| 概 略 |
1206年
(建永元年) |
父時政追放により、北条義時が実権を握るが、将軍家政所下文の発行が少ないなど、政子・実朝を陰で支える控え目な政権運営だった。 |
| 1月 幕府、頼家恩賞地は大罪を犯さぬ限り没収しないと規定。 |
1209年
(承元三年) |
実朝、正四位下から従三位に昇叙。公卿として、正式に政所を開設できるようになり、親政開始。義時は政所別当となる。将軍家政所下文は、新恩給与と本領安堵を目的としており、将軍家と御家人の主従関係の根幹をなすもの。 |
| 3月 高野山がその荘園である備後国太田荘の年貢を地頭が納めないと幕府に訴える。公家・寺社などの荘園領主は、幕府が設置した地頭を勝手に解任できないため、地頭の不法行為については、荘園領主が幕府に訴え出る。太田荘の地頭は三好康信で、高野山の使者と康信の代官が実朝の御前で口論となった。怒った実朝は双方を追い出し、審理を差し置くなど、親裁している。 |
| 5月 和田義盛は実朝に上総介任官の推薦を願い出る(御家人が任官する場合、将軍を通じて申請するため)。実朝は母政子に相談するが、「侍(御家人)が受領(国司の筆頭官)になることは頼朝様の時代から禁じられている」と反対。実朝は義盛に対応を約束し、しばらく待つように命じる。頼朝時代は、国司に就任できるのは源氏一門に限られた。しかし、その後、北条氏や大江広元らは国司に任命されている。 |
| 7月 実朝は自作の和歌三十首を歌人藤原定家に送り、評価を求めた。 |
| 11月 北条義時は実朝に「弓馬の事(武芸)」を忘れないよう、諫める。 |
| 11月 義時は自らに仕えている郎従を御家人に準じた地位にしてほしいと実朝に申請。実朝から見て、家来の家来であり、陪臣にすぎない者を御家人にしては、義時の地位が他の御家人より上になる。義時は自らの権威拡大を狙った。しかし、実朝がこれを却下。北条を飛び越えようとする者がでてくるだろうから望ましくないと叔父に気を使いつつ諫めた。 |
1210年
(承元4年) |
義時の弟 北条時房が武蔵守就任。以後、武蔵国は北条氏の権力基盤となる。 |
| 6月 後鳥羽上皇に仕える北面の武士 藤原秀康が上総介に任命される。 |
1213年
(建暦3年) |
2月 千葉成胤が謀反の計画があることを幕府に通報。信濃の僧侶 安念を捕らえたところ、信濃の御家人 泉親平が首謀者で、参加者130人余り、協力者200人に及ぶという。逮捕者の中に、和田義盛の子である義直と義重、甥の胤長がいた。実朝は義直・義重は赦免されたが、胤長の赦免は拒否した。北条義時はこれに乗じて、和田義盛を挑発した。縛った胤長を義盛に見せつけた。和田義盛は抗議の意を示し、御所へ出仕しなくなった。■■■ |