長享2年(1488)2月~11月
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1488年2月
長享2年2月5日、山内上杉顕定の軍勢一千騎余りが扇谷上杉氏の本拠糟屋に向け出陣。
扇谷上杉定正はわずか二百騎の兵を率いて河越城からの長い道のりを丸一日で馳せ向かい、糟屋館と七沢城の中間地点に当たる実蒔原(伊勢原市)で合戦が起こった。
扇谷上杉定正のわずか二百騎の兵が、一千余騎の山内上杉顕定軍を撃破。
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7日、山内上杉方の上野国鳥取(前橋市)の在陣衆が長尾景春の陣所を攻撃、長尾景春は故郷白井の近辺に潜伏していた。
1488年3月
山内上杉方の葛塚(前橋市)へ古河公方に属す佐野周防守が攻めた。敵味方多くの戦死者が出る中で、赤堀上野介などの防戦で勝利。
北関東での戦いは山内上杉方が優位に推移。
24日、白井城(渋川市)の越後上杉定昌が自殺。
異母弟の房能との家督相続をめぐる問題が背後にあるといわれているが、長尾景春の手の者によって討たれたのではないかとの説もある。
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1488年5月
山内上杉顕定は扇谷上杉定正の弟朝昌が守る七沢城を攻撃して落城させた。
さらに扇谷上杉方の大森氏頼の小田原城を攻撃したのち引き上げた。
山内上杉顕定軍には伊豆の武士も参加。
伊豆国はかって山内上杉氏が守護を務め、享徳の乱の和睦の条件として堀越公方に譲っていた。
その後、越後上杉房定は、平子朝政らを白井城に入城させて越後に帰国した。
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1488年6月
山内上杉顕定とその養子憲房は、扇谷上杉の河越城に向け進軍、勝呂(小川町)に陣を張る。
この時は顕実 はまだ養子ではなかった、と言うより敵方の子だった。
扇谷上杉定正の弟朝昌と、朝昌の子で定正の養子となった朝良が河越城から遠駆けしてきて、6月18日須賀谷原(比企郡嵐山町)で合戦となる。
山内上杉家家宰長尾忠景の子顕忠と、半年前、勧農城を攻められ山内方に付いた長尾景長の軍が、遠駆けして来て疲れている扇谷上杉の軍に、高所から襲い掛かる。
扇谷上杉軍が劣勢になった所へ山内上杉憲房が横合いから攻めかかって追い立てた。
そこへ扇谷上杉定正の本体が左右から一斉に切ってかかった。
更に藤田三郎にうち勝った長尾景春が、正面から山内上杉軍に突入。山内上杉軍は正面と左右から攻められて退却。
万里集九は『梅花無尽蔵』に「戦死者七百余、倒れた馬数百疋であった」と記しており激戦だった事が覗える。
この戦いは決着のつかないまま両軍兵を引いた。
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山内上杉方には道灌の嫡男太田資康もいた、資康は9月末まで、須賀谷平沢寺の明王堂の湖畔に陣を構えていた。
また、荒川沿いの屈巣(鴻巣市)に在陣して、対岸の箕田(川里村)の扇谷上杉定正と対陣している。
三浦高救(道含)・義同(道寸)父子も扇谷上杉家とたもとを別ち、山内上杉方に加わっていた。
三浦高救は扇谷上杉家からの養子。 定正の異母兄。
高救は養子として三浦家の嫡男となったが、養父時高に実子・高教が生まれたため不和となる。
その上、高救にしてみれば兄の家臣と言う事であれば良いが、弟の家臣では面白くない、高救が扇谷上杉家に復帰して扇谷上杉家当主の座を狙っていたとしても無理はない。
三浦義同の娘は太田資康の妻となっていて、太田氏と三浦氏は姻戚関係にあった。しかしこれはもっと後の事かもしれない?