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多 々 良 沼 の 歴 史 |
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出典 : 群馬県邑楽郡多々良村誌 (昭和3年12月15日 多々良村役場 発行) から抜粋 |
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◆ 口碑・伝説によれば! |
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日向村及び多々良沼に関する口碑 |
日向村の地は、往古は原野なりしが、萬壽二年(1025年)の頃、寶日向なる者来たり、沼の北岸なる今の日向新田に、居を構え、沼の水質、鋳物に適すとて、踏鞴を据へ釜を鋳造したるに創まり、因りて村を日向と名付け、沼を多々良沼と称す。多々良は踏鞴なり、今に其地金糞を出す。されば元は其所の字を金糞といひ、後新田に改む。其後、元龜元年(1570年)に至り、戸数増加して七戸となり、漸次一村をなすに至れるが、寶日向の子孫は転退して旧記なし。 |
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◆ 口碑に疑義あり! |
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前記の伝説に関して、二三の疑義 |
1 |
此伝説を眞なりとせば、今の日向新田こそ日向村の起因をなし、寧ろ本郷と称すべきものなるに、後に発展したりと称せられる方に、却って日向本郷の名称あり。其起因をなしたる地を新田と称へ、新開地を意味するは如何にや、吾人は、本郷といひ新田と称するより、寧ろ此伝説とは反対に其名称の如く、新田は後に発展し、本郷こそ其起因をなすものと、考ふるを至当と信ずるなり。 |
2 |
此伝説に従へば、萬壽年間以前は、日向村は、原野茫々として、狐狸の棲み家たりしものゝ如くなるも、日向村の本郷と称する方には、古墳塁々として現存し、而かも其年代、萬壽より少くも四五百年前のものと、判断せらるゝを見れば、村名の起源は、決して萬壽年間より始まれるにあらずして、少くも夫れより七八百年前に、現存したりと断せざるを得ず。因に記す。古墳は本郷にありて新田になし。従って、前項に記せる新田が、日向村の起因にあらざるを立証するものと云うべし。 |
3 |
萬壽二年より元龜元年までは、五百五十年間もあり。此間の発展、僅かに七戸の戸数とは、如何にしても首肯せられざるなり。況んや、夫れより以前の、天文永禄の頃に、大谷休泊は、既に此多々良沼より、休泊堀を開ける程に、此地方発展せるに於ておや。 |
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◆ 地名由来の真相は? |
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この地に、韓の帰化人、多々良公の子孫が居住して、多々良沼と名付けた。(推論) |
思ふに、多々良の地名、全国に其数少からず。山城の多々羅郷・周防の多々良村・安房の多々良村・筑前の多々羅川(糟屋川の別名)同じく多々良濱、さては相模の多々良村、尚ほ其他に多し。然かも、此等の地名、多くは韓の帰化人、多々良公の子孫が、行く先々に、多々良の地名を遣せるものなり。(中略)
察するに口碑として当地方に遣存する寶日向なる者も、是等多々良公の子孫にあらざるか。本村大字日向字新田地方に、多々良公の後裔其居を構へ、多々良と称し、本郷は、別に早くより久野村の日向と共に、日向村と称したりしを、合せ称して多々良日向といひ、寶日向なるものは其多々良日向なる地名より出でたる、或権力者の仮りの名の転訛せるものにあらざるか。記して後の研究を待つ。 |
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私の家は日向の北東の端、沼から離れた位置にあります。すぐ裏には矢場川が流れ、その北側は栃木県になりますが、以前は大日向、中日向と言われていました。私が思うに、矢場川を挟んだこの地は、陽光の照りつける地として昔から「日向」と呼ばれていたのではないか。 |
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