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Koenigsbruecker Strasse, 66番地が生家。
屋根裏部屋だったそうです。
左のように柱に碑が貼りついていました。
拡大したのが上の写真です。 |
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同じ通りの48番地、4階に引っ越し。 |
さらに同じ通りの38番地、3階に引っ越し。 |

道標を撮影したかったのですが、生家周辺のは落書きがひどく、かなり離れた場所できれいなものを発見。
右は全くの余談ですが、旧東ドイツ時代の歩行者信号がかわいいと、統合後に復活して今は首都Berlinでも使われているそうです。 Ampelmanと言います。
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Koenigsbruecker Strasseを辿り、Antonstrasseとの交差点に来ました。博物館は近いはずだがと地図を眺めていたら、親切な女性が声をかけてくれました。
Kaestner博物館を目指しているのだが、すぐ近くのはずなのに方角がわからないのですと言ったら、道路を渡って右に歩けと教えてくれました。
別れ際、ドイツ語で"私は英語があまりできなくて悪いわね"とまで。いえいえ、十分助けていただきました。
ほどなく、博物館の看板を発見。下の2枚の写真は外観を示しています。肉屋として馬の取引で財を成した母方の伯父の家だったところで、彼も好んで通っていたそうです。今の姿になったのは1999年。
入り口からして歓迎されていそうなので、迷わず入ったところ、若い男性がドイツ語で何やらまくしたてます。"できれば英語でお話しできるとありがたいのですが"と返したら、脇で別の仕事をしていた女性が引き継いでくれました。
事前に博物館のsiteから英語の音声guideをdownloadしていましたが、学芸員の女性が丁寧に彼の生涯や作品について解説してくれました。こんなに手厚いmuseumは珍しいです。
話の合間に、ここに来るまでに彼の生家や引っ越し先を巡ってきたこと、数日前にはMunichで彼の墓参りをしてきたことなどを伝え、作品に関してもいくばくかの感想を語ったところ、"もしかして研究者ですか?"とすっかり誤解されてしまいました。
"いえ、しがないenginnerです"と返したら、では彼の作品に興味を持った理由を話せとの反撃。
"大学に入って友人に勧められるまで作品と縁がなかったことで、親を恨んだ。子供たちにはそんな後悔をさせたくなかったので、全集を自宅の本棚の低い位置に並べて小さいころから手に取れるようにしていた。そのせいで、子供たちは私よりもずっとまっとうな人間に育ったと思う"と説明して放免になりました。
なお、通りの名前と作品名"点子ちゃんとアントン"の関連については、確たる証拠がないそうです。 |
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館内でも説明のあった少年の像。左は敷地の中から、右は道路に出てから撮影。
Museumは朝降りた駅の近くだとわかったので、駅構内で遅めの昼食。旧市街に向かうにはtramを使うのですが、一日乗車券がどこで買えるかわかりません。駅の案内所に行ったら、二人一緒に行動するなら一日券を2枚買うより安いのがあると言われ、ここで買えますよと。 |
2024年の夏にしばらくこの街に滞在していた知り合いから、川の対岸から旧市街を眺めるといいと助言されていたので、川のほとりまでtramで移動。そこから撮ったのがtitleの写真です。雲が厚いのが惜しまれますが、確かに立派な景観です。 |
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旧市街では一カ所だけ行きたいところがありました。降りた停留所のすぐ前の薬局でユーカリのボンボンを買い込み、歩き始めます。各種のボンボンが目立つ棚に並んでいて、Viennaで探したときとは大違いでした。 |
Zwinger宮殿前を通過。 |
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Dier Fuerstenzug(君主の行列)に到着。全長102mでマイセン磁器23,000枚。戦火を免れたとは奇跡です。
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左は昼食後南下した軌跡を示します。To do listを完遂し、帰りは中央駅から。
30分ほど後に発車するICがあるとわかり、切符を買うことに。自動販売機は英語表示になるものの反応が鈍く、列車を指定して支払いの画面に推移する手前で止まってしまいます。そのままtime
overで初期画面に。何台かの端末で試しても、現象は同じ。よほどDBの通信回線が細いのでしょう。
ISDN? はたまたdial-up?
埒があかないので案内所に行ったら、窓口に並べと言われました。20-30分待ちの表示が出ていて、待っているうちに乗りたかったICは発車。結局一時間後のRBしかなくて、各駅に停車して帰りました。
これに懲りたので、二日後のKoethenからの帰りも予約しておくことに決定。帰りの時間を制約されるのは窮屈ですが、しかたがありません。 |