(写真は、小原宿の本陣の豪壮な門構え)
小仏峠の急坂を必死で駆け下り 、国道20号線に合流、それををどんどん進んで行くと、下の写真中央の「小原の郷」が見えて来ました。
「小原の郷」は、地野菜や特産物のなどの販売店みたいな外観だったので、日没までにJR相模湖駅に着こうと、先を急いでいたこともあり、素通りします。
しかし、後で、駅の説明版を見たら、小原宿本陣保管の古文書や資料等も展示されている、とあったので、立ち寄ればよかったと後悔しました。
小原の郷の少し先の下の写真が小原宿の東口です。
小原宿(おばらじゅく)に到着です!
小原宿の本陣前には、上の写真の高札場が復元されています。
小原(おばら)は、尾原とも書かれましたが、これは、古文書に「嶺(小仏峠)の尾さきにて くだりはてたるところの すこしひらけたるところ」とあるのに由来するそうです。
小原宿は、小仏峠を前にして、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠7軒でした。
「問屋業務」については、小仏宿から峠を越えてこの小原宿へ来た荷物を、次の与瀬宿を通り越して、更に先の吉野宿まで継ぎ立てしました。
逆のケースでは、隣の与瀬宿へ来た荷物は、この小原宿は通り越して、峠を越えて先の小仏宿まで継ぎ立てしました。
この片方の流れの荷物だけの問屋業務を行う宿を「片継ぎ」の宿場と言い、この様に、二つ以上の宿で、一つの宿の機能を持つ宿を「合宿」(あいじゅく)と言いました。
甲州街道は、山あいの小規模な宿が多かったため、この様な「合宿」が多くありました。
ちなみに「東海道には53の宿場」があり、全ての宿場に、荷物を継ぎ送る「次(つぎ)」があったので、「東海道五十三宿」であり「東海道五十三次」でした。
これに対し「甲州街道」は「合宿」が多く、「甲州街道四十五宿」であり「甲州街道三十二次」でした。
写真の「小原宿本陣」(旧清水家住宅)に入ります。
小原宿本陣は、神奈川県内の東海道、甲州街道にあった26軒の本陣の中で、唯一現存する本陣遺構です。
この本陣を利用したのは、家康が最も信頼した高島藩(長野県諏訪市)、高遠藩(長野県伊那市)、飯田藩(長野県飯田市)の大名と甲府勤番の役人だけでした。
瓦屋根の豪壮な門構え、入母屋造りの本陣建物、13室の部屋などが往時のまま残され、無料で一般公開されています。
本陣を営んだ清水家の祖先は、北条氏の家臣の清水隼人介で、北条氏が減亡した後に、ここに移住し、その子孫が、代々、本陣、問屋、庄屋を勤めました。
本陣建物の入口を覗いていると、脇から現れたのは、ボランティアのオジサン風ではなく、どうもご子孫の風格の方です。
建物の中を、一部屋づつ丁寧に説明してくれました。
上の写真は、大名が泊まった「上段の間」です。
(控えの間)
上の写真は、畳敷きの大名専用のトイレです。
この形式のトイレは、トイレの下が砂箱の引き出しになっていて(赤色矢印部分)、専任の医者が、毎回、砂箱を引っ張り出して、殿様の健康状態をチェックしていたそうです。
「写真をドンドン撮ってブログにアップして構いませんよ。」と言われたので、遠慮なく沢山の写真をアップさせていただきます。
二階にも上がってみます。
(五街道の本陣については、「東海道・草津宿本陣、舞阪脇本陣」、「中山道・松井宿:お西茶屋本陣」、「日光街道・雀宮宿脇本陣」、「奥州街道・白河宿:柳屋脇本陣」、「甲州街道・日野宿本陣」を見てね。)
(また、五街道踏破の本陣をホームページ形式で見たい方は、 「中山道を歩く(完全踏破の一人旅)」の該当欄をクリックしてね。)
小原宿本陣を出て、 小原宿を散策します。
上の写真は「小松屋」跡ですが、小松屋は、「ひかえ宿 小松勇右衛門」とも呼ばれ、本陣と脇本陣の控え(予備)の宿の位置づけで、小松勇右衛門が営んでいました。
上の写真は「伊勢屋」で、 逆光で見辛いですが下の写真の左側は「機屋」です。
これも逆光で見辛いですが、上の写真の左手前が「藤屋」です。
街道沿いには、写真の様に、太い化粧桁を並べた「出桁造り」と呼ばれる民家が点在していて雰囲気があります。
出桁造りの民家の2階は、蚕の飼育、機織りなどに使用されていました。
小仏峠の急坂を駆け下りた影響か、股関節炎が再発したみたいで、足を引きずりながら歩きます。
日没前に、JR相模湖駅に到着しました。
小原宿から次の与瀬宿までは僅か2キロです。