多 々 良 沼 の 歴 史
沼の変遷・動向 名前の由来 古地図・地名 沼周辺の変遷
沼の変遷・環境変化
沼 環 境 の 変 遷 年  代 内      容
 東北部の干拓事業 昭和21年
(1946年)
 村民の長年の要望と戦後の食糧増産の要請に応え、沼の東北部の湿地に堤防を築き41.5町歩(41.5ha)を干拓して水田化した。
 沼上流の澱粉工場稼働 昭和20年代~
(1945年頃~)
 多々良沼に流れ込む孫兵衛川の上流に建設された甘藷澱粉工場からの廃液流出によって沼の水質が汚染された。世に言う公害の始まりで、しばしば魚が浮いている姿が見られた。
 生活雑排水・工場排水
 ・農薬排水等の侵入
昭和40年代~
(1965年頃~)
 経済高度成長期に当たり住宅や工場建設が進み、農業の近代化が進められ、主に、沼上流の孫兵衛川に生活雑排水が侵入し、多々良川にはメッキ工場の廃液などが流入し、それぞれの上流河川には農地に散布された農薬が侵入し水質汚染が進行した。
 沼下流の木戸堰整備 昭和43年
(1968年)
 多々良川下流の旧・堰番が整備され、そのやや下流に現在の木戸堰が完成した。この結果、増水・減水における堰の開閉により急激な沼の水位変化が生じた。
 干拓地の浚渫乾田事業 昭和63年
(1988年)
 多々良沼に沈殿したヘドロの除去と干拓地の土地改良を兼ね、低質土の浚渫が行われた。これにより沼の最深部は7mを越え、死水域が生じた。
 鶴生田川導水事業と
 多々良橋下へ堰設置
平成6年~7年
(1994-1995年)
 城沼の水質浄化として、鶴生田川への導水のためポンプ機上が建設された。それにより沼水位を上げる必要が生じ、多々良橋の下流寄りに40cmの堰が設けられた。
国・県・各種団体の動き
関 連 事 項 年  代 内     容
 多々良沼ムジナモ
 天然記念物指定
大正 9年指定
(1920年)
昭和39年解除
(1964年)
 多々良沼のムジナモは明治38年(1905年)に発見され、大正9年7月17日に国の天然記念物の指定を受けた。その後、昭和25年に目撃されるものの、昭和39年に絶滅が確認され同年に指定解除された。
 日向村漁業組合 明治40年創立
(1907年)
 多々良沼を巡る、日向村と鶉村との貞享3年の争議や日向村沼持と沼持外(残歩)との争い(下記)を経て、明治40年日向村漁業組合が創立総会で決議され、明治43年認可された。
 その後、昭和25年漁業法の改正によって日向漁業協同組合が設立された。
 日向漁業協同組合 昭和25年設立
(1950年)
 邑楽町
 クリーンハイク多々良沼
平成3年~
(1991年)
 邑楽町ホタルの会と平地林研究会は、多々良沼北西部のゴミの山の状況を憂い沼中のゴミ拾いを始めた。その後、クリーンハイク多々良沼実行委員会が組織され、参加者は500人を越えるほどになっている。時期は、沼の水位が上がる前の3月下旬から4月上旬に開催される。
 多々良沼白鳥を守る会 平成 4年設立
(1992年)
 昭和53年(1978年)多々良沼に2羽のコハクチョウが初飛来した。その後、年々、飛来数が増え、白鳥の保護を主な目的に、地域住民が中心となって平成4年9月に発足した。
 多々良沼公園整備
       事業計画
昭和58年
(1983年)
 東毛地域の市町村長で構成される東毛広域市町村圏振興整備組合から多々良沼の自然環境を保護・保全するため、県事業の要望が出された。
平成 3年
(1991年)
 知事が県議会で県立公園化の検討を表明
平成 3~4年
1992-1993年)
 用地および現況調査、沼周辺の動植物生態調査を実施
平成 6年
(1994年)
 学識経験者、関係機関による「多々良沼公園整備検討委員会」が発足、「自然保全型都市公園の整備を行う」との提言がなされた。
平成 7~ 8年
1995-1996年)
 多々良沼公園基本構想を検討し、基本計画(生態環境管理計画)を策定した。
平成9年
(1997年)
 「多々良沼公園整備基本計画」を策定する。
平成10年
1998年
 県立公園として事業認可が下り、地権者に対する事業説明会が開催され、測量など具体的作業が始まる。
平成19年
(2007年)
 社会情勢の変化によりコスト縮減が求められ、「自然環境の保全・復元・維持」を重視した整備・活用計画を見直し、基本計画を修正した。
 多々良沼自然公園を
        愛する会
平成12年設立
(2000年)
 県立公園に向けて広く地元住民を募り、平成11年1月に 「多々良沼公園を考える会」 が発足した。
 その「多々良沼公園を考える会」を母体に、住民の意見を事業に反映させる公園づくりを目指して、住民主体の「多々良沼自然公園を愛する会」が発足された。本会の詳細はこちら
 多々良沼・城沼
 自然再生協議会
平成22年設立
(2010年)
 多々良沼と城沼の豊かな自然環境を保全するため、群馬県と館林市、邑楽町は、2003年1月に施行された自然再生推進法に基づく、本協議会を設立した。
 本会は、有識者の専門委員、沼の維持管理に取り組んでいる地元住民の公募委員、沼の関連団体委員と行政機関の委員から構成されている。本会のホームページはこちら
沼の争い
関 連 事 項 年  代 内     容
 日向村と鶉村との
 多々良沼争議
貞享3年
(1686年)
 日向村は榊原城主時代、寛永年中より沼役として弐貫5百文を納め沼の権利を持っていた。しかし、沼周辺は秋から春先の減水期には干あがり、鶉村・同新田村の住民はその沼周辺部の開発を年々進めていた。そのことによって沼下の住民に不都合を生じ、開発中止を求めて告訴した。

日向村から奉行所へ訴えた訴願状の要旨
 『沼は、農業用水として毎年3月より8月まで水を溜め置き、田んぼに用水を引き入れ、8月以降用水を使わない時は堰を切り払い水を流していた。これにより沼の周りは干あがり、この場所を開発して年々沼先出てかこいこみ、沼下四拾ヶ村の用水不足を来たしている。鶉村・同新田村の者、沼の中への出入りなきよう申し付けください。』       (日向村名主 3名)

幕府の裁許状の要旨
 『この沼は20石5斗の石高で日向村に申し渡し、税金を払っている。8月後の干潟の処でも、今後一切、新田開発しないこと。ただし、数年来開発した田地はそのままにして置き、また古来から沼中の小島は弁財天宮があるので、鶉村の管理とする。』
         (勘定頭・江戸町奉行・寺社奉行の役人の印)
 日向村沼持と
 沼持外(残歩)の争い
明治11年紛争
(1878年)



明治16年和解
(1883年)
 多々良沼は明治5年栃木県管轄の際、公有地として地券が発行され、「沼持」から同10年群馬県知事宛、多々良沼を民有地への改編願いが出されたことにより、明治11年沼持と沼持外の者との間に紛争起こった。これは、多々良沼は官・民有地区別未定地なりとして、沼持外の人々が「沼持」同様の入会権を主張し争議を起こした。そして、明治16年多々良沼百三十町三反五畝八歩の内、五十六町九反四畝三歩(弁天南、中丁場、下丁場)を共同の管理とすることによって和解した。

(沼持について)
 貞享3年の鶉村との訴訟のとき、争議が長年に亘ったため(寛永年中より50数年)村民はひどく疲弊し、共有権を売買するものも出て、69名にて争議一切の経費を負担し、その者が沼を管理するようになり、一切の権利を所有した。
その後、長年の間にはこの権利を質入、売買するものがあり、明治10年頃には45人が「沼持」として沼の権利を所持していた。
<参考文献> 1.日向郷土史 (発行 日向郷土史研究会 代表 福田 聡)
2.群馬県邑楽郡多々良村誌 (発行 昭和3年12月15日 多々良村役場)