享徳の乱(2)康正元年の攻防
康正元年(1455)7月~康正元年(1455)12月

1455年8月
8月12日、成氏方の千葉康胤の攻撃により多古城落城、千葉胤宣は十五歳で切腹した。
14日、志摩城は原胤房が攻め落城。 翌15日、千葉胤直は腹を切った。
胤直の弟胤賢は、その子実胤・自胤をともなって坂田郷小堤(山武郡横芝光町)へ逃れる。
1455年9月
9月7日、小堤城も陥落し、胤賢も自害。 胤賢の子実胤・自胤は下総の市川城に落ち延びた。
成氏方の千葉康胤が千葉本宗家を継承する。
18日、古河公方足利成氏は上杉房顕・長尾景仲・上杉憲信らと岡部原(埼玉県深谷市)で戦う。
1455年10月
10月15日、成氏方の赤堀政綱と小山持政が宇都宮勢と木村原(栃木市)で合戦。
その後、宇都宮等綱の嫡男明綱は古河公方成氏に帰服したが、父等綱は翌年4月ごろまで古河公方成氏に抵抗した。

1455年11月
八代将軍足利義政は、東常縁・浜春利を関東に派遣。
11月13日、東常縁らの軍勢は、千葉実胤を支援する国分・大須賀・相馬氏などを率い千田荘に討ち入り、原胤房らの軍勢と合戦。 原胤房は、馬加(千葉市)まで撤退。
24日、東常縁らは、原胤房を追って馬加城へ押し寄せた。原胤房らは、千葉城へ逃れた。
東常縁は、浜春利を上総の東金城へ入れ、自らは本貫地の東の荘へ帰還した。

このころ、上杉方は古河公方に対する前線基地の騎西城に庁鼻和上杉憲信・弟憲明などが詰めていた。
1455年12月
12月、天命・只木山が成氏方によって落とされ、上杉勢は騎西城に退却した。
古河公方勢は騎西城攻撃のため、利根川を渡り、12月3日、須加で待ち受けた横瀬貞国の軍を破り騎西城へと進軍。
6日、騎西城落城。 騎西城は上杉方にとって、古河への前線基地で重要な拠点であった。
成氏は武蔵国中央部への重要な突破口を手に入れた。
敗れた上杉憲明らは庁鼻和に引き揚げた。 騎西城落城の後、深谷上杉四代上杉憲信の消息は絶え、翌年正月21日戦いの傷が元で死亡したのではないかと推測される。
12月、那須資持の軍勢が宇都宮館を攻撃。
佐竹氏は上杉方の佐竹実定が太田城に、古河公方方の佐竹義俊は太田城から追放され孫根城にあった。