古事記にまつわる阿波の神社
18、八桙神社
古事記の上巻である「神代の巻」で多くを占めているのは大国主命にまつわる物語である。この神様が最初に登場するのは須佐之男命(すさのおのみこと)の子孫についての記述からである。大国主命は須佐之男命と櫛名田比売(くしなだひめ)の間に生まれた6代目の子孫となっている。そしてそこに、大国主命には5つの名前があるとも書かれている。その中のひとつにヤチホコノカミという名前がある。この名を冠した神社が今日尋ねた「八桙神社」である。つまりこの神社は大国主命を祀っている神社であり、式内社としての長い歴史と厚い崇拝を受け続けてきた大切な神社である。現在は国の重要文化財に指定されている。 この八桙神社があるのは、徳島県の南部、阿南市長生町宮内という、周囲が田園に囲まれたのどかな風景のなかである。地元の神社に詳しい方に聞くと昔は祭りもにぎやかだったとのことでした。
八桙神社は後ろを連なる山並みに抱かれて、日当たりのいいところに位置している。遙か手前の一の鳥居から眺めると神社はすっかり山の景色に溶け込んでおり、秋の陽だまりの中に気持ちよさそうに横たわっているかのようにも見える。八桙神社と大きく掲げられている二の鳥居から先は大木に囲まれており、石段の登り口にある三の鳥居の脇には皇太子殿下行啓記念碑が立てられている。石段を30mほど登ったところに拝殿があるが、どちらかといえば質素な雰囲気で、国の重要文化財という物々しさとはかけ離れた感じである。
古事記によると、大国主命の孫で、事代主神の甥にあたる羽山戸神(はやまとのかみ)は阿波の神である大気都比売神(おおげつひめのかみ)との間に8人の神様を生んでいる。これは一体なにを意味しているのだろうか。出雲の神である羽山戸神が多くの出雲族を引き連れて阿波へ来て、阿波の大気都比売神と結婚(もちろん当時はこんな習しはなかった)することにより阿波の地に定着していったと考えられないだろうか。そのときに出雲族の人たちは自分たちが祀っていた先祖神を阿波の国に持ち込んだことであろう。阿波に出雲の神様が多く祭られるようになるきっかけは、この結婚だったのかも知れないと思っている。ちょうど忌部一族が海を渡って房総半島に上陸したときに、その地に故郷を偲んで安房国と名づけたり、忌部の祖神を各地に祀っていったのと同じことを阿波にきた出雲族の人たちが行ったとも考えられる。
ちょうど今、地元徳島新聞に「阿波の民話」が連載されている。この阿波の民話によると、上古の阿波にはアイヌ人、天孫族、海部(アマベ)、出雲族が住んでいたようである。なかでも出雲族が特に多かったので、阿波に出雲の神を祀る神社が多いとされている。この八桙神社もその一つである。式内社で八桙神社というのはこの神社だけであり、徳島県以外には見当たらない。この神社のほかに徳島には、阿波市と勝浦郡などの事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)、美馬市の伊射奈美(いざなみ)神社、徳島市の大御和(おおみわ)神社、多邱御奈刀弥(たけみなとみ)神社などが出雲の神を祀った神社とされている。
なぜこのように多くの出雲族が阿波へ渡ってきたのか、古事記によると大国主命は国譲りの後、天の御舎に隠れてしまい、その長男の八重事代主神は青柴垣のなかに隠れ、次男の建御名方神も州羽海(すわのうみ)に閉じこもってしまい再び古事記の舞台に現われることはない。このようにして出雲族のリーダーが国譲りを契機に姿を消してしまった後には大きな政治的空白が生じたことが想像される。大国主命に従ってきた出雲の民はその後どうなったのだろうか。
古代出雲族が住んでいたとされている鳥取県大山町に国指定の妻木晩田(むぎばんだ)遺跡というのがある。その一部が発掘されているが、そこには紀元前100年から紀元300年頃にかけての古墳や住居跡が多く見つかっている。その遺跡からは、紀元200年後半から300年にかけての古代出雲王国が隆盛した後、急速に衰退していったことが見られるという。この時期はちょうど大和朝廷が全国統一を成し遂げた時期とほぼ一致するとされている。
出雲は大国主命のために出雲大社を建てるまでは良かったが、出雲の長がいなくなった後には政治的空白が生じ、一部の人たちが出雲を離れ、食糧の豊かな阿波の国に流れていったのではなかっただろうか。そのときに出雲族の人たちは自分たちが祀っていた先祖神を阿波の国に持ち込んだことであろう。ちょうど忌部一族が海を渡って房総半島に上陸したときに、その地に故郷を偲んで安房国と名づけたり、忌部の祖神を各地に祀っていったのと同じことを阿波にきた出雲族の人たちが行ったとも考えられる。
かくしてこの地に、出雲にも存在しない「式内社八桙神社」が誕生したのだ。ということは、この神社の周辺には今でも出雲族の末裔が住んでいるのだろうか。このように当時の時代背景を推察すると、この神社を国の重要文化財として敬い、そこにヤマト王権の流れを汲む皇室が参拝することの意味に初めて思いが至りました。
それにしてもこの神社の存在をどれだけの人が知っているのだろうか、ふっと寂しさも感じさせられます。