(写真は、吉野宿の旅籠 「ふじや」跡)
与瀬宿を出て、左手に相模湖を見下ろしながら、延々と尾根伝いに歩いたあと、急な坂道を下りに下って、ようやく平地に来ました。
その平地で、旧甲州街道が、国道20号に合流する直前に、下の写真の「吉野宿高札場」の標柱がありました。
国道20号にぶつかって、右折し、「吉野宿」の町並みを進むと、右手に外壁が剥落した蔵があります。
蔵の横の古い大きな建物には、重機が入って取壊し作業中です。
その道路脇には、写真の「聖蹟碑」と説明板があります。
説明板によると、この取壊し作業中の建物は、「吉野宿の本陣の建物」で、明治9年に完成した木造5階建ての「五層楼」を含む壮大なもの
だったそうです。
吉野宿の吉野家は、鎌倉時代の承久の乱(1221年)の際、朝廷方に従ったため戦いに敗れ、この地に逃れてきて定住しました。
江戸時代になると、吉野家は、吉野宿の本陣を勤め、問屋、名主を兼ねました。
江戸時代の吉野宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠3軒でした。
吉野宿には、「数百を数えた濃艶なる遊女」がいたそうですが、今は、その華やいだ雰囲気は微塵も感じられません・・・
明治13年の明治天皇の行幸に際しては、昼休憩のための行在所として使われました。
明治29年の吉野大火で、本陣も含めほとんど焼失し、唯一、写真の土蔵だけが残ったそうです。
そして、数年前に、吉野家29代当主が逝去され、本陣の建物の維持が難しいことなどから、取壊した後、売却が検討されているとのこと。
吉野宿本陣跡の道路向かいの写真の建物は、吉野大火後に再建された旅籠 「ふじや」跡で、現在は資料館になっています。
しかし、残念ながら、資料館の開館は、土日祝日のみで、平日の見学は、10人以上の団体のみで、かつ2週間前の電話予約が必要と
書かれています。
見学した団体のブログを見てみると、館内には、本陣の木造5階建ての壮大な「五層楼」の模型があり、その姿は織田信長の安土城を
連想させる、とありました。
残念!、見たかったなあ〜。
旅籠 「ふじや」跡の先は、明治の吉野大火のせいでしょう、古い建物はほとんど残っていません。
数分歩くと、もう吉野宿の西の外れの「吉野橋」です。
その吉野橋の脇に、写真の「小猿橋跡」の解説板、「百万遍供養塔」、「廿三夜塔」がありました。
「小猿橋」の説明板によると、この吉野橋の下流に、この先の「大月宿の猿橋」と同じ構造の橋が架けられていましたが、「大月宿の猿橋」より
小さいので「子猿橋」と呼ばれていたそうです。
吉野橋で、沢井川を渡り、歩道の無い国道20号を、左手に相模川を見ながら、延々と歩いて行きます。
国道20号は、交通量がかなりあり、ダンプが体をかすめる様にして、スピードを出して通り過ぎます。
怖っ〜!
藤野中学入口のバス停まで来ると、次の「関野宿」はもうすぐです。
「吉野宿」から「関野宿」までは約3キロです。