Title9-3.GIF (2758 バイト) クロニクル鎌倉幕府   


概 要  
1175年
(安元元年)
 平清盛による覇権確立
 1180年
(治承4年)
 源頼朝の挙兵
 1183年
(寿永2年)
 平家の都落ちと木曾義仲の入京
 1184年(1)
(寿永三年)
 源義経上洛と木曾義仲滅亡
 1184年(2)
(元暦元年)
 平家追討軍に源範頼を派遣
1185年(1)
(元暦二年)
 義経は後白河院の同意を得て、彦島へ平家追討に向かう
 1185年(2)
(文治元年)
 源義経が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼす
1187年
(文治三年)
 源義経は奥州藤原秀衡の元へ逃げる
1189年
(建久3年)
  奥州藤原氏の滅亡
 1192年
(建久3年)
 鎌倉幕府の成立
 1198年
(建久9年)
 建久七年の政変で源通親が朝廷に影響力を持つ
 1202年
(建久11年)
 頼朝死去、13人の宿老で鎌倉殿(頼家)を支える体制へ

 クロニクル鎌倉幕府 
概要 
 1156年
(保元元年)
 鳥羽上皇崩御すると、崇徳上皇が近衛天皇を呪詛し、叛乱の準備をしているとの噂が流され、後白河天皇は平清盛や源義朝(頼朝の父)らを起用して崇徳上皇を攻撃し、捕らえ配流とした。;保元の乱
源義朝の父為朝は崇徳上皇側つき滅亡。義朝が河内源氏の棟梁となる。
 1158年
(保元3年)
 後白河天皇は二条天皇(78代)に譲位して上皇となる。
1159年
(平治元年)
 平治の乱;後白河院政派の源氏と二条親政派の平氏との抗争で、平清盛が源義朝を破る。
源氏が没落し、平氏一門による武家政権が成立。しかし、上皇、天皇とも力を落とし、武家政権が政治の軸となる。(以降1868年徳川幕府崩壊まで)
義朝の子頼朝は池禅尼に助命され伊豆に配流。頼朝13歳くらい。
1164年
(長寛2年)
 崇徳上皇が流刑先で行った大掛かりな写経の受け入れを後白河上皇に拒絶され、憤死。以降、飢饉、洪水、社会不安などや平氏の没落まで崇徳上皇の祟りとされた。
   平氏政権(1167〜1185年);今日では、この時から「中世」とする考え方が一般的。
1175年
(安元元年)
 源頼朝が、頼朝の監視役である伊東祐親の娘八重と通じ、祐親が頼朝を殺害しようとし、頼朝は北条氏へ逃げる。
   この頃、伊豆に配流の源頼朝が北条時政の娘政子と結婚。伊東祐親はすでに平清盛に取りたてられていたが、北条時政は関東土着の武士として貴種である源頼朝を婿に迎えようとした。
1177年
(治承元年)
 池禅尼の子平頼盛を脅威に思った平清盛が頼盛を失脚させる。頼盛に仕える牧宗親の娘と北条時政が結婚。平清盛に不満を持つ非主流派の関係強化とみられる。
1179年
(治承3年)
 治承三年の変;後白河上皇が平清盛によって幽閉され、院政は停止。
1180年
(治承4年)
 平清盛が高倉天皇(80代)を退位させ、娘の徳子が生んだ孫の安徳天皇(81代)を即位させる。
   後鳥羽上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ;皇族が出す命令)を発す。源行家(頼朝の叔父)が令旨を全国に配る。
   5月10日計画が漏れ、宇治川の合戦で、以仁王と源頼政(伊豆知行国主)は討死。
   源頼政の後の知行国主は平時忠(清盛の妻の弟)となり、伊豆守に平時兼、目代に山木兼隆を任命。平氏の圧力から、源頼朝の挙兵計画が具体化していった。以仁王令旨を受け取った源氏が平氏から追討されるとの噂も流れる。
   6月24日源頼朝がかつて父義朝にしたがった東国の武士に呼びかけ。
   源義仲が挙兵。
   8月6日源頼朝が8月17日に挙兵を計画。目標は伊豆国の目代 山木兼隆。まずは伊豆国の国衙機能を掌握することを目指す。
   8月9日大庭景親が、北条氏の不穏な動きに関して佐々木秀義に話す。秀義は息子定綱を使者として、北条時政に知らせる。源頼朝は後に引けなくなる。佐々木定綱は戦の準備のため帰ろうとするが、頼朝は定綱を引き留める。しかし、8月17日(挙兵)前日には戻ると約束し、定綱は帰っていった。しかし、8月16日になっても佐々木定綱らは戻らず、頼朝は不安になる。
   8月17日午後になって、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟が戻る。頼朝は感涙にむせぶが、お前たちが遅れたせいで、出陣できなかったことを叱責。夜半、出陣し、山木邸だけでなく、堤信遠邸も襲う。堤信遠は討ったが、山木邸では苦戦した。そこで源頼朝は自らを護衛していた加藤景廉・佐々木盛綱らを派遣し、山木を討ち取った。
源頼朝挙兵時の頼朝直参は北条氏の30騎を含む90騎程度であり、それに工藤茂光や千葉氏、三浦氏ら数百騎が加わった。次の目標は、伊東祐親を討つことであったが、大庭景親が頼朝討伐に動き出していた。
   8月19日兼隆の親戚である史大夫 中原知親から伊豆国蒲屋御厨(現南伊豆町)を没収するなど、行政権限を執行した。以仁王令旨に正統性を持たせて行政命令を出した。以仁王は翌1181年にも相模で生存していると噂され、それを利用した。または、頼朝に後白河法皇の院宣があったとも言われている。頼朝はすぐに上洛するのではなく、平将門のように東国に地盤を築こうとした。
   8月20日 頼朝は三浦義明から参戦の約束を取りつけていたとみられるが、三浦一族は豪雨による増水に阻まれ進軍が遅れていた。頼朝と北条時政は三浦氏と合流するため、いったん伊豆を捨て、相模に向かう。
   8月23日石橋山合戦、頼朝軍は主力を工藤茂光、北条時政、土肥実平らであり、土肥実平の本拠地土肥郷に進出したが、大庭景親軍三千騎に前方をふさがれ、石橋山(現小田原)に陣を張る。三浦勢は酒匂川東岸に達し野営。大庭方の武士の家屋を焼き払う。三浦勢接近を知った大庭景親は三浦勢が頼朝に合流する前に決着をつけようと頼朝軍に夜襲をかけた。頼朝軍は劣勢となり、土肥の椙山に逃れた。北条時政の嫡男宗時が戦死した。
   8月25日 大庭景親は弟俣野景久と駿河国目代 橘遠茂を甲斐に派遣するが、富士北麓の波志太山で安田義定・工藤氏・市川氏らの甲斐勢に敗れる。
   頼朝と北条時政・義時は別々に安房国(房総)を目指す。時政は途中、三浦半島で畠山重忠に攻められ逃げてきた三浦一族と合流した。安房国の義朝の郎党だった安西景益を頼った。頼朝は、各国の目代などを襲って、倉庫の財物を奪い、国衙機構を掌握するという戦略をとった。上総の上総広常、下総の千葉常胤らに馳せ参じるよう命じた。広常、常胤とも近隣の平氏勢力と敵対していたことによる。
   9月13日 頼朝は安房から上総に向かった。9月17日 下総に向かう。
   9月19日 上総広常以下2万騎が隅田川で頼朝に合流。房総半島を制圧した頼朝軍は2万7千騎となり、大庭景親に対して圧倒的に優位となる。武蔵の秩父平氏である畠山・小山田・河越・江戸・葛西・豊島らへの対処に向かう。
    10月2日 頼朝は隅田川を渡って武蔵に入る。豊島清元・葛西清重の出迎えを受け、10月4日畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上した。畠山重忠は三浦義明を殺しているので、三浦一族が助命に反対したが、頼朝にの説得により許された。頼朝の寛大な態度に、平家方から頼朝軍へ寝返る者が続出。大庭景親・伊東祐親ら平家家人は孤立していく。
    10月2日 頼朝は隅田川を渡って武蔵に入る。豊島清元・葛西清重の出迎えを受け、10月4日畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上した。畠山重忠は三浦義明を殺しているので、三浦一族が助命に反対したが、頼朝にの説得により許された。頼朝の寛大な態度に、平家方から頼朝軍へ寝返る者が続出。大庭景親・伊東祐親ら平家家人は孤立していく。
   10月5日 北条時政・義時が武田信義・忠顕親子へ同盟申し入れ。そのまま甲斐源氏と駿河侵攻。
   10月6日 武蔵を江戸重長に任せ、相模国へ進軍。鎌倉に入り、根拠地とした。また、鶴岡八幡宮に参拝した。頼義−義家−為義−義朝と続いてきた河内源氏の正嫡を継ぐという頼朝の政治的宣伝であったと思われる。
   10月14日 武田信義ら甲斐源氏は、駿河国鉢田山で、橘遠茂・長田入道を破る。平家方2〜3千騎が殲滅される。駿河国は甲斐源氏が支配することとなる。橘遠茂は、平維盛(清盛の孫)を総大将とする源氏追討軍(10/16に駿河高橋宿に達していた)に先んじて甲斐源氏に一撃を加えることが役割だった。
   10月18日 富士川合戦;源頼朝と甲斐源氏が、平家の追討軍を破る。平家は、鉢田合戦敗戦、飢饉による食糧不足などから武田方への投降が相次ぎ、1〜2千騎となり、戦わずに撤退した。主力だった甲斐源氏が駿河・遠江を支配。
   富士川の合戦の後、源義経が頼朝に合流。奥州藤原氏を後ろ盾としており、頼朝は義経を養子として迎える。
   富士川合戦での敗北を聞いた平清盛は、福原遷都を断念し、反乱鎮圧に専念。平清盛は激怒し、戦わず撤退した維盛の入京を禁じた。京都における平家の権威は失墜。
   10月23日 頼朝は相模の国府で、初めての論功行賞により、新音給与(新たな所領を与える)、本領安堵(先祖伝来の土地の支配を認める)を行った。これは朝廷に対する越権行為であったが、東国武士をひきつけるために行ったと思われる。
   11月4日 頼朝軍は常陸国の佐竹氏を攻めて、所領を奪う。富士川合戦で成果が得られなかった頼朝の威信回復と恩賞地を確保するため、または佐竹氏と縁戚関係にあった奥州藤原氏への牽制が目的と考えられる。
   11月17日 鎌倉に帰還した頼朝は、和田義盛(三浦義澄の甥)を侍所別当とする。
   12月12日 源頼朝は大倉御所への移徒(わたまし)の儀式。侍所で対面した311人の武士が頼朝直属の家人、「御家人」と呼ばれる。和田義盛は御家人の統括者となる。この時点で、南関東は頼朝の軍事占領下に置かれた独立国家の様相であった。
   12月 平清盛は叛乱鎮圧に専念するため、長年の悲願であった福原遷都を断念に京に還都。平家打倒の旗を掲げていた近江源氏の山本義経・柏木義兼を破り、近江を制圧。さらに、平氏は治承5年正月には美濃源氏の源光長を破る。
 1181年
(治承5年)
 12月奈良興福寺の大衆が蜂起し、鎮圧のため、平重衡(清盛の5男)は、鎮圧に向かい火を放つ。興福寺・東大寺など焼失(南都焼き打ち)。近江源氏、美濃源氏などを鎮圧。
   1月14日、高倉上皇死去;平家の朝廷支配を支えていた。清盛は幽閉していた後白河法皇を安徳天皇の後見役として復権させ、1月19日平宗盛を五畿内および伊賀・伊勢・近江・丹波の九ヵ国の惣官職(受領−目代の権限を越えて武士を統括)に任じる。また、平家が任じた惣下司を通じて九ヵ国の兵糧米を徴収できるようにした。源氏は家人組織で団結し、平家は国衙機構により軍事動員を掌握しようとした。この違いは、朝廷の命令系統に依拠しない源氏の強味となる。
   2月、平清盛死去(64歳)。平宗盛(清盛の嫡男)が、後白河上皇に政権返上。以仁王令旨の大儀がなくなる。
   3月10日 墨俣川の戦い;平重衡が美濃・尾張国境の墨俣川で源行家・源義円(源義経の同母兄)ら5千騎を撃破。しかし、養和の飢饉のため帰京。戦線膠着状態となる。木曾義仲や武田信義などが挙兵しており、それら源氏の棟梁を目指す源頼朝は後白河法皇に頼朝中心の源氏が東を平氏が西を治める和平調停案を送るが、平宗盛が拒否。
1181年
(養和元年)
 8月、平宗盛が藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任命し、源頼朝を挟撃する構えを見せる。藤原秀衡は中立を守ったが、頼朝は秀衡に不信感を抱く。
1182年
(寿永元年)
 7月 以仁王の遺児北陸宮が平家の監視下を逃れ、木曾義仲の庇護下に入る。義仲は北陸宮を天皇にするという上洛の大儀を得た。頼朝と義仲は不仲になるが、後に義仲が嫡男義高を頼朝の娘大姫の許嫁として人質にだす。
 8月 亀の前事件;政子が男児(後の頼家)を出産したとき、頼朝は密かに愛妾亀の前を伏見広綱の屋敷に囲い、通っていた。牧の方からこれを聞いた政子は、牧宗親に命じ、広綱の屋敷を破壊させた。頼朝は宗親に申し開きをさせたが、宗親の人前で髻(もとどり)を切り落とし、恥辱を与えた。北条時政は頼朝に怒り、伊豆へ帰った。義時は時政に同行せず、以後、頼朝に重用されていく。
1183年
(寿永2年)
 4月中旬、平維盛が越前・加賀を攻略。
   5月11日 平家は越中・加賀国境の倶利伽羅峠で木曾義仲・源行家らに大敗する。
   6月1日 さらに加賀国篠原で、平家4万騎が、5千騎の木曾義仲に敗れる。義仲が京都に迫る。さらに摂津源氏多田行綱が反旗を翻し大阪湾を占領したことで、東西から挟撃されることを恐れた平宗盛は安徳天皇と三種の神器を抱いて西へ落ち延びる(平家都落ち)。7月25日、後白河院は比叡山に逃れ、平家は後白河院を連れていけなかったことにより求心力を失う。また、一部平家は京に取り残され、平家一門が分裂していく。
   入京したのは、木曾義仲、源行家のほか、安田義定(甲斐源氏)、源光長(美濃源氏)、山本義経(近江源氏)ら。7月28日 義仲・行家は後白河院から平家追討を命じられる。
   しかし、7月30日 後白河の院御所での論功行賞で、勲功第一位は頼朝、二位は義仲、三位は行家とされた。軍事行動を主導したのは頼朝というのが後白河院の認識であったが、義仲の抗議により取り消され、8月10日義仲が従五位下左馬頭兼越後守、行家は従五位下備後守に補任され、頼朝との立場が逆転した。
   後白河院は平家に対し、安徳天皇の帰京と三種の神器の返還を要求するが、平家の京都復帰後に神器を返還する、と事実上の拒否回答を得る。後白河院は新天皇の擁立を決断する。義仲は安徳天皇の代わりに自らが保護していた北陸宮の天皇践祚を要求。践祚は後白河院に拒否され、関係悪化。高倉第四皇子の尊成(たかひら)親王が即位し、後鳥羽天皇となる。
   飢饉の中、義仲軍は京での食糧確保に苦労し、寺社・住宅や田畑への略奪行為に及び、これを制止できない義仲に対して朝廷の不満が高まる。9月19日、後白河院は、自ら義仲に御剣を渡し、平家追討を命じ、京から義仲を追い払う。義仲も自らの求心力を高めるため、軍事的成果を上げなければならなかった。
   義仲が平家追討のため西に向かったことで、後白河院と頼朝の間で交渉が進展する。頼朝は平家に奪われた寺社荘園を元の寺社に返還する/平家に奪われた院・公家らの荘園を返還する/降参した平家方武士の刑罰を減免する、という条件を出す。ただし、藤原秀衡・佐竹隆義が南進する可能性、京の食糧難を理由に、上洛を断った。義仲については非難した。10月 後白河院が源頼朝に東国の軍事警察権だけでなく、年貢貢納の責任と権限(=行政権)を与える宣旨(平家にも与えなかった強大な権力を与えた。朝廷としては内乱時の一時的な権限を意図した可能性も。);事実上の鎌倉幕府成立。頼朝が甲斐・近江・美濃の源氏の上に立つこととなる。(北陸の義仲の上に立つことは後白河院が避けた)
   閏10月1日 木曾義仲は備中国水島(現倉敷)で平家の水軍に敗れる。平家は屋島(現高松市)から本州への移動を検討。
   頼朝は後白河院からの上洛要請を受けて、義経ら5〜600騎を京へ覇権。藤原秀衡の脅威から大軍を上洛することはできなかった。しかし、木曾義仲はこの動きに過剰に反応し、京へ帰還し、後白河院を伴い東国へ下り頼朝を討つと強硬論を吐く。朝廷や行家らは、義仲から離反し、後白河院方につく。
   11月19日 法住寺合戦;義仲が後白河院御所である法住寺を襲い、源光長を討ち取り、前関白藤原基房と組んで後白河院を監禁し、国政を掌握した。
   12月10日 義仲の申請により頼朝追討命令が出される。
   12月 頼朝は異母弟の範頼を援軍として京に派遣。東国独立論者の上総広常が派遣に反対し、粛清される。
 1184年
(寿永三年)
 1月11日 義仲が「征東代将軍」に任命される。(940年平将門を鎮圧するため藤原忠文が任命されて以来)
   法住寺合戦以来の義仲の孤立を見て、平信兼(山木兼隆の父)ら伊勢・伊賀の平家方武士や安田義定が義経軍に合流。
    1月20日 宇治川の戦い;義経が少数と判断した義仲は北陸への撤退を取りやめ迎撃。範頼が近江の勢多を、義経が山城の宇治を攻撃。義経が義仲を撃破し、義仲は後白河院を連行しようとするも失敗し、敗走途中の近江粟津で討ち取られた。甲斐源氏は頼朝に従属していく。
   朝廷は福原に迫っていた平家の対策を協議した。九条兼実や義経に同行した土肥実平・中原親能は和平案に同意していたが、強硬論の後白河院に押し切られ、義経・範頼は1月29日に京を出発。平家2万騎に対し、源氏軍は2〜3千騎だったが、2月7日大阪湾から山陽道を進む範頼と、丹波から播磨へと内陸を進む義経に分かれ、開戦;一の谷の合戦。義経の鵯越(ひよどりごえ)で勝敗が決したと『平家物語』『吾妻鑑』ではなっているが、脚色である可能性が強い。平重衡が捕虜となった。平宗盛は後日、後白河院からの和平の申し入れがあり、使者を待っているところを源氏軍に襲われたと恨み事を述べている。
   頼朝から朝廷へ四ヶ条の申請;一 戦乱で荒廃した東山道・北陸道に来秋には受領を任命すべき、ニ 平家追討、三 神社の保護、四 悪僧(僧兵)の武装解除。しかし、頼朝は平家との和解も選択肢に持っており、平家追討を理由に朝廷の権威を利用し、畿内の武士を義経傘下に組み入れることを狙ったと思われる。平家と後白河院との和平交渉も継続したが、結局は平宗盛の後白河院への不信感から成立しなかった。
   頼朝は京へ使者を送り、義経を京都守護に、土肥実平・梶原景時に播磨・美作・備前・備中・備後の守護を命じた。この五ヵ国が対平家の最前線であった。和平交渉が決裂し、頼朝は土肥実平らを平家追討使とした。義経傘下には元平家の武士が多かったものと思われる。
   3月7日 後白河院は、義仲に与えた平家没官領を頼朝に与える。鎌倉殿の直轄領荘園群であり、関東御領の基礎となった。10月にこれらを管理するための公文所(のちの政所)を開設。中原(大江)広元・中原親能らが寄人(職員)に任命された。
1185年
(文治元年)
 3月24日 壇ノ浦の戦い;源義経が平氏を破る;平氏滅亡。安徳天皇は二位尼時子(清盛の妻)に抱かれ、三種の神器は海中へ。(鏡と勾玉は回収されるが、剣は失われ、1210年(承元4年)伊勢神宮の剣から一つが選ばれ、改めて祀られた。)このような事態を避けるため頼朝は長期戦にこだわったが、義経が平家に降伏の機会を与えず性急に攻撃した結果、頼朝の終戦構想とは異なる形で源平合戦は集結した。このことが頼朝と義経の対立の伏線となる。
   梶原景時は、頼朝に対して義経が自分一人の力で平家を滅ぼしたと勘違いして傲慢になっている、と東国武士の不満とともに告発。頼朝は和田義盛に九州武士の組織化を命じ、九州の平家所領を没収し、東国武士の不満解消に努める。
   5月平宗盛を鎌倉に護送した義経が鎌倉入りを拒否されて腰越の地で弁明書(腰越状)を書かされたが、かえって頼朝の怒りをかった(というのは『吾妻鏡』の創作か)。
   壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した後、後白河上皇の院政つづく。後白河上皇は、壇ノ浦の戦いで功のあった源義経に官位を授けて、頼朝を牽制する。
   10月6日 後白河法皇の庇護下に入って鎌倉への参向を拒否した源行家を討伐を、義経に命じるが、病気を理由に断った。頼朝は、義経が行家と結託していると判断し、鎌倉に下り、自らに従属することを求めた。京都を離れ、後白河法皇の後ろ盾を失えば、一御家人となり、平家追討の英雄である義経には耐えられなかったのではないか。
   10月13日 義経は後白河法皇に対し、頼朝追討の宣旨を求めた。後白河院が義経を煽動したとされているが、義経に脅されたとみられる。義経がこのタイミングで挙兵したのは、勝長寿院の落成供養に参加するため東国武士が鎌倉に集結し、京都に軍事的空白が生まれていたことが一因。
   義経の直属武力は、西国武士であり、反平家、頼朝の代官、そして後白河法皇により平家追討命令により統率していものであり、義経の個人的魅力によるものではない。頼朝は義経討伐のため、自ら出陣した(頼朝の出陣は、1180年の佐竹攻め以来)。義経麾下の武士たちは、頼朝に反旗を翻した義経から離反した。
   11月3日 義経と行家は、京都で頼朝を迎え撃つことを断念、九州に向けて200騎ほどで出京した。途中暴風で船が難破し、散り散りとなって逃走した。
   源義経・行家の挙兵が失敗したことを見た頼朝は上洛を中止し、北条時政に千騎の兵とともに上洛させる。後白河院は、義経・行家追討の宣旨を発給したが、頼朝の怒りは解けず、時政は強硬な姿勢を示し、11月28日義経・行家の捜索・討伐のための諸権限授与を求めた。朝廷は翌日には許可した;「文治勅許」(守護・地頭制の原型か)
   12月 頼朝は大江広元と協議し、朝廷へ改革要求。一、右大臣九条兼実を筆頭とする公卿10人を「議奏公卿」に指名し、彼らの合議で国政運営する(後白河法皇の独占防止のため朝廷の人事に介入した)。 ニ、頼朝追討宣旨発給に関与した者の解任。 三、頼朝の対朝廷交渉窓口として「関東申次」を創設し、吉田経房の就任。
1186年
(文治二年)
 時政は義経・行家を捜索をしつつ、治安維持、兵糧米徴収、所領没収などを行い、朝廷と軋轢が生じた。
   3月27日 頼朝は北条時政に代えて、妹婿で貴族の一条能保を京都守護とし、戦時から平時体制へ以降し、後白河院との和解・協調に転じた。しかし、京都の治安は悪化した。頼朝は時政が第二の義経になることを警戒したとも考えられる。
   能保は捜査網を広げ、義経派の掃討に成功、5月、源行家が和泉国で討ち取られた。6月義経の娘婿となった源有綱が討たれ、7月義経の家人 伊勢義盛が捕まって打ち首。9月義経家人の佐藤忠信が自害。義経は吉野・鞍馬・多武峰・比叡山・興福寺などを転々とした。吉野で分かれた愛妾静御前が捕らえられて鎌倉に送られた。
1187年
(文治三年)
 義経が奥州藤原秀衡のもとにいることをつかんだ頼朝は、4月朝廷に申請して使者を奥州に派遣させ、東大寺大仏のメッキ用の砂金三万両を出すように秀衡に要求した。秀衡に対する挑発だったが、秀衡はこれをやんわり断った。
   9月頼朝は朝廷に対し「秀衡は謀反人の義経をかくまい、反逆を企てている」と訴える。朝廷は奥州に使者を派遣したが、秀衡は謀反の嫌疑を否定した。頼朝が独自に鎌倉から派遣した使者の目には、秀衡は合戦の準備を進めているように映った。
   奥州藤原氏の軍事力・経済力と義経の武略が結合することは頼朝にとって脅威であり、性急な奥州侵攻はせず、外交で圧迫した。秀衡は屈せず、したたかに頼朝と渡り合ったが、10月29日病没する。
   秀衡は嫡男泰衡に義経を大将軍とするよう遺言したとされているが、動揺した藤原氏は、義経を戴いて頼朝に対抗するという路線で団結することができなかった。
1188年
(文治四年)
 2月出羽国目代と義経の間で軍事衝突。義経が奥州藤原氏から兵を預けられていることが明らかとなり、朝廷は藤原泰衡に対し、義経を引き渡すよう命じたが、泰衡の返答はなかった。10月にも改めて義経を引き渡すよう泰衡に命じている。
   朝廷は頼朝に対し、義経追討を命じようとしたが、頼朝は亡母供養の五重塔造営と自分の厄年により殺生禁断を誓っていると断る。
1189年
(文治五年)
 頼朝は武力討伐に方針転換。2月9日頼朝は九州の島津荘地頭の惟宗忠久らに対し、兵を率いて鎌倉に馳せ参じるように命じている。全国からの総動員体制だったと思われる。
   2月 藤原泰衡は、義経の居場所がわかったので引き渡すという書状を朝廷に提出。頼朝は虚言であり、信用できないと一蹴し、朝廷に対して泰衡討伐の許可を求める。義経殺害;このような頼朝の圧迫に耐えきれなくなった泰衡は、閏4月30日、義経の居館を数百騎で襲った。義経の家人が奮戦するも敗れ、義経は持仏堂に入り、妻と子を殺したうえで自害した。享年31歳。義経の首は鎌倉に届けられた。
   5月末には泰衡が義経を討ったことが京都に伝わり、朝廷は奥州征伐中止を頼朝に伝える。しかし、頼朝は2月に泰衡討伐の動員をかけており、老臣大庭景能の「軍中には将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」(戦時の行動は朝廷の制約を受けない)との助言により出兵する。朝廷は泰衡追討を追認した。朝廷の命令を無視して行動する権力が国家体制の中に位置づけられた。
   7月17日 東海道軍は千葉常胤・八田知家、北陸道軍は比企能員・宇佐美実政、大手軍は頼朝自ら率いて出陣。誇張と思われるが、『吾妻鏡』で総勢28万騎としている。7月29日に白河の関を越え、8月8日から10日にかけて阿津賀志山で泰衡軍と戦い、大将藤原国衡を討ち、大勢は決した。
   8月22日 大手軍は平泉に入ったが泰衡は逃亡していた。頼朝はさらに北上すると、泰衡から降伏の申し入れがあったが、頼朝は許さなかった。9月6日家人の裏切りによって討たれた泰衡の首が頼朝のもとに届けられた。奥州藤原氏は滅亡した。
   頼朝は泰衡討伐後も厨川(現・盛岡市)まで北上し、終戦宣言をしたのは、前九年の役における頼義の行いを再現した。頼朝は平家に勝っただけでなく、甲斐源氏、佐竹氏、木曾義仲、義経らを征し、源氏嫡流、武家の棟梁の地位を得たことのデモンストレーションでもあった。
1190年
(建久元年)
 11月7日 源頼朝上洛し、後白河上皇を威圧するも征夷大将軍は認められず。権代納言、右近衛大将に任じられるが、任官の儀式を終えると辞任する。京官を務めることを避けたと考えられる。
1191年
(建久二年)
 朝廷は次々と法令を発し(建久新制)、頼朝に平時においても治安維持権限を与える。(この時に鎌倉幕府成立とも)
1192年
(建久3年)
 6月 頼朝は鎌倉の永福寺の造営を開始。責任者は北条義時。9月義時は頼朝の仲立ちで姫の前と結婚、正室とする(その前に阿波の局との間に泰時を設けていた)。
   後白河上皇崩御(66歳)により、7月12日 後鳥羽天皇(82代)が源頼朝を征夷大将軍に任命。鎌倉幕府を開く。後鳥羽天皇は13歳で、九条兼実が関白として政治を主導した。「征東代将軍」には義仲が、「惣官」には平宗盛が就任しており、不吉なことから、坂上田村麻呂の吉例がある「征夷大将軍」となる。しかし、在位2年あまりで辞任する(元々臨時の官職だったからか)
1193年
(建久4年)
 源範頼が謀反の疑いで失脚。伊豆に流され、暗殺される。大庭景能、岡崎義実らは出家。
    5月28日 富士野の巻狩りで、曾我事件発生;曾我兄弟が親の仇である工藤祐経(頼朝有力御家人)を討ち、源頼朝殺害の陰謀が疑われる。甲斐源氏の有力一門安田義定・義資が処刑される。伊豆・駿河・遠江は北条時政の所領となる。頼朝が嫡男頼家の外戚北条時政とともに権力移行の準備をすすめる。8月、範頼は謀反の疑いにより流罪となる。
1195年
(建久六年)
 2月 頼朝は2度めの上洛。北条政子・長女大姫・嫡男頼家を伴っていた。3月12日東大寺大仏殿落慶法要に出席。頼朝も多大な支援を行い、宋の工人陳和卿らを招聘した。
1196年
(建久七年)
 建久七年の政変;11月九条兼実が関白を罷免される。娘任子も内裏から退出させられる。源通親の娘在子が後鳥羽天皇の第一子為仁を出産。近衛基通が関白・氏の長者に。頼朝は静観。頼朝の娘の大姫を後鳥羽天皇に入内。
1197年
(建久八年)
 7月 大姫が病死。頼朝の妹婿の一条能保が死亡。頼朝が対朝廷外交を行う手段も意欲も亡くしていた隙をついて、源通親は為仁親王の即位を強行した(土御門天皇)。頼朝が天皇の外戚になろうとするのは、平清盛同様の貴族化路線であり、老いた頼朝の失策との評価もあるが、これは公武対立説に基づいており、頼朝は元来、朝廷の権威を背景に源氏の嫡流として権力を確立すること、いわば「王家の侍大将」を目指していたと思われる。しかし、結果的にそれまでの武家の棟梁とは異なるものへ飛躍した。頼朝は頼家という後継者においてアキレス腱を抱えており、朝廷に対して絶対的な保護者でありながら、自己抑制的であり、結果として、幕府は朝廷の下部組織に留まった。朝廷と幕府の力関係を劇的に変化させるのは、以後の北条義時による。
1198年
(建久9年)
 後鳥羽天皇譲位し院政。土御門天皇(83代)が2歳で即位。後鳥羽上皇は、順徳天皇(84代)、仲恭天皇(85代)で院政を敷き、朝権回復に専念。
1199年
(建久10年)
 1月 落馬事故により源頼朝死去。頼家が第2代将軍に。稲毛重成が亡妻(政子の妹)の追善供養のため橋を架けた落成供養に参列した帰りに落馬して死亡した。糖尿病だったとの説も。源通親が朝廷を主導し、頼朝に与えた軍事警察権を頼家に委任。鎌倉殿の国家的役割が確定した。
『吾妻鏡』は頼朝晩年を記していない。北条政権への配慮によるものか。
   2月 京都で一条能保・高能父子の遺臣が源通親を襲撃しようとして捕らえられる。頼朝の縁戚であった一条家公卿が失脚。通親の権力が強化された。三幡(頼朝の次女)が早世し、入内工作は失敗。
   頼家を13人の宿老が合議制で支える体制がとられる。
大江広元・三好康信・二階堂行政・中原親能 ;(頼朝の独裁を支えた文士)
足立遠元 ;(武士だが公文所寄人の経験から実務能力も持つ)
三浦義澄・和田義盛 ;(相模三浦一族)
八田知家・梶原景時 ;(頼朝側近)・・・和田義盛・梶原景時は侍所別当・所司としての参加でもある。
比企能員・安達盛長・北条時政・義時 ;(東国武士として参加)
1199年
(正治元年)
  10月梶原景時が結城朝光を討つとの情報を朝光の妻阿波局(政子の妹)が知らせる。三浦義村らが大江広元に弾劾状を出す。頼家は景時に弁明を求めるが、景時は抗弁することなく本拠地の相模一宮に退去。この潔い態度に一度は許されるが、評議の結果、鎌倉追放が決まる。
1200年
(正治二年)
 1月19日景時は一宮を離れたが、謀反のため上洛したとみなされ、追討され、駿河国で討たれた;梶原景時滅亡。甲斐源氏の武田有義(信義の子)も景時と同心したとされ、弟信光に攻撃され、逃亡。阿波局は政子の妹であり、駿河国の守護は時政であることから、北条時政・政子の陰謀か。
   4月 北条時政が遠江守、従五位下に叙任される。国司に就任できるのは源氏一門に限られていたが、北条の家格が上がった。
1201年
(建仁元年)
 治承・寿永の内乱において平家寄りだった城長茂・藤原隆衡(秀衡の子)らは、梶原景時に以前命を救われており、景時死後、敵討ちのため幕府に反旗を翻す。源通親と親しく、旧平氏系武士に影響力を持つ景時に対し、東国武士が反発したことも。腹心であった景時をかばいきれなかったのは、頼家の最大の失策であった。
1202年
(建仁二年)
 頼家が従二位に叙され、征夷大将軍に宣下された。
1203年
(建仁3年)
 5月 阿野全成(頼朝の異母弟)・阿波局は千幡の乳父乳母であり、頼家に代わって、千幡を将軍にする陰謀をめぐらしていた。先手を打った頼家と比企能員は、全成を謀反人として捕らえ、常陸国に配流、6月に下野国で八田知家に誅殺され、その子頼全も京都で殺される。頼家は阿波局も捕らえようとするが、母政子に阻まれた。
   7月 頼家が重病となり、8月末に危篤状態となる。頼家危篤を受け、子の一幡が相続すると外戚である比企能員の権勢が高まることを恐れた北条時政が自邸に招いて能員を殺害。一幡も殺した。
   9月5日 病から回復した頼家は息子と舅の死を知り、激怒し、時政討伐を和田義盛・仁田忠常に命じる。しかし、義盛が北条方についたため失敗。7日政子の命により頼家は出家させられた。対応をためらっていた仁田忠常は北条派の加藤景廉に誅殺された。29日頼家は伊豆修善寺に幽閉され、1204年(元久元年)7月23日頼家は暗殺された
   後鳥羽院は千幡に実朝の名を与え、従五位下・征夷大将軍に叙任した。迅速な対応から考えると、一幡が相続しそうになり追い詰められた時政が仕組んだクーデターであった可能性が高い。
   10月3日 時政・牧の方の娘婿である平賀朝雅が京都守護に就任。時政による朝廷との関係強化の一環。
   10月8日 実朝は時政邸で元服(12歳)。以後、幕府を主導したのは北条時政であったが、時政・牧の方と義時・政子との間で主導権争いがあった。実朝の正室には足利義兼の娘が決まっていたが、(おそらく時政が)難色を示し、京都の公家坊門信清の娘を婚姻を結ぶ。後鳥羽院との関係強化が目的か。
   時政の息子政範が上洛し、16歳で従五位下に叙任される。この時、義時は42歳で従五位下であり、政範が北条家当主である時政の後継者と見られていた。しかし、11月5日 政範は京都上洛中に早世する。
1204年
(元久二年)
 11月4日 京都の平賀朝雅の屋敷酒宴で、朝雅と畠山重保(重忠の嫡子)で口論となる。
1205年
(元久2年)
 6月21日 平賀朝雅が牧の方を通じて「畠山重忠に謀反の意志あり」と時政に讒訴した。時政は一度は義時・時房に制されるが、牧の方が義時を詰問し、義時・時房・和田義盛らが重忠討伐に出陣する。22日 重保は由比ガ浜で三浦義村に討たれた。治承・寿永の内乱のとき、重忠は平家方として衣笠合戦で三浦義明を討っている。重忠が頼朝に降伏した際、三浦らは頼朝に報復を禁じられたが、その遺恨を時政が利用したと考えられる。
   鎌倉で謀反が起きたので急ぎ馳せ参じよと稲毛重成から連絡を受けた畠山重忠は、二俣川付近(現横浜市旭区)で、重保が殺されたこと、自分が謀反人として討伐されようとしていることを知った。本拠地にに引き返し態勢を立て直すべきとの意見を退け、逃げるところを討たれた梶原景時のような末路をとりたくない、と幕府の大軍に突撃し、華々しい戦死を遂げる。
   重忠に従っていたのは僅か百騎あまりであり、謀反を企てたという話は偽りだったと義時が時政をなじった。時政は重忠を陥れた罪で稲毛重成を殺した。東国支配強化のため武蔵国を支配していた畠山重忠を排除しようとした可能性もあるが、政範の死により後継ぎを失った時政の焦りからの暴走と考えられる。強引なやり方の時政に御家人たちが反発した。
   北条時政が娘婿の平賀朝雅を将軍に擁立するため、実朝の身柄を確保しようと自宅に招いたところ、北条政子と義時が、時政による実朝の拉致・監禁と判断し、三浦義村らに実朝を連れ出させる。孤立した時政を失脚させ、義時が政所別当となった。時政の権力の源泉は実朝の後見役という地位にあるが、それを否定したことは自殺行為であった。実朝の母である政子は将軍を代行できる権力を持っていた。また、三浦一族が義時に味方したことも大きく影響した。
   義時は、京都に使者を遣わし、平賀朝雅討伐をさせた。幕府の内紛により、自身の近臣である朝雅が討たれたことで、後鳥羽院は幕府に京都の治安維持を任せることに危機感を抱き、「西面の武士」と呼ばれる直属武力を編成する。
1206年
(建永元年)
 父時政追放により、北条義時が実権を握るが、将軍家政所下文の発行が少ないなど、政子・実朝を陰で支える控え目な政権運営だった。
   1月 幕府、頼家恩賞地は大罪を犯さぬ限り没収しないと規定。
1209年
(承元三年)
 実朝、正四位下から従三位に昇叙。公卿として、正式に政所を開設できるようになり、親政開始。義時は政所別当となる。将軍家政所下文は、新恩給与と本領安堵を目的としており、将軍家と御家人の主従関係の根幹をなすもの。
   3月 高野山がその荘園である備後国太田荘の年貢を地頭が納めないと幕府に訴える。公家・寺社などの荘園領主は、幕府が設置した地頭を勝手に解任できないため、地頭の不法行為については、荘園領主が幕府に訴え出る。太田荘の地頭は三好康信で、高野山の使者と康信の代官が実朝の御前で口論となった。怒った実朝は双方を追い出し、審理を差し置くなど、親裁している。
    5月 和田義盛は実朝に上総介任官の推薦を願い出る(御家人が任官する場合、将軍を通じて申請するため)。実朝は母政子に相談するが、「侍(御家人)が受領(国司の筆頭官)になることは頼朝様の時代から禁じられている」と反対。実朝は義盛に対応を約束し、しばらく待つように命じる。頼朝時代は、国司に就任できるのは源氏一門に限られた。しかし、その後、北条氏や大江広元らは国司に任命されている。
   7月 実朝は自作の和歌三十首を歌人藤原定家に送り、評価を求めた。
   11月 北条義時は実朝に「弓馬の事(武芸)」を忘れないよう、諫める。
   11月 義時は自らに仕えている郎従を御家人に準じた地位にしてほしいと実朝に申請。実朝から見て、家来の家来であり、陪臣にすぎない者を御家人にしては、義時の地位が他の御家人より上になる。義時は自らの権威拡大を狙った。しかし、実朝がこれを却下。北条を飛び越えようとする者がでてくるだろうから望ましくないと叔父に気を使いつつ諫めた。
1210年
(承元4年)
 義時の弟 北条時房が武蔵守就任。以後、武蔵国は北条氏の権力基盤となる。
   6月 後鳥羽上皇に仕える北面の武士 藤原秀康が上総介に任命される。
1213年
(建暦3年)
 2月 千葉成胤が謀反の計画があることを幕府に通報。信濃の僧侶 安念を捕らえたところ、信濃の御家人 泉親平が首謀者で、参加者130人余り、協力者200人に及ぶという。逮捕者の中に、和田義盛の子である義直と義重、甥の胤長がいた。実朝は義直・義重は赦免されたが、胤長の赦免は拒否した。北条義時はこれに乗じて、和田義盛を挑発した。縛った胤長を義盛に見せつけた。和田義盛は抗議の意を示し、御所へ出仕しなくなった。■


資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)


鎌倉幕府の歴史 日本中世史関連 日本古代史関連  クロニクル「日本」   テーマ史《INDEX》   ホーム