(写真は、歩道が無い「長柿洞門」)
鶴瀬宿を後にして、国道20号に合流して歩いて行きます。
矢久保沢に架かる橋を渡ります。
国道20号は、やがて中央高速道と並行して走るようになります。
国道20号沿いの坂の上に真竜寺があり、真竜寺への参道口の上り坂が、志々久保バス停の脇にありました。
真竜寺の参道口の坂を上って行くと、上の写真の農作業中のオジサンに出会ったので声を掛けて挨拶します。
う〜ん、挨拶しても返事がない?
近視の私が近づいてよく見ると・・・、オジサンは案山子?でした。(-_-;)
(真竜寺)
国道20号に戻り、暫く歩くと、石段の奥に小社が祀られています。
国道20号(甲州街道)を更に進むと、写真の「長柿(おさがき)洞門」が現れます。
旧甲州街道は、この長柿洞門の手前の右手の上り坂です。
この上り坂の先に、観音堂があるらしいです。
坂をのぼり始めると、直ぐに上の写真のY字路の分岐がありました。
観音堂への表示が無いので、左手の石段を上るか、右手の狭い舗装された小道を上るか迷います。
暫く迷った末に、右手の狭い舗装された小道を上って行きます。
断崖絶壁の遥か下の国道20号を、ダンプ(赤丸印)がブンブン走っています。
足を滑らせたらダンプにひかれて即死です・・・
坂道のあちこちが、倒木で塞がれているので、ゆっくりと慎重に乗り越えて進みます。
狭い舗装された小道は、延々と続く九十九折になっています。
小道の右側は、ほぼ90度の絶壁で、下を見ると恐怖で膝が震えるので、出来るだけ崖側を見ない様にして、ゆっくりゆっくりと進みます・・・
かなり坂を上ったところで、木々の間から、上の写真の様に、神社の屋根が見えます?
ひょっとして、先程の分岐で左側の石段を進むべきだったのに間違えた?
せっかくここまで上って来たので、取り敢えず、もう少し坂を上ってみます。
狭い舗装された小道は墓地で行き止まりになりました。
思ったより大きな墓地で、新しい墓も目立ちます。
しかし、いかに平地が少ない土地柄とはいえ、墓参りするのに命の危険がある様な場所に、なぜ山梨県の人は墓を作るのか?、理解に苦しみます・・・
ゆっくりゆっくりと来た小道を、先程判断を間違えたY字路の分岐まで戻ってきます。
持病の股関節炎を考え、Y字路の分岐から観音堂への石段の再挑戦は止めにして、下の写真の「長柿(おさがき)洞門」まで戻ります。
長柿洞門に入りますが、途中から歩道が無くなります?・・・
洞門の途中に、左に出る小道がありました。
雑草の茂る小道を進むと、左手に「観音の 甍(いらか)見やりつ 花の雲」の芭蕉句碑がありました。
(句意:深川の芭蕉庵で病に伏していた時の句で、遥か遠くに浅草観音の方角に目をやると、雲と見まがうばかりの桜が咲いている中に、
観音の屋根が眺められる。)
芭蕉句碑の先で、国道20号に合流します。
上の写真の観音トンネル西の信号を右折して、国道20号から分かれて旧甲州街道に入ります。
旧甲州街道の左手の崖の中程には、私がY字路の分岐を間違えたために行けなかった、あの観音堂から下りてくる狭い山道が見えます。
旧甲州街道は、上の写真の様に、ここから右に大きく円形状に回り込み、下の写真の様にして、先程通って来た国道20号の下をくぐります。
左手に「古跡・武田不動尊」の標柱と「石燈籠」があります。
標柱の説明によると、ここは、織田信長の家臣の滝川一益に追い詰められた武田勝頼が、もはや最後と観念して、肌身離さず持っていた
大切な不動尊を里人に託した場所なのだそうです。
この崖の下にある「武田不動尊の祠」を見ようと、標柱の脇の急な石段を下りようとしますが、上の写真の様な倒木が石段を塞ぎ下りられません・・・
諦めて日川の渓谷に沿って更に進むと、共和バス停の脇に下の写真の「共和地区」の碑がありました。
旧甲州街道を更に進むと、右手に写真右端の「旧甲州街道」の標柱がありました。
標柱には、「甲州道中鶴瀬宿と勝沼宿を結ぶこの横吹の古道は、往時の面影を今に伝えています」とあります。
往時の面影を今に伝えるという「横吹集落」を進むと、右手に写真の「丸石道祖神」や「一石六地蔵尊」が祀られていました。
この奥には、写真の「横吹諏訪神社」があります。
横吹集落を抜けると、急な上り坂になり、国道20号に合流しました。
国道20号を進んで行くと、下の写真の様に、ガードレールの切れ目に、「旧甲州街道一里塚跡」の標識がありました。
ここから下を覗き込んでみると、確かに「横吹一里塚跡」の標柱の上の部分(赤丸印)が見えました。
少し戻って、斜め左の坂道を下りて行くと、右手の石垣上に、先程の「史跡・横吹一里塚跡」の標柱の頭の部分(赤丸印)が見えました。
横吹一里塚は日本橋から30里目(120キロ)、片方のみの塚で、塚木は榎でした。
国道20号に戻り、ひたすら歩いて行き、上の写真の深沢入口交差点で、深沢川に架かる柏尾橋の手前を右に入ります。
「柏尾橋」の脇には、刀を持って鉢巻を締めた「近藤勇之像」があり、「近藤勇 柏尾 (かしお)古戦場跡」の標柱が立っています。
「近藤勇」が率いる「甲陽鎮撫隊(新選組)」は、官軍に占拠された甲府城を奪還するために、一旦、この先の勝沼宿まで進軍します。
これに対して板垣退助率いる「東山道軍(官軍)」は、新選組を圧倒し、ここ柏尾まで後退させ戦闘になりました。
この柏尾の戦いを一目見ようと、見物人が集まり、何と!屋台まで出たそうです。
いや〜、それにしても、戦いに巻き込まれて流れ弾に当たるかも知れないのに、昔の人々の野次馬根性は凄いですね〜。
現代人は、如何に野次馬根性があっても、暴力団同士の銃撃戦になったら、見物に出たりしないで家に籠ってますものねえ。
剣に自信のある新撰組でしたが、この柏尾の戦いでは、近代装備の官軍には歯が立たず、1時間程で総崩れになりました。
(「甲陽鎮撫(新選組)」の近藤勇については、「甲州街道を歩く: 日野、 猿橋、大月」を見てね。)
「柏尾古戦場跡」の標柱を右に入ると写真の「馬頭観音」があります。
1836年に、勝沼宿の脇本陣家が建立したというこの馬頭観音は、3面に馬頭観音の像が刻まれています。
馬頭観音の前の「ころび石坂」を下り切った奥に、ちょっと見ずらいですが、上の写真中央に、木々の間から、江戸時代の柏尾橋の橋脚の一部が
残っているのが見えます。
説明版によると、江戸時代、柏尾橋は、両岸に橋脚をおろした幅3メートル、長さ22メートルの板橋だったそうです。