再び 東海道を歩く(03:神奈川:田中屋) 2014.7.11
(写真は、田中屋の集合写真に収まる龍馬の妻おりょう)
今回は、京急神奈川駅で下車して、旧東海道を歩きます。
旧東海道は、すぐに上り坂となり、神奈川台に入ります。
この上り坂の左側に、本日の目的地である文久年間創業(150余年)、横浜最古の
料亭 「田中屋」があります。
東海道踏破の途中で、この田中屋の前を通った際に、後日必ずここに食事に来ようと思いました。
そして、その想いが、ようやく実現しました!
安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿・台之景」の中に描かれている「さくらや」が「田中家」の
前身です。
写真の浮世絵では、坂の上から3軒目に、田中家の前身「さくらや」の看板が見えます。
中央の大きな船がいる辺りが現在の横浜駅です。
田中家の玄関を入ると、直系の5代目女将が三味線で迎えてくれます。
三味線の音につられて、気分がウキウキしてきます!
6代目若女将が二階のお座敷に、にこやかに案内してくれます。
猛暑の中、冷房の効いた和室で、ビールと冷酒を飲みながら、会席料理を頂きます。
(坪入り、素麺かぼちゃ、赤芽、そば汁、新蓮根酢、蓮芋、鳥貝、黄身酢、鬼トマト、お多福豆、
玉ねぎとベーコンの蒲鉾)
(蟹寄せ豆腐、ブロッコリーの芽、椎茸、小メロン)
(キュウリの葉盛り、鮪、間八、ホタテ貝、彩り一式、横浜醤油)
(銀鱈婚昆布汐焼き、矢生姜、鮪松風焼き)
(海老黄身煮、里芋含め煮、信田巻き旨煮、冬瓜含め煮、隠元)
(ちりめん山椒と枝豆の炊き込みご飯、香の物、赤出し味噌、豆腐、滑子、葱)
そして、最後は、メロンと巨峰のデザートで締めです。
食後には、5代目女将が、田中家の歴史を、当家の地下から発見されたという貴重な資料を
スライドにして紹介してくれます。
スライドでは、幕末の横浜駅周辺、更に戦前・戦後の田中家周辺の貴重な写真がゾクゾクと
出てきます!
スライドによると、全盛時は、田中屋には600人の芸者がおり、横浜踊りを踊ったとのこと。
スライドを解説してくれる女将の話し方にリアリティと迫力があり、幕末から明治・大正・昭和初期
までの田中屋の情景が目に浮かんで来ます。
特に、龍馬亡きあと、龍馬の妻・おりょうが、ここに住み込みで働いていた頃のエピソードになると、
女将の説明に熱がこもります!
おりょうは、勝海舟の紹介で、田中家へ来ましたが、プライドが高く、周りの使用人とは
うまくいかなかったそうです。
気の強かったおりょうは、下の田中家の集合写真を撮るときも、仲居の身分にもかかわらず、
仲居の白い掛け襟スタイルを拒否して、誰よりも前に納まったそうです。
でも、長崎グラバー邸のグラバーから英語を教わり、ペラペラに喋れるまでに上達していたので、
外国人の接待に重宝され、ひいきの客も多かったそうです。
おりょうは、金持ちのお客に見染められて結婚しましたが、それでも、龍馬の妻としてのプライドを
持ち続けたと言われています。
更に、龍馬がおりょう宛てに書いたという貴重なラブレターの本物(※)も、階段の途中の赤丸印
の所に無造作に?展示されています!
※”すぐに長崎へ象二郎と一緒に帰るので、その時は必ずお龍さんのいる下関に少しでも寄ります
から待っていておくれ。
”
また、田中家を訪れた幕末の志士、著名人、外国からの要人をもてなしたエピソード話しで、
座は盛り上がります。
5代目女将が、田中屋を引き継いだときは、倒産寸前で、200畳の大広間を利用する客は
ほとんど無く、近所からは幽霊屋敷と呼ばれたそうです。
(上の写真が昔の田中屋の全景で、赤丸印が現在の縮小された田中屋)
マンションの地上げ屋にも負けず、江戸時代から続く田中家を潰さない様にと、一生懸命
支えてきた意気込を感じます。
店内は、いたるところに歴史を感じる写真が飾られ、どれも一見の価値あります。
二階へ上がる階段の途中には、龍馬のラブレターの他にも、伊藤博文や高杉晋作、夏目漱石や
川端康成など、田中家に投宿した多数の著名人の写真が、所狭しと展示してあります。
(写真中央は川端康成)
帰りも、大女将が三味線の演奏でお見送りです。
和食と横浜の幕末の歴史に触れた半日を堪能しました!
下の写真は、田中屋の横の階段の下から田中屋(赤丸印)を撮ったものですが、この階段を
下りて、真っ直ぐに5分位行くと、当時は海の中だった横浜駅です。
当時は、この階段は海沿いの崖だったので、田中屋の窓からは千葉の海岸を眺望出来、
欄干からは釣り糸を垂らしたそうです。
上の写真は、海側から見た昭和初期の旧東海道の全景で、赤矢印の下が田中屋です。
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6,300円(11:15〜1:30)
神奈川宿のガイドマップ、横浜醤油などのお土産付き
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