(写真は、愛嬌のある表情の「笠懸地蔵」)
「黒野田宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠14軒でした。
「黒野田宿」は、「白野宿」と「阿弥陀海道宿」の3宿で1宿を構成し、問屋業務は、1日から15日までを黒野田宿が勤めました。
黒野田宿は、甲州街道最大の難所・笹子峠を控えて大いに賑わいました。
JR笹子駅前から、緩やかな上り坂の国道20号を暫く歩くと「黒野田宿」に入ります。
宿場町の左手に愛嬌のある表情をした「笠懸地蔵」がありました。
説明版によると、1855年の建立で、天明天保の大飢饉、それに続く農民一揆などによる窮乏を、この地蔵に心願したものだそうです。
笠懸地蔵先の左手に、立派な門構えの「黒野田宿本陣跡」があります。
この門の脇に、明治13年の巡幸の際に宿所となったことを示す「明治天皇行在所趾碑」がありました。
1836年の「天保の飢饉」に際して、犬目宿の兵助(へいすけ)が「甲州一揆」を起こしました。
(犬目宿の兵助については、「甲州街道を歩く・犬目」を見てね。)
この甲州一揆の行動要領を起草したのが、ここ黒野田宿の名主で問屋の泰順(たいじゅん)でした。
泰順は、眼科医で、知識人として人望があり、一揆の組織化に指導的役割を果たしました。
この一揆は、幕府の命を受けた高島藩(長野県諏訪市)により鎮圧され、603人が捕らえられ、首謀者は処刑されましたが、この翌年に
大阪で起きた大塩平八郎の乱に影響を与えたそうです。
上の写真の左側の旧黒野田橋で笹子川を渡ると、右手に「普明院」(ふみょういん)があります。
普明院の門の脇には、上の「黒野田の一里塚」跡の木柱があり、その横に下の写真の「江戸日本橋ヨリ二十五里」の石碑があります。
上の石碑には日本橋から25里とあるものの、この前の白野宿の一里塚が26里目なので、黒野田の一里塚は、正しくは27里目(108キロ)です。
この普明院は、「阿弥陀海道宿の阿弥陀堂」にあった行基作の阿弥陀像をここに移して本尊としました。
(阿弥陀堂については、「阿弥陀海道宿の阿弥陀堂」を見てね。)
境内には、上の写真の「行くたびに いどころ変わる かたつむり」の芭蕉句碑があります。
普明院を出て緩やかな上り坂を暫く歩いて行き、笹子川を屋影(やかげ)橋で渡ります。
街道沿いの右手の岩の上には、上の写真の様に馬頭観音などが祀られています。
更に暫く歩いて行くと、上の写真の庚申塔と馬頭観音がありました。
富士急・公民館前バス停の脇に、1856年建立の上の写真の常夜燈があります。
更に進んで、上の写真のY字路で、国道20号から分かれて、左手の県道212号・日影笹子線に入ります。
中橋で笹子川を渡ります。
迂回してきた県道に合流します。
新田沢を山口橋で渡ります。
直進すると、新田下バス停の先に下の写真の南無妙法蓮華経題目碑があります。
少し戻ると、甲州街道道標「矢立の杉 笹子駅」の分岐点があり、右折すると甲州道中最大の難所「笹子峠」の登り口です!
次回は、いよいよ甲州街道の最大の難所である「笹子峠越え」に挑みます!
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