(写真は、街道の尾根筋から眼下に見える「相模湖」)
1868年、鳥羽・伏見の戦いで、新選組は敗れて江戸に戻りますが、中山道を攻めてくる官軍を迎え撃つために、新選組は新たに
「甲陽鎮撫隊」(こうようちんぶたい)を組織します。
官軍が長野県の下諏訪に進出したという知らせを受けて、「甲陽鎮撫隊」は、甲府城を確保するために、急遽、甲府へ向かいます。
しかし、途中で雪が吹雪になり、行軍は難渋を極めます。
甲陽鎮撫隊は、やむなく「与瀬(よせ)宿」に宿陣します。
「司馬遼太郎」の「燃えよ剣」では、新選組のこの頃の動きを以下の様に書いています。
「官軍がすでに下諏訪まで来ているという。
近藤勇は、急いで羽織を脱ぎ捨てて、鎖帷子(くさりかたびら)を着込み、銃剣の胴をつけ、陣羽織をはおった。
門を出ると、その頬を、どっと吹雪がたたいた。
軍が動き出した。
が、すぐ陽が落ち、与瀬に宿泊。」
(新選組については、「甲州街道を歩く・八王子」、「同左・日野」、「同左・布田五ケ宿」を見てね。)
「与瀬宿」は、本陣1、問屋1、旅籠6軒でした。
江戸時代、「与瀬宿」は、相模川に面し、木材の川流しや舟運で成り立っていました。
昭和に入ると、日中戦争が激化するなかで、旧相模川を堰き止めて、相模ダムを造る計画が持ち上がります。
これに伴い、「かつての甲州街道と与瀬宿」とは「相模湖の湖底」に沈んでしまいました・・・
「新しい甲州街道と与瀬宿」は、旧与瀬宿の上方の相模湖の湖畔に移されます。
昭和22年、この相模ダムが完成すると、横浜市と川崎市の電力と水道水が供給される様になりました。
相模湖は日本最初の人工湖で、都心から近いこともあり、現在の様に観光地として賑わうようになりました。
小仏峠越えで再発した股関節炎も、どうにか治まったので、甲州街道踏破を再開します。
早朝に、JR新横浜駅から横浜線に乗り、八王子で中央線に乗り換えて、JR相模湖駅で下車します。
「JR相模湖駅」の旧駅名は、駅周辺にあった与瀬宿の宿場名をとって「与瀬駅」でした。
甲州街道は、JR相模湖駅の駅前の信号で右折します。
相模湖郵便局を過ぎるると、右手の石垣の上に、下の写真の「明治天皇與瀬御小休所阯碑」(赤色矢印)があります。
ここが与瀬宿の坂本本陣跡です。
明治天皇碑の先を右折します。
この分岐点には慈眼寺の入口立看があります。
ここから、国道20号(現甲州街道)と別れ、右の細い道に入り、次の吉野宿へ向かう峠道の上り坂になります。
直ぐに、1573年創建の真言宗「慈眼寺」の参道を上る階段があります。
慈眼寺は、幼児の虫封じの寺として広く知られていたそうです。
慈眼寺の左隣りが下の写真の「與瀬神社」です。
與瀬神社は、与瀬の権現様と呼ばれ、与瀬宿の鎮守でした。
與瀬神社の鳥居から後ろを振り返ると、写真の様に、相模湖が見えます。
與瀬神社の前の道を進んで行くと、中央高速の擁壁に突き当たります。
その擁壁の石段を下ると、国道20号に合流します。
更に進んで行くと、再び中央高速の高架を潜ったところに、旧甲州街道に入る分岐があります。
旧街道は、この分岐の右側の細い坂道を上って行きます。
左手の眼下に相模湖を眺めながら進むと、右手に下の写真の「石仏石塔群」がありました。
廿三夜塔、庚申塔などが並んでいます。
上の写真の玉石の擁壁を過ぎると、右手に下の写真の「石仏石塔群」がありました。
地蔵尊や庚申塔が並び、その上の畑の中腹には、朱塗りの献燈があります。
更に進んで、下の写真の橋で小さな沢を渡り、左に大きくカーブして回り込みます。
更に進むと、上の写真の分岐点に、下の写真の「甲州古道・子の入」の朽ちかけた標柱があったので、それに従い、左手の細い道に入って行きます。
子の入の標柱に従い、急坂を下りて行き、中央高速を天奈橋で越えます。
天奈橋を渡り進んで行くと、左手に下の写真の観福寺の石段があるので、この観福寺の先の「甲州古道 桜野標柱」に従い下り坂を進みます。
更に、以下の写真の様な甲州古道の標柱を確認しながら急坂を下って行きますが、道が複雑で、迷路の様になっていて、同じ場所をグルグルと回ってしまいました・・・
ようやく迷路を抜けると、だいぶ坂道を下りたみたいで、相模湖に近づいて来ました。
相模湖がすぐ近くになり、下の写真の勝瀬橋が望めます。
更に下って行くと、写真右手の赤色矢印部分に、次の吉野宿の高札場の標識が見えました。
吉野宿に到着しました!
与瀬宿から次の吉野宿までは約4キロです。