| ヴェネツィアの歴史 |
| ヴェネツィアは、フン族の王アッティラから逃れるために、ラグーナ(潟)に避難した住民が形成した島から始まる。産業資源が乏しいため、海運業を発展させ、その産業のために効率的な共和国制度と法律、海軍力を発展させ、地中海貿易を支配し、”地中海の女王”と呼ばれ、類稀な千年にもおよぶ共和国政治を実現した。 |
| 年代 | ヴェネツィアの歴史 | 周辺・他地域の歴史 | ||||||
| 452年 | フン族またはその王アッティラ(406~453年)のローマ帝国への侵入、殺戮と支配を避けるため、ラグーナ(潟)に逃げ込んだ住民が後のヴェネツィアを形成する。*1-P12 | |||||||
| 5C後半 | ロンゴバルト族の侵入により避難民が増え、ヴェネツィアが拡大。*1 | 475年 西ローマ帝国滅亡 | ||||||
| 697年 | はじめて住民投票により、ドージェ(終身の元首)を選出。*1-P16 | |||||||
| 8C中頃 | ヴェネツィアが司教区になる(司祭が多く、それを束ねる司教を置く必要が生じた、つまり、町の飛躍が始まったことを示している。海洋都市アマルフィは6世紀にはすでに司教区であった。)*1-P266 | |||||||
| 800年 | シャルルマーニュがイタリア半島の支配者となる。 | フランク族の王シャルルマーニュ、神聖ローマ皇帝に即位。 | ||||||
| シャルルマーニュの子ピピン、ヴェネツィアに対してビザンチン帝国の配下から神聖ローマ帝国の配下に入るよう要求するが、ヴェネツィアがこれを拒否。 | ||||||||
| ピピンは船を建造してヴェネツィアを攻めたが、ラグーナに逃げ込んで潮の干満を利用したヴェネツィアに大敗、ビザンチン帝国の傘下に残ること、神聖ローマ帝国領内での交易の自由を認めた。*1-P19 | ||||||||
| ヴェネツィアはフランクに勝利した後、首都をマラモッコから海に囲まれたリアルト(現在のヴェネツィアの中心)に移す。*1-P20 | ||||||||
| 828年 | ヴェネツィアの商人トリブーノとルスティコがエジプト アレクサンドリアのキリスト教寺院から聖マルコの御聖体を退避させるため持ち帰る。聖マルコはヴェネツィアの守護聖人となり、聖マルコ寺院建設される。*1-P22 | |||||||
| 991年 | ピエトロ・オルセオロ2世が元首(ドージェ)に就任。争う神聖ローマ帝国とビザンチン帝国から海軍力を高めたヴェネツィアを自派に引き入れようとしていた。国内の対立も発生していた。*1-P55 | |||||||
| 992年 | 元首オルセオロは、ビザンチン帝国に属することを認める代わりにコンスタンティノープルへの入港料を他国の半額程度とする条約を締結。ヨーロッパでのヴェネツィア交易品の価格競争力が高まる。ビザンチン帝国は東のセルジューク・トルコや南のサラセンに対抗するため、ヴェネツィアの海軍力を防衛力として利用しようとした。ヴェネツィアは海賊掃討の大義名分を得た。*1-P56 | |||||||
| 神聖ローマ帝国側につかなかったことは結果として、この後の皇帝派(ギベリン)と法王派(グエルフ)の争いからヴェネツィアを守ることにもなった。 | ||||||||
| 998年 | 海賊が荒らしまわる20以上のアドリア海東岸の都市がヴェネツィアに保護下に入ることを求める。海賊を掃討したヴェネツィアにビザンチン皇帝から「ダルマツィア公爵」の称号が送られた。*1-P59 | |||||||
| ヴェネツィアは配下の諸都市に完全な自治を認め、戦略要地に城壁や造船所、倉庫を建設した。18世紀はアドリア海は「ヴェネツィアの湾」と呼ばれる。*1-P60 | ||||||||
| ヴェネツィアの「海との結婚」の儀式は、ピエトロ・オルセオロ2世がダルマツィア征服を記念して始めたと言われている。 | ||||||||
| 9世紀までのヴェネツィアの主な交易品は、塩と塩漬けの魚であったが、10世紀以降海洋交易時代に入ると主要商品は木材と奴隷になる。奴隷はキリスト教化(カトリック)されていない民族、主にスラヴ人をアフリカのイスラム教徒へ兵力などとして供給した。ローマ教皇はたびたびイスラム教徒に奴隷(軍事力)と木材(軍需物資)を売ることを禁じる布告をだすが、ヴェネツィア商人はこれを聞かなかった。*1-P67 | ||||||||
| ヴェネツィアは、商業発展のため、海洋国家として船の建造、基地の建設など「高速道路」を造ることを執拗に押し進めた。また、商業のために独立を保持し、東地中海にあってはビザンチン帝国の”警察”の役割を果たした。 | ||||||||
| ヴェネツィアでは法律で船は国内で造られたものを買わなければならなかったし、国外に売ることも禁じられていた。*1-P69 | ||||||||
| 1081年 | ドゥラッツォの戦い;シチリアを征服したノルマン人がビザンチン帝国征服に乗り出そうとしており、ビザンチン皇帝からの要請を受け、ヴェネツィアがこれを阻止した。アドリア海の出口を塞がれることになるため、ヴェネツィアにとっても排除したいノルマン人だったが、ビザンチン帝国の商業特権などを要求し勝ち取っている。*1-P85 | |||||||
| 1082年 | コンスタンティノープルにヴェネツィア人居住区と領事館、倉庫、ヴェネツィア船専用の船着場が設けられる。ヴェネツィア以外の交易航路が発展した。コンスタンティノープルに1万人のヴェネツィア人がいた(本国の人口は約10万人)。*1-P84 | ヴェネツィア商人のコンスタンティノープルでの特権取得により、ビザンチン商人のライバルとなり、ビザンチンの国益に影響し始めたため、皇帝はヴェネツィアの特権を抑制しようとした。 | ||||||
| 1097年 | 第一次十字軍 イェルサレムに向け進軍開始。 | |||||||
| 1099年 | 十字軍の補給を担当していたピサの艦隊をヴェネツィア艦隊が撃破。ビザンチン皇帝は、コンスタンティノープルでのヴェネツィアの特権を保証した。*1-P86 | 第一次十字軍により、イェルサレム王国が成立(1099~1291)。 | ||||||
| ヴェネツィアは十字軍のヤッファ攻撃に協力し、先行していたジェノバやピサとパレスティーナの商業権益と同等の権利を得る。 | ||||||||
| しかし、アドリア海西岸に進出してきたハンガリー王やシチリアのノルマン人に対抗するため、約20年間十字軍支援から脱退する。 | ||||||||
| 1110年 | 1109年十字軍により攻略され、トリポリ伯領成立。 | |||||||
| 1120年 | 1118年 聖堂(テンプル)騎士団、聖ヨハネ騎士団が設立される。第一次十字軍は守りの時代へ。 | |||||||
| 1123年 | 40隻のガレー船、28隻の帆船、4隻の大型ガレー商船からなるヴェネツィア艦隊が元首ドメニコ・ミキエル指揮のもとヤッファに到着するが、十字軍に対するムスリムの包囲は解かれていた。ヴェネツィア艦隊は南下してアスカロンの沖でムスリムのエジプト艦隊を撃破した。 | |||||||
| 1124年 | ヴェネツィア艦隊も参加した十字軍によるティロスの陥落で、アスカロン以北は港はすべてイエルサレム王国などキリスト教側の支配下となる。*1-P89 | 十字軍、ティロスを奪い、パレスティナ沿岸全土を占領。 | ||||||
| 1128年 | ザンギー、バクダードのトルコ軍で実績をあげ、モスール、アレッポを支配。ザンギー朝(~1146年) | |||||||
| 1144年 | ザンギー、イェルサレム王国に対して攻勢。十字軍国家のエデッサを滅ぼす。 | |||||||
| 1147年 | 1147年 第二次十字軍はザンギー朝ヌールッディーンに敗退。 | |||||||
| 1154年 | 1154年 ヌールッディーン(ザンギーの息子、36歳)、ダマスカスに入城し、ムスリム=シリアを統一。 | |||||||
| 1163年 | 1163年 ファーティマ朝で権力争いに敗れた宰相シャワールからの援軍要請に応えてシールクーフがエジプト遠征。しかし、シャワールが復権後、十字軍と組んでシールクーフを攻撃(第一次)。シールクーフと十字軍は共に軍を引いた。 | |||||||
| 1168年 | コンスタンティノープルにおける特権の継続を渋る皇帝に対して、ヴェネツィアの元首ヴィターレ・ミキエレは、全ヴェネツィア人のコンスタンティノープルでの交易を禁止する。*1-P84 | |||||||
| 1170年 | ビザンチン皇帝とヴェネツィア元首との間で和解が成立。 | |||||||
| 1171年 | 皇帝が交代し、コンスタンティノープルでヴェネツィア排撃運動が勃発。皇帝に扇動された暴動によりヴェネツィア船は焼かれ、多くのヴェネツィア人が人質として拘束された。 | 1171年 ファーティマ朝カリフ死去。サラディン、ファーティマ朝廃絶し、自ら宰相となり、ダマスカスのカリフに従うことを宣言。アイユーブ朝創設(~1250年)。 | ||||||
| 約70の教区を行政上、六区制(運河の南北を三区ずつに分けた)を導入。 | ||||||||
| 1172年 | 市民集会で選出していた元首(ドージェ)を、共和国国会で選出し、市民集会が承認する、という形式に変更。元首の僭主化を防ぐため。 | |||||||
| 1174年 | ヌールッディーン死去。サラディン、ダマスカスを奪う。 | |||||||
| 1177年 | ギベリン(皇帝派)と教皇派(グエルフ)争いの中、ヴェネツィアは中立を保ち、1177年元首(ドージェ)セバスティアーノ・ヅィアニが神聖ローマ皇帝バルバロッサと教皇アレッサンドロ3世を招き和平協定に調印する。*1-P82 | |||||||
| 1183年 | サラディン。アレッポを奪う。エジプト、シリアを統一。 | |||||||
| 1187年 | サラディン、 ヒッティーンの会戦に勝利し、イエルサレムを占領。 | |||||||
| 1188年 | 第三次十字軍以降はパレティーナまでは海路を取る。この輸送を担ったのが、ピサとジェノヴァであった。ヴェネツィアは第四次十字軍で失地挽回するが、乗り遅れたアマルフィは海洋都市国家として衰退し始める。*1-P268 | 教皇クレメンス3世、第三次十字軍を提唱。 | ||||||
| 1190年 | ヴェネツィア共和国とビザンチン帝国の間で和解が成立し、再び交易が開始されたが、以前のような信頼関係は持てなくなっていた。*1-P90 | |||||||
| 1192年 | 第三次十字軍の英王リチャード1世とサラディンとの講和成立。イェルサレム奪回はならず。 | |||||||
| 12C以降 | 12〜14世紀、「コレガンツァ」という海上交易のための限定合資制度がリスクを分散し、ヴェネツィアの経済発展に寄与した。*1-P166 | |||||||
| 1201年 | 第四次十字軍の代表6名(フランスの騎士)がヴェネツィアを訪れ、全軍の運搬を依頼。 | |||||||
| 1202年 | 3万3,500人の運搬を依頼したが、集まった騎士、歩兵は1万人程度だった。ヴェネツィアは運搬する艦隊の建造を間に合わせた。*1-P111 | |||||||
| 騎士たちは支払いを履行することができず、ヴェネツィアも支払われるまで船を出さなかったが、ヴェネツィアの要塞ザーラがハンガリーに攻撃されており、この奪還に手を貸してくれれば、支払い猶予を延期する、との申し出があり、キリスト教徒と戦うことに躊躇はあったが、申し出を承諾した。 | ||||||||
| 11月 ザーラを占領。教皇インノケンティウス3世が激怒し、第四次十字軍は破門となる。フランス軍は釈明をして撤回されたが、ヴェネツィアの破門はそのまま。ここで越冬している間に、ビザンチン帝国皇子アレクシウスから略奪された父の帝位奪還への協力を要請があり、十字軍内での対立と紛糾の末、コンスタンティノープルを攻略することとなる。皇子アレクシウスから成功したときには、報酬(フランス兵のヴェネツィアに対する運搬費用の未払いに充当できる)、エジプト攻略時や聖地警護の兵力提供、そしてビザンチン帝国のギリシア正教をローマ・カトリック教会へ統合する、が提示された。 | ||||||||
| 1204年 | ヴェネツィア主導の第四次十字軍、コンスタンティノープルを占領。ラテン帝国を建国。 | |||||||
| 1216年 | ローマ教皇ホノリウス3世即位。第五次十字軍を提唱。 | |||||||
| 1221年 | アル・カーミルから3度目の和平提案を受け入れ、劣勢の第五次十字軍、ダミエッタ放棄とエジプトからの撤退。 | |||||||
| 1223年 | ||||||||
| 1250年 | スルタンのトゥーラーン・シャーが暗殺され、アイユーブ朝滅亡。義母のシャジャル・アッ=ドゥッルをスルタンとするマムルーク朝始まる(~1517年)。*2 | |||||||
| 1255年 | ヴェネツィアとジェノバで戦争勃発。(約100年続く) | |||||||
| 「ムーダ」(船団による定期商船航路)始まる。商船は秋に出港し、冬は海外で越冬し、翌年春に帰港する。一季節に送り出される船団は30〜50であった。主な航路は黒海方面/パレスティーな方面/アレキサンドリア方面/イギリス(フランドル)方面の4つ。 → ヴェネツィア交易の概観 | ||||||||
| 1258年 | モンゴル、バクダードを破壊、略奪。 | |||||||
| 1260年 | この時代は帆船とガレー船があり、帆船についてこの年の記録によれば、200トン以上が大型船だが、「ロッカフォルテ(城塞)級=500トン以上)」の大型船は6隻しかなく、ヴェネツィアとジェノバが各2隻保有していた。(コロンブスのサンタ・マリア号は100トン)*1-P71 → ヴェネツィアの帆船について |
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| 1261年 | ニケーア帝国パレオロゴス帝、ジェノバ商人と組み、ヴェネツィアを追放し、ビザンツ帝国を再建。 | マルコ・ポーロ、1回目の支那旅行。 | ||||||
| 1264年 | グリッロ提督率いるジェノヴァ艦隊にヴェネツィアの商船団が襲われる。偽情報により、ガレー船によるヴェネツィア護衛船団を商戦から引き離した上で襲った。 | |||||||
| 1268年 | ヴェネツィア、ビザンチン皇帝への外交交渉により再びコンスタンティノープで交易ができるようになる。 | 1271年 マルコ・ポーロ2回目の支那旅行、ヴェネツィアから出発。帰国は20年後。 | ||||||
| 1270年 | 十字軍輸送のため仏王ルイ9世、教皇クレメンテ4世などの仲介によりヴェネツィアとジェノヴァが一時休戦に。 | |||||||
| 1284年 | ヴェネツィアで初めてドゥカート金貨が造られる。1797年ヴェネツィア共和国崩壊まで高い純度を維持した。(ジェノヴァ、フィレンツェは30年前に金貨鋳造) | 1284年 メロリアの海戦;ピサがジェノヴァに大敗し、海洋都市国家として凋落する。*1-P272 | ||||||
| 1291年 | シリア、パレスティーナにおける十字軍の最後の砦アッコンがマムルーク朝により陥落。ヴェネツィアのアレキサンドリア航路、パレスティーナ航路は閉鎖された。 | |||||||
| 1294年 | ライアッツォ(小アジア)沖でジェノヴァ艦隊がヴェネツィア商船団を襲い、ヴェネツィア艦隊を破る。 | |||||||
| 1295年 | ジェノヴァはヴェネツィアを叩くためにガレー船165隻の大艦隊を出発させるが、本国の内部抗争により帰国する。 | |||||||
| ヴェネツィアはジェノヴァの居留地を襲うなど海賊行為による反撃に出る。 | ||||||||
| 1297年 | 市民集会で人気のある元首(ドージェ)が僭主化するの(君主制への移行)を防ぐ、ピエトロ・グラデニーゴによる共和国国会強化のための改革。「四十人委員会」のうち12票を獲得した共和国国会議員は終身任期とする法案が可決される。2年後、元首と6人の元首補佐官によって推薦された者で「四十人委員会」過半数の賛同を得られた者は共和国国会就寝任期の議員となる。*1-P235 → 共和国国会強化のための改革 | |||||||
| 1298年 | ヴェネツィアのガレー船90隻、ジェノヴァも同80隻でクルツォラ沖(アドリア海)で海戦。ジェノヴァが勝利する。 この時のヴェネツィア人捕虜のマルコ・ポーロがジェノヴァの牢の中で作られた旅行記が『東方見聞録』。 |
1299年オスマントルコ建国 | ||||||
| 1300年 | ジェノヴァ側の被害も甚大で、両国は講和を締結する。 | |||||||
| 1302年 | ローマ教皇が十字軍の敗北に怒り、ムスリムとのすべての通商を禁じたが、ヴェネツィアはマムルーク朝スルタンとの間で通商条約を締結。 | |||||||
| 1310年 | クィリーニ・ティェポロの反乱;教皇派の議員二名が反体制の反乱を起こすが失敗。 | |||||||
| 1318年 | サザンプトンでヴェネツィア船乗組員と住民の争いから、イギリスとヴェネツィアの国交が断絶。フランドル航路が一時中断。*1-P190 | |||||||
| 1322年 | ローマ教皇がヴェネツィアの要人を何十人も破門にした。ヴェネツィアは以後23年間、アレキサンドリアに入港しなかったが、小アルメニアのライアッツォのキリスト教徒を迂回してムスリムとの通商を続けた。(ライアッツォ航路の確立)*1-P188 | |||||||
| 1323年 | 共和国国会議員が世襲制となる。国会の権限が強化され、市民集会が有名無実化していく。 | 1326年 オスマントルコ、プルサ(小アジア西端)を占領し、首都とする。 | ||||||
| 1337年 | 英仏間の百年戦争の影響で、ヴェネツィアのフランドル航路も閉鎖される。(1380年頃再開される)*1-P190 | 英仏間で百年戦争が始まる(〜1453年)。 | ||||||
| 1343年 | ターナの住民とヴェネツィア人とトラブルから、モンゴル人領主の怒りを買い、ヴェネツィアの黒海航路も事実上閉鎖された。 | |||||||
| 1344年 | ヴェネツィアの交渉により、ローマ教皇がヴェネツィアにムスリムとの交易を許可。 | |||||||
| 1348年 | ヨーロッパにペスト流行。ヴェネツィアもジェノヴァも人口が2/3に激減し、艦隊編成が困難に。 | |||||||
| 1350年 | ビザンチン帝国防衛がヴェネツィアに依頼され、ヴェネツィアは交換条件としてジェノヴァ商人を追い出すことを求めた。これにジェノヴァが怒って、戦いが再開。1355年までに3回海戦が行われ、ジェノヴァの2勝1敗。しかし、ジェノヴァを支配するミラノ公により1355年休戦協定が締結される。 | |||||||
| ハンガリー王のダルマツィア征服に対して、ヴェネツィアは交渉により、アドリア海の制海権を持つヴェネツィアはダルマツィアに基地を置くことで妥協。 | ハンガリー王がダルマツィアを征服。 | |||||||
| 1355年 | ヴェネツィア元首マリーノ・ファリエルの陰謀;元首が船乗りなどと共同で反乱を企図し、君主制を目指すが事前に発覚し失敗。関係者は絞首刑、ファリエルは斬首刑に処せられた。*1-P248 → 1310年のクィリーニ・ティエポロの反乱とファリエルの陰謀は、ヴェネツィアが経験したただ2つの反政府陰謀であった。権力の集中がなかったことと監視の目が厳しかったことで反乱などが少なかった。*1-P251 | 1354年 オスマントルコ、ガリーポリを占領(ヨーロッパに進出)。 | ||||||
| 1362年 | オスマントルコ、アドリアノーポリを占領。 | |||||||
| 1365年 | オスマントルコ、アドリアノーポリを首都とする。ブルガリア、マケドニア、ビザンチン帝国も属国化する。 | |||||||
| 1370年 | ビザンチン皇帝、オスマントルコに対抗するためヴェネツィアに援助を求めるが、ビザンチン側がまとまらず。ヴェネツィアも対ジェノヴァで救援の余裕はなかった。 | |||||||
| 1374年 | キプロスで王の補佐の座を巡ってヴェネツィアとジェノヴァが対立。ダルマツィア問題で対応しきれず、キプロス王の信頼を失う。 | |||||||
| 1380年 | キオッジアの戦い;ビザンチン領のテネドス島をヴェネツィアが要塞化したことに反発したジェノヴァが先端を開く。ヴェネツィア南端の島をジェノヴァ艦隊に占領され、陸側からはハンガリーとパドヴァによって包囲された危機に陥る。防衛に当たったベットール・ピサーニとティレニア海でジェノヴァ船に対する海賊行為から戻ったカルロ・ゼンらの指揮により、ジェノヴァに勝利する。 | |||||||
| 1381年 | ヴェネツィアとジェノヴァの間に"トリノの講和"が成立。ハンガリー王、パドヴァの僭主、それにジェノバに影響力を持つミラノ公、パドヴァを牽制するためにオーストリア公なども参加。 | |||||||
| 1386年 | ハンガリー王がナポリ王国と争い、ダルマツィアの統治が不十分になると、ヴェネツィアは再びダルマツィアに影響力を及ぼし、コルフ島を要塞化した。 | 1385年 オスマントルコ帝国、ブルガリアのソフィアが陥落、1387年マケドニアのテッサロニケ陥落させる。 | ||||||
| 1387年 | ヴェネツィアはミラノと同盟してヴェローナの僭主スカリージェリを倒す。 | |||||||
| 1402年 | 影響力を持っていたミラノ公死去と共に、ヴェローナ、パドヴァ、トレヴィーゾがヴェネツィアの支配下に入る。ヴェネツィア、本土側に拡大。 | オスマン・トルコがチムールにやぶれ、スルタン バヤジット1世が捕虜となる。 | ||||||
| ジェノヴァは政情不安定となり、(その後、1528年間でフランス王の支配下に入り3世紀の間スペイン領となる)。約120年間のヴェネツィアとジェノヴァの戦いは、海洋国家としてのジェノヴァの退場で終わる。 | 1405年 ティムール死去。ティムール帝国崩壊(?)。 | |||||||
| 1422年 | 6月 オスマン・トルコのスルタン・ムラード、コンスタンティノープルを包囲。攻略できず撤退。 | |||||||
| 1424年 | ビザンチン帝国、トルコのスルタンの要求に屈し、20年途絶えていた年貢金の支払いと軍務を受け入れ、属国と化す。 | エジプトのマムルーク朝スルタンが紅海の支配を確立。インドー紅海ーシリア/エジプトの交易ルートの安全性が高まり、ヴェネツィアにとっては有利となる。 | ||||||
| 1430年 | スルタン・ムラードが突如マケドニアの中心都市テッサロニケを攻撃。トルコ後退期にヴェネツィアの統治下に入っていた。ヴェネツィアによる海上防衛だけではトルコの陸軍を防ぎきれなかった。 | |||||||
| ヴェネツィア政府はトルコの首都アドリアノーポリに特使を派遣し、和平条約を締結。テッサロニケを失う代わりに、トルコ領内での通商の自由と東地中海・黒海のヴェネツィア基地の所有を認められた。 | ||||||||
| 1448年 | ビザンチン皇帝にコンスタンティヌス・パレオロゴス(45歳)がつく。 | |||||||
| 1451年 | トルコのスルタンにマホメット2世(19歳)がつく。 | |||||||
| 1452年 | マホメット2世、ボスフォラス海峡のヨーロッパ側(コンスタンティノープルの北側)に城塞を築く。 | |||||||
| 1453年 | ビザンチン皇帝コンスタンティアヌスはローマ教皇や神聖ローマ皇帝、英や仏の国王、ヴェネツィアやジェノヴァなどイタリア各国に救援を求めるが、各国が戦争状態などにあり、国として救援を送らない。 | |||||||
| 防衛船団として、ヴェネツィア5隻、ジェノヴァ5隻、クレタ(ヴェネツィア系)3隻、アンコーナ・スペインのカタロニア・フランスのプロヴァンスが各1隻、計16隻。トルコ側は百隻近く。陸軍ではコンスタンティノープルの兵士を含めた全人口3万あまりに対してトルコは正規軍だけでも8万だった。 | ||||||||
| 5/23 コンスタンティノープル陥落。ヴェネツィアからヨーロッパ各国へ急使により、ローマ帝国の継承者であり東ローマ帝国ともいわれたこの国の消滅という衝撃的な情報が伝えられた。 | ||||||||
| ヴェネツィア政府は、クレタ島、ネグロポンテ、レパントの総督などに防衛施設の検分と食糧の貯蔵を指示。ガレー船50隻の建造、新任のコンスタンティノープル大使を急遽スルタンへの大使として条約更新のため赴任させた。国内では戦死者の遺族対策を行った。 | ||||||||
| ヴェネツィアは対トルコのためのイタリア内の和平協議の仲介役を教皇に依頼した。 | ||||||||
| トルコは地中海の島々やペロポネソス半島の国々に年貢を課したが、ヴェネツィアとロードス等の聖ヨハネ騎士団はこれを拒否した。 | ||||||||
| 1454年 | ヴェネツィアとトルコの間で通商条約が締結される。ヴェネツィア商人のトルコ領内での自由な通商が認められた。 | |||||||
| 北イタリアで「ローディの平和」が実現。ナポリ王国、ローマ法王庁、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国の五大国が勢力圏を確認し合い、平和を保つ体制をつくった。 | 1455年 ヴェネツィア人アルヴィーゼ・ダ・モスト、ポルトガル船でアフリカを南下し、セネガルと交易、カーボ・ヴェルデを発見、ポルトガル人船乗りの証言を記録し持ち帰る。 | |||||||
| 1463年 | 3月オスマン帝国のスルタン マホメット2世はヴェネツィア大使に、トルコ人の犯罪者をかくまったとして厳重な抗議。 4月マホメット2世はヴェネツィアからの回答を待たずにヴェネツィア領アルゴスを陥落させ、ヴェネツィア領のレパントやモドーネ周辺を略奪。 |
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| ヴェネツィアは対トルコ戦争を決断、5月総司令官ロレダンに率いられたヴェネツィア艦隊が出港。9月ハンガリア王との同盟成立、アルバニア王スカンデルベクと連携、ペルシア王にも対トルコ戦を働きかけた。ロレダンの艦隊はトルコに勝利し、アルゴスは奪回したが、レスボス島奪回には失敗した。 | ||||||||
| 1464年 | ヴェネツィア人としてはじめて教皇パオロ2世が即位。 | |||||||
| 1465年 | 2月ヴェネツィア大使パオロ・バルバリーゴがトルコとの停戦交渉、レスボス島の返還を要求したが、交渉は決裂した。 | |||||||
| 1466年 | マホメット2世、正規兵3万でアルバニア侵略。アルバニア王スカンデルベクとヴェネツィア連合軍の兵四千がこれを撃退する。 | |||||||
| 1468年 | 1月アルバニア王スカンデルベク死去。死に際してアルバニアをヴェネツィアに託す。 | |||||||
| 1469年 | トルコが艦隊建造など戦争準備をしているとの情報入る。 | |||||||
| 1470年 | 6月オスマントルコはマホメット2世自ら指揮を執り(1204年以来)ヴェネツィア領であったネグロポンテを攻撃、兵力12万、ガレー船20隻を含む250隻。ヴェネツィアは陸軍はゼロに近く、53隻のガレー船を含め71隻。ヴェネツィアの指揮官ニコロ・カナーレの慎重策のため、トルコ軍のネグロポンテ上陸を許し大敗する。 | |||||||
| 1472年 | トルコとの和平交渉が決裂したヴェネツィアは、ハンガリアとペルシアで対オスマン・トルコ包囲の協定を締結する。トルコはハンガリアと和平協定を結び、ヴェネツィアとの海戦を避けるためダーダネルス海峡からは船を出さず、10月マホメット2世は、兵19万でペルシア攻撃。ペルシア王ウズン・ハッサンは兵5万で迎え撃つ。翌年8月の戦闘でトルコが勝利。 | |||||||
| 1474年 | ヴェネツィアとの海戦は避け、騎馬隊によりヴェネツィア本土北辺のフリウリ周辺を荒らし、兵8万でアルバニアのスクータリを攻撃。アルバニア軍とヴェネツィアの代官ロレダンの協力によりトルコを撃退する。 | |||||||
| 1479年 | 1月ヴェネツィアとオスマン・トルコの講和条約締結;ヴェネツィアはネグロポンテ、ペロポネソス半島内陸部、アルバニアをトルコ領と認める。トルコはコルフ島、ペロポネソス半島のモドーネとコローネの基地、クレタ島とエーゲ海の島々をヴェネツィア領と認める。ヴェネツィアはスルタンにトルコ領内での通商料として年1万ドゥカートを支払う。全トルコ領内でのヴェネツィア人の通商と航行の自由を保障する。 | 教皇庁、イタリア諸都市、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国や自らも講和を進めていたハンガリアまでがオスマン・トルコと講和したヴェネツィアを非難した。 アルバニア人の移住希望者はヴェネツィアやその他のイタリアへ移住し、ヴェネツィアが年金などで支援した。 |
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| 1481年 | 5月マホメット2世死去(1444~46、1451~、49歳)。バヤジット2世即位(~1512)。 | |||||||
| 1489年 | ヴェネツィア、キプロス島を併合。 | 1488年5月ポルトガル人バルトロメオ・ディアス、喜望峰を発見。 | ||||||
| 1492年 | コロンブス、西インド諸島に到達。 | |||||||
| 1493年 | 5月、教皇アレクサンデル6世の教皇子午線;アフリカのヴェルデ岬西方の子午線で、大西洋のアゾレス諸島とヴェルデ諸島の間の海上を通過する経線より東側をポルトガルの、その西側をスペインの勢力圏とした。 | |||||||
| 1497年 | ジェノヴァ生まれのヴェネツィア人ジョヴァンニ・カポート、イギリス王の支援で1隻でニュー・ファウンドランド島を発見、マイアミに到達。アジアの一部だと考えていた。翌年5隻で西方航路開拓に向かったが帰港せず。 | 7月ポルトガル王マヌエル1世の命により、ヴァスコ・ダ・ガマがアジア交易路の開拓とプレスタ―・ジョンの国との親交のためリスボンを出港。 | ||||||
| 1498年 | 5月ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカレクト王国(現コーリコード周辺)に到達。通商や港湾利用税の支払いを期待していたカレクト王国に対して、ヴァスコたちは支払いをせず、インド人を拉致し、砲撃して逃げるなど通商樹立に失敗。出発時147名だった隊員のうち帰還したのは55名。 | |||||||
| 1499年 | ヴァスコ・ダ・ガマが、インド航路から大量の胡椒を持ち帰ったが、ヴェネツィアの胡椒相場に影響を与えるほどではなかった。 | ヴェネツィアはアラブ経由の香辛料貿易で利益を得ており、新航路発見には消極的だった。 | ||||||
| オスマン・トルコがヴェネツィア領モドーネとコローネを侵略。この影響で胡椒相場は急騰した。艦隊を派遣し、相場を落ち着かせた。 | ||||||||
| 1502年 | ポルトガルがインドのカルカッタを攻撃、また、香辛料を満載したアラブ船を撃沈し、香辛料相場がまた上がった。エジプトのスルタンがアレキサンドリアでの胡椒の値段を上げ、ヴェネツィアはアレキサンドリアとの取引を停止。ポルトガルに対抗するためヴェネツィアとエジプトで対応協議。 | |||||||
| 1504年 | ヴェネツィアは打開策として、スエズ運河開削を検討したが、エジプトのスルタンの反対で中止。モスクワ経由のルートや胡椒の栽培なども検討した。 | |||||||
| 1508年 | ドイツ(神聖ローマ帝国)、フランス、スペインと教皇庁が結んだカンブレー同盟と戦争開始。イタリアの独立で利害の一致していた教皇庁を敵方に回したのがヴェネツィアの失策。 | |||||||
| 1510年 | ヴェネツィアは教皇とドイツをフランスから同盟から引き離し、スペインと合同でフランスに向かわせ、フランスをイタリアから追いだすことに成功する。 | |||||||
| 1512年 | オスマン・トルコでセリム1世、父バヤジット2世を追放して即位(~1520)。 | |||||||
| 1516年 | トルコのシリア征服、翌1517年のエジプト支配確立は、ヴェネツィアの香辛料貿易の安定化、再興につながる。ポルトガルはペルシアと結んでペルシア湾の航路の安全を図ったが、一定量をペルシアに荷揚げする条件をのみ、それらの荷がバクダードを通って結局ヴェネツィア商人が扱うことになった。 | ハプスブルク王家のカルロス、スペイン王に即位。 | ||||||
| ヴェネツィアが輸入する香辛料の価格は、ポルトガル香辛料のアントワープ市場を下回り、再び活況を呈した。 | 1517年 オスマン・トルコ、メッカを領有。イスラム世界の精神的権威を手中にする。 | |||||||
| 1520年 | スペイン王カルロス、神聖ローマ帝国皇帝に即位。ドイツ、スペイン、ネーデルランド、イタリアのナポリとシチリア、ミラノ、東洋と新大陸に植民地を持つ、陽の沈まない帝国を持つ。 | |||||||
| 1520年オスマン・トルコ、セリム1世没(1512~)。スレイマン1世(大帝)即位(~1566)。西はモロッコから東はペルシア湾西岸。北はクリミアからウィーンの城壁に達する大帝国となる。 | ||||||||
| 1525年 | 神聖ローマ帝国・スペイン王カルロス5世、教皇領のパヴィアに侵攻。ヴェネツィア、教皇、ミラノ、フランス、トルコで対皇帝同盟結成。 | |||||||
| 1530年 | オスマン・トルコがスエズ運河建設に着手。ペルシア戦役の戦費調達の必要から中止される。(のちの1586年にも再開されるが、またもペルシア戦役により中止) | |||||||
| 1538年 | プレヴェザの海戦;アンドレア・ドーリアが指揮するスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊とによって戦われた海戦。イオニア海、レフカダ島沖が戦場となった。連合艦隊は統制が取れずに敗走し、オスマン帝国はクレタ・マルタを除く全地中海域の制海権を握ることとなった。 | |||||||
| 1540年 | ヴェネツィア、トルコと単独講和締結。 | |||||||
| 1550年 | 『航海と旅』(全6巻、ヴェネツィア人ジョヴァンニ・バッティスタ・ラム―ジオ著)刊行。 | 1556年、スペイン王にフェリペ2世即位。 | ||||||
| 1566年 | オスマン軍、ハンガリーのシゲト・ヴァルを包囲。スレイマン1世没(1520~)、セリム2世即位(~1574)。 | |||||||
| 1571年 | レパントの海戦;ヴェネツィアがトルコを破る。 | |||||||
| 1573年 | ヴェネツィアはトルコと単独講和を締結し、キプロス島を放棄。 | |||||||
| 1574年 | オスマン・トルコのエジプト総督シナン=パシャ、チュニスを占領;チュニジアを併合。ハフス朝滅ぶ(1228~)。 | |||||||
| オスマン・トルコのセリム2世没(1566~)、ムラト3世即位(~1595)。 | ||||||||
| 1580年 | ポルトガルがスペインに併合される。 | |||||||
| 1584年 | スペイン王フェリペ2世から、スペインのすべての香辛料を独占的にヴェネツィアに売る、ヴェネツィアに運ぶ船はスペイン艦隊が護衛する、と提案される。地中海市場を放棄するリスクとスペインの経済的支配を危惧したヴェネツィアは提案を拒否。*2-P193 | |||||||
| 1588年 | スペイン無敵艦隊がイギリスに敗れる。 | |||||||
| 16世紀 | 交易に翳りが見え始めた16世紀、ヴェネツィアは、綿、絹、毛織物、石鹸、ガラスなど手工業を発展させていく。出版業も発展する。 | |||||||
| 17世紀 | ヴェネツィアの香辛料貿易が致命的な打撃を受けるのは、オランダによるモルッカ諸島の植民地化により、産出地そのものを押さえられたから。 | |||||||
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| ヴェネツィアの歴史についての解説 | |
| ヴェネツィア交易の概観 [1255年へもどる] | |
| ギリシア方面の主な輸出品;フランドル産の毛織物・フィレンツェ産織物・ドイツの金属製品・ヴェネツィアのガラス工芸品、など。 主な輸入品;ぶどう酒・オリーブ油・果実・スパルタやテーベ産の絹・砂糖・はちみつ・蝋・染色料、など。 |
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| 黒海方面の輸入品;小麦・毛皮・皮、など。 | |
| パレスティーナ方面の輸入品;小麦・毛皮・皮、木材、など。主な輸出品;香味料・ダマスカス産の絹織物・果実・染色料、など。 | |
| アレクサンドリア方面の輸入品;香味料。輸出品;金属製品・毛織物・木材・奴隷、など。 | |
| イギリス(フランドル)方面の主な輸入品;羊毛・毛織物、など。主な輸出品;ギリシア産ぶどう酒・高級織物、など。 | |
| 海上法も整備され、積荷の制限、船長や乗組員などの規律、告訴、裁判の規定、損害賠償、船長以下乗組員、漕ぎ手が航海の時に私的に商品を売る権利、なども規定されていた。*1-P193 | |
| ヴェネツィアの帆船について [ 1260年にもどる ] | |
| この時代は帆船とガレー船があり、帆船についてこの年の記録によれば、200トン以上が大型船だが、「ロッカフォルテ(城塞)級=500トン以上)」の大型船は6隻しかなく、ヴェネツィアとジェノバが各2隻保有していた。(コロンブスのサンタ・マリア号は100トン)*1-P71 | |
| 帆船においては四角帆と三角帆があり、1300年頃になると四角帆と三角帆を備えた船も造られる。追い風では四角帆が速いが、三角帆は45°風上にも進める。*1-P71 | |
| 帆船も特に大西洋航路を持つジェノヴァでは大型化した。*1-P71 | |
| また、この頃から羅針盤、航海図、航路早見表などが作られ、航海技術が進歩した。*1-P201 | |
| ガレー船は商船でも軍船でも使われた。軍船は兵役で教区ごとにグループを作り、資金を出し合って給料とした。イタリアでは漕ぎ手は戦闘員でもあったので奴隷を使わなかった。*1-P77 | |
| 「ムーダ」(船団による定期商船航路)では「国有船」が使われ、商人を船の建造から解放し、航海のリズムの一定化の資本の回転を早めて利潤を増すことになった。また船の使用料を制限することですべての商人に均等な機械を提供した。大商人の独走を許したジェノヴァやフィレンツェとは対照的となった。*1-P191 | |
| 定期航路化はムスリムなどの通商相手にとっても、いつ、どこにキャラバンを到着させればよいか予定た立ち、結果としてオリエント香辛料市場のヴェネツィアの独占につながった。*1-P192 | |
| また、この頃からヴェネツィアで開発された複式簿記、銀行(バンコ)などにより、商業が進化した。*1-P202 | |
| 共和国国会強化のための改革 [ 1297年にもどる ] | |
| 市民集会で人気のある元首(ドージェ)が僭主化するの(君主制への移行)を防ぐ、ピエトロ・グラデニーゴによる共和国国会強化のための改革。「四十人委員会」のうち12票を獲得した共和国国会議員は終身任期とする法案が可決される。2年後、元首と6人の元首補佐官によって推薦された者で「四十人委員会」過半数の賛同を得られた者は共和国国会就寝任期の議員となる。*1-P235 | |
| これ以降、共和国国会に参加できる貴族と国政に参加できない市民に明確に分かれたが、ヴェネツィアの貴族は土地の支配や莫大な資産を持つわけではなく、国政に参加できる中産階級でしたかなかった。*1-P237 | |
| 共和国国会議員の数は、成年男子総数のおおむね3%。 1311年;1,071人 1340年;1,212人 1437年;1,300人 1490年;1,570人 1510年;1,671人 毎日曜日、元首官邸で会議が開催された。議長は元首と6人の元首補佐官。会議は傍聴席を意識した言動を防止するため非公開。*1-P236 |
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| 資料 | 『世界史大年表』 石橋秀雄他 |
| *1 『海の都の物語』 (塩野七生 著 中央公論社) | |
| *2 『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ著 |