勝沼宿を進んで行くと、右手に「勝沼小学校」があります。
勝沼小学校の校門の脇には、下の写真の「勝沼学校跡」の碑がありました。
この碑に刻まれた説明文によると、明治13年の明治天皇の山梨巡行の際、ここにあった勝沼学校校舎が行在所(宿所)となりました。
この碑の脇には、下の写真の「明治天皇勝沼行在所碑」がありました。
また、校門の左手には、上の写真の左側の「ようあん坂」の標柱があります。
標柱の説明には、「勝沼宿内で最も急な坂だが、坂の名前の由来は、一説によると、天野養庵という人の屋敷が近くにあったため」と記されています。
「ようあん坂」の標柱の右側には、「海抜四〇〇米」の標石があります。
更に宿場町を歩いて行くと、左手に写真の「護念寺」がありました。
境内の墓地には、「柏尾の戦い」で、官軍方でただ1人戦死した「因幡藩士・木村伊助武則」の墓がありました。
板垣退助が率いる官軍は、因幡(いなば)藩(鳥取県)、諏訪藩、土佐藩で構成されていました。
官軍の死者が1人だけだったのは、「柏尾の戦い」が一方的な戦いだったからです。
近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊(新選組)は、抜刀戦に強い新選組70人と、農民約200人の混成部隊でした。
農民たちは、支給されたミニエー銃の扱いに不慣れなうえに、大砲の弾を逆に装填して撃ってしまう等、お粗末で一方的な戦いになってしまいました。
一方、板垣退助の率いる官軍は、洋式兵法に精通していました。
近代式戦闘に不慣れな甲陽鎮撫隊は、激しい銃弾を浴びて、僅か2時間で壊滅し、ほとんどの農民兵は戦闘を放棄して脱走してしまいました・・・
当初、近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊は、甲府方面の官軍を迎撃するための軍資金として、幕府から5,000両も支給されました。
5,000両もの大金を手にした甲陽鎮撫隊は、気が大きくなり、甲府へ向かう際には、豪遊しながら行軍しました。
江戸城の無血開城を企てていた勝海舟は、その妨げとなる新選組に大金を与えて、体よく甲府方面に追い払ったのではないでしょうかね・・・
(「柏尾の戦い」については、「甲州街道を歩く・ 28-4:鶴瀬から勝沼へA」を見てね。)
(「甲陽鎮撫(新選組)」の近藤勇については、「甲州街道を歩く: 日野、 猿橋、大月」を見てね。)
国道411号(旧甲州街道)を進むと、左手の整骨院の前に写真の「地蔵尊」ありました。
更に進むと、上の写真の1809年建立の「秋葉山常夜燈」があり、その横には下の写真の「丸石道祖神」が祀られています。
「等々力」の信号を渡ります。
右手の奥に、ここ等々力の守り神の「諏訪神社」があります。
境内のケヤキは、推定樹齢300年です。
少し進むと、下の写真の古民家を利用した「ほうとう」で有名な「皆吉」(みなき)があります。
お昼過ぎでお腹が空いたので、ここで「山梨名物・ほうとう」を食べようと楽しみにしていたのですが、お店が閉まっています?
またまたコロナのため休館かと思って近づいてみると、定休日でした!
お腹が空いた〜ょ!
皆吉の先には写真の「地蔵堂」があり、「延命地蔵尊」が安置されています。
地蔵堂の前には、1830年建立の「常夜燈」と、「丸石道祖神」が並んでいます。
この辺りも、ブドウ園が延々と続きます。
国道411号を更に進むと、右手に上の写真の「白百合醸造ロリアンワイン」があり、ワイン工場の見学や試飲が出来ますが、ここも、
またまたコロナのため休館中でした・・・
しかし、よく見ると、何となく見覚えのある風景だと思ったら、ずっと以前に家族連れでこの工場を見学に来ていました。
上の写真はそのときに工場内を撮影したものです。
甲州市から山梨市に入ります。
上の写真の上栗原交差点の辺りから、次の「栗原宿」が始まります。
勝沼宿から栗原宿までは約3キロです。
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