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甲州街道を歩く(30:栗原) (山梨県山梨市) 2021.6.23




(写真は、定食チェーン店「大戸屋」の創始者の実家)


「栗原」の地名は、この地を治めた栗原氏に由来しています。

戦国時代、武田信玄の父の武田信虎は、甲斐の国(山梨県)の統一に着手しました。

この地を治めた「栗原信友」は、当初は武田信虎と対峙しましたが、後に家臣となり、武田信玄に仕えて武田軍団の一翼を担いました。

栗原には、この辺り一帯の農産物や織物などが集り、大いに賑わいました。

「栗原宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠20軒でした。

 



「栗原宿」に入ります。









宿場町を進むと、右手に写真の「大法寺」があります。


入口の脇には、下の写真の様に、1702年建立の「南無妙法蓮華経」と、1831年建立の「南無妙法蓮大菩薩」の題目碑が並んでいます。


大法寺のすぐ先を右に入ると、以下の写真の「妙善寺」があります。










妙善寺の鐘楼門をくぐると、本堂の前に上の写真の「妙善寺殿」の供養塔があります。

側面には、妙善寺殿とは、栗原一族の栗原信明のことで、信明の供養のために、1455年に建立したと彫られています。

宿場町を進むと、右手に上の写真の様に「天神社」が祀られています。

天神社の左脇には、1765年の建立の御神燈が、その奥には、すっかりお馴染みになった、下の写真の甲斐国の特有の「丸石道祖神」が祀られています。

  



街道沿いには、旅籠屋があった跡でしようか、「千歳屋」の真新しい石碑がありました。



更に歩いて行くと、街道の左手に、写真の立派な長い塀の家がありました。







江戸時代の家にしては新しすぎるなぁ〜と思いながら通り過ぎます。



ふと振り返ると、その長い塀の角に写真の説明版が?



その説明版によると、この家は、”若い女性も気軽に入れる定食屋”で人気の「大戸屋」チェーン店の創始者の家だそうです!

「大戸屋」の創始者の「三森 久実」(みつもり ひさみ)氏は、この町の観光ブドウ園の出身だとあります。

横浜や新横浜にもあり、私も利用したことのある「大戸屋」は、国内 316店舗、海外 115店舗の巨大チェーン店です。   



旧甲州街道は、写真の「ぐれいぷ はうす 」店の先のY字路の右側の狭い道を進みます。

少し進むと、「郷社 大宮五所大神」と刻まれた大きな石標があります。

ここを入ると、栗原の総鎮守である「大宮五所大神」(おおみやごしょだいじん)があります。

 







江戸時代には、歌舞伎興行の一座はここで芝居を打ち、評判を確認してから甲府に入ったそうです。





大宮五所大神の先の右手に写真の「旅籠源屋跡」があります。

  

屋根には、金色で姓が刻まれた珍しい鬼瓦が。



その先には、旧甲州街道の標柱があり、更に進んで行くと、日川駐在所の脇に、写真の「明治天皇 日川 御小休所趾」の碑があります。





明治13年の巡幸の際、明治天皇は、ここ志村勘兵衛宅で休息しました。

 




(写真は、すっかりお馴染みになった「丸石道祖神」)


コロナ禍での街道歩きを再開するか否か、迷いに迷ったのですが、以下の理由で再開しました。


 @ワクチンの2回目接種を終えた。

 A山梨県の蔓延防止措置が今月12日で解除された。

 B始発電車の利用で交通機関での3密は回避している。

 C旧甲州街道では人とほとんど会わないので現地での3密はない。

 D糖尿病の医者から、コロナ禍で数値が悪化したので街道歩きを再開した方がよい、と言われた。


甲州ブドウ栽培の始まりという「勝沼宿」を抜け、「栗原宿」に入ってからも、ブドウ園とブドウ畑が延々と続きます。






















前回、ブドウは未だ葉だけでしたか、今回はたわわに実り、もう既に収穫を終わっている所も多いです。

前回説明しました様に、ブドウ園は、頑丈な鉄骨の枠を組み、その上にブドウの枝を這わせています。

その鉄骨の枠の下の広い空き地は、自家用車や観光バスの駐車場になっています。 

前回は気が付かなかったのですが、背が高い鉄骨の枠は、観光バスの屋根よりも高くする必要があるから高いのだと思いましたが、
この高さは実ったブドウの房の盗難防止用でもあるのでは?、と思い至りました。




なるほど、高い鉄骨の枠が無い低い位置のブドウ畑は、上の写真の様にネットで覆われています。



栗原宿を進み、日川高校を過ぎると、上の写真の様に、養蚕用の煙出し屋根の付いた立派な旧家がありました。



更に少し進むと、左手に石の鳥居があり、その奥に、秋葉大権現、山神宮、石尊大権現の石塔が祀られていました。





日川郵便局を過ぎると一町田中交差点ですが、旧甲州街道は左折します。 



その交差点の右には写真の「称名院」があります。





武田勝頼が、岩殿城に落ち延びる際、父の信玄の形見の水晶の数珠をこの寺に託したそうです。

(武田勝頼が、家臣の小山田信茂の岩殿城に落ち延びようとして裏切られた経緯については、
甲州街道を歩く・駒橋」 と「甲州街道を歩く・初狩」を見てね。)       

    

   

この称名院の本堂の外壁には、恐ろしい表情の「餓鬼」の像が張り付いています。



旧甲州街道とは逆に、一旦、交差点を右に進むと、写真の「水上稲荷神社」があります。







水上稲荷神社の右側は写真の「田安陣屋跡」です。



8代将軍「徳川吉宗」の次男の「田安宗武」には、1746年、山梨郡の28ケ村が領地として与えられ、ここにその「陣屋」が置かれました。

この陣屋跡の石垣の上には、写真の様に「水上(みずかみ)稲荷神社」が祀られています。

境内には、冒頭の写真の様に、お馴染みの「丸石道祖神」や馬頭観音像が祀られています。



一町田中交差点に戻り、左折して旧甲州街道を進むと、写真の様に立派な旧家の門が残っていました。







日川に突き当たります。 





土手道を右に進み、日川を日川橋で渡ります。 













日川橋で渡り笛吹市に入ります。

日川橋の先を右折し、国道411号から外れて旧甲州街道に進みます。



旧道に入ると右手に、ここ南田中村の鎮守の「白山神社」があります。

社殿の脇には「水天宮」が祀られ、境内にはお馴染みの「丸石道祖神」もあります。





旧甲州街道、日川の土手に沿って進みむと、右手に立派な蔵がありました。

更に進むと、「笛吹川」の土手道に突当りるので右手に進みます。



写真のラブホテルの前を通ります。  

更に進むと、土手道は左からきた国道411号に合流します。



合流する国道411号のこの辺りは、「甲州桃太郎街道」と呼ばれているみたいで、この合流地点にはその標柱があります。

「笛吹川」を「笛吹橋」で渡ります。