1456年1月
康正2年1月、足利成氏再び岡部原に来攻。上杉氏、防戦し成氏軍を破る。成氏方部将、岩松次郎負傷敗走する。
7日、福島橋(群馬県佐波郡)で成氏方の赤堀政綱が上杉方と交戦し、かなりの人数を討ち取る。
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19日、成氏は南図書助・簗田出羽守を派遣して千葉実胤兄弟が立て籠もる市川城を攻撃。 実胤兄弟は上杉氏を頼り武蔵へ逃れた。
実胤は武蔵千束郷(台東区)、弟自胤は武蔵赤塚郷(板橋区)を本拠とした。
このころ、上総国の武田信長は庁南城と真里谷城を築き、庁南城には信長の嫡子武田信高が入る。
安房国の里見氏は、十村の城から蜂起して国境へ軍勢を出し、あちこちを押領した。
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21日、深谷上杉氏四代上杉憲信没する。房憲家督を継ぐ。
24日、殖木・赤石(伊勢崎市)で合戦。
27日、公方成氏は岩松持国に対して、上杉方の下野国佐野と武蔵国太田への進出にそなえ、上野国古戸への出陣を命じ、さらに佐貫荘へ陣を進めるよう命じた。
28日、公方成氏は岩松持国に書状を送り蓮沼氏などの深谷周辺の住人を動員する様に命じた。
1456年2月
2月24日から26日にかけて、深巣、赤堀、大胡、山上で合戦があり、成氏方の赤堀時綱が討死。
1456年3月
このころ、宇都宮等綱、成氏方となる。
1456年4月
深谷上杉三代当主だった上杉憲長は5年前に亡くなつているが、それよりかなり前に熊谷市広瀬へ蟄居し家督を弟の憲信に譲っていた。
憲長の嫡男憲武は深谷上杉家の家督を継ぐことなく人見氏館跡に館を構え、人見屋形と称して当地方を支配していた。
深谷上杉四代上杉憲信は騎西城の攻防で受けた傷が元で1月に亡くなり、嫡男房憲が家督を継いでいる。
この深谷上杉五代上杉房憲が騎西から深谷へ移ったころ、人見屋形を称していた憲武は消息不明となっている。
深谷上杉系図の一つに憲武4月3日逝去とあり、深谷上杉家一族の中で内紛が有ったのではないかとも思われる。
4月4日、公方成氏は管領細川勝元や内大臣三条実雅に宛てた書状で和睦を申し入れている。
この時点では騎西城を攻め落とすなど、成氏方が有利に展開していた事を示す。
幕府は申し入れを黙殺。
1456年9月
9月17日、岡部原合戦。
成氏軍の中心は岩松持国これに高左京亮が加わった。 高左京亮と岩松持国の子岩松次郎が負傷、岩松一族の烏山式部が戦死。
上杉軍は上杉房定と長尾景仲が迎え撃った。 久下・井草・秋本氏などが戦死。
1456年10月
続いて10月にも人見原で合戦が行われた。
1456年11月
11月1日、上総国八幡郷(市原市)で千葉康胤と東常縁が戦う。
千葉康胤は討死。 千葉輔胤が家督を継ぐ。千葉輔胤は印東荘の岩橋城に居を構えていた。