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甲州街道を歩く (28:鶴瀬) (山梨県甲州市)  2021.6.23




(写真は、武田勝頼公 腰掛石)



 


新横浜から八王子経由で、中央本線に乗り、「JR甲斐大和駅」で下車して、路線バスで前回のゴールの「日陰のバス停」へ向かいます。

新横浜 5:44 →(JR横浜線)→ 6:30 八王子 6:35 →(JR中央本線)→ 7:38 甲斐大和 8:05 →  路線バス  → 8:10 日陰



(JR甲斐大和駅)



JR甲斐大和駅の駅前の跨線橋を渡った広場には、写真の「武田勝頼」像がありました。



説明版によると、ここ甲斐大和は、武田勝頼が自害した武田家終焉の地だそうです。

 



「JR甲斐大和駅」の前から路線バスに乗り、前回のゴールの「日陰バス停」で下車します。

日陰バス停の「日陰」の以前の地名は、「駒飼」だったそうです。







バス停の近くの私が宿泊を予定していた「旧旅籠・大黒屋サンガム」の向いに「甲州街道」の標柱があります。

(旧旅籠・大黒屋サンガムについては、前回の「駒飼宿」を見てね。)             

                                                           

この辺りが駒飼宿の西口でした。





急な坂をどんどん下りて行きます。 





笹子沢川を古道橋で渡ります。











上の写真は、崖の僅かなスペースに造られた我家の”猫の額ほどの畑”よりも少し広いくらいの畑です。

絶壁の崖に造られたこの畑に、山国・山梨の耕作地確保の執念を感じます。

中央自動車道の赤い鉄橋をくぐると、左手に下の写真の石仏石塔がありました。





急な下り坂は、大和橋西詰交差点に突き当たるので、この交差点を左折して、国道20号に合流します。







国道20号を進むと、右手に庭石店がありますが、この庭石店の道路向こうの上り坂に、写真の「武田勝頼公 腰掛石」の矢印がありました。







矢印に従って、急な坂を上って行くと、Y字路で、表示が無いので右か左か迷います? 



取り敢えず、右の道を進むと個人のお宅の庭に入ってしまいました・・・



間違えたと思い引き返そうとして、庭の奥をふと見ると、民家の裏に「武田勝頼公 腰掛石」の標柱が立っています?



標柱の脇の説明版によると、武田勝頼は、小山田信茂の裏切りを、この場所で知って、苦渋の選択を迫られたそうです。

(小山田信茂の裏切りについては、「駒橋宿」と「初狩宿」を見てね。) 

                                    



石の表面に、武田家の家紋の武田菱が浮いて見えるところから、菱石とも呼ばれたそうです。

個人のお宅の庭の中にある「武田勝頼公 腰掛石」を見終わり、来た道を国道20号まで戻り、日川を立合橋で渡ります。



この日川は、武田勝頼勢の自刃による流血で、流れが三日濁ったので、三日川とも呼ばれるそうです。





その先で、国道20号から左手の細い道に入ると、写真の「金岡自画地蔵尊碑」がありました。



説明版によると、金岡という大和絵の巨匠が、ここにあった岩に地蔵尊を彫りました。

その地蔵尊は、時とともに消えてしまいましたが、水をかけると地蔵尊の絵が浮かび上がったそうです。

地蔵尊が彫られたこの岩は、残念ながら、明治40年の日川の洪水で流失してしまったそうです。



地蔵尊碑の先の右手に、写真の「鶴瀬関所跡」の標柱があります。



ここ鶴瀬の関所は、”甲州12関”の一つで、「鶴瀬の口留番所」とも呼ばれ、物資の流通と、入鉄砲に出女を厳しく取り締まりました。

この関所から先が「鶴瀬宿」です。

鶴瀬宿は、本陣1、脇本陣2、問屋1、旅籠4軒でした。

この前の「駒飼宿」と合宿で、問屋業務は毎月1日から20日までをここ鶴瀬宿が勤めました。



鶴瀬関所跡の標柱の先の鶴瀬交差点を横断します。



ここ「鶴瀬」の地名は、「都留(つる)郡」の背(瀬)に当たるところに由来しているそうです。



鶴瀬の宿場町の右手に、1803建立の常夜燈があり、石尊大権現と刻まれています。

この常夜燈の先で国道20号に合流して、鶴瀬宿を後にします。


駒飼宿から鶴瀬宿までは約1キロです。


 


   

(写真は、歩道が無い「長柿洞門」)

 



鶴瀬宿を後にして、国道20号に合流して歩いて行きます。


矢久保沢に架かる橋を渡ります。  

国道20号は、やがて中央高速道と並行して走るようになります。

国道20号沿いの坂の上に真竜寺があり、真竜寺への参道口の上り坂が、志々久保バス停の脇にありました。 





真竜寺の参道口の坂を上って行くと、上の写真の農作業中のオジサンに出会ったので声を掛けて挨拶します。

う〜ん、挨拶しても返事がない?

近視の私が近づいてよく見ると・・・、オジサンは案山子?でした。(-_-;) 



(真竜寺)







国道20号に戻り、暫く歩くと、石段の奥に小社が祀られています。



国道20号(甲州街道)を更に進むと、写真の「長柿(おさがき)洞門」が現れます。



旧甲州街道は、この長柿洞門の手前の右手の上り坂です。 

この上り坂の先に、観音堂があるらしいです。



坂をのぼり始めると、直ぐに上の写真のY字路の分岐がありました。

観音堂への表示が無いので、左手の石段を上るか、右手の狭い舗装された小道を上るか迷います。

暫く迷った末に、右手の狭い舗装された小道を上って行きます。 

















断崖絶壁の遥か下の国道20号を、ダンプ(赤丸印)がブンブン走っています。

足を滑らせたらダンプにひかれて即死です・・・





坂道のあちこちが、倒木で塞がれているので、ゆっくりと慎重に乗り越えて進みます。





狭い舗装された小道は、延々と続く九十九折になっています。 

小道の右側は、ほぼ90度の絶壁で、下を見ると恐怖で膝が震えるので、出来るだけ崖側を見ない様にして、ゆっくりゆっくりと進みます・・・

 

かなり坂を上ったところで、木々の間から、上の写真の様に、神社の屋根が見えます?

ひょっとして、先程の分岐で左側の石段を進むべきだったのに間違えた?

せっかくここまで上って来たので、取り敢えず、もう少し坂を上ってみます。 



狭い舗装された小道は墓地で行き止まりになりました。

思ったより大きな墓地で、新しい墓も目立ちます。

しかし、いかに平地が少ない土地柄とはいえ、墓参りするのに命の危険がある様な場所に、なぜ山梨県の人は墓を作るのか?、理解に苦しみます・・・

ゆっくりゆっくりと来た小道を、先程判断を間違えたY字路の分岐まで戻ってきます。

持病の股関節炎を考え、Y字路の分岐から観音堂への石段の再挑戦は止めにして、下の写真の「長柿(おさがき)洞門」まで戻ります。 









長柿洞門に入りますが、途中から歩道が無くなります?・・・

洞門の途中に、左に出る小道がありました。

 





雑草の茂る小道を進むと、左手に「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲」の芭蕉句碑がありました。

(句意:深川の芭蕉庵で病に伏していた時の句で、遥か遠くに浅草観音の方角に目をやると、雲と見まがうばかりの桜が咲いている中に、
観音の屋根が眺められる。)




芭蕉句碑の先で、国道20号に合流します。



上の写真の観音トンネル西の信号を右折して、国道20号から分かれて旧甲州街道に入ります。



旧甲州街道の左手の崖の中程には、私がY字路の分岐を間違えたために行けなかった、あの観音堂から下りてくる狭い山道が見えます。

旧甲州街道は、上の写真の様に、ここから右に大きく円形状に回り込み、下の写真の様にして、先程通って来た国道20号の下をくぐります。 





左手に「古跡・武田不動尊」の標柱と「石燈籠」があります。

標柱の説明によると、ここは、織田信長の家臣の滝川一益に追い詰められた武田勝頼が、もはや最後と観念して、肌身離さず持っていた
大切な不動尊を里人に託した場所なのだそうです。


    

この崖の下にある「武田不動尊の祠」を見ようと、標柱の脇の急な石段を下りようとしますが、上の写真の様な倒木が石段を塞ぎ下りられません・・・



諦めて日川の渓谷に沿って更に進むと、共和バス停の脇に下の写真の「共和地区」の碑がありました。





旧甲州街道を更に進むと、右手に写真右端の「旧甲州街道」の標柱がありました。

標柱には、「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶこの横吹の古道は、往時の面影を今に伝えています」とあります。





往時の面影を今に伝えるという「横吹集落」を進むと、右手に写真の「丸石道祖神」や「一石六地蔵尊」が祀られていました。









この奥には、写真の「横吹諏訪神社」があります。 







横吹集落を抜けると、急な上り坂になり、国道20号に合流しました。 





国道20号を進んで行くと、下の写真の様に、ガードレールの切れ目に、「旧甲州街道一里塚跡」の標識がありました。 





ここから下を覗き込んでみると、確かに「横吹一里塚跡」の標柱の上の部分(赤丸印)が見えました。



少し戻って、斜め左の坂道を下りて行くと、右手の石垣上に、先程の「史跡・横吹一里塚跡」の標柱の頭の部分(赤丸印)が見えました。 





横吹一里塚は日本橋から30里目(120キロ)、片方のみの塚で、塚木は榎でした。



国道20号に戻り、ひたすら歩いて行き、上の写真の深沢入口交差点で、深沢川に架かる柏尾橋の手前を右に入ります。



「柏尾橋」の脇には、刀を持って鉢巻を締めた「近藤勇之像」があり、「近藤勇 柏尾 (かしお)古戦場跡」の標柱が立っています。

  

  「近藤勇」が率いる「甲陽鎮撫隊(新選組)」は、官軍に占拠された甲府城を奪還するために、一旦、この先の勝沼宿まで進軍します。

これに対して板垣退助率いる「東山道軍(官軍)」は、新選組を圧倒し、ここ柏尾まで後退させ戦闘になりました。

この柏尾の戦いを一目見ようと、見物人が集まり、何と!屋台まで出たそうです。    

いや〜、それにしても、戦いに巻き込まれて流れ弾に当たるかも知れないのに、昔の人々の野次馬根性は凄いですね〜。

現代人は、如何に野次馬根性があっても、暴力団同士の銃撃戦になったら、見物に出たりしないで家に籠ってますものねえ。

剣に自信のある新撰組でしたが、この柏尾の戦いでは、近代装備の官軍には歯が立たず、1時間程で総崩れになりました。

(「甲陽鎮撫(新選組)」の近藤勇については、「甲州街道を歩く: 日野 猿橋大月」を見てね。)             

        



    



「柏尾古戦場跡」の標柱を右に入ると写真の「馬頭観音」があります。

1836年に、勝沼宿の脇本陣家が建立したというこの馬頭観音は、3面に馬頭観音の像が刻まれています。







  



馬頭観音の前の「ころび石坂」を下り切った奥に、ちょっと見ずらいですが、上の写真中央に、木々の間から、江戸時代の柏尾橋の橋脚の一部が
残っているのが見えます。


説明版によると、江戸時代、柏尾橋は、両岸に橋脚をおろした幅3メートル、長さ22メートルの板橋だったそうです。

 


  

(写真は、”ぶどう寺”と呼ばれている「大善寺」)


 



新選組の近藤勇が官軍に破れたという、江戸時代の柏尾橋の脇の「柏尾古戦場」跡の見学を終え、上の写真の現代の柏尾橋で深沢川を渡ります。




国道20号を更に進むと、柏尾山の登山口に、写真の「柏尾山 薬師如来碑」がありました。



この薬師如来碑の脇に「熊出没注意」の看板が!



えぇ〜っ!、こんな人気の多い所に熊が出るの?



街道沿いの高台に、写真の「芭蕉翁 甲斐塚」があり、塚には、県内最古(1762年)の芭蕉句碑「蛤(はまぐり)の 生ける甲斐あれ 年の暮れ」が建っていました。

(句意:蛤のように殻を閉じたままに、世捨て人として俳句と旅に生きた自分はこれからもそうやって生きていくのに何の意味があるのだろうか、とこの年の暮れに思う。)



  



更に国道20号を進むと、奈良時代の僧である「行基」が開創した、”ぶどう寺”と呼ばれる「大善寺」があります。

(拝観料500円)





大善寺の建物の内部は撮影禁止なので庭の写真だけです。





武田勝頼は、後に裏切った家臣の小山田信茂の居城のある岩殿山(大月市)に向かう途中、ここ大善寺で一夜を過ごしました。

(小山田信茂が主君の武田勝頼を裏切った経緯については、「甲州街道を歩く・駒橋初狩 」を見てね。)

                                            

また、甲陽鎮撫隊(新選組)の近藤勇は、板垣退助率いる官軍を迎え撃つために、ここ大善寺を本陣にと考えました。

しかし、武田家ゆかりの名刹を血で汚しては非礼になると考え直し、大善寺を本陣にするのを諦め、柏尾山に本陣を置きました。

新選組の近藤勇については、「甲州街道を歩く: 日野、 猿橋大月 」を見てね。)     

                                                                       

説明版によると、「行基」はこの地で修行し、718年、修行満願の日に、“ブドウ”を持った薬師如来が夢の中に現れたので、その夢で見た像を作って安置したのが、
ここ「大善寺」だそうです。


また、行基は、ここ大善寺の境内でブドウ作りを始め、村人達に作り方を伝授しました。

以来、ぶどうは法薬としてこの地で広く栽培されるようになりましたが、これが「甲州ブドウ」栽培の始まりだそうです。

へ〜、山梨県のブドウ栽培は、そんなに古い歴史があったんだ! 





  





石段を上って行くと、上の写真の「山門」があり、その山門の脇には、下の写真の「柏尾の戦い」の錦絵と説明がありました。

(「柏尾の戦い」については、「甲州街道を歩く・ 28-4:鶴瀬から勝沼へB」を見てね。)

          



山門から更に長い石段を、息を切らせながら登って行きます。





石段を登り切ったら、写真の1286年建立の「薬師堂」(国宝)がありました。   



薬師堂の本尊の「薬師如来像」は国の重要文化財です。

但し、薬師如来像は秘仏のため、御開帳は5年に1度だけだそうです。



(薬師如来像:寺のパンフレットから)



  

  



  



余りの暑さにバテてしまったので、写真の「楽屋堂」の中に上がり込んで、水分補給をしながら一休みします。



 



  

写真は、境内にある「甲府盆地展望台」からの甲府市内の眺めです。

     

なお、この寺のパンフレットによると、境内には、民宿の施設があり、精進料理や薬師堂内での座禅経験なども出来るらしいです。

大善寺の先の柏尾交差点が、下の写真の様にY字路になっています。



旧甲州街道は、このY字路で、左に大きくカーブする国道20号から分かれて、右の県道38号・塩山勝沼線を進みます。

 



鶴瀬宿から勝沼宿までは約5キロです。





 27:駒飼へ

 29:勝沼へ

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