の兒、片堅石命を以って、國造に定賜ふ。」とあり、物部氏である。出雲神族側が洩矢神と物部大臣を一体視していたとすれば、守矢族と物部氏の間に一体視されるような強い繋がりがあったということであろう。
 物部守屋神社里宮・奥宮が前宮と方位・方向線をつくっていたが、所政社の社殿が藤沢郷によって造営されていたということは、物部守屋神社里宮・奥宮は所政社と方位線を作るということなのかもしれない。そして藤島社旧鎮座地と所政社が西北45度線をつくり、そして『大祝信重解状』では明神と物部守屋が戦ったことになっているわけである。明神と物部守屋が戦ったという『大祝信重解状』の記述は、守矢氏が物部氏だったということはともかく、建御名方命と洩矢神の戦いという物語は、信濃に物部氏が入り込むようになってから、作り出されたということを示しているのかもしれない。もし出雲の国譲りの頃の話だとすれば、洩矢神が鉄輪を持って戦ったというのは不自然であろう。欽明朝における信濃の出雲神族と物部氏の戦いが建御名方命と物部大臣の戦いになり、さらにそれが建御名方命と洩矢神との戦いになっていったということも考えられるわけである。この話は、一応建御名方命が洩矢神に勝利したということで出雲神族の顔を立てている一方、建御名方命と洩矢神が戦ったということでは、欽明朝・物部氏との関係において、出雲神族とは敵対関係にあったということで守矢氏にとって有利な話になっている。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、「諏訪の農民は旱魃の際、守屋山頂にまつられている守屋大臣の石の祠を谷底に転落させたり、小便をかけたと伝えられている。そうすると、守屋神が怒って雨が降ると信じられていたのである。」とある。戸矢学『諏訪の神』にも、地元の人からの伝聞として、山頂の守屋社に雨乞いし、叶わぬ時には石祠を転げ落としたりしたという。守屋資料館の話でも、雨乞いし、叶わぬ時には祠を投げ落とすので、柵で囲まれているのだとということであった。守屋神社で雨乞いするのか、守屋山で雨乞いするのかということで話が少し違ってくるが、守屋神社に雨乞いするというのはもともと雨乞いが守屋山でなされていたからではないだろうか。そうすると、守屋山は龍神・龍蛇神と関係する山だということになる。その場合、雨乞いが叶わなかった時に、守屋神社の祠を投げ捨てるということは、守屋神社の神が怒って雨を降らすのではなく、守屋神社が龍神と対立する神を祀る神社ということで、龍神がその神社が守屋山にあるということを怒っていると解釈して、守屋神社の祠を投げ捨てるということだったのではないだろうか。

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建御名方命

 建御名方は大和朝廷によって持ち込まれた神であるという言い方がされる。大和岩雄氏(『信濃古代史考』)によれば、建御名方命という神名の新しさについて、宮地直一は、「古事記成立の奈良朝を余り遠ざからぬ前代の事であろう」とし、藤森栄一は、「須波神から南方刀美神(建御名方神)に、古墳末期の八世紀を境にして神格が交代したもののようである」と書いているという。大和岩雄氏自身も、信濃国造が諏訪の古くからのミシャグチ信仰をヤマト王権の神統譜に組み入れた結果、建御名方命という神名が生まれたとする。大和岩雄氏によれば、この神は『古事記』にのみ記されて、『日本書紀』にはまったく登場しないし、『古事記』でも、大国主命の子でありながら大国主の神統譜に入っていない、こうした異常性と、諏訪に結びつけている特殊性からみても、この神は『古事記』編者の主観的意図によるものであり、『古事記』編者は科野国造と同族の太朝臣安万侶であるから、多氏が大国主命の神統譜に入っていない建御名方命を、強引に大国主命の子として国譲りの神話に組み込み、諏訪の神としたのであって、建御名方命という神名は諏訪の神を官社として中央での地位を高めるために作られたものであり、太氏が諏訪の神を宣伝するため書き入れたのだというのである。そして、建御名方命が国譲りに反対して諏訪に逃げ、この地にとどまったという話は、諏訪のミシャグチ神を祀る守矢(屋)氏が、科野国造の勢力に敗れ、その祭祀権が上社地域に限定されたことと重なっているという。
 大和岩雄氏は諏訪において大和朝廷と諏訪原住民の存在しか認めず、出雲神族の存在を認めていないのであるから当然ともいえるが、氏の建御名方という神名は多氏によって作られたものであるという主張は、出雲神族の伝承にも建御名方が出てくることをまったく無視している。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、出雲神族の伝承ではタテミナカタ(建御名方は一般にはタケミナカタと読まれていると思われるが、吉田氏はタテミナカタと記す。それは吉田氏独自の読み方なのか、出雲神族ではタテミナカタと呼ばれているのかは分からない)はゲリラ戦を展開しながら越へ後退し、母方(古志のヌナカワ姫)の勢力をバックに、信州へ入り、第二出雲王朝を築いたことになっている。吉田大洋氏は「ミナカタを祀る上つ社は、拝殿と幣殿だけで本殿を持たない。後方の神聖林が本殿に相当する。この形態は、オオモノヌシを祀る大和の大神神社とまったく同じだ。この神は出雲系以外のなにものでもない。」(『竜神よ、我に来たれ!』)ともいう。また、出雲神族の富家の「トミ」は、タテミナカタトミ命、トミのナガスネ彦、トミ(弩美)の宿禰、イセツ彦の子のイサワトミの命の「トミ」につながるとされる(『謎の出雲帝国』)。
 『古事記』の大国主の神統譜であるが、その最後に「右の件の八島士奴美神以下、遠津山岬帯神以前を、十七世の神と称す」とあるが、吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば出雲神族の伝承ではオオクニヌシは代名詞であり、数代(十七代と伝える)にわたって何人もおり、クナトノ大神も何人(五十七代と伝える)もいたという。また、オオクニヌシは古代出雲において重要な存在ではなく、その祭祀もなかったという。『古事記』で「十七世の神と称す」とあるのは、出雲神族のオオクニヌシが十七代いたという伝承に対応するものであろう。八島士奴美神は『古事記』ではスサノオの子であり、その子孫でスサノオの六世孫とされるのが大国主であり、大国主の神統譜で大国主の子が十一人あげられているわけである。合わせて大国主を入れて十七人ということになるが、スサノオの神統譜は縦の系譜であるから、それを入れて十七世の神ということは、大国主の神統譜も縦の系譜ということになるのではないだろうか。すなわち、『古事記』で大国主の子とされるのは、兄弟として横並びに並ぶのではなく、系譜として縦に並ぶとも考えられるのである。そうすると、例えば建御名方が事代主の弟だとすれば、その神統譜に事代主だけが記され、建御名方が省かれるということも十分ありえるであろう。もっとも吉田大洋『謎の出雲帝国』では出雲神族の富氏の系譜でもアジスキタカヒコネノ命、コトシロヌシノ命、タテミナカタトミノ命はオオクニヌシノ命の子供で兄弟となっている。帳尻合わせをするためには、アジスキタカヒコネとコトシロヌシを父子とし、国譲りに出て来るオオクニヌシは、十七代いる中のアジスキタカヒコネのことであるとしなければならない。
 建御名方命は『日本書紀』には出てこないが、『先代旧事本紀』には登場する。また、『日本書紀』では国譲りのところで「不服はぬ者は、唯星の神香々背男」と香々背男が出てくるが、『古事記』では香々背男は出てこない。ある意味、建御名方=香々背男とも解釈できるが、大和岩雄『信濃古代史考』によると、応永十五年(1408)十月朔日の奥付のある、常陸国瓜連の常願寺所蔵『日本書紀私鈔』の「巻二星神香々背男」の条で、香々背男・天津甕星の亦の名を建御名方神と書かれているという。

 大和朝廷によって出雲神族の祖神がクナトノ大神から大国主に代えられてしまったように、諏訪ではクナトノ大神が建御名方に代えられてしまったことが考えられる。あるいは、本宮の摂社に大国主が祀られているから、クナトノ大神が大国主に代えられ、その子の建御名方が主神に据えられたということかもしれない。建御名方命が諏訪に入ってきた時、当然自己を祭神とすることはなかったし、出雲では大国主は重要な存在ではなかったというのであるから、諏訪に第二出雲王朝を築こうとした建御名方は、祖神であるクナトノ大神を祀ったはずである。後世の人が建御名方も祭神に加えたことは当然ありえるが、諏訪の出雲神族にとってクナトノ大神こそ主祭神であったと考えるべきであろう。その主祭神の位置が大和朝廷の圧力でクナトノ大神から建御名方命に代えられたとすれば、ある意味では建御名方は大和朝廷から持ち込まれた神ともいえるが、ミシャグチ神が大和朝廷によって持ち込まれた建御名方に代えられてしまったという言い方になると、そこでは出雲神族というものがスッポリ抜け落ちてしまうのである。
 主神がクナトノ大神から建御名方命に代えられてしまっただけでなく、その建御名方外しも金刺氏・守矢氏連合によって行われていったのかもしれない。それに対する出雲神族の反撃が、『古事記』における建御名方命の記載だったとも考えられる。『古事記』編纂にあたっては、太安万侶にとって同族の金刺氏の意向よりは天武天皇の意向の方がはるかに重要であったろう。吉田大洋『謎の出雲帝国』によれば、壬申の乱の時、三輪高市麻呂や出雲臣狛などの出雲神族が天武天皇側に立って大いに活躍しているという。さらに、天武天皇が定めた八色の姓の最上位の真人を賜った氏族の十三氏のうち、出雲神族系は継体天皇の子では椀子皇子後裔の三国公、中皇子後裔の坂田公、?皇子後裔の酒人公、宣化天皇の子では上殖葉皇子後裔の丹比公と猪名公で、さらに当麻公も用明天皇の子麻呂皇子を祖とするというが出雲神族系とみられるという。吉田大洋氏は残りのうち五氏はヒボコ系であり、完全にヒボコ系と出雲神族系が独占しているとするが、富氏談によればこの時ヒボコ族が出雲神族に天武支援を頼み込んできたのだという。出雲神族が諏訪大社の神として再び建御名方命を強調しようとして天武天皇に働きかけたとしたら、天武天皇がその要請を聞き入れた可能性は十分あり得る話といえる。吉田大洋氏は天武側だった多氏系の小子部連・大分君も親出雲神族派とみている。それに対して、『日本書紀』に建御名方命が載らないのは、それが持統・藤原系の史書だったからであろう。欽明天皇と天智・天武の関係が問題なのかもしれない。少なくとも、天智は伝えられている系譜通り、欽明天皇とつながっていたのであろう。

 大和岩雄『信濃古代史考』によれば、ミシャグチ神は諏訪(109社)を中心に信濃の各地で祀られているが(全県で675社)、今井野菊氏の調査によると、100社以上の県は静岡県233社、愛知県229社、山梨県160社、三重県140社、岐阜県116社であるという(大和岩雄氏は100社以上の県のうち滋賀県には228社あるが、ほとんど「大将軍社」で、一般の石神信仰が大将軍信仰になったものとして、ミシャグチ信仰のなかには入れていない)。長野県に接する県は、新潟・富山・群馬・埼玉・山梨・静岡・愛知・岐阜だが、ミシャグチ信仰は新潟・富山には全くなく、また、群馬県67社、埼玉県44社、山梨県160社は、諏訪狩猟神「千鹿頭神」と重なった数だから、ミシャグチ神は隣県でも静岡・愛知・岐阜に多く分布しているといえるという。それに三重県を加えた地域が、長野県を除くとミシャグチ神信仰の盛んだった所ということになる。ところで、ミシャグチ社は新潟・富山には全くないということであるが、諏訪神社が一番多いのは長野県ではなく新潟県で、愛知県・三重県はミシャグチ社が多いのに対して諏訪神社はきわめて少ないという。ただ、戸矢学『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』によれば、神社本庁の『全国神社祭祀祭礼総合調査』でみると、「諏訪」が社名に付いているものは本社・境内社の全国合計が3124社で、そのうち新潟県が959社、長野県が421社で突出しており、それに群馬143社、福島142社、山梨141社、埼玉122社が続く。さらに、千葉98社、静岡94社、岐阜93社と続き、愛知県は58社と石川県の47社より多く、特に少ないというわけではないが、三重県は8社で極めて少ないといえる。
 新潟県と三重県は諏訪神社とミシャグチ社において対極的な関係にあるともいえるが、諏訪神社に関していうと、戸矢学氏の本のデータでは、一般に近畿周辺は兵庫20社、滋賀10社を除き一桁台であり、全国的に見ても少ない地域になっており、一番少ないのは奈良県の1社である。これは、もし建御名方命が大和朝廷によって諏訪に持ち込まれた神である、あるいは多氏が諏訪の神を官社として中央での地位を高めるために作られたものであるとすると、近畿地方に建御名方命を祭神とする形で、もっと諏訪神社があってもいいという話になるのではないだろうか。近畿地方に諏訪神社が極めて少ないということが、建御名方命が大和朝廷によって諏訪に持ち込まれた神ではないということを示しているともいえるのである。

 建御名方という神名については、阿波に結びつける説がある。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)によると、本居宣長が阿波国名方郡名方郷にある多祁御奈刀弥神社は奈の下に方の字が脱けたのではないかとして、建御名方神と関係があるのではないかと『古事記伝』に書いてあるという。ただ、建御名方命の大元が阿波の名方の多祁御奈刀弥神社にあるとすることには問題がある。多祁御奈刀弥神社では諏訪の南方刀美神社は当社から移遷されたもので、当社こそ元諏訪とするのであるが、その時期が社伝によると、『古事記』より後の宝亀十年(779)とされているのである。なお、ブログ「空と風」によれば、『阿府志』には、「多祁御奈刀弥神社は諏訪に在り諏訪大明神也。大己貴命の御子也。御母は阿波の高志の沼河姫天水塞比売なりと云えり。」「崇神帝の朝に素都乃美奈留命を高志の深江の国定に定む。其の所、南海の内に美奈刀(みなと)生まれ給ふ。」「此の御名方命は、即ち、阿波国の諏訪の里の諏訪の神也。高志の庄は、元名西郡高志の郷にして、後世、麻植郡の或一小郡を加へたるを以て、今の牛島村なる高志良(こしら)と唱う地なるべし。」「水塞姫神は、名西郡高志の郷、現今は高原村の内往古は寒村(せきむら)といへるを中古にいたり堰村とも書きたるもの也。則ち、高原村の内字関傍示(せきぼうじ)に水堰姫(みなせきひめ)の神を祭れる旧跡あり。」「社伝記ニ、代光仁(こうにん)帝(第四十九天皇・709〜782)ノ御宇、宝亀(ほうき)十年(779)信濃國諏訪郡 南方刀美神社名神大、阿波国名方郡諏訪大明神ヲ、移遷シ奉ルとあり」と記されているが、上記の高志郷旧跡は現在、高志沼河姫を御祭神とする吉野川市の杉尾神社ヘ移され、そこにこの南方刀美神社移遷の社伝記があるが、『阿府志』のいう「社伝記」がこれを指すのか、同様のものが多祁御奈刀弥神社にもあったのかは不明(調査中)であるとする(http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/55289922.html)。
 建御名方を多祁御奈刀弥神というより、それが存在する名方という地名から作られた神名であるという説もある。建御名方の建と富と御は敬語として附加されたもので、名方は地名で阿波の国名方郡ではないかとし、その名方郡名は筑前灘県(ナアガタ)より来たもので、そこは安曇氏族の有力なる一拠点であり、建御名方が名方の地名を負うのは、妃八坂刀売命が安曇氏の女という縁故より安曇氏の奉ずる処となり、その地名を負うようになったのではないかという大田亮氏の説を、大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)が紹介している。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)も、名方郡の和多津美豊玉姫神社と天石戸別豊玉姫神社も安曇氏にかかわる式内社であり、『延喜式』神名帳では豊玉姫の神社は阿波だけにあるが、同じく海神綿津見命の娘で玉依姫の神社(玉依比売神社)も信濃だけにあり、安曇連にかかわる「名方」を神名とする神社と、豊玉姫と玉依姫を祀る神社が阿波と信濃のみにあることを、偶然の一致と見るわけにはいかないとする。
 大田亮氏の説では、その妃が安曇氏の女であることから安曇氏と関係する阿波の国名方郡から建御名方の神名はきたということであるが、そうすると建御名方という神名が作られる前から八坂刀売命を妃とする神がいたということであり、その神の建御名方以前の神名は何と言い、誰が奉斎していたのかが問題になる。もし諏訪原住民の神であるとすれば、大和朝廷側の女を妃とするような神は諏訪原住民の神でも主神といえるような存在だったのではないだろうか。そうすると、洩矢神やミシャグチ神は今も伝わっているのであるから、洩矢神あるいはミシャグチ神は諏訪原住民の主神といえるような神ではなかったということになる。また、洩矢神やミシャグチ神が諏訪原住民の主神であったなら、神名が建御名方神に変えられてしまった神は諏訪原住民の神ではなかったという可能性が考えられるわけである。建御名方という神が作られ、その時にその妃が安曇氏の女である八坂刀売命とされたということも考えられるが、建御名方という神名もその妃も安曇氏と関係するとすれば、安曇氏に傾き過ぎた話になるのではないだろうか。諏訪に関係するのは安曇氏よりは物部氏や多氏であろう。とすれば、少なくともどちらかには物部氏や多氏と関係する神名が付けられてもいいのではないだろうか。また、信濃の安曇氏が阿波から来たのだとすれば、阿波では豊玉姫を祀っていたのであるから、信濃でも玉依姫ではなく豊玉姫を祀るのではないだろうか。少なくとも、豊玉姫も信濃で祀られていなければならないのではないだろうか。
 建御名方命の妃の八坂刀売命については、八坂彦命と結びつける説もある。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)によれば、八坂刀売命を安曇系海神の女とする説が有力だといっても、「八坂」という名は安曇氏系には見当たらない。それに対して、『上宮御鎮座秘伝記』『諏方上宮神名秘書巻』は、八坂刀売命を『旧事本紀』天神本紀に載る天孫降臨供奉三十二神のなかの八坂彦命の後裔とするが、天神本紀には「八坂彦命、伊勢神麻積連等祖」とあり、宮地直一は『和名抄』に伊勢国多気郡と信濃国伊那郡・更科郡に麻積郷があることから、八坂刀売命を八坂彦命の後裔とする説は「単なる神名の共通による学者の臆説たるに止まらないで、相当合理的根拠を有するといひ得る」と述べているという。八坂刀売命が麻積氏から来ているとすれば、諏訪大社の祭神が安曇氏に偏るというわけではないということになる。ただ、諏訪と安曇氏の関係がそんなに深くないとすれば、なぜ主神の神名が安曇氏と関わるのかという謎は残る。安曇氏と諏訪の関係がそんなに深くないということが、逆に安曇氏と関わる神名の方が抵抗が少なく、大和朝廷にとって都合が良かったということなのであろうか。
 もっとも、安曇氏は諏訪大社と深く関係していたということもあるのかもしれない。方位線的にみると、安曇氏と関係の深い穂高神社と上社前宮本殿が西北60度線をつくっている。また、明神岳の南麓の明神池のところに穂高神社奥社があり、奥穂高岳山頂に嶺宮があるが、明神岳・前穂高岳・奥穂高岳の西北30度線上に下社春宮・秋宮が在る。一番正確なのは明神岳と下社秋宮の方位線であり、春宮の西北30度線は明神岳と前穂高岳の間を通り、前穂高岳の外に奥穂高岳がくる。そして、子持山のところで述べたように守屋山と群馬県の武尊山(保高山)が東北45度線をつくるわけである。

  穂高神社―前宮本殿(E0.035km、0.04度)の西北60度線
  明神岳―下社春宮(WO.420km、0.54度)―下社秋宮(W0.028km、0.04度)の西北30度線
  奥穂高岳―下社春宮(WO.443km、0.55度)―下社秋宮(W0.890km、1.08度)の西北30度線

 大和岩雄氏によると伊勢と信濃を結びつける八坂―麻積は、阿波とも結びつき、『延喜式』神名帳の麻殖郡の条には、名神大社の忌部神社が載り、注に「或号麻殖神、或号天日鷲神」とあるが、この天日鷲神は伊勢国造の祖であり(『旧事本紀』国造本紀)、伊勢の麻積連は伊勢神宮の神衣を織る職掌だが、このように、阿波の麻殖と伊勢の麻積は、天日鷲命を介して関連性をもつとする。
 麻積氏は伊勢神宮を介さずとも、阿波と結びついているともいえる。『古語拾遺』の天岩戸に登場する長白羽神(ながしらはのかみ)は、神麻続機殿神社で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻績部の祖神とされ、天日鷲命の子で別名八坂彦命ともされるである。平田篤胤『古史成文』には「爾科天日鷲命而。種穀木。令作白和弊。科長白羽命而。種麻。令作青和弊。」「故其天日鷲命者。亦云天日鷲翔矢命。産巣日~之御子。天底立命亦名角凝魂命。之子。天手力男~亦名天石戸別命。亦名伊佐布魂命。亦名明日名門命。之子。粟國忌部。多米連。天語連。弓削連等之祖也。次長白羽命者。亦云天白羽命。亦名天物知命。亦名天八坂彦命。天日鷲命之子。~麻績連等之祖也。」とある。麻績氏は阿波の忌部を通じても阿波と結びつくわけである。そうすると、安曇氏と麻績氏に共通する場所として阿波があったともいえる。
 もっとも、阿波は分かるとしても何故名方なのかという疑問が生じる。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、名方郡の隣の麻殖郡の「天村雲伊自波夜比売神社二座」について、吉田東伍は「信濃諏訪神系に建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるいは、伊自波夜比売神に由あり」と書き、一方、麻殖郡の郡名の由来について『古語拾遺』は、神武天皇の命で天富命(忌部の祖)が「天日鷲命の孫を率いて、肥饒地(よきところ)を求めて阿波国」に赴き、「穀・麻の種を殖えしむ。其の裔、今彼の国に在り(中略)所故に郡の名を麻殖と為る縁也」と書くという。阿波であったとしても、麻績氏と結びつくのは麻殖といえる。それからいえば、建御名方神ではなく建御麻殖神でもよかったことになるし、建御名方の孫に伊自波夜比売神があり、麻殖郡に天村雲伊自波夜比売神社二座があるのであるから、伊自波夜比売神が麻殖郡と結びつくということは、建御名方神ももともとは麻殖郡と結びつく神だった可能性もあることになる。
 建御名方の神名に関係する地名としては、名方郡の南に接する勝浦郡・伊賀郡・海部郡の総称としての南方三郡がある。すなわち、名方ではなく御名方であり、それは南方三郡から来たとも考えられるわけである。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、諏訪大社は『延喜式』に南方刀美神社と記され、それより古い『続日本後』にも南方刀美神とあり、この神名「南方」は阿波の「南方」と関係あるだろうともする。この南方三郡には、勝浦町の事代主神社や、大国主命を祭神とする阿南市長生町宮内の八桙神社など、出雲神族関係の神社も多い。建御名方の神名が南方三郡からきており、そこには出雲神族が住んでいたとすれば、阿波の出雲神族と関係する南方から建御名方の神名を作ったということは、諏訪にも出雲神族が住んでいたということが考えられる。諏訪にいたのが縄文時代からの諏訪原住民と大和朝廷の関係者だけだったとすれば、建御名方の名が阿波から諏訪に来たとしても、建御名方を出雲の神に結びつける必要性はないように思える。建御名方が出雲の神に結びつけられるのは、諏訪に出雲神族がいたか、大和岩雄氏は注目していないが、阿波において建御名方神がすでに出雲神族と結びつく神であったかであろう。
 多祁御奈刀弥神社についても、『阿府志』の社伝に大己貴命が出てくるので、まったく出雲神族と関係ない神社とはいえない。勝浦町に事代主神社があるのに対して、阿波郡の阿波市(旧市場町)伊月にも事代主神社があり、多祁御奈刀弥神社はその二つの事代主神社の中間に位置するということから、地理的にいっても多祁御奈刀弥神社が出雲神族と関係があった可能性は十分考えられる。上古の阿波にはアイヌ人、天孫族、海部(アマベ)、出雲族が住んでいたが、なかでも出雲族が特に多かったので、阿波に出雲の神を祀る神社が多いともいわれるようである(http://www7b.biglobe.ne.jp/~rakusyotei/kojiki-18.html)。

 阿波と出雲神族との関係であるが、阿波の歴史を研究する人の中には大国主一族を元々阿波の人で、出雲神を阿波国神と見なす人も多いようである。そのような視点に立つなら、出雲の国譲りといったことも、阿波の国の小さな地域で起こったことで、大和朝廷が全国を併合していく中で、その際生じた軋轢・対立は雲散霧消していくような、小さな問題だったともいうことになる。しかし、出雲神を阿波国神とするような見方は、出雲神を祖神とする出雲の富氏のような存在を説明できないともいえる。国譲りが阿波で起きたことであり、富氏の祖先は阿波から出雲に行ったのだとすれば、出雲の国譲りがあったという稲佐浜に立った富當雄氏が、今でも血が逆流するというようなことはありえないのではないだろうか。稲佐浜は国譲りの現場でもなんでもなく、出雲に行った人間たちにとって国譲りは、阿波で起こった遠い出来事でしかなかったであろう。また、美保神社の青柴垣の神事は、コトシロヌシが天孫族への呪いの言葉を残し、海へ飛び込んで自殺した、そのときの模様を再現したもので、富氏は唇をふるわせながら、「青柴垣の神事は、天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ、屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない」(『謎の出雲帝国』)と吉田大洋氏に語ったという。このような出雲の出雲神族の怨念も説明できないのではないだろうか。
 出雲神が阿波国神である根拠としてあげられる、式内社としての事代主神社は阿波に二社があり、あとは大和に八重事代主神社があるだけで、出雲には一社もないということも、富當雄氏によれば「呪いを残して死んだコトシロヌシは、天孫族から非常に恐れられていた。そうした者を祀らせてくれるわけがないだろう。」(吉田大洋『謎の出雲帝国』)ということなのである。国譲りがあった出雲から遠く離れた阿波だから、事代主神を祀ることもできたともいえる。富氏の祖先が阿波から出雲にいったとするなら、出雲神族は北のほうから移動してきたという富氏の伝承がどうして出てきたかも問題になる。
 阿波には出雲族が外から来たという伝承もあるようである。勝浦町沼江の事代主神社は、阿波南方三郡(勝浦・那賀・海部)に勢力のあった長氏(ながうじ)の始祖とされる事代主命を祭神とするが、 神戸の『長田神社史』によると、社地の近くに、長田という小字が残っており、おそらく、摂津国の長田から、事代主命を始祖とする長柄首、あるいは長我孫の一族が阿波に入り、長直と称して、開拓にあたったものと説明しているという(http://www.genbu.net/data/awa2/ikui_title.htm)。また、阿波市(旧市場町)伊月の事代主神社の伝承では、一説に、安寧天皇の伯父にあたる多臣の子孫が出雲族を率いて阿波に土着し、祖神である事代主命と、祖母五十鈴依媛命を奉斎したという。また、吉野川の対岸(南岸)には、粟島という地があり、忌部氏が開拓して、粟を作った場所で、阿波の地名の起こりであり、事代主命の后・阿波津媛命を祀った八條神社が鎮座していた。その八條神社は、吉野川改修工事のため、現在は八幡の八幡神社境内に遷座しているという(http://www.genbu.net/data/awa2/kotosiro_title.htm)。阿波の出雲族が多氏に率いられてきたということは、疑問の余地がある。実際に多氏によって出雲族が率いられて来たのだとすれば、率いてきた多氏の人物の名がもっと具体的な形で残されているのではないだろうか。また、忌部氏の阿波津媛命を后とするのは事代主ではなく、多氏と結びつく人物・神であろう。出雲神族なら分からなくもないが、多氏が事代主命と五十鈴依媛命を祀るのも少し変な話である。元々の話が伊月の出雲神族と粟島の忌部氏との間の話であったのが、そこに多氏が後から付け加えられたということなのではないだろうか。伊月の事代主神社の伝承に多氏がでてくるのは、阿波と信濃には強い関係があるとすれば、信濃の事情が阿波に逆に持ち込まれることが生じることも考えられるであろう。
 出雲神族が東北から出雲に移動してきたとするなら、さらに四国にも移動していったということは考えられるであろう。その場合、諏訪の原住民が守矢氏であったように、阿波の原住民が忌部氏だったのであろうか。阿波市(旧市場町)伊月の事代主神社の伝承からはそうとも受け取れる。ただ、諏訪と違うのは守矢氏が縄文的原住民性を色濃く残しているのに対し、忌部氏は余りにも天孫族的であるということがある。忌部氏も他所からやってきたということではないだろうか。また、もし建御名方命が出雲神族であり、妃の八坂刀売命が大和朝廷側の女だとすれば、この場合は建御名方命が八坂刀売命を妃にしたからといって、建御名方命が後から来たことにはならない。同じことが、事代主が阿波津媛命を后としたという八條神社の伝承にもいえるかもしれないわけである。

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御射山社

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、天保九年(1838)に矢島癆V丞が作成した『御射山社神楽殿再建に付願書下書』に「御射山は神代の初めに、建御名方神が初めて来た土地である。」とあるという。御射山に神楽殿を再建するための高島藩に対する陳情書であるから、高島藩藩主が大祝と同族であることを考えると、高島藩藩主と御射山社が浅からぬ縁があることを強調しようとしたのかもしれないが、古くからそのような伝承があり、改めてその伝承を強調したのかもしれない。
 出雲にも御射山という地名があるという(http://kamnavi.jp/log/koujinvry.htm)。荒神谷遺跡の北方にある出雲国風土記の佐支多の社とされる佐支多神社の南、山陰本線の線路の北は御射山と言う地名で、佐支多神社の東側は中州という地名ということである。付近には諏訪神社もあり、佐支多神社も健御名方命、八坂戸賣命を祭神としている。御射山という地名は元々出雲にあった地名かもしれないわけであり、そうすると建御名方神が初めて来た土地に御射山という地名をつけるということもあり得るわけである。あるいは出雲の御射山は諏訪からきたのかもしれないが、出雲の御射山周辺に諏訪神社や健御名方命を祀る佐支多神社があるということは、諏訪の御射山が出雲神族と結びつく土地だったから、出雲にももってこられたということであろう。諏訪でも御射山は出雲神族と結びつく場所といえるかもしれない。

 霧訪山山麓に鎮座し、信濃国二ノ宮とされる小野神社と矢彦神社は、境内を接して並んでいる。小野神社の社伝によると(http://www.genbu.net/data/sinano/ono_title.htm)、建御名方命が科野に降臨し、諏訪へ入ろうとしたが、洩矢神がいたために入れず、この地にしばし留まった後、諏訪へ移動したその旧跡に、崇神天皇の御代創祀されたのが当社という。また、坂上田村麻呂の戦勝祈願がかなったので、桓武天皇の勅によって社殿が造営され、四隅に御柱を建てるようになったという。矢彦神社御由緒では(http://www.genbu.net/data/sinano/yahiko_title.htm)、遠い神代の昔、大己貴命は御子、事代主命、建御名方命をしたがえて、国めぐりをしつつ国造りの神業にいそしまれたが、その折しばらくの御在所をこの里の彌比古澤の須賀の地に定められた。また、日本武尊が、東征凱旋の時たち寄られた。成務天皇の御代、勅使参向奉幣され、勅使の子孫が永く本社に奉仕したが、 欽明天皇の御代、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿におまつりし、両殿を須賀の宮と称し、天香語山命と、熟穂屋姫命を南殿におまつりし、矢彦神社としてのかたちがととのった。天武天皇の御代の白鳳二年(674)、奉幣使高根使主(たかねのおみ)を迎え勅使殿を創建し、このとき新宮を造営し正遷宮祭と御柱祭が七年毎の式年祭と定められた。また伊勢の両皇大神を境内にまつり、日本武尊の御狩場のあとに春宮、御射山の両社を建てた。桓武天皇の延暦二十二年(803)征夷大将軍坂上田村麿は、安曇郡の凶賊を討つため、本社に祈願し、このとき剣と弓を納め、また別当神光寺を開基し、神社境内に本地堂を建立したという。
矢彦神社の由緒では、建御名方命ではなく、大己貴命が主役である。これは、『日本書紀』の岐神が東国平定の先導役になったという話とも結びつく話であるが、出雲でもクナトノ大神は東国を開拓した神とされている。矢彦神社・小野神社がクナトノ大神祭祀と密接に関係する神社であったのが、後にクナトノ大神が大己貴命に変えられたということなのかもしれない。そうすると、藤池の弁財天はもともとはアラハバキ神が祀られていた可能性がある。また、欽明天皇の時、大己貴命と事代主命を正殿に、建御名方命と八坂刀賣命を副殿に祀ったというのは、建御名方命を諏訪上社本宮の主神にし、大国主を摂社にしたので、出雲神族の反発を抑えるために、矢彦神社では大巳貴を主神にして平衡をとろうとしたのかもしれない。
 小野神社と矢彦神社の間には、一応小野神社境内とされるが弁才天を祀る藤池がある。あるいは、もともとはアラハバキ神が祀られていたのかもしれない。近江雅和『記紀解体』によれば、新潟県の弥彦神社でも、神社の記録では神社の一角に「アラハバキ門」があるという。もともとはクナトノ大神とアラハバキ神が祀られていたが、それが祭神を変えられながら小野神社と矢彦神社という二社形式になっていき、その過程でクナトノ大神祭祀は抹殺され、アラハバキ神祭祀はかろうじて藤池の弁才天社として残ったということなのかもしれない。

 小野神社の社伝では、そこから建御名方命は諏訪に入ったということになるが、小野神社・矢彦神社と御射山社が西北30度線をつくる。その方位線上に霧訪山があり、小野神社・矢彦神社も霧訪山の西北30度線上に位置する。また、小野神社・矢彦神社にはそれぞれ摂社として御射山社があるが、小野神社御射山社と矢彦神社御射山社も東北30度線をつくり、その方位線上に小野神社・矢彦神社があるといえる。なお、小野神社御射山社に注目すると、その西北45度線が守屋山中峰と東峰の中峰よりを通る。

  霧訪山三角点(E0.066km、1.92度)―小野神社藤池―上社御射山社(E0.154km、0.34度)の西北30度線
  小野神社御射山社―矢彦神社御射山社(E0.081km、1.61度)の東北30度線
  小野神社御射山社(W0.117km、4.52度)―小野神社藤池―矢彦神社御射山社(W0.036km、1.48度)の東北30度線
  小野神社御射山社―守屋山東峰(E0.196km、0.74度)の西北45度線

 生島足島神社の伝承では、生島足島神社から建御名方命が諏訪の地に逃れる途中、今の地に鎮座していた生島大神・足島大神に来る日も来る日も、米粥を煮て献じたという。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、生島足島神社のある阿宗郷は科野国造や物部氏にかかわる地であり、たぶん、六世紀代に、国土の守り神として難波の生島・足島神(生国・咲国神)を信濃の地に遷座したのであろうといい、皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、谷川健一氏も科野国造の祖である多氏もしくはその同族によって信州に持ち込まれたと推測しているという。また、生島・足島というのは元々は海辺で生活する人々が島々の精霊を讃えた名であるという岡田精司説を紹介しながら、大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、社殿が建てられる以前は社殿が建っている神島そのものが敬拝されていたが、これは単なる土地ではなく、島が信仰対象になっていたということなのかもしれないとして、生島足島神社のある小県郡には海部郷があり、海野、塩田、塩川や「ワタツミ」の和田など、海とかかわる地名が多く、現在も、池の中の島に神殿があって、難波の海の「八十島祭」の主祭神としての性格をとどめており、信濃に入った海人たちの東国開発のための国魂として、生島足島神社は祀られたのであろうという。そして、生島・足島の原郷の難波は安曇氏の本拠地であり、生島足島神社は安曇氏と関係があるという。そうすると、信濃の安曇氏は阿波からではなく、難波から来たことになる。
 生島足島神社が安曇氏と関係があるかどうかは別として、大和朝廷の勢力より出雲神族の方が信濃に早く来ていたとするなら、鎮座していた生島大神・足島大神にやってきた建御名方命が米粥を煮て献じたというのは、話が逆なのではないだろうか。生島足島神社の地には、元々は出雲神族が居住していたとも考えられるのである。現在、出雲式池心宮園池といわれる神池に囲まれた神島に、上宮と称される生島足島神社が建ち、東鳥居・西鳥居を結ぶ道の反対側に下宮と称される諏訪神社がある。生島足島神社は本殿内部の御室には床がなく、土間を生島大神・足島大神の御霊代・神体とするが、諏訪上社本宮も拝殿背後の土地である神居を神体としており、生島足島神社は上社本宮の神居の上に覆屋としての社殿を建てただけともいえる。上社本宮や大神神社と共通する祭祀形態ともいえるのではないだろうか。境内に「主」といわれる大蛇が棲むという伝承も、生島足島神社が古くは龍蛇神系の神社だったことを示しているとも考えられる。
 生島足島神社が前なのか諏訪神社が前なのかは別にしても、生島足島神社は建御名方命と関係の深い神社で、そこから建御名方命は諏訪に入ったとされるが、生島足島神社と御射山社が南北線をつくる。すなわち、そこから建御名方命が諏訪に入ったという伝承のある小野神社と生島足島神社が、それぞれ御射山社と方位線を作っているわけである。

  御射山社―生島足島神社(W0.035km、0.04度)の南北線

 『週刊 日本の神社 No.54』によれば、夏至の日には太陽が生島足島神社の東鳥居の真ん中から昇り、冬至の太陽は西鳥居の真ん中に沈むという。すなわち、東鳥居と西鳥居を結ぶ線はほぼ東北30度線をつくるということになるが、『週刊 日本の神社 No.54』に載っている地図をみると、境外摂社で建御名方富命・八阪刀賣命を祭神とする山宮神社がその延長線に位置するように見えた。生島足島神社からそう離れてもいないようなので、生島足島神社を参拝した時、山宮にも行ってみようと思い、行き方を神社で尋ねたところ、親切に住宅地図まで持ち出して説明してくれたのであるが、本当に山の中に在って軽装ではとても行けないし、歩いて一時間以上もかかるという。『週刊 日本の神社 No.54』の地図は山宮社とお旅所が逆になっていたのだ。後でグークル地図を見ると、御旅所も山宮も載っており、御旅所の正確な位置は分かったが、残念ながら御旅所は生島足島神社の東北30度線上にはなかった。ただ、生島足島神社と御旅所は東北45度線を作っている。

  生島足島神社―生島足島神社御旅所(E0.012km、0.57度)の東北45度線

 能登の石動山の猿田彦はクナトノ大神がすり替えられたものではないかとし、東北から出雲に移動する途中、出雲神族は石動山あたりに住んでいたのではないかとした。また、諏訪の下社春宮や先宮神社が石動山の西北45度線上にあることを書いたが、生島足島神社もより正確には山宮であるが石動山の西北30度線上に位置する。一方、下社春宮や先宮神社がより正確ではあるが、御射山社も石動山と西北45度線をつくる。それは上社前宮にもいえ、石動山と前宮の西北45度線を両限とするなら、その間に下社春宮・秋宮や先宮神社、御射山社が在ることになる。藤島神社も含まれ、八剣神社も元々は高島城本丸内にあったといい、そうすると八剣神社もその間に在ったことになる。ただ、御射山社と下社・先宮・前宮は方位線をつくらない。

  石動神社―生島足島神社(W2.73km、1.18度)―生島足島神社山宮(W1.082km、0.46度)の西北30度線
  石動山―上社前宮(W3.178km、1.19度)―御射山社(W1.769km、0.62度)の西北45度線

 現在の御射山社は諏訪社と国常立命社からなるが、国常立命社はもともとは虚空蔵堂であった。栃木県では虚空蔵堂が星の宮になっており、虚空蔵堂はもともと星信仰の場所だったとも考えられるが、同じように御射山社の虚空蔵堂も、もともとは星信仰と関係していたのではないだろうか。常陸国瓜連の常願寺所蔵『日本書紀私鈔』の「巻二星神香々背男」の条で、香々背男・天津甕星の亦の名を建御名方神と書かれていた。また、「常陸の星信仰と加波山」のところで、千葉県東庄町出石の星宮神社は天御中主の他に、八また彦・八まち姫を祭神とし、吉田大洋『謎の出雲帝国』によると出雲神族の富氏の伝承ではヤチマタノ神はクナトノ大神とされ、出石の星宮神社と岐神を祭神とする息栖神社が西北45度線を作っていたが、天御中主を祭っていた神社に、後から八また彦・八まち姫が祀られるということは考えにくいことから、出石の星宮神社はもともと八また彦・八まち姫を祀り、星宮神社ということで天御中主も祭られるようになったと考えられ、岐神あるいは出雲神族と星信仰との関係が窺えるとした。建御名方命=星神であり、クナトノ大神=星神ともいえるわけである。栃木県岩舟町の三鴨神社では事代主命の他に建御名方命・香香背男命が祀られており、やはり出雲神族の神と星神の関係が考えられた。
 諏訪大社の七不思議の中に、「穂屋野の三光」というのがある。御射山祭の時 (インターネットをみると、終りの時とも正午とも記すものがあるが、現在の最終日は午前中には終わってしまうので、同じことともいえる)、太陽、月、星を同時に見ることができるというものである。これは、星信仰だけでなく日月星三光信仰の名残なのかもしれない。
 御射山社は、やはり日月星三光信仰とかかわる福井県の舟津神社と東西線をつくる。石動山と舟津神社が東北60度線を作るとしたが、石動山と御射山社も西北45度線をつくるわけである。その西北45度線上に先宮神社があったが、先宮神社ももう一つの日月星三光信仰と関係する足羽神社と東西線をつくる。あるいはこれは、足羽神社と小野神社御射山社もしくは霧訪山との東西線と考えるべきなのかもしれない。霧訪山との東西でいえば、霧訪山を介して足羽神社も御射山社と方位線網で結ばれるわけである。

  王山62m標高点―御射山社(N0.094km、0.03度)の東西線
  足羽神社―霧訪山三角点(N0.642km、0.23度)―小野神社御射山社(N0.442km、0.16度)―先宮神社(S0.353km、0.12度)の東西線

 現在の御射山社では三輪社は摂社となっているが、神長官守矢史料館蔵『復元模写版上社古図』(『伝天正古図』)(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/ooyotu.htm)では三輪社と虚空蔵堂が並んで建ってる。三輪社と虚空蔵堂の組み合わせは、栃木県の日月星の本地仏を虚空蔵菩薩とする大平山神社と同じであり、その点からも御射山社が日月星三光信仰と関係があることがいえるかもしれない。御射山社における虚空蔵菩薩と国常立命の関係について、宮地直一『諏訪史』第二巻には、山宮の本地たる虚空蔵仏の崇拝に起り、山宮を一社の大元とする意味の許に、之を大元尊と名づけ、大元尊神が真言神道より吉田神道にかけて国常立命とせらるるによって、遂に現在の社名を生むに至ったと述べて、虚空蔵菩薩を祀る国常立命社が本来の御射山に鎮まる山宮の神であるとの見解を示しているという(http://www.genbu.net/data/sinano/misayama_title.htm)。山宮の本地たる虚空蔵仏というのであるから、山宮の神とは虚空蔵菩薩の垂迹神ということになる。山宮神(虚空蔵菩薩の垂迹神)→虚空蔵菩薩→大元尊神→国常立命という流れを考えているわけである。また、山宮はもともとは虚空蔵堂の前身の一社のみだったと考えているようである。
 山宮のもともとの神が虚空蔵菩薩の垂迹神だとして、どのような神なのであろうか。明星天子の本地は虚空蔵菩薩とも、明星天子は虚空蔵菩薩の化身・応現ともいわれるが、明星天子は仏教の神であるから、山宮のもともとの神とはいえないであろう。また、『諏訪市史』上巻では国常立命の本地仏を虚空蔵菩薩としているというのであるが(http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/)、そうすると虚空蔵菩薩以前に山宮では国常立命を祭っていたが、それがやがて国常立命の本地仏である虚空蔵菩薩に代わったということになる。しかし、それでは宮地直一氏の大元尊神が真言神道より吉田神道にかけて国常立命とせらるるによって、遂に現在の社名を生むに至ったという説明は意味を持たないことになる。
 また、『諏訪市史』上巻では国常立命信仰を太陽信仰とするのであるが、そうすると御射山祭はもともと太陽信仰であったものが月星を加えて日月星三光信仰に変化したということなのであろうか。それに対し、山宮の神がもともと星信仰と結びつく神だったとすれば、虚空蔵菩薩が出てくるのもそんなに突飛なこととはいえないであろう。ただその場合、星信仰と結びつき、また諏訪大社とも関係の深い神とはどのような神なのかが問題になる。建御名方神が星神であったとしても、現在建御名方は別に祀られている。建御名方が国常立命に代えられ、国常立命には星神の性格だけが残って、建御名方は別に祀られるようになったとも考えられるが、建御名方は最初から別に祀られていた可能性も否定できない。
 山宮が山の神を祀るものだったとすれば、最初から二社だった可能性も出てくる。定村忠士『悪路王伝説』によれば、柳田国男の「郷土研究・小篇 盤次盤三郎」に「山の神を雙神とする例はアイヌばかりの慣習ではない。……奥州津軽の岩木山に住むと云う萬字錫杖の二鬼の如きも、男女陰陽の神では無いが、本来は山寺の盤次盤三郎と同じ伝説である。……岩木山が世に聞こえた名山である為に、卍字錫杖も夙くより人に知られ、……或は悪路王高丸などの荒蝦夷の物語に附會せんとする者があるけれども、結局山の神が二體であったと云う以上には此と云う捉え所も無い話である。」とあり、山の神は二体という信仰があるようである。三輪神社と虚空蔵堂があるということは、御射山にも古くは山の神は二体という信仰があったということなのかもしれない。その信仰は先住民のものだったかもしれないが、あるいは出雲神族がユーラシア大陸から北海道・東北を通ってさらに南下したとすれば、出雲神族の信仰だったかもしれない。あるいは、先住民・出雲神族に共通する信仰だった可能性もある。どちらにしても、三輪社ではないもう一つの社が虚空蔵堂に変わったということも考えられるわけである。また虚空蔵菩薩が入り込む以前の大平山に大神神社と剣之宮の二社があったこととも、共通する信仰だったのかもしれない。
 宮地直一氏の説のうち大元尊神→国常立命という流れはありえるとしても、虚空蔵菩薩→大元尊神という流れはそんなにはっきり言える事なのであろうか。虚空蔵菩薩と大元尊神を結びつけるための苦し紛れの説明のようにも受け取れてしまう。ただ山宮についていえば、虚空蔵菩薩とは関係なく大元尊神と結びついていた可能性はある。近江雅和『記紀解体』によれば、度会神道のあとを受けた吉田神道から吉川神道にいたるまで、変ることなく確実に受け継がれたのは、天御中主、国常立、ミケツ神の諸神はいずれも外宮の祭神である豊受大神の別名であり、さらに記紀の初めにでる天御中主と国常立は大元尊神と同一神とする教理であるという。そして、大元神・大元尊神はアラハバキ神であるという。宗像と同じ三女神が降臨したという宇佐の御許山は大元山であり、山頂にある比売大神を祀る宇佐神宮の奥宮は、現在大元神社と呼ばれており、また厳島神社は土地の人にオオモト(大本)さんとよばれているというが、厳島神社は市杵島姫を祀り、市杵島姫は弁才天であり、出雲神族では弁才天はアラハバキ神の裏信仰というのであるから、大元尊神=アラハバキ神ということは、出雲神族的にいっても成り立つともいえる。
 近江雅和『記紀解体』によれば、アラハバキ神がインドに入り、それが仏教に取り入れられ、さらに中国に渡って大元帥明王と訳されるようになったといい、大元帥明王法(通常帥の字は読まれず、たいげんみょうおうと読まれているという)は中国の皇帝だけが行うことのできる秘法でり、空海によって仁寿元年(851)以後、朝廷では正月八日から怨敵・逆臣の調伏、国家安寧を祈る大元帥御修法が行われたというが、大元帥明王=アラハバキ神なら出雲神族の秋篠氏と結びつく秋篠寺が大元帥明王法と深く関係するのもよく分かる。
 もし、山宮にはもともとから二体の神が祀られていたとすれば、それは三輪社とアラハバキ社が並んで祀られていたということかもしれないし、クナトノ大神とアラハバキ神が対であるということから、山宮では最初クナトノ大神とアラハバキ神が祀られていたのかもしれない。現在三輪社が摂社とされているということは、三輪社は諏訪社の建御名方命でも虚空蔵堂=大元尊神=アラハバキ神でもなく、もともとはクナトノ大神を祀っていたということが考えられる。おそらく、クナトノ大神社とでもいえる神社が三輪社とされたとき、祭神はクナトノ大神から大巳貴命に代えられたのであろう。それに対して、クナトノ大神が隠された後も、アラハバキ神祭祀は大宮氷川神社にアラハバキ社があったようにアラハバキ神祭祀は残るから、しばらくは三輪社とアラハバキ社が並んで祀られていたのであろう。皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、嘉禎四年(1238)十二月一日の『年中神事次第』には、御射山社の祭神について「御射山大明神ハ、東向ニ立脚、正一位諏訪南宮大明神ノ御母也」とあり、中世には御射山社に母神高志沼河姫命をまつっていたようだという。そうすると、かつては大巳貴命=大国主命と沼河姫命が祀られていたことが考えられ、それ以前には大巳貴命=大国主命とアラハバキ神、さらにそれ以前はクナトノ大神とアラハバキ神が祀られていたとも考えられるのである。御射山社ではクナトノ大神、その後は大巳貴命=大国主命祭祀が長く続き、諏訪社として建御名方命が入り込んできたのは、三輪社が摂社とされた時とも考えられる。ただアラハバキ社が虚空蔵堂となっていくためには、アラハバキ神自身に星神的性格がなければならないことになるが、クナトノ大神や建御名方神に星神的性格があったとすれば、アラハバキ神自身にも星神的性格があったとも考えられる。
 御射山社とアラハバキ神が関係ない場合、大巳貴命+建御名方命、沼河姫命+建御名方命というような形で最初は建御名方命は御射山社に入り込んだのかもしれない。それが大巳貴と建御名方が分けられて三輪社と諏訪社になり、沼河姫命+建御名方命の方は、分離せずに星神である建御名方命の性格が与えられて、やがて虚空蔵堂になっていったということも考えられる。それがさらに、多くの星を祀る神社の祭神が天御中主とされたように、御射山社では国常立に代えられていったということかもしれない。
 寒川神社のところで記したが、諏訪の出雲神族系の語り部には、建御名方命が寒川神社の祭神と語り継がれていたようであり、建御名方命が星神であり日月星三光信仰とも結びついていたとすれば、同じく寒川神社にも出雲神族によって星信仰や日月星信仰が持ち込まれた可能性がいえる。『週刊日本の神社 寒川神社』によると、室町時代に書かれたと推定される『相州一宮引着事』によれば、境内には十二王子、十二天、星祭宮、七曜堂、九曜堂、七聖宮といった神仏が祀られていたという。それをみると、星祭宮、七曜堂、九曜堂などの星信仰と関係のあるものも多く、寒川神社には星信仰があったというべきであろう。式内社の寒川神社に比定されている船橋市三山の二宮神社の神紋は亀甲に七曜紋、あるいは九曜紋とされるから、星信仰という点からも相模の寒川神社と下総の寒川神社のつながりがいえる。

 前宮と本宮の間に北斗神社がある。案内板には「寿命の神様 祭主は祢宜太夫で天御中主(北極星)を祀る」とあった。その名前の通り、星信仰と関係がある神社である。祭主の祢宜太夫とは上社五官の一人である。皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』では、上社の五官について次のように記す。神長は洩矢神の後裔。祢宜(祢宜太夫)は建御名方神の子・八杵命の子の子孫で、はじめ小出氏といい、十六世紀半ばに矢島氏になっており、その後、守屋信実が継ぐ。権祝は明神の御子・池生神の末裔で八島(嶋)氏、のちに矢島氏となる。擬祝は建御名方神の御子・彦神別神の神裔で小出氏のちに伊藤氏と改める。副祝は諏訪明神の子神・片倉辺神の後裔で、長坂氏。
 洩矢神の後裔の守矢氏を除けば、建御名方神の後裔が祢宜と擬祝の二氏、諏訪明神の後裔が権祝と副祝の二氏ということになる。諏訪明神の後裔とされる二氏のうち、権祝については、『信濃国高部故事歴』に「風の祝の風無神袋殿の蹟、建御名方富神の御子に池生神、其御子池若御子神にして其御子に矢島根神あり、皆国を造り御佐久知の神なり、其の神裔は世々土侯にして威勢ありて風の祝と称す」とあるといい(皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』)、ミシャグチ神の子孫であると同時に建御名方命の後裔となっている。建御名方命の後裔とされる擬祝についても、『信濃国高部故事歴』には「建御名方神ノ御子ニテ彦神別神アリ、十三柱ノ珍ノ御子ノ其一柱ニ坐セリ、神代ノ昔、父大神ヲ補佐シ奉リ 科野国ヲ造リ有功ノ神ニシテ則チ御佐久知ノ神ト称ヘ奉ル神ナリ古典ニ御佐久知ヲ開クノ義ナリトアリ則チ是ナリ」とあるといい、ミシャグチ神の子孫であると同時に建御名方命の後裔となっている。ただ、守矢氏は大祝と同じ神氏を名のる一方、建御名方命と戦った洩矢神の子孫であることを強調して、建御名方命の子孫であることには否定的であることを考えると、皆神山すさ氏の本からは建御名方命の後裔なのか分からない副祝を除いて、建御名方命の後裔を名乗る祢宜・権祝・擬祝は、出雲神族系なのであろう。
 北斗神社は前宮本殿と本宮の西北30度線上に位置している。また、守屋山東峰と東北60度線をつくっている。

  前宮本殿(E0.017km、0.92度)―北斗神社―本宮・硯石(W0.006km、0.77度)の西北30度線
  守屋山東峰―北斗神社(E0.115km、1.72度)の東北60度線

 神長官屋敷近くを流れる下馬沢川の上流に、諏訪七石の一つである小袋石がある。縄文時代からの磐座ではないかともいわれるが、小袋石をご神体とするかのように、その近くに、「上十三所」に含まれる磯並社がある。北斗神社は小袋石の北に位置するが、守屋資料館で見た『復元模写版上社古図』では、磯並社の横に日月社があった。北斗神社を加えると、上社周辺に日月星三光信仰があったともいえる。残念ながら小袋石と北斗神社は方位線をつくらず、北斗神社と南北線をつくるのは磯並山社である。また、磯並山社の西北30度線方向に御射山があり、御射山の大四御庵とは西北30度線を作るから、磯並山社が星信仰と結びついているとすれば、星信仰と結びつく御射山社と磯並山社は西北30度線の方位線をつくると見なすこともできる。磯並山社については、『高部故事歴』に「鎮座年代延暦ヨリ遥カニ前ニ磯並大神ノ神社造営之用材採取之時之ヲ祭ルト云」とあり、御柱用材を伐採する御小屋山の「御小屋明神」と同じではないかともされる(http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/isonamiyama.htm)。「御小屋明神」とはどのような神様なのかよくわからないが、御小屋山の山の神ということなのかもしれない。磯並山社にも山がつく。磯並山社がもし山神を祀っているとすると、石の祠が二つ並んでいるので、諏訪でも山神を雙神としていたのかもしれない。ただ、星信仰とは関係なさそうであるから、磯並山社と御射山社・北斗神社の方位線の物語性にも疑問符がつくことになるが、小野神社・矢彦神社と御射山社の西北30度線近くに小袋石・磯並山社があることは気になることである。

  北斗神社―磯並山社(E0.005km、0.33度)の南北線
  御射山社―磯並山社(E0.368km、2.06度)―小袋石±(E0.532km、2.99度)の西北30度線

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、権祝系図の風祝神正宜の時、寛和二年(986)花山院法皇が紀伊国熊野よりおしのびにて諏訪明神へ参宮され、この折、権祝風無神袋殿に御駐輦され、御座所を設けたといい、やはり上田市の大星神社(上田神社)にも、寛和二年に花山院法皇が同神社に参籠して神社号を「大法性大明神」と宸筆を賜ったとの伝えがあるという。大星神社はその名前からも、星信仰とも関係する神社ではないかとも思われるが、生島足島神社と東北60度線をつくる。これは下宮諏訪神社と大星神社の方位線と考えるべきなのかもしれない。

生島足島神社―大星神社(W0.141km、1.16度)の東北60度線

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風間神社・善光寺・建御名方富命彦神別神社

 御射山社と生島足島神社の南北線を北に延長すると皆神山があり、南北線をつくる。生島足島神社は現在上宮とされる生島足島神社と下宮とされる諏訪神社よりなるが、もともとは出雲神族の祀る聖地だったのではないかと考えたが、皆神山の熊野出速雄神社の祭神である出速雄命は、大本教のところで記したように、地元では建御名方命の三男とされている。
 この南北線をさらに北に延長すると、長野市風間の風間神社があり、この四社は南北線上に並んでいる。風間神社は式内社・風間神社に比定されているが、諏訪社であったものが元禄十年(1697)に風間大明神に改称されている。それ以前の天元二年(979)に、諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣され風間姓を名乗り、諏訪神を祀ったとも、風間神社から諏訪大明神に改めたともいわれる。もし、矢島忠直が風間神社から諏訪大明神に改めたという伝承が正しければ、現在の風間神社が式内社の風間神社ということになるのであろう。風間氏は平家滅亡のときに本領を失ったが、これが各地の風間氏の発祥となっているという。また、祢宜太夫矢島氏あるいは権祝矢島氏のどちらかと同族ということであれば、祢宜太夫矢島氏あるいは権祝矢島氏は出雲神族ということになる。
 風間神社は『日本書紀』の持統天皇五年(691)に「使者を遣わして、竜田風神、信濃の須波、水内等の神を祭らしむ」とあるうちの水内神ともされ、『三代実録』貞観二年(860)の「飄別神に叙位」の飄別神ともされている。はたして、現在の風間神社が式内社の風間神社なのか、『日本書紀』の水内神、『三代実録』の飄別神なのかは別にしても、平安中期には諏訪社としてあったということであり、さらに諏訪氏の庶流・矢島忠直が庄司として派遣されたということは、それ以前から諏訪氏あるいは出雲神族と関係のある場所であったとも考えられ、出雲神族系の神が祀られていた可能性もある。どちらにしても、出雲神族と結びつく御射山社・生島足島神社あるいはその下宮の諏訪神社・皆神山の熊野出速雄神社・風間神社が南北線上に並んでいるわけである。

  皆神山熊野出速雄神社―生島足島神社(W0.326km、0.87度)―御射山社(W0.292km、0.25度)の南北線
  風間神社―皆神山熊野出速雄神社(E0.166km、1.06度)―生島足島神社(W0.160km、0.30度)―御射山社(W0.126km、0.09度)の南北線

 大本教のところでは、皆神山と内宮、それに鳥海山が東北60度線を作ると述べたが、風間神社が外宮と、生島足島神社が伊雑宮とそれぞれ東北60度線をつくる。

  風間神社―外宮正殿(E0.544km、0.11度)の東北60度線
  生島足島神社―伊雑宮(W0.615km、0.14度)の東北60度線

 これらの神社の中で、伊勢と関係が深いのは風間神社であろう。風間神社の祭神は伊勢津彦命・級長津彦命・級長戸辺命・建御名方命とされる(http://www.genbu.net/data/sinano/kazama_title.htm)。ただ、長野神社庁長野支部のホームページを見ると、主祭神が級長津彦命、相殿左が事代主命、相殿右が倉稲魂命となっており(http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/01hokusin/04nagano/17017.html)、最近変えられたのであろう。風間の地に出雲神族が古くは住んでいたとするなら、富氏の伝承では伊勢津彦は出雲神族であるから、古くから伊勢津彦を祭神としていたことはありえる。『伊勢国風土記』逸文には「伊勢というのは、伊賀の安志(あなし)の社においでになる神は、出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である。」とあり、伊勢津彦は出雲の神の子とあるから、伊勢津彦を出雲神族とする富氏の伝承を無視することはできないであろう。もっとも、古代武蔵国造家の「角井家系」(『埼玉叢書』第三所収)では、出雲国造の祖・天夷鳥命の子に出雲建子命(又名櫛玉命、伊勢都彦命)をあげて、「始住度会県神武天皇御宇来于東国」と記してあるといい(http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E6%B4%A5%E5%BD%A6%E3%80%81%E5%85%84%E5%A4%9A%E6%AF%9B%E6%AF%94%E5%91%BD%E3%82%84%E5%BC%9F%E6%AD%A6%E5%BD%A6%E5%91%BD%E3%80%81%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E9%80%A0/)、伊勢津彦=出雲建子命は天穂日の子孫となっている。これに対しては、大宮神社のところで記したが、吉田大洋『竜神よ、我に来たれ!』によると、出雲神族への圧力をかわすために、この国造家は系図の面でも苦心しており、天のホヒの命―天のヒナドリの命―イセツ彦を祖として、出雲国造家と同族のように見せかけたのだという。アラハバキ神は出雲神族の伝承では、クナトノ大神の配偶神とされる女神であったが、谷川健一編『日本の神々 11』の氷川神社では、『風土記稿』によると江戸時代には現在本殿の横手にある摂社の門客人社は古くは男体社の東にあり、荒脛巾社と称していたという。『播磨国風土記』の「伊勢野」のところでは、「山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。」とあり、『神名帳』では「伊和ニ坐ス大穴持御魂神社」とあるから、伊勢都比古命は大穴持神=大国主命の子となり、出雲神族ということになる。『伊勢国風土記』逸文には伊勢津彦が「逃れて信濃に往来けりといふ。」とあり、割注の形をとっているので、後世に挿入されたものといわれているが、もし信濃にすでに出雲神族がいたとするなら、伊勢津彦が信濃に逃れたということも十分考えられる話となろう。
 風間神社は持統天皇五年の風神と考えられる水内神であると主張しているわけであるが、伊勢津彦にも風神的性格があったのではないかと考えられる。『伊勢国風土記』逸文には神武天皇に派遣された天日別命に国を天孫に献上するよう迫られた伊勢津彦は、「八風を起こして海水を吹き上げ波浪に乗って東の方にまいりましょう。」といって、大風が四方に起こり大波をうちあげるなかを、太陽のように光かがやいて陸も海も昼のようにあかるく照らしながら波に乗って東に去ったとある。古語に「神風の伊勢の国は常世の浪寄する国」というのは、このことをいうのだという。伊勢津彦は大風を起こす風の神ともいえるわけである。風間神社が水内の神であるとするなら、古くから伊勢津彦を祀っていた可能性もあるわけであり、風神である伊勢津彦を祀っていたから、水内の神に使者を使わして祭ったということかもしれないわけである。
 伊勢外宮の神体山ともいわれる高倉山には岩屋があり、アマテラスがこもった天石戸ともされるが、伊勢津彦の住居とする伝承もあり、いっぽう、高倉山とつづいている高神山には客神社というのがあり、弘安八年(1285)の『神名秘書』にはタケミナカタ神を祀る神社とあるという。そして、宣長はこうしたことを根拠に伊勢津彦=タケミナカタ神、同神説を説いたが、伊勢津彦とタケミナカタ神を同一視する言説が隆盛するのは江戸期以降で、それ以前では中世の『詞林采葉抄』が「建御名方神は伊勢より風神と共に信濃国諏方郡へ遷り給ふ。然者、風神は伊勢・諏方両所にをわします」などと両神を関連づけているものの、同一神とは言っておらず、上代以前にこうした言説はみられないという(http://blog.goo.ne.jp/familyplot1976/e/76ddf4588acd8420a446aad5573a21c5)。これらの混乱は、建御名方命と伊勢津彦がともに出雲神族で同族だったというところからきているのであろう。富氏の伝承では、イセツ彦の子がイサワトミノ命となっている。

 長野市南長野の妻科(つましな)神社の主祭神は八坂刀売命で、相殿に建御名方命と彦神別命を祀る。相殿神の2柱は「建御名方富命彦神別神」を二神と見た誤りとも、彦神別命は建御名方命の御子神とするとも考えられているという。創建は不詳であるが、文献上の初見は『日本三代実録』貞観二年(860)に神階を賜ったとあり、式内社でもある。伝承では、建御雷神と争って敗れた建御名方神は出雲から海沿いに逃れて北上したが、千曲川を遡って横山(善光寺付近)に辿り着いたところで追撃する建御雷神に迫られて応戦した。この際に后神は裾花川上流のこの地に戦火を逃れて隠れひそんだことから、この名称となったという。この時に建御名方神は再び敗れて負傷し、上田の生島足島神社に逃れて養生をしてから諏訪に至ったのだとも伝えられているという(ウィキペディア)。妻科神社と生島足島神社が風間神社を介して方位線で結びつくわけである。

  風間神社―妻科神社(E0.150km、1.96度)の西北30度線

 妻科神社は善光寺三鎮守の一つで、残りの湯福神社と武井神社も風間神社の西北45度線上に位置している。湯福神社は善光寺表参道の西側15町を氏子とし、武井神社は東側を氏子とする。湯福神社の神紋は諏訪大社と同じ梶の葉で、創建は不明であるが、健御名方命の荒御魂を祀っている。湯福神社の「ユブク」(上代は清音)の語源は、往古より「イブキ(風)」の神として崇められてきたところにあるといい(http://www.zenkojikai.com/shinetsu/s-180.htm)、そうすると建御名方富彦神別神社が持統五年(692)の風神を祀った水内の神であるとすると、建御名方富彦神別神社と深く結びつく神社ともいえる。武井神社は武井明神・諏訪明神とも呼ばれていたが、主祭神は健御名方神で、その創建は不詳であるが、持統五年頃ではないかという口伝もあるという。社名のいわれは、信濃宝鑑に諏訪大社の領地を武井(武居)といい、同じ御祭神を奉祀することから武井神社と称す説と、神官武居祝(武井祝=たけいほうり)一族が奉齋したことから武井神社と称したという説があるという(ウィキペディア)。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は善光寺周辺の湯福神社や武井神社が諏訪神を祀ることから、神仏習合の江戸時代までは諏訪大社と善光寺は、長野の地元の人たちは一体として祭祀していたという。なお、善光寺三鎮守は戸隠とも関係が深く、「湯福、武井、妻科、善光寺の内白山一之法也」と長禄二年(1458)の『戸隠顕光寺記』に記されているという(http://www.zenkojikai.com/shinetsu/s-182.html)。

  風間神社―武井神社(W0.096km、1.44度)―湯福神社(E0.140km、1.73度) の西北45度線

 湯福神社と武井神社はそれぞれ風間神社と西北45度線をつくるのであるが、湯福神社と武井神社は西北60度線をつくる。そして、牛山佳幸『善光寺の歴史と信仰』によれば厳密には宝永二年(1705)に現在地に本堂が建替えられる以前の、善光寺金堂がその方位線上に在った。仲見世通りの延命地蔵尊がある場所が、金堂である如来堂の在った所で、本尊壇があった場所に、現本堂落成から5年後の正徳二年(1712年)に延命地蔵尊は造立されたという(https://www.zenkoji.jp/keidai/)。湯福神社境内には善光寺開祖・本田善光廟があって、中には本田善光の墓とされる大石が収められているという(ウィキペディア)。一方、武井神社には本来は本田善佐を祀るという説があるという(http://homepage3.nifty.com/himegappa/jisha/takei/takei.html)。そうすると、湯福神社と武井神社の方位線は、建御名方命の方位線であるとともに、本田父子の方位線でもあるということになる。もっとも、善光寺についての一番古い文献は『扶桑略記』で、そこでは秦巨勢大夫が善光寺阿弥陀仏を信濃にもって来たと書かれているといい、大和岩雄『新版 信濃古代史考』によれば、喜田貞吉氏や五来重氏は長野の善光寺の創建氏族を秦氏としているという。次に古い文献である『色葉字類抄』では信濃国若麻積東人が運んだとあるという。本田善光親子が出てくるのはその後の文献ということになる。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は河内の元善光寺周辺の高句麗系渡来人(長野氏)や百済系渡来人(葛井氏)が善光寺にかかわっていたとして、この河内の元善光寺周辺の地名から本田という姓がつくられたという。牛山佳幸『善光寺の歴史と信仰』によれば、『扶桑略記』の成立時期は堀河天皇の治世(1086-1107)とするのが通説であり、また『色葉字類抄』に載る善光寺縁起が書かれた時期はせいぜい平安末期頃より遡らないとしかいえないという。
 現本堂では西北隅に本尊である一光三尊阿弥陀如来が置かれている瑠璃壇があり、湯福神社社殿の西北30度線は現本堂の西北角あたりを通るので、湯福神社の西北30度線上に現本堂瑠璃壇があるといえる。湯福神社と如来堂跡延命地蔵尊は数字的には方位線とはいえなが、これは誤差の範囲と考えるべきであり、湯福神社の方位線上にかつても今も御本尊が安置されたということがいえる。
 風間神社も正確には如来堂跡延命地蔵尊と西北45度線を作っている。湯福神社と武井神社の西北60度線と風間神社の西北45度線が交わる場所に元々の善光寺如来堂(金堂)が在ったともいえるわけである。
 
  湯福神社―武井神社(W0.014km、0.93度)の西北60度線
  湯福神社(E0.021km、2.94度)―如来堂跡延命地蔵尊―武井神社(E0.012km、1.94度)の西北60度線
  湯福神社―善光寺本堂西北隅(W0.003km、0.64度)の西北30度線
  風間神社―如来堂跡延命地蔵尊(W0.016km、0.22度)の西北45度線

 善光寺には、善光寺三鎮守に美和神社・加茂神社・柳原神社・木留神社を加えた、善光寺七社というのもある。このうち、長野市三輪の美和神社が湯福神社と東西線、武井神社と東北30度線で結ばれ、方位線三角形を作っている。美和神社は式内社で、大物主命を主祭神とし、相殿に国業比売神(くになりひめのかみ)と神部神(神服部神)を祀る。神国業比売神は大物主命の母神と伝えられているといい、文献上は、『日本三代実録』の貞観三年(861)国業比売神が正六位上から従五位下に神階が授けられたという記述が初出という。創建は不詳で、由来は定かでないが、『善光寺縁起』には、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣しそのまま当地に留まった、このとき大神神社の神体を奉納したので大神神社には神体がない、という伝説が記されており、これはこの地に三輪系の人々が移住したことを示すとも解され、周辺には時丸の塚と称するものと時丸寺があるという(ウィキペディア)。
 国業比売神が大物主命の母神と伝えられているということは、もともとはアラハバキ神だったのかもしれない。関裕二『信濃が語る古代氏族と天皇』によれば、『日本三代実録』貞観八年(866)に「信濃国水内郡の三和の神に忿怒の心があり、奉幣し般若心経を転読し、謝した」とあるという。三和は美和・三輪と考えられるから、美和神社神社の神が忿怒したということになり、これは大物主あるいは国業比売神が怒ったということかもしれない。そのように表現されるような事件が何かあったということであろう。ウィキペディアでは兵疾の災いを防ぐため奉幣読経がなされたと記すが、この時信濃の出雲神族の間に不穏な動きがあったのかもしれない。貞観二年(860)に出雲では出雲神族の王の象徴である亀甲の中に二つの矛が交差している神紋が、中の矛を大根にかえさせられていることを記したが、この時期出雲神族と朝廷の間に深刻な軋轢があり、弾圧・懐柔さまざまな事件があったことが想定されるのである。

  湯福神社―美和神社(S0.010km、0.34度)の東西線
  武井神社―美和神社(W0.019km、0.75度)の東北30度線

 武井神社と加茂神社も東西線をつくる。加茂神社は初代の善光寺大本願上人が信濃国に下向する際、京都の賀茂御祖神社(下鴨神社)を勧請したといわれる。大本願については、その境内にあった斎藤神官家に諏訪社があったとされ、これが式内社後身とする説もあるという(ウィキペディア)。
 加茂神社が下鴨神社を勧請したものということは、美和神社に大物主神が祀られていることと関係するかもしれない。天智天皇は近江大津京に都を移したとき、日吉大社に大神神社から三輪明神(大巳貴神=大物主命)を勧請して、鴨氏の宇志麻呂に祀らせたという。一方、『扶桑略記』に秦巨勢大夫が出てくることから、秦氏が善光寺に関係していると考えられている。諏訪の元善光寺は松尾山善光寺というが、この松尾山の松尾について大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、山城の秦氏の氏神を祀る松尾神社がもともと山頂にあった松尾山のことであるとする。大和岩雄氏はさらに河内の元善光寺周辺にいた高句麗系や百済系の渡来人も関わっていたとするが、百済系渡来人にとって天智天皇は大きな意味を持つ存在だったといえる。また、平安京のところで記したが、太秦の秦氏と賀茂神社の鴨氏は組んで大和から山城に来たらしい。鴨氏が日吉大社の三輪山の神の勧請に関係したことは、太秦の秦氏にも無関係なことではなかったといえる。日吉大社の三輪明神と下鴨神社が関係することから、 美和神社に対し下鴨神社が勧請されたということも考えられるのである。

  武井神社―加茂神社(S0.008km、0.42度)の東西線

 加茂神社と湯福神社の方位線は微妙である。湯福神社の南側の道路に面した鳥居と加茂神社は東北45度線をつくるといえるのでるあが、湯福神社社殿とでは方向線というにしても、少し偏角が大きいのである。これは、社殿と鳥居の密接な関係を考えるなら、鳥居を介して加茂神社と湯福神社は方位線関係にあるとも考えられる。あるいは、そのことも考慮して、加茂神社と湯福神社社殿は東北45度の方向線をつくるとしてもいいのかもしれない。

  加茂神社―湯福神社鳥居(W0.031km、1.84度)―湯福神社社殿(W0.064km、3.62度)の東北45度線

 善光寺七社では、その他に湯福神社と柳原神社(やなぎはらじんじゃ)・木留神社(きとめじんじゃ)が南北線をつくる。柳原神社と木留神社も方位線ではないが、方向線をつくるので、この三社は南北線上に並んでいるといっていいであろう。ただ、木留神社の旧鎮座地は犀川に近いところにあったといい、木留神社の方位線は現在地という条件が付くが、木留神社から南に行くと犀川があるので、あるいは旧鎮座地もこの南北線上にあった可能性はある。現在の木留神社は風間神社とも東西線をつくる。また、美和神社と木留神社が方位線に近い東北60度の方向線をつくる。ウィキペディアによれば、柳原神社は創建年不詳であるが 健御名方命、少彦名命、誉田別命を祀り、笹焼神社、左喜焼神社とも呼ばれたという。また木留神社も創建年不詳であるが、社伝によると正治年間(1199年〜1201年)以前の勧請だという。健御名方命を主神に祀る。

  湯福神社―柳原神社(W0.043km、2.49度)―木留神社(W0.088km、1.54度)の南北線
  風間神社―木留神社(N0.046km、0.81度)の東西線
  美和神社―木留神社(E0.145km、2.21度)の東北60度線

 木留神社には現在地という条件がつくものの、湯福神社・武井神社・美和神社・加茂神社・柳原神社・木留神社は方位線網で結ばれている。ただ、妻科神社だけはその方位線網と結びつかず、風間神社を介して他の神社と結ばれているということになる。ただ、方位線だけでなく、方向線まで拡大して考えるなら、妻科神社と湯福神社も東北60度線をつくる可能性もある。妻科神社の東北60度線も湯福神社社殿より鳥居の近くを通るのであるが、方位線はつくらないものの方向線はつくるといえる。一方、社殿との偏角は方向線とするには少し大きいが、加茂神社より小さい。このことは、加茂神社と湯福神社に方向線を認めるなら、妻科神社と湯福神社にも方向線を認めていいということではないだろうか。もしそうなら、善光寺七社は方位・方向線網で結ばれていると同時に、湯福神社の方位・方向線上に他の六社があるということになる。

  妻科神社―湯福神社鳥居(W0.048km、2.43度)―湯福神社社殿(W0.068km、3.28度)の東北60度線

 湯福神社と武井神社の方位線上に、移転前の善光寺如来堂があった。善光寺三鎮守の残りの妻科神社と善光寺の方位線関係も考えたくなるが、妻科神社の東北45度線は三門あたりを通り、妻科神社の艮の方角、鬼門の方角に善光寺が在るとはいえるが、旧如来堂ばかりでなく現本堂とも方位線をつくるとはいえない。なお、三門は風間神社とも西北45度線を作るが、現本堂と風間神社は方位線をつくらない。

  妻科神社―善光寺三門(W0.007km、0.36度)の東北45度線
  風間神社―善光寺三門(E0.118km、1.58度)―現本堂中心(E0.192km、2.53度)の西北45度線

 ただ、牛山佳幸『善光寺の歴史と信仰』によれば、善光寺はさらに別の場所から旧地に移った可能性があるという。牛山氏によれば、善光寺はもともと水内郡の郡寺として、郡領層、おそらく金刺舎人一族によって建てられたとされる。そして、当時の郡寺は郡家に接近して、平地に建てられるのが一般的だったという。水内郡の郡家の場所であるが、牛山氏はまずホテル国際21の敷地内の古墳時代から平安初期にかけての大集落の跡である県町遺跡に注目し、県町遺跡が水内郡家の一部に比定できることはほぼ確実であるが、郡家の正庁跡の遺構が確認できないので、中心的な庁舎群はそこより東の長野市後町あたりに在ったのではないかとする。後町は少なくとも鎌倉時代初期まで遡れる地名で、藤原定家之『明月記』に出てくる「後庁」に由来し、鎌倉時代初期には幕府の主導による善光寺再建事業が続けられており、国府の役人のなかには当地に駐在していた者も知られ、国府の出先機関が置かれたので「後庁」と呼ばれていたことが分かるが、その施設はかつての水内郡家の敷地の一部が再利用されていた可能性が高いというのである。そして、後町あたりに郡家があったとすると、例えば仁王門と県町遺跡でも直線で700メートルほどあり、近いことは近いが、当時の郡家と郡寺の距離からいえば少し離れすぎており、またかなりの高台にある事から、当時の郡寺が平坦地に立地する例が多いことにもそぐわないので、元々の善光寺は現在地への移転前の地にあったのではなく、別のもっと後町に近い場所にあったと考えるべきであるとする。そこで考えられるのが、後町のさらに東の権堂で、この地名の起こりは寛永十九(1642)の火災で金堂が焼失し、当時の往生院が本尊を安置する「仮堂」とされたことに因むとされているが、権堂村の村名はそれ以前の慶長七年(1602)の川中島領主森忠政之検地帳に見えるから、おそらく中世以前に遡りうる地名であるという。そして、『出雲風土記』に出てくる寺の主要建物が「厳堂」と記され、これは「金堂」を指していることは容易に推測でき、またそれは古代には「金堂」は呉音で「ゴンドウ」い発音されていたことを示唆しており、長野市の「権堂」も「金堂」の音通による表記の可能性が高く、草創期の善光寺がこのあたりにあったと想定することもあながち無理ではないという。もし、牛山氏の想定するように草創期の善光寺が長野市権堂あたりに在ったとすると、妻科神社との東西線を作っていた可能性も出てくる。
もし善光寺が元々は長野市権堂あたりに在ったとすると、その北の武井神社との関係も考えなければならない。武井神社は金刺舎人一族との関係も語られていた。最後の下社大祝金刺堯存が天文十一年(1542)に武田信玄により滅亡させられ、これを再興させたのが堯存の叔父だという善政(あるいは、その子の豊政)とされ、武居祝兼下社大祝となり、これが近世の武居祝(大祝なき時期には五官祝の筆頭)の祖であって、今井氏を名乗ったという(http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/suwasya1.htm)。武井神社が金刺舎人一族と関係し、また善光寺が郡領である金刺一族によって建てられたとするなら、武井神社と草創期の善光寺の関係には密接なものがあったであろう。牛山佳幸氏によれば、善光寺が建てられたのは、天武天皇の仏教奨励策によって起こった全国的な寺院建立ラッシュの中の一つと考えられるという。一方、武井神社の創建は持統五年頃ではないかという口伝もある。これは、武井神社と善光寺が組でその建立が計画されたということかもしれない。あるいは、善光寺が創建されるにあたって武井神社が強く意識されたのが、やがて武井神社も善光寺と同じ時期に創建されたというよな口伝になっていったという可能性も考えられるが、どちらにしても、武井神社との位置関係も考慮されたかもしれないし、その場合に武井神社と善光寺が南北線上に並ぶよう計画された可能性もあるわけである。
 もし創建時の善光寺が権堂あたりに在り、武井神社と密接な関係があったとすれば、両所が南北線で結ばれていたという可能性は、現善光寺と健御名方富命彦神別神社の位置関係からいえるかもしれない。現在の健御名方富命彦神別神社は長野市城山にあるが、明治十一年に神仏分離で移される前は善光寺境内にあったといい、本堂の北側の年神堂八幡宮(年越ノ宮)がそうだったという。ウィキペディアによれば、『諏方大明神画詞』では「年神堂が諏訪大社の分座であり持統天皇五年に記載のある水内神である」としているといい、江戸時代末期の『芋井三宝記』には「年神堂八幡宮は、風祭等の存在からして御年神でなく健御名方富命彦神別神社であり、当地に善光寺如来が来たため仏式になって神名を失い、八幡宮とも誤り称されるようになった」と記しているという。大和岩雄氏は『芋井三宝記』の記述から、諏訪神社の別社が先にあって、仏像が後から移ってきたとみている。本堂の北側に在ったという年神堂八幡宮の正確な位置については、善光寺について多少とも詳しい人には常識なのであろうが、単に本堂北側と記すものしか見ていないので、インターネットで色々な昔の善光寺境内絵図を見ると、解像度が低かったり古文書の崩し文字にも慣れていないせいもあって、なかなか読み取れないものも多い中で、おそらく本堂真裏の建物が年神堂八幡宮であろうと見当をつけれるものがあった。西北にあるのは納骨堂と読めたので、真裏の建物が年神堂八幡宮で間違いがないであろう。そうすると、建御名方富彦神別神神社と善光寺本堂が南北軸上に並んでいることになる。もし長野市権堂あたりに在った草創期の善光寺と武井神社の位置関係に計画的なものがあったなら、同じことが言えるかもしれないわけである。ただ、善光寺七社の五社や風間神社とは方位線を作っていなかったであろう。またそこから移転後の善光寺とも方位線で結ばれてもいない。
 この草創期の地から善光寺が移転した理由について、牛山氏は仁和四年(888)の「仁和の洪水」を考えている。善光寺周辺にも甚大な被害が及んだことも十分に考えられ、高台への移転が図られたのではないかとする。しかし、武井神社と創建時の善光寺の密接な関係が考えられるとすれば、この移転は武井神社―善光寺の組み合わせから、建御名方富彦神別神神社―善光寺の組み合わせへの変更ともとれる。その変更は移転理由と密接な関係があったとも考えられるのではないだろうか。この組み合わせの変更についていえることは、武井神社がせいぜい郡レベルの神社であるのに対して、持統天皇五年の水内神は、建御名方富彦神別神神社のことととするのが通説とされているから、建御名方富彦神別神神社は国家レベルの神社だということである。すなわち、国家レベルの神社に善光寺を結びつける必要があったのかもしれない。あるいは、創建当時の善光寺が仲見世通りに在ったとすると、牛山氏は当時の郡家との距離の例からいうと少し遠いというが、多少遠いだけともいえるから、金刺舎人一族からしてみれば、建御名方富彦神別神神社の近くに建てたかったのだが、それへの反発が強かったので、自分たちが祭祀する武井神社の近くに建てるしかなかったということなのかもしれない。反発があったとすれば、それは出雲神族側からのものであろう。天武天皇の時代、中央では出雲神族の継体天皇の子孫が優遇されるなど、出雲神族の力が強まったらしいから、金刺舎人一族としてもその反発を無視することはできなかったのかもしれない。そうすると、建御名方富彦神別神神社近くに移転したのは情勢の変化があったからということになる。その変化としては、天智系の天皇になってから朝廷内でも金刺舎人一族が一定の力を持った時期があったということが、そのように移転を可能にしたのかもしれない。すでに、光仁天皇の宝亀元年(770)に信濃国の金刺舎人若島なる女性が正七位下から外従五位下に四階級特進しているが、牛山氏は天皇の愛妾になったからではないかとする。また、承和九年(842)にそれまで無位勲八等にすぎなかった諏訪神社が従五位下に叙されると、それから二十五年後の貞観九年(867)には従一位まで昇進していいるのは、当時宮廷につかえていた科野国造の一族で、諏訪郡出身の金刺舎人貞長が活躍したからであろうとするのが大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)の考えであった。

 建御名方富彦神別神社に妻科神社・武井神社・湯福神社の善光寺三鎮守の四社が持ち回りで、寅年・申年に御柱祭を行なっている。建御名方富彦神別神神社は持統天皇五年の水内神とされているのであるが、持統五年に信濃の須波と水内に使者がつかわされていることについて、大和岩雄『新版 信濃古代史考』には、本居宣長は持統五年の須波の神を「神名帳」の「南方刀美神社二座」、水内の神を水内郡「建御名方富命彦神別神社」とみており、この比定は通説化しているが、金井典美「聖地『諏訪』の神と信仰」『諏訪信仰史』に「水内等神」は写本の誤記で「信濃の須波の蛟(みづち)の神等を祭らしむ」訓み、諏訪の蛟神(水神・蛇神)を祀ったとあるのは賛成できず、諏訪と水内の神を竜田の神と同じ風伯神として祀ったのであり、諏訪の建御名方神が風神とみられた例としては『太平記』に文永・考安役(元寇)のとき、大風によって敵船を沈めるために伊勢神宮の風宮と諏訪大社に勅使がたったとあることがあげられ、伊勢の場合は内・外境内の風宮(内宮は風日祈宮)であるのに対して、諏訪大社は本社そのものに祈願がなされているという。
 大和岩雄氏は持統天皇五年に竜田風神、信濃の須波・水内の神が祭られたのは、この年の天候不順が原因とする宮地直一や吉野裕子の説があるが、問題はなぜ信濃の神が竜田の神と共に祀られたかであるという。竜田の神について、大和岩雄氏は天武天皇四年に「竜田の立野」の地に風神を新しく祀ったのは、「風神」が中国の「風伯」の性格をもつ新しい神で、『風俗通儀』の「風伯」の項によれば、古代中国で風伯(風神)を丙戌の日に西北に祀ったのは、火は金に勝ち、木と為す相だからであり、竜田立野は飛鳥の西北に位置し、陰陽五行では、干支の「丙戌」は五行の「火」、方位の西北(戌亥)は「金」であり、相剋の理では、「火剋金」(火は金に剋つ)、「金剋木」である。また「風」は九星の象意で「四緑木星」で、四緑木星の方位は辰巳(東南)で、易の「巽宮」にあたるが、巽宮に対する「乾宮」は、九星では「六白金星」、五行では「金」、方位は「戌亥」であり、つまり木気の風を鎮めるのが乾宮であり(金剋木)、竜田風神祭の祝詞に「荒しき風」とある風神を鎮めるために、飛鳥の西北の竜田立野に風伯が祀られたと考えられるとする。すなわち、天武天皇が竜田の立野に風神を祭ったのは、「金剋木」ということで、風神を力でねじ伏せようとしたのだといえる。それに対し、持統天皇五年に竜田風神、信濃の須波・水内の神が祭られたのが天候不順が原因だったとするなら、力で抑え込まれていた風神が押さえ込んでいた力を撥ね退けて暴れだしたということであろう。そうすると、風神を力で抑え込むだけではなく、一方では風神のご機嫌をとって奉り、暴れることを止めてもらおうということにもなる。この場合、奉る風神は力で抑え込まれた風神ではなく、素の風神でなければならないであろう。風神は木気であるという。方位的には寅・卯・辰ということになる。この寅・卯・辰の方位で、風神を自分達の神として祀っている場所として、信濃があったのではないだろうか。信濃は寅方位で、寅方位にある三輪山と重なるという。また、火徳王天武にとって寅・午・戌が三合の理の三合になっており、寅生気、午は旺気、戌は墓気となり、信濃は天武天皇の生気の方位となるという。しかし、それだけが問題なら、信濃ではなく三輪山でいいということなるし、木気の卯の方位の伊勢神宮でいいということなる。問題は「金剋木」で風神を押さえ込むだけでなく、風神を祀ることによって風神に猛威を振るうのを止めてもらうということであるから、信濃に有力な風神祭祀があったから、信濃に使者が使わされたということはないだろうか。
 もっとも諏訪大社の薙鎌神事には「金剋木」の思想が流れている。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、諏訪大社では薙鎌を木に打ち込むが、それは鎌とかナイフで風を切るという世界共通の発想とは異なっており、それは風伯に対する陰陽五行の思想にもとづくものであり、相剋の理の「金剋木」において、金気は金属・刃物であり、刃物のなかから特に鎌が選ばれたのは、風切鎌の習俗が古くからあったからであろうという。ただ、信濃には風神を風神として祀るということが古来からあったと考えられる。皆神山すさ氏(『諏訪神社七つの謎』)は大和岩雄氏が「諏訪の神を竜田の風神と共に中央政権が祀るようになって、はじめて諏訪に風伯信仰が入ったと考えてよかろう」(「諏訪の神と古代ヤマト王権」)と述べているが、しかし風祝という呪術的制度は、諏訪神社だからこそ設けられたと思える筋があり、地元諏訪においても、諏訪明神そのものが風を掌る霊威として伝えられているという。大祝の即位式は鶏冠社の楓の木の下で行われたが、楓の木は本来、中国では風の神の宿る木とされてきたし、諏訪大神と風の神の関係について、『高部故事暦』は「元来諏訪明神の霊威は雲霧を払ふ風を掌り玉ふと伝え」と書いて、建御名方神の風神たる本質を記しているという。

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、諏訪信仰に関する本を読んでいると、よく金井典美氏の著書『御射山』からの引用が見うけられ、そこには上社御射山の古絵図(「伝天正古図」権祝文書)に、五官祝の穂屋よりかなり大きい穂屋(大四御庵)が中央に描かれていて、その穂屋には「昔風祝御庵」の書き込みがあることから、五官祝の穂屋はあるが大祝の庵がなく、「風祝御庵」があることから、大祝が風祝の性格をもって祭事にあたったのではないかと述べているという。なお、大和岩雄氏は御射山社の神木の近くで薙鎌が発見されていることからも、御射山祭には風祭の性格があるとする。
 ただ、皆神山すさ氏によると金井典美氏のいう古絵図を模写した権祝文書の「御射山祭絵図」では、「昔風祝御庵」の書き込みがある「大四御庵」の下方に「大祝御庵」という穂屋が描かれていて、「大四御庵」のほかに、大祝の穂屋、五官祝の穂屋が描かれており、『諏訪市史』の「第五章第二節天智、天武朝と諏訪」に掲載された「上社御射山絵図」(大祝家絵図)にも、「大四御庵」の下方に「諏訪大祝」の穂屋が描かれ、寛成三年(1791)作成の「御射山社分見絵図下書」でも御射山祭の時だけ作られる建物として、大祝御庵、五官祝御庵などとは別に「四ツ御庵」(大四御庵)があげられていることから、諏訪で「風の祝」と呼ばれたのは、諏訪上社の現人神、大祝とは別人ではないだろうかとの疑問が生じるという。
 大四御庵の風祝とは大祝ではないとすれば、権祝のことなのであろうか。上社権祝については、皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、『信濃国高部故事歴』に「風ノ祝後ニ権大祝、鎌倉時代ヨリ権祝諏訪祝ト称ス」とあるといい、「伝天正の上社古図」(神宮寺区蔵原本)に「加佐無明神」の祠が「今ナシ」として描かれ、その下に「風無神袋・風祝塚」と書かれた塚のようなものが三基あるが、「風無神袋・風祝塚」というのは、風祝を称し、先祖代々、領地内の風祝塚を守ってきた上社権祝矢島家を、風無神袋殿と尊称したことからきたもので、『権祝文書』には「神袋(こうたい)屋形之事、神袋館はまた神袋殿と申し、往古諏訪権祝家風祝大祝時代より代々の本拠地なり」とあるという。そうすると、御射山祭の主役は権祝だったということにもなるが、権祝が主役というのもしっくりこない。大祝の穂屋があるように権祝の穂屋もあるのである。大四御庵の風祝とは大祝でも権祝でもないとすると、誰なのであろうか。
 「伝天正古図」をみると、大祝の御庵が二つ並んで描かれている。そうすると、大祝の穂屋には二人の人物がいたことになる。一人が大祝でもう一人が風祝だったのだろうか。しかし、そうするとそれとは別に風祝の大四御庵があることになり、問題は解決していないともいえる。とにかくかつては風祝という人物がいたらしいこと、風祝が何らかの事情でいなくなった後も、象徴的に「大四御庵」が建て続けられたということはいえる。
 常陸の八瓶山に風穴があるように、龍神は風とも結びついている。諏訪明神=建御名方神は龍蛇神なのであるから、風神の性格があっても不思議ではない。ただ、風祝という大祝とは別の人物もいたということである。その人物は、「大祝御庵」と「大四御庵」がほぼ同じ大きさなので、大祝と同格ともいえる存在であり、風祝がいなくなった後も「大四御庵」が建て続けられるような存在であった。建御名方と同格的な存在としては、信濃に逃げていったという伝承が古くからある伊勢津彦があげられる。同じ出雲神族であるが伊勢津彦は建御名方の子孫ではなく、そういう意味では建御名方と同格的な存在ともいえる。また、伊勢津彦には風との結びつきが強いことを考えると、風祝は伊勢津彦の系統の人物だったのではないだろうか。

 上社権祝矢島家が風神と結びつき、風間神社の矢島氏が上社権祝矢島家と同族の可能性があるから、もしそうなら風間神社も風神と結びつくことになる。また、伊勢津彦が風神でもあるなら伊勢津彦とも結びつくことになる。そうすると、風神とも結びつく建御名方富命彦神別神社と風間神社との方位線も考えてみたくなる。現本堂の北側に在ったという年神堂八幡宮と風間神社は方位線をつくらない。しかし、礎石しか残らなかったともいわれ、二〇棟の堂宇が焼失したという治承三年(1179)の火災の後、源頼朝および北条氏により善光寺の大造営が行われた際、「諏訪南宮社」が近在の今溝荘の地頭によって寄進されていることから、牛山佳幸氏(『『善光寺の歴史と信仰』』)はこれは建御名方富命彦神別神社の後進で、当時すでに善光寺の境内に立地していたという。当時の境内は現在の本堂を含むほど広くはなかったであろうから、如来堂(金堂)の近くに在ったということであろう。そうすると風間神社と建御名方富命彦神別神社も西北45度線を作っていたということになる。ただ、このことは古来から建御名方富命彦神別神社が如来堂(金堂)の近くに在ったということまでは意味しないであろう。古くからの場所から境内に遷座して、さらなる善光寺と建御名方富命彦神別神社の一体化が図られたことも考えられるのである。北条氏は諏訪上下宮の神宮寺の造営を正応元年(1288)から始めた。牛山佳幸氏(『『善光寺の歴史と信仰』』)によれば、それは蒙古来襲の影響によるというが、北条氏には神社と寺との連携、一体化という思想があったのではないだろうか。もしそうなら、大造営にあたり、その思想のもとで善光寺境内に建御名方富命彦神別神社を遷座するという計画が立てられ、その社殿を今溝荘の地頭が寄進したということも考えられるのである。城山に遷座する以前の年神堂八幡宮は本堂の真北に在った。現建御名方富命彦神別神社が本堂の真東に在ることを考えると、本堂と年神堂八幡宮には方位線軸が意識されていたということではないだろうか。そうすると、本堂と城山への移転前の年神堂八幡宮と本堂の南北軸は、如来堂(金堂)と諏訪南宮社が南北軸を作り、その位置関係を維持したまま移動させたものであるとも考えることができる。そして、 如来堂(金堂)と諏訪南宮社が南北軸を作っていたとすれば、古来からの建御名方富命彦神別神社が元々如来堂(金堂)の北に在ったからとも考えられる。その位置が三門付近であったとするなら、風間神社ばかりでなく妻科神社とも東北45度線を作っていた可能性もあるわけである。

  建御名方富彦神別神社―善光寺本堂中心付近(S0.0008km、1.13度)の東西線

 善光寺北の地附山の中腹に鎮座する駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社は神仏習合時代には「善光寺奥の院」と称され、式内社水内神社の奥社と伝えられている。創建年度は不明だが、善光寺創建(7世紀後半)よりはるかに古い産土神ともいう(http://weekly-nagano.main.jp/2012/04/135.html)。風間神社は駒形嶽駒弓神社と西北60度線を作るので、かつては建御名方富彦神別神社とも方位線を作っていた可能性はいえるのではないだろうか。

  駒形嶽駒弓神社―風間神社(E0.106km、1.14度)の西北60度線

 風間神社と駒形嶽駒弓神社の西北60度線上に式内社守田神社の論社の一つ守田廼神社(もりたのじんじゃ)がある。ただ、往古は守田沖に鎮座し守田八幡宮と称していたが焼失したため、長録三年(1459)現在地へ遷座したという。現住所が長野市大字高田字八幡宮西沖なので、沖が付く守田沖は字名だと思うが、地図上では確認できなかった。祭神は誉田別命・建御名方命・保食神であるが、興味深いのは二つの境内社で、一つは、朱の鳥居をもつ大きな社殿の守田廼稲荷社で宇迦之御魂神・猿田彦神・大宮能賣神を祀り、もう一つは、小さな石祠の交通安全守神で八衢彦神・八衢姫神を祀っているという(http://www.genbu.net/data/sinano/moritano_title.htm?print=on)。ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメは出雲神族の伝承ではクナトノ大神のことであるから、信濃における元々の出雲神族の信仰形態を残している神社だといえる。もう一つの境内社に猿田彦が祭られているのは、元々がクナトノ大神を祀る神社だったからであろう。奥殿中に本殿が安置されているが、年神堂の本殿を明治十二年に移したものだという。また祭神の誉田別命は、鎌倉鶴賀岡八幡宮の分神にして、源頼朝御台所政子御前の家臣本田治郎と僧専光坊良運の合作にして、建久八年(1197)御問御所(今の問御所)に八幡大神を安置し他ものを、正安三年(1301)八幡堰を掘直しのため、善光寺御堂の裏の年神堂に遷したものを、さらに貞享三年(1686)に大勧進並に法輪院本覚院に「是より東高田の郷に社あり、我が有縁の地なれど茲に遷せ」と八幡大神の御告あり、守田八幡宮の神主にも同様の御告があったので、元禄十二年(1699)高田の宮に遷座したものだという。これは、善光寺の如来堂を現本堂に移転する際、年神堂から祭神を遷したということであろう。あるいは、年神堂も移転するということで、その際後から来た八幡神を建御名方富彦神別神社とも古くから繋がりのある守田廼神社に遷したということかもしれない。この境内案内板の記述では正安三年(1301)にも年神堂は善光寺御堂の裏といえる場所にあったということになるが、これだけでは当時の年神堂が移転前の如来堂(金堂)の裏にあったのか、年神堂というと現本堂の裏にあった年神堂が念頭に浮かぶのでそういう記述になったのか分からない。

  駒形嶽駒弓神社(W0.050km、0.89度)―守田廼神社―風間神社(E0.056km、1.52度)の西北60度線

 駒形嶽駒弓神社は武井神社とも南北線をつくる。そして、方位線ということではこの武井神社との南北線が最も重要ともいえる。というのも、駒形嶽駒弓神社は美和神社と西北45度線、加茂神社と東北60度線を作るのである。すなわち、駒形嶽駒弓神社・武井神社と、美和神社、加茂神社、それに風間神社がそれぞれ方位線三角形を作るわけである。

  駒形嶽駒弓神社―武井神社(W0.011km、0.83度)の南北線
  駒形嶽駒弓神社―美和神社(E0.033km、1.10度)の西北45度線
  駒形嶽駒弓神社―加茂神社(E0.018km、0.46度)の東北60度線

 健御名方富命彦神別神社の論社としては城山の健御名方富命彦神別神社の他に、旧信州新町(現長野市)大字水内斉宮と飯山市大字豊田字伊豆木原の健御名方富命彦神別神社がある。城山の健御名方富命彦神別神社が「水内大社」・「城山県社」と通称されるのに対し、信州新町は「水内神社」・「水内大社」、飯山市は「五束神社」と通称されているという(ウィキペディア)。飯山市の健御名方富命彦神別神社と善光寺本堂・如来堂跡延命地蔵が東北60度線をつくる。これは、善光寺の健御名方富命彦神別神社との方位線とみなしてもいいであろう。また、駒形嶽駒弓神社もその方位線内に在る。飯山市の健御名方富命彦神別神社は関東とも結びつき、上野一宮の貫前神社と西北60度線、武蔵一宮の大宮氷川神社と西北45度線をつくる。大宮氷川神社は伊勢津彦と深く関わっていた。
 旧信州新町の健御名方富命彦神別神社は生島足島神社ではないが、大星神社と西北45度線をつくり、また建御名方命の子の興波岐命を祭神とする新海三社神社とも西北45度線をつくる。

  飯山市の健御名方富命彦神別神社―善光寺本堂中心付近(W0.010km、0.02度)の東北60度線
  飯山市の健御名方富命彦神別神社―貫前神社(E0.317km、0.21度)の西北60度線
  飯山市の健御名方富命彦神別神社―大宮氷川神社(E0.418km、0.15度)の西北4
  旧信州新町の健御名方富命彦神別神社―大星神社(E0.373km、0.82度)―新海三社神社(W0.531km、0.51度)の西北45度線

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安曇野

 大和岩雄『新版 信濃古代史考』によると、『信府統記』に日光泉小太郎の伝承が載っており、それによれば景行天皇の御宇まで安曇・筑摩の平地は一面の湖で、そこに犀竜がいた。犀竜は白竜王と交わって八峰瀬(はちぶせ)山で日光泉小太郎を生んだが、我身を恥じて湖に身を隠した。小太郎が母の行くへを尋ね、出会うと犀竜は「我は諏訪大明神の変身なり」といい、それから母の背に乗った小太郎は三清路の巨巌を突き破り、水内の橋下の岩山を破り開いて湖を陸としたという。それから日光泉小太郎は有明の里で子孫繁昌し、年を経て白竜王と犀竜は川会に来て小太郎と会ったが、その時白竜は「我は日輪の精霊ぞ、則是大日如来の化身なり」といって、犀竜と共に仏崎の岩穴に隠れ、小太郎も「我は八峰瀬権現の再誕なり」といって、両親の居る岩穴に隠れたので、その地に川会大明神社を建てて霊神を祀ったという。川会神社は安曇郡二坐として穂高神社と共に式内社として載り、両社とも同じ海神を祀っている。同書によると、川会神社の縁起では、父の白竜が「我は諏訪明神の変身なり」と言って、湖を破ったことになっており、社記では建御名方とその海神の女の妃が水内山を破って水を流したとあるという。また、『信府統記』の別伝では日光泉小太郎を鉢伏(八峰瀬)山の権現の御子とあり、父の白竜は鉢伏山の神になったとする。そして、日輪の精の白竜を鉢伏山の神、また諏訪神の化身とみるのは、鉢伏山の東南山麓に諏訪湖があり、穂高神社や川会神社を信仰する安曇野の人々にとって、鉢伏山山系から昇る朝日は諏訪神にみえるからであるという。
 旧信州新町水内の健御名方富命彦神別神社は善光寺らか犀川を遡っていった所にある。日光泉小太郎が破り開いたという水内の橋下の岩山がどのあたりかわからないが、その水内とは健御名方富命彦神別神社がある旧信州新町水内のことかもしれない。もしそうなら、その伝承と水内の健御名方富命彦神別神社の間にも何らかの繋がりがあったとも考えられる。方位線をみると、旧信州新町水内の健御名方富命彦神別神社は鉢伏山と南北線をつくる。

  旧信州新町の健御名方富命彦神別神社―鉢伏山1928m三角点(E0.926km、1.16度)の南北線

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、日光泉小太郎とその両親が隠れた仏崎の岩穴は、大町市常磐区仏崎観音堂の裏山の窟堂のことだと地元では伝承しているというが、地図では仏崎観音寺の裏の山にお堂があって、窟堂はその近くと考えられる。そうすると、鉢伏山と西北60度線をつくる。また、旧信州新町の健御名方富命彦神別神社ではないが駒形嶽駒弓神社と東北30度線をつくっている。

  仏崎観音寺裏山お堂―鉢伏山1928m三角点(W0.559km、0.78度)の西北60度線
  駒形嶽駒弓神社―仏崎観音堂裏山お堂(W0.032km、0.05度)の東北30度線
 
 日光泉小太郎の話は川会神社と結びつく伝承といえるが、旧信州新町の健御名方富命彦神別神社は穂高神社とも東北60度線を作っており、さらに穂高神社奥社とも東北45度線をつくっている。また、穂高神社奥社から見ると東北45度線上には善光寺の健御名方富命彦神別神社・駒形嶽駒弓神社もあり、駒形嶽駒弓神社が正確な方位線となっている。方位線的にみとる、健御名方富命彦神別神社は安曇野とも深く結びついているともいえるわけである。

  穂高神社―旧信州新町の健御名方富命彦神別神社(W0.355km、0.66度)の東北60度線
  穂高神社奥社―旧信州新町の健御名方富命彦神別神社(W1.000km、1.13度)―旧如来堂跡延命地蔵尊(E1.197km、1.04度)駒形嶽駒弓神社(E0.185km、0.16度)の東北45度線

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、北安曇郡池田町大字会染字十日市場の川会神社が式内社とされるまでには、安曇野市明科七貴の押野地籍に鎮座する正八万宮、明科町中川手の御宝田にある小祠八面大王社との間に論争があったという。また、有明の里について『信府統記』旧俗伝は、「今の池田組十日市場川会と云う所也」と注記しているという。川会神社の本社の北西80mに往古の宮地(字嶋ノ宮)があるというが (http://www.geocities.jp/engisiki/shinano/bun/shn250402-01.html)、前穂高岳・明神岳の東北30度線上に川会神社・川会神社旧鎮座地があり、仏崎観音寺裏お堂が明神岳・前穂高岳と東北60度線を作る。川会神社旧鎮座地と有明山神社里宮がほぼ東西に並び、方位線ではないが方向線をつくる。また、式内社川会神社論社の生八幡宮とも西北45度の方位線もしくは方向線をつくる。

  川会神社旧鎮座地付近―明神岳(E0.609km、1.51度)―前穂高岳(W0.091km、0.23度)の東北30度線
  仏崎観音寺裏山お堂―明神岳(E0.148km、0.28度)―前穂高岳(W0.242km、0.48度)の東北60度線
  川会神社旧鎮座地付近―有明山神社里宮(N0.229km、度2.46)の東西線
  川会神社旧鎮座地付―正八幡宮(E0.153km、2.10度)の西北45度線

 また、旧信州新町の健御名方富命彦神別神社と穂高神社奥社が東北45度線をつくっていたが、旧信州新町の健御名方富命彦神別神社と有明山里宮、明神岳も東北45度線をつくる。すなわち、その方位線上に明神岳と穂高神社奥社・有明山里宮・旧信州新町の健御名方富命彦神別神社・善光寺の健御名方富命彦神別神社とその奥社の駒形嶽駒弓神社が並ぶ東北45度線が想定できるわけである。

  旧信州新町の健御名方富命彦神別神社―有明山里宮(E0.485km、0.92度)――明神岳(W0.972km、1.13度)の東北45度線

 奥穂高岳の東北30度線上に皆神山があり、皆神山は上野一之宮の貫前神社と西北30度線をつくり、貫前神社と穂高神社奥社が東西線で結ばれている。貫前神社は飯山の健御名方富命彦神別神社と西北60度線を作っていた。また、奥穂高岳の東西線上に伊勢津彦を結びつくともいわれる八風山がある。

  奥穂高岳―皆神山熊野出速雄神社(E0.307km、0.29度)の東北30度線
  皆神山熊野出速雄神社―貫前神社(W0.201km、0.17度)の西北30度線
  穂高神社奥社―貫前神社(N0.182km、0.10度)の東西線
  奥穂高岳―八風山(S1.081km、0.44度)の東西線

 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、『信府統記』旧俗伝では「有明の里」について、「今の池田組十日市場川会と云う所也」と川会神社まで有明の里としているが、有明の里は有明山の麓に沿って形成された安曇族の集落で、彼らは安曇平に突き出た離れ山で、秀麗な山容から別名を信濃富士といい、かつては修験道の聖地であった有明山を聖地とさだめたという。『信府統記』旧俗伝では、有明山は戸放ヶ嶽とも記して、戸隠山も石戸山とよばれ、天岩戸神話の天手力雄命の投げた岩戸が戸隠山となったという伝承と同じように、手力雄命が投げた岩戸が落ちたのが有明山とするという。
有明山は奥穂高岳と東北45度線、穂高神社奥社と東北60度線、穂高神社と西北30度線をつくる。また、その西北45度線上に鉢伏山、西北60度線上に守屋山が在る。

  有明山三角点―奥穂高岳(E0.247km、0.88度)の東北45度線
  有明山三角点―穂高神社奥社(W0.598km、1.87度)の東北60度線
  有明山三角点―穂高神社(E0.006km、0.03度)の西北30度線
  有明山三角点―鉢伏山1928m三角点(E0.410km、0.65度)の西北45度線
  有明山三角点―守屋山西峰三角点(E1.554km、1.59度)の西北60度線

 皆神山すさ氏によれば有明山は安曇族の聖山であり、大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は川会神社の祭神が穂高神社と同じことから見ても、川会神社の伝承が海人伝承であることは確かであるとする。また、八坂刀売命を安曇系海神の女とする説が有力とされ、諏訪大社に安曇氏が関わっているとも考えられているが、逆に出雲神族と安曇野との関係も考えなければならないかもしれない。大和岩雄氏(『新版 信濃古代史考』)は、鉢伏山は奥宮のある前穂高(明神)岳の冬至日の出方位にあり、時間の境界である冬至は、太陽の死と再生の日であり、太陽の再誕の時であって、明神岳・鉢伏山の線を延長すれば諏訪湖に至り、全国各地で行われる浜降り神事は、冬至日の出方位にある海辺に神が依り来るという、海人の発想で行われる神事だから、信州の海人は、諏訪湖を海とみたのであり、穂高神社や川会神社を信仰する安曇野の人々にとって、鉢伏山山系から昇る朝日は諏訪神にみえたのであるという。大和岩雄氏は既に諏訪神が存在していることを前提に論じているが、出雲神族は諏訪に行く前に安曇野にいたのではないだろうか。生島足島神社神社はその伝承とは逆に建御名方の方が先だったのではないかとしたが、安曇野の安曇族の信仰や聖地も、安曇野にいた出雲神族の信仰や聖地と関係があるかもしれないわけである。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によれば、生島足島神社神社のある小県郡塩田平には安曇野の日光泉小太郎伝説と似たような伝説があり、主人公は小泉小太郎とか泉小太郎とか言われているが、その小太郎の母について、美女の着物の裾に針をさして糸の行方をさがすと、美女の正体は大蛇だったという三輪山伝説要素があり、その大蛇が産んだ子が小太郎で、その横腹には蛇のうろこのあざがあり、小太郎が来てからは日照山りに苦しんだ塩田平の村々も夏の間も雨がよく降るようになったという。これは出雲神族と結びつく伝承といえ、安曇野の日光泉小太郎伝承でも諏訪明神や建御名方命が出てくるのは、安曇族がその出雲神族の伝承をとり入れたからではないだろうか。犀竜の犀について、皆神山すさ氏は犀川の「サイ、サヘ」であって、「サヘノカミ」の「サヘ」の当字が犀であるとするが、クナトノ大神は塞の神とも呼ばれるのであるから、犀竜の犀は塞の神=クナトノ大神の塞ともいえるわけである。
 安曇氏が信濃に来たのは、大和岩雄『新版 信濃古代史考』によれば、小穴芳美『日本の神々 9』「穂高神社」で大和朝廷や諸豪族の信濃への部民制施行や郡内の古墳群の築造年代から、六世紀代と推定されると書かれているという。欽明朝以降のことということであろう。また、古墳群の築造年代からということは、それ以前には安曇野では古墳は見られなかったということなのであろう。安曇氏が安曇野に来るまでは、安曇野には多くの出雲神族がいたことが考えられるわけであるが、安曇氏と他の物部氏や多氏との違いは、安曇氏が龍蛇信仰をもっていたことであろう。大和岩雄『新版 信濃古代史考』によれば、穂高神社の祈雨祭には、宝物の竜頭を持って奥宮へ詣で、その途中で蛇に会ったり、奥宮で一泊したとき夢に蛇が現れれば、神のお告げがあったとされ、穂高神の化身は蛇と見られていたという。また、対馬の安曇氏の後裔という長岡氏が代々宮司を務める式内名神大社の和多都美神社の社伝によれば、海(わたつみ)神は白い蛇で、宮司の世継ぎには背中に鱗があるというが、穂高神社の氏子の家には、脇の下に魚の鱗のあざをもつ子が生まれるという。安曇氏が龍蛇信仰をもっていたということは、出雲神族の聖地をそのまま自分たちの聖地にしたという可能性も大きいのではないだろうか。里宮である穂高神社の鎮座地は穂高連峰の絶好の眺望地で、小穴芳実氏は現社殿の後ろの小丘に御神木植えられているが、これは無社殿ころの斎場だったのではないかとしているという(大和岩雄氏『新版 信濃古代史考』)。穂高岳と穂高神社は安曇氏がくる以前からの信仰の地だった可能性があるわけである。

 出雲神族の伝承でも『古事記』でも、国譲りの後、建御名方命は天孫族と戦いながら諏訪にまで逃れたことになっている。それによれば、出雲を征服した天孫族は古志にまで進んだことになる。そのことと結びつくかもしれないものとして、出雲に特徴的な四隅突出型墳丘墓の北陸での分布があるかもしれない。関裕二『信濃が語る古代氏族と天皇』によると、四隅突出型墳丘墓文化圏は丹波にはみられないものの、越の国では越前と越中に見られるという。出雲神族は山の上の桧に遺体を吊るし、白骨なると山の大きな石の近くに埋葬したというのであるから、古墳を作る習慣は無かったのであり、四隅突出型墳丘墓は出雲に特徴的なものといわれるが、出雲神族のものではない。そうだとすると、考えられるのは国譲りで出雲を征服した天孫族が造ったということではないだろうか。彼らは海から出雲に来たのであり、丹後に四隅突出型墳丘墓文化圏がないのは、彼らの船団は丹波に上陸せず、直接越に向かったということかもしれない。出雲に国譲りを迫った天孫族の正体はよく分からない。おそらく北九州方面からやって来た勢力と思われるのであるが、日向からやって来た神武系とは異なる系統に属するのであろう。神武と違って、彼らは出雲をすでに出雲にいた天ノホヒに任せている。越にも根拠地は確保したが、基本的にはその軍勢の大部分は祖国に戻っていったと考えられる。出雲神族の伝承では、出雲を征服した天孫族は大和で出雲神族と激しい戦闘をおこなったという。彼らが越と大和に向かい、かつ丹波に彼らの影響力をほとんど残さなかったとすれば、彼らは出雲から再び船に乗って東に向かい敦賀あたりまで進んだということが考えられる。それからは、先に越に行って、帰りに敦賀あたりに上陸して、近江を通って大和に向かったか、逆に最初に敦賀から大和に向かい、大和での出雲神族との激戦の後、敦賀あたりに留まっていた船団のもとに戻り、そこからさらに越に向かったかであろう。出雲に天ノホヒを残したように、大和に残したのがニギハヤヒなのかもしれない。中国や朝鮮との交易を考えれば、彼らの都が北九州に在ったとすれば、大和に都を移さなければならない理由はないであろう。
 越中から諏訪に至る道筋としては、まず糸魚川に逃げたであろう。糸魚川からは二つの経路が考えられる。一つは、そこから直接安曇野に入ったという経路である。もう一つは直江津に出る経路である。直江津に出る経路は、さらにそこから南下して長野市あたりに出る経路と、柏崎に向かい、そのまま信濃川に進み、信濃川を遡る形で飯山を通って長野市に出る経路が考えられる。この最後の経路は、関裕二『信濃が語る古代氏族と天皇』で原田常治説として紹介しているものである。原田常治説を基にした関氏が作製した地図をみると、長野市から生島足島神社神社のある上田に出て、武石峠を越えて松本あたりに進み、そこから諏訪に入っている。その他に、和田峠を通って直接諏訪に入るという経路も考えられる。長野市からの経路としては、他に犀川を遡って安曇野に入ったということもあるのではないだろうか。
 糸魚川から直接安曇野に入る経路は険しい山の中を進むことになるが、建御名方命が天孫族の追撃から逃げたのだとすれば、天孫族から遠く離れた地を求めて、逆にそのような困難な経路を選んだということが考えられる。直江津に出る経路は、新潟県は日本で一番諏訪神社が多い県だということとの関連を考えなければならないであろう。建御名方は直江津から柏崎へと進んだから、新潟県には諏訪神社が多いのだともいえるが、しかしそこからも天孫族に追われてさらに信濃に向かったのだとすれば、越後に残った出雲神族はいないか、いたとしてもきわめて少ない数であろう。そのような状態で、新潟県が日本で一番諏訪神社が多いというようなことは起こるのであろうか。また、越後まで天孫族が建御名方を追わなかったとすれば、そこから信濃に向かう必要もなかったはずであるし、建御名方と結びつく土地は諏訪ではなく越後だったはずである。新潟県に諏訪神社が多いのは、信濃から越後に入った出雲神族が多かったからとも考えられるわけである。
 直江津に向かう経路は、どちらにしても長野市あたりを通って諏訪に向かったことになる。長野市からの経路は、犀川を遡って安曇野に入る経路と、上田に向かう経路が考えられる。長野市から犀川を遡る経路であるが、犀竜の犀が「サヘノカミ」の「サヘ」の当字であるとすれば、それは犀川の犀についてもいえるであろう。犀川はクナト川ということになる。犀川と出雲神族の強い繋がりがあるということになるわけであり、それは出雲神族が犀川を遡って安曇野に入ったという過去の経緯があったからだとも考えられるわけである。上田へ向かう経路は、生島足島神社から建御名方は諏訪に向かったという伝承があるから、その経路が重視されるのは当然であろう。ただ、気になるのは皆神熊野出速雄神社や佐久の新海三社神社の祭神が建御名方の子供とされることである。それは、建御名方がそこから諏訪に行ったというよりは、諏訪の出雲神族がそれらの地に展開していったことを反映しているとも捉えられるのである。諏訪から上田を通って長野市、さらには越後へという出雲神族の展開も考えられるわけである。南から北へという動きは、伊勢津彦と結びつく風間神社や八風山からもいえる。伊勢から信濃に逃げて来た出雲神族は諏訪にまず逃げ、そこらか北へ移動していったということになる。そうすると、生島足島神社の伝承は話が逆で、諏訪から上田に出雲神族が進出していった話が、上田周辺に中心を置いた大和朝廷側が、生島足島神社から諏訪に逃げていったという話にすり替えたのではないだろうか。犀川の経路も、糸魚川から直接安曇野に入ってた出雲神族の中に、犀川を下って出雲神長野市あたりに進出していった者がいたということなのかもしれない。
 大和岩雄『新版 信濃古代史考』は、真弓常忠『日本古代祭祀と鉄』で福士幸次郎『原日本考』に信濃の南北安曇両郡、松本平の西側一帯が砂鉄産出の豊饒な地域とあり、文化三年の『本草綱目啓蒙』には諏訪地方に磁鉄鉱の産出を伝えているが、真弓自身も諏訪上社・下社付近で拾った石を粉砕し、弱で砂鉄を抽出したところ、おびただしい磁鉄鉱を得たと書かれていると記す。出雲神族が出雲で古志の人々を使って砂鉄を採っていたとするなら、古志に逃れた建御名方命が、砂鉄を求めて安曇野に入ったということは十分に考えられるであろう。そして、出雲神族の後に大和朝廷の勢力が信濃に入ってくると、彼等自身が砂鉄を産出する安曇野のを重視したか、あるいは出雲神族の経済基盤を奪うために、安曇野を占拠しようとしただろうし、その結果、支配権を失った出雲神族は諏訪に押し込められ、かろうじて諏訪における支配権だけは維持したということが考えられる。
 安曇野が砂鉄を産出する魅力的な土地だとしても、諏訪は出雲神族にとって特別な土地に見えたかもしれない。というのも、そこに諏訪湖があったからである。出雲の宍道湖を思い出させる土地として、出雲神族にとって諏訪は聖なる土地になっていったのではないだろうか。建御名方命が諏訪に入る前に留まったという生島足島神社(あるいは下宮諏訪神社)と小野神社・矢彦神社はそれぞれ上社御射山社と方位線を作ったが、鉢伏山も上社御射山社と西北60度線、小野神社・矢彦神社ではないが、小野神社御射山社と東北60度線をつくる。まず、安曇野の出雲神族によって鉢伏山が神体山とされ、さらに鉢伏山の方位線上に上社御射山社や小野神社御射山社の聖地がつくられていったということが考えられる。。鉢伏山が神の山とされたのは、もしかしたら出雲大社神体山の天狗山と同じく南南東の方向に在る山だったからかもしれない。旧信州新町の健御名方富命彦神別神社と鉢伏山の南北線は、犀川を遡って出雲神族が安曇野に入ったのだとすると、健御名方富命彦神別神社から鉢伏山へ向かう南北線ということになり、安曇野から犀川を下ったならその逆となる。どちらにしても、上社御射山社と生島足島神社の南北線に対応しているとみるべきであろう。鉢伏山は加賀白山と東西線、木曽御嶽山と東北30度線をつくっている。

  鉢伏山1928m三角点―上社御射山社 (E0.007km、0.01度)の西北60度線
  鉢伏山1928m三角点―小野神社御射山社(W0.327km、1.41度)の東北60度線
  鉢伏山1928m三角点―加賀白山(S0.150km、0.07度)の東西線
  鉢伏山1928m三角点―御嶽山(W0.015km、0.01度)の東北30度線

 皆神山すさ氏(『諏訪神社七つの謎』)は、安曇野の開拓伝説である日光泉小太郎伝説と「有明の里」を根拠地として暴威をふるった魏石鬼八面大王の物語が重なってくるという。魏石鬼八面大王の住んだ岩屋というのが、有明山神社里宮近くにあり、魏石鬼の窟の上に岩上観音堂が建つ。泉小太郎が両親と姿を隠したのは大町市の仏崎観音堂裏の窟堂であったったが、この仏崎観音堂裏の窟堂と有明の里の魏石鬼の窟が南北線をつくる。また、仏崎観音寺裏お堂と前穂高岳・明神岳が東北60度線をつくるとしたが、岩上観音堂と穂高神社奥社が東北45度線をつくり、穂高神社と西北45度線をつくる。

  岩上観音堂―仏崎観音寺裏お堂(W0.054km、0.23度)の南北線
  岩上観音堂―穂高神社奥社(E0.307km、0.85度)の東北45度線
  岩上観音堂―穂高神社(E0.171km、1.29度)の西北45度線

 なお、皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、『信府統記』旧俗伝では魏石鬼(あるいは義死鬼)という鬼賊が八面大王と僭称し人々に危害を加え、神社仏閣を破壊し、民家を焼き払うなどして、何年も良民を苦しめるので、延暦二十四年、坂上田村麻呂が征伐しようとして当国矢原の庄に到着して中界(三郷村中萱)というところの城に入り、泉小太郎が居住した川会で軍兵を揃え、翌大同元年鬼賊退治にとりかかり、退治したという。魏石鬼八面大王の住んだ場所というのが大町市にもあり、平、矢沢の奥に住んでいて、「屋敷」「琵琶ヶ平」などの地名が残るという。『旧南安曇郡誌』では、坂上田村麻呂は矢村の弥助の献上した山鳥の尾羽で作った矢を用いて魏石鬼を退治したが、完全な四肢のまま葬れば生き返るといわれたので五体を別々に切放して別々の所に葬ったという。その大王の耳、足、首、銅体を埋めたとされる場所が今に伝えられており、穂高町大塚神社の耳塚(安曇野市穂高有明)は耳を埋めた所、耳塚から北北西五キロほどの足立区(穂高町有明)には脚を埋めたと伝えられ、松本市筑摩神社の飯塚(鬼塚)には鬼賊の長たる者の首三十六を埋めたと伝えられ、胴体を埋めたと去れる伝承が北穂高区狐島と観光名所となっている大王わさび農場がある御法田にあり、狐島は白狐と化した鬼賊を討ち取ったところで、八面大王社があるという。また、この遺骸をばらばらにしたという伝承について、柳田国男は『一目小僧その他』で、中房山の大魔王、魏石鬼八面大王の伝説は蚩尤伝説に非常に接近しているという。ただ、蚩尤伝説を種本に安曇野で魏石鬼八面大王の話が作られたということではないであろう。体制側からは鬼賊と見なされるような、何らかの出来事があったのではないだろうか。魏石鬼八面大王に田村麻呂が出でくるということは、当時の蝦夷の動乱に呼応した反乱が安曇野一帯にあったということかもしれない。あるいは、『日本三代実録』貞観八年(866)の「信濃国水内郡の三和の神に忿怒の心があり、奉幣し般若心経を転読し、謝した」という記載と関係があるのかもしれないし、沢村忠士『悪路王伝説』によれば、菅原道真が没して十二年後の延喜十五年(915)、東国か、信濃から関東にかけては争乱の止むことがなく、伝説の鎮守府将軍藤原利仁が平定に向かったのはこの時と伝えられているという。どちらにしても、安曇野に動乱があったとすれば、それに出雲神族が絡んでいた可能性もある。沢村忠士『悪路王伝説』によれば、柳田国男『一つ目小僧その他、ダイダラ坊の足跡』に「因幡で八面大王などゝ伝えてゐる恠雄、それから東に進むと美濃国の関太郎、飛騨の両面の宿儺、信州では有明山の魏石鬼、上州の八掬脛、奥州各地の悪路王大武丸、及びその他の諸国で簡単に鬼だ強盗の猛なる者だと伝へられ、殆ど明神の御威徳を立証するために、この世に出てあばれたかとも思はれる多くの悪者などは、実は後代の神戦の物語に若干の現実味を鍍金するの必要から出たもので、例へば物部守屋や平将門が、死後に却って大いに顕はれた如く、本来はそれほど純然たる兇賊ではなかったのかも知れぬ。」とあるといい、八面大王は因幡と結びつくようであり、その点からも魏石鬼八面大王と出雲神族との結びつきは無視できないのではないだろうか。八面大王という名前からして八岐大蛇を連想させる名前である。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、八面大王退治の後、坂上田村麻呂は鬼賊退治が出来たのは神仏の守護によるものであるとして、大町市鹿島の鹿島神社、放光寺観音堂、若沢寺観音堂を建立したと『信府統記』にあり、信濃国に田村麻呂の創建と伝わる寺社が一〇箇所余りあるのはこのためだと言われているという。また、八面大王の岩窟の上にある岩上観音堂も田村麻呂の建立したものであると伝えられており、宮城の有明山神社には田村麻呂の奉納した剣が現存するとのことであり、『信府統記』は一説に鬼賊の剣は三つに折れて、柄は宮城の五龍山の滝つぼに沈み、鋒は水沢の若沢寺にあったが焼失し、剣の真中は折れて五寸ばかりになり、今も栗尾山満願寺にあって、鉄製ではなく石製で鎬があって両刃であると書いてあるという。皆神山すさ氏は魏石鬼の剣が石剣であったとしても、五兵(剣、矛、戟、戈、鎧)を八面大王の形見として祀るのは蚩尤祭祀であるという。


  石鬼八面大王退治の伝承には坂上田村麻呂が出てくるが、矢彦神社の由緒にも桓武天皇の延暦二十二年(803)征夷大将軍坂上田村麿は、安曇郡の凶賊を討つため、本社に祈願し、このとき剣と弓を納めたとあった。『諏訪明神絵詞』にも魏石鬼八面大王ではないが、坂上田村丸が東夷安倍高丸を討つ時、諏訪明神が田村丸に協力している。旧神長官守矢家所蔵権況本「諏訪大明神畫詞」諏訪教育委員会編『諏訪史料叢書』巻二を底本とした沢村忠士『悪路王伝説』では、騎馬の兵に姿を変えた諏訪明神が、宅谷岩屋(達谷窟)に閉じこもって出て来ようとしない高丸に、海上に進み出ると、同じ姿の五騎の武者に分身し、どこからともなく黄色の衣を着た二十人の者が現れてそれぞれ手に的を捧げて海上のあちこちに散ると、五人の騎士はそれぞれに持った弓矢でこの的を射た。それを見ようとした高丸に騎士は鏑矢を射かけて殺してしまう。坂上田村丸は明らかに坂上田村麻呂を基にした名前であり、安倍高丸の安倍は奥州安倍氏と結びつく名前であろう。奥州安倍氏は始祖の一人に安日彦とともに長脛彦をもち、出雲神族では長脛彦は出雲神族なのであるから、その点からも上社大祝と奥州安倍氏は同族といっていい関係になる。『諏訪明神絵詞』では諏訪明神=建御名方命が坂上田村丸に協力して、同族である安倍高丸を討つ話になっているわけである。
 皆神山すさ『諏訪神社七つの謎』によると、中央の記録に諏訪社が田村麻呂軍を支援したという記述はないが、延暦二十年(801)に田村麻呂が阿弖流為を降伏させた後、平安京に諏訪神社を勧請したという伝承があり、京都市下京区諏訪開町の諏訪神社と下京区下諏訪町の尚徳諏訪神社がそうであり、諏訪開町の諏訪神社は提灯などに四根の「諏訪梶」が描かれていて、上社との関係を示しており、つい最近まで上社の正月の特殊神事である「蛙狩り神事」が残っていたといい、尚徳諏訪神社は五根の「明神梶」で下社との関係がうかがえるという。諏訪大社は承和九年(842)に位階を受けるまで無位勲八等であり、勲八等はもっとも下の勲階であるというから、『新抄格勅符抄』に大同八年(806)に建御名方富神が七戸の神封を受けていると記されているというが、もし諏訪大社が田村麻呂の蝦夷征討に何らかの与力を与えたとしても、朝廷はそれを高く評価したようにも見えない。
 では、実際には田村麻呂の蝦夷征伐に諏訪神社は関与していないか、関与したとしても朝廷により高く評価されるようなものでもなかったと思われるのに、何故『諏訪明神絵詞』に出雲神族の自己否定、自己矛盾ともいえる話が載るのであろうか。『諏訪明神絵詞』は延文頃(1356〜60)円忠が編んだとされ、沢村忠士氏(『悪路王伝説』)は延文二年(1357)に足利尊氏によって寺社本所領保護に関する条規が定められており、『諏訪明神絵詞』はこうした動きに対応したものであったと想像され、本文末尾の「宣旨によって以後諏方郡に田畠山谷各千町、毎年稲八万四千束……」以下のくだりは、諏訪大社が自己の権利を宣明する文であり、本文全体がその根拠を正当化し明らかにすることを目的としていたと考えられるのであるという。ただ、時期的にいえば沢村忠士氏の説も微妙である。鎌倉幕府が滅んだ後、北条高塒の次男時行は諏訪家当主である諏訪頼重のもとで育てられ、建武二年(1335)諏訪頼重らに擁立され「中先代の乱」を起こし、鎌倉を奪還する。吉田大洋『謎の出雲帝国』によると、後醍醐天皇は隠岐から各地に檄を飛ばしたが、その一通が出雲の富家にも届けられ、富家に現存するという。富家では大和の同族・菅原氏、三輪氏、さらに信濃の諏訪神家にもこれを伝え、『大和志料』では、南朝方の勤王の士として、左近将監三輪勝房(西阿)、三輪太郎左衛門尉、同依定などをあげているという。そうすると、多くの出雲神族が後醍醐天皇側に付く中で、諏訪氏は別行動をとったことになる。鎌倉を奪還したものの、結局東に向かった足利尊氏軍に敗れ、諏訪家当主の諏訪頼重・時継親子ら43人は自害して果てたが、時行は逃れ、後醍醐天皇と足利尊氏が対立すると、延元二年(1337)後醍醐天皇方の南朝に帰参し、父の高時の朝敵からの勅免の綸旨を得る。あるいは、陰で後醍醐天皇側の出雲神族が仲介したのかもしれない。時行が仇敵と手を組んだ理由としては、当時の趨勢が南朝に有利だったからという打算的判断によるもの、育ての親である諏訪頼重の仇を討ちたいという強い意志が何よりの動機であったとする説、元々持明院統(北朝)の光厳上皇と結んで活動してきたが、上皇が足利尊氏と結んで持明院統を復活させる方針に転換したのを、上皇の裏切り・切り捨てと解して、南朝と手を結んだなどの説があるようである。後醍醐天皇と手を結んだ時行は、各地で南朝側として戦い、正平七年/文和元年(1352)新田義興・新田義宗、脇屋義治らとともに上野国で挙兵し、同時に征夷大将軍に任じられた宗良親王も信濃国で諏訪直頼らと挙兵している。吉田大洋『謎の出雲帝国』によると、諏訪神家の一党三十三氏も、宗良親王に従ったという。時行が南朝側に付くと同時に、諏訪氏も南朝側に付いたわけである。時行等は鎌倉を占領するものの、結局鎌倉を逃げることになり、『鶴岡社務録』などの史料によれば、時行は足利方に捕らえられ、正平八年(1353)五月二十日鎌倉龍ノ口で処刑されたと伝わるが、洞院公賢の日記園太暦や今川了俊の難太平記などによると、時行は脱走してその行方を晦ましたとあるという。その後、正平九年・文和三年(1354)に北畠親房の死とともに南朝側は衰微していき、正平十三年・延文三年(1358)には足利尊氏も死去する。『諏訪明神絵詞』は尊氏が死ぬ前後に書かれたということになるが、諏訪神家一党が南朝側であったこと、南朝側がその勢いを失いつつあったとはいえ、南北朝時代はまだ続いていたことなどを考えると、諏訪大社が足利尊氏による寺社本所領保護に関する条規を気にしたのか疑問が残るわけである。
 鎌倉時代を通じて、諏訪大社の諏訪神家は『諏訪明神絵詞』のような物語を作らなけれならない状態にあったといえる。諏訪大社は鎌倉幕府によって優遇された一方、頼朝は奥州安倍氏の血も流れている奥州藤原氏を滅ぼしている。諏訪神家としてはその対立する二つの事実の間で、何らかの妥協点を自ら作り出さなければならない必要があったと思われる。その妥協点が、安倍氏を匂わせる安倍高丸を頼朝ではなく田村麻呂が討つという架空の話の中で、諏訪明神が田村麻呂に味方するということだったのかもしれない。そう考えると、『諏訪明神絵詞』と同じような話は、すでに諏訪大社内で鎌倉時代に作られていた可能性もあるのではないだろうか。ただ、そのような妥協に反発する力もあったかもしれない。『神道集』「諏訪大明神の秋山祭の事」(東洋文庫版)では、奥州で将軍稲瀬五郎田村丸に協力して討伐した悪事の高丸の娘を諏訪大明神は生け捕りにして御前に置いていたが、その腹に一人の王子ができたので、この宮の神主と定め、また自分は姿がないから、憐愍(れんびん)をもって自分の代わりに神という姓を与えた(原文は「我カ躰モ愍テ云神ト与ヘツ丶」)とある。建御名方命の子孫であり、諏訪明神の現人神である大祝は高丸と同族であり、高丸が奥州安倍氏と結びつくとすれば、上社大祝と奥州安倍氏は同族ということを強調しているわけである。


 『諏訪明神絵詞』のこの自己否定・自己矛盾ともいえる記述は、出雲神族の軟弱性、根性のなさ、自己保身の為には同族さえも犠牲にする心根を示しているのであろうか。もしそうなら、保守派のなかには、御所が堀や石垣に囲まれていなかったことをもって、日本の天皇がいかに日本の民衆に支持されてきた存在であるかを強調する人がいるが、それは日本の天皇が民衆に支持されているというよりも、出雲神族のような被征服民の軟弱性、根性の無さがそのような御所を可能にしたにすぎないのかもしれない。しかし、出雲神族は単に情けない臆病で軟弱な存在なのであろうか。武士化した諏訪氏を批判し、出雲神族の血脈は戦いに向いてはおらず、われわれの祖先は武力ではなく高い文明で諸国を支配したのだと語る富當雄氏の姿には、どこか誇り高い出雲神族の姿が窺われる。もしかしたら、天孫族は覇権をだけ求める存在なのに対して、出雲神族はそのようなものを超えたところで生きてきたのかもしれない。天孫族に比べ霊性の高い存在だったのかもしれないということであり、その霊性の高さが無防備な御所というものを可能にしていたのかもしれない。元々首長や王といわれる存在は、文化人類学的な研究を見るかぎり、共同体全体の支持を基盤に出現してきたように見える。それ故、日本の天皇も例えば天孫族といわれるその共同体成員によって支持され敬われる存在であろう。それ故、問題はアイヌや沖縄の人のうよな、最近日本という国の中に組み込まれた人を除いたとしても、残りの人を一口に日本人という共同体成員といえるのかどうかということである。日本人なるものは一つの共同体、一つの民族として本当に形成されているのかということである。もしそうでないなら、一つの共同体、一つの民族に向かおうとすることは否定されるべき動きではないし、逆に助長されるべきかもしれないし、実際出雲神族もその方向に向かっているとみるべきであろう。それに対し、一部、あるいは大部分の保守派の人間に、日本人は一つの民族としては形成過程にあるかもしれないという問題意識があるようには見えない。もちろん、そのように動きにアイヌや沖縄の人たちが参加するかどうかは、アイヌや沖縄の自由意志、あるいは個々のアイヌの人や個々の沖縄の人の自由意志に任されるべきことであろう。
 『悪路王伝説』で沢村忠士氏は、「柳田国男のいう古代の「神戦」は、各地の「まつろわぬ神々」を屈服させての、大和朝廷による国土統一の過程であった。…だが、東北に最後に残った「まつろわぬ神と民」蝦夷は、天つ神の軍隊に対してかつてない抵抗を繰り返した。そして、記紀神話の時代に「神戦」として終わるべき戦が、延暦の歴史時代にまで持ち越されてしまった。すでに時代は、まさに仏教立国ともいうべき奈良・天平の時代をも経ている。『まつろわぬ神と民』に対しては、仏の力こそ示されるべきであった。天つ神の子孫である天皇も仏の前に頭を垂れているのだ。全ての人間、衆生、生きとし生けるものは仏の前には平等である――この『超越神』のイデオロギーこそ、もしかしたら未だに『まつろわぬ神』の影をひきずった各地の民草、ましてや、蝦夷の民に対しては、最強の国家統一の論理であったにちがいない。」という。そして、田村麻呂が仏教への信仰に厚かったことは有名であり、「田村麻呂が右手に剣を、左手に仏典を持った最初の征夷大将軍であったことは確かだ。この島国のなかの相剋を乗りこえる力を、田村麻呂が仏教に求めたと想像することはごく自然である。元来ならば被征服者側であるべき蝦夷の末裔、東北の民衆の間に、最大の征服者田村麻呂を讃え、思慕する伝承が多いという理由の一つもここに求められるであろう。」という。沢村忠士氏の言葉では、単に東北の非征服民が自分たちにも都合のいいことなので田村麻呂の情けにすがろうとしたのか、それとも彼ら自身が勝ち負けを超えた融和を自分たちの思想として求める人たちだったので、同じ思想を持つ田村麻呂に共鳴したのかはっきりしない。しかし、後者の可能性も十分にあるのではないだろうか。おそらく、沢村忠士氏もそのことを言いたいのであろう。田村麻呂が仏教を通じて、勝ち負けを超えたところの融和、統一を求めていたのだとすると、魏石鬼八面大王の伝承に田村麻呂が出てくるのは、信濃の出雲神族にも天孫族への反発と同時に融和を求める心理もあり、それが東北の民衆の間で、恨みを感じる相手であると同時に讃え思慕する対象でもあった田村麻呂を、信濃にも登場させようとしたのかもしれない。
 この征服者と被征服者の橋渡しという役割は、沢村忠士氏によると、『鈴鹿の物語』『鈴鹿の草子』や奥州で語られた奥浄瑠璃『田村三代記』などで、大将軍田村俊宗の子利宗あるいは田村丸利仁の妻となり、協力して悪じの高丸・大嶽丸などを討った鬼神「立烏帽子」にみられ、立烏帽子は蝦夷の末裔、東北の民衆、広くはこの国のかつて「まつろわぬ神と民」だった者たちの末裔すべてによって創造された人物だという。沢村忠士『悪路王伝説』には『田村三代記』の要約が載っているが、その「第三之巻」で田村丸は立烏帽子と二人だけで、「悪じの高丸」の逃げ込んだ唐土・日本の汐境、築らが沖にある大りんが窟に向かうが、窟はとても近づける場所ではない。そこで立烏帽子が空に向かって咒文を唱えて扇をかざして招き始めると、十二の星から天から降りてきて星の舞を始める。沢村忠士氏は諏訪明神と立烏帽子、五騎の分身(十三所の王子)ぷらす黄衣の眷属と十二の星など、細部の相違はあっても、『諏訪明神絵詞』の高丸征討と『田村三代記』の「悪じの高丸」のくだりは大筋についてそっくりであるという。『鈴鹿の物語』『鈴鹿の草子』『田村三代記』の立烏帽子は『諏訪明神絵詞』の諏訪明神に繋がるといえる。そして、立烏帽子が征服者と被征服者の橋渡しという役割があったとすれば、同じことは『諏訪明神絵詞』の諏訪明神についてもいえるのではないだろうか。もしそうなら、『諏訪明神絵詞』の諏訪明神が坂上田村丸に協力する話は、出雲神族の軟弱性を示すのではなく、征服者と被征服者の対立よりは融和を求める出雲神族の心性が顕れ出たものだともいえる。

 『諏訪明神絵詞』より三十年ほど前の、元亨二年(1322)虎関師錬が撰進した『元亨釈書』に僧延鎮伝がある。沢村忠士『悪路王伝説』によると延鎮は田村麻呂が深く信仰した清水寺の僧として田村麻呂と親交が厚かったといい、僧延鎮伝では駿州清見関まで攻め上って来た高丸を追って、田村麻呂は奥州まで攻め入ったが、合戦のうちに矢種が尽きはててしまった時、小さな比丘と小さい男の子が現れて戦場に落ちていた矢を拾っては田村麻呂のところにもって来たので、戦いに勝利し、田村麻呂は神楽岡という所で高丸を射倒し、その首を獲って京に凱旋したが、その小さな比丘と男の子は勝軍地蔵・勝敵毘沙門であったというものである。『田村三代記』の立烏帽子はこの僧延鎮伝より、『諏訪明神絵詞』に影響を受けているといえるが、僧延鎮伝にも毘沙門とともに地蔵が出てくるのが気になる。坂上田村麻呂の関係でいえば、田村麻呂とも関係の深い清水寺は観音霊場なのであるから、地蔵ではなく観音が出てくるのではないだろうか。東北でも田村麻呂は観音菩薩と結びついている。
 出雲神族では地蔵はクナトノ大神の裏信仰であった。それからいえば、僧延鎮伝の地蔵とはクナトノ大神が坂上田村麻呂に協力するという話になるわけである。沢村忠士氏によれば『元亨釈書』が書かれたのは北条高時が執権として威勢を振るっていた時であるという。もしその頃に、すでに出雲神族側の神仏が坂上田村麻呂に協力するという物語があったとすれば、それは出雲神族が保身を図る政治的意図のもとに作られたともいえないであろう。もともと、出雲神族に融和を求める気持ちがあり、その中で僧延鎮伝に地蔵が出て来たとも考えられるのである。沢村忠士氏は僧延鎮伝とそれに似た『日本王代一覧』や『仙道田村兵軍記』『坂上系図』などの「高丸射殺」の伝承に出てくる神楽岡について、新旧・大小の地図を広げては神楽岡を探したが、ようやく箆岳山頂の広場が神楽岡と呼ばれていることを知ったが、同時に神楽岡という地名こそ一連の伝承が成立して創めて生まれた地名であることを確信するようになったという。「神楽岡」とは実在の地名ではなく、まさに「お神楽」の場所という意味であり、『田村三代記』で立烏帽子が演じた十二の星の舞、「諏訪明神絵詞」で諏訪明神の兵客が演じた流鏑馬の謝礼は、どちらも岩戸のうちに立て籠もった高丸を誘い出す「神楽」であり、神楽と結びつくようなそれは有名な天の岩戸神話を思い出させるという。僧延鎮伝の場合はただ単に小比丘と小男子が矢を拾い集めただけだったが、だからこそその場所はまさに「神楽岡」でなければならなかったのであるという。もし最初に僧延鎮伝が在ったとすれば、そこにおける小比丘と小男子の行動は神楽とは結びつくようには思えないから、それ以前に諏訪明神や立烏帽子が演じたのと同じような、神楽に結びつく内容を持った物語があったので、僧延鎮伝でも「神楽岡」という地名が出てくるということではないだろうか。立烏帽子についていえば、『諏訪明神絵詞』の諏訪明神が坂上田村丸を助けるという話はきわめて政治的な意味があったとしても、そのような諏訪大社側の思惑を超えて、諏訪明神に征服者と被征服者の橋渡し役を期待する民衆というものがいたし、それが立烏帽子のような人物の創作に繋がっていったといえるのではないだろうか。
 『元亨釈書』が成立する五十年ほど前に元寇があった。この国難の中で、国内の対立を超えて一致団結を図ろうという動きが生じてきたという指摘もある。あるいは、その動きの中で『元亨釈書』の僧延鎮伝や『諏訪明神絵詞』が出て来たのかもしれない。どちらにしても、征服者と被征服者の対立を超えて融和を図ろうとする時、従来の対立構造から見れば、自己矛盾するような作業も必要だということであり、それが『諏訪明神絵詞』の同族を倒そうとする田村丸に味方する諏訪明神ということになる。また、諏訪大社の神氏自身が自らそのような自己矛盾をあえてすることによって、一般民衆の相克を超えた融和をも求めるエネルギーを解放したのかもしれない。一方、朝廷側は朝廷側で、天皇の上に立つ仏というものを受け入れることによって、自己否定を行ったともいえるわけである。そう考えるなら、明治維新以後の天皇と明治政府の廃仏毀釈や諏訪大社から大祝や神長官を追い出すといった国家神道政策は、征服者・被征服者の相克を超えた真の民族統一に逆行するものであったということになる。

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