(写真は、新庄城跡)
前回ご紹介した「大石田」を立った芭蕉は、陸路で、「新庄」に入り、ここで
2泊しました。
「新庄」では、「渋谷甚兵衛」(俳号:「風流」)宅に泊まりました。
これは、「大石田」の「一栄」が、「風流」が新庄への来訪を熱望している
旨を、芭蕉に伝えたからでした。
「風流」は、新庄の豪商であり俳人でした。
芭蕉は、「風流」の兄の「九郎兵衛」(俳号:「盛信」)宅で、新庄の城下の
俳人達と句会を催し、訪問の挨拶として、下記の2句を読んでいます。
”水の奥 氷室尋る (ひむろ たずぬる) 柳哉(やなぎ かな)”
(盛信宅は、柳の陰に小川が流れている。夏というのになんと冷たい水だ。
氷室から流れ出してくるのであろう。)
(これは、新庄に到着した日が、暑気払いの「氷室の節句」に当たったので、
「氷室」という言葉を入れて、「風流」の接待に感謝の気持ちを表して
います。)
”風の香(か)も 南に近し 最上川”
(盛信宅は、最上川が南を流れ、川風は、折からの南風に乗って流れてくる
から、よい香の風となり、まことに涼しく心地よい。)
(白楽天の詩「薫風は南より至る」を引用した挨拶の句です。)
上記の新庄での俳諧興行の出来事は、新庄に立ち寄ったことも含めて、
「奥の細道」では全て省略されています!?
つまり、「奥の細道」では、芭蕉は、「大石田」から「最上川」を舟で下り、
直接、羽黒山に行ったように、事実と異なる事が書かれているのです・・・
何故、無常にも「新庄」は全面カットされたのか?・・・
その理由は、大石田で、舟下りの日和を待つうちに声をかけられて俳諧興行を
した、という偶然の出会い(一期一会)を既に演出したので、更に、新庄で
同じ様な一期一会をテーマにした俳諧興行を話題にする重複を避けたのだ
そうです。
う〜ん、新庄の皆さん、お気の毒に・・・
当時の新庄藩主は、二代目の戸沢正誠(まさのぶ)で、この頃までに初代藩主・
政盛から継承した藩政の諸策が整い、城下は、財政・文化両面に於いて
全盛の時代を迎えていました。
私は、「鳴子温泉」に1泊して、「尿前の関」、「封人の家」、「尾花沢」、
「大石田」と芭蕉の足跡をたどりましたが、今回は、この大石田から
JR奥羽本線に乗り、4駅先のJR新庄駅で下車します。
(JR大石田駅)
(JR新庄駅)
(JR新庄駅)
(JR新庄駅)
JR新庄駅の前のメインストリートを進み、中程で右折して、芭蕉が、新庄の
俳人達と句会を催したという「盛信亭跡」へ向かいます。
(「盛信亭跡」の石碑:盛信亭は、下の写真の現在の山形銀行新庄支店の
辺りにあったそうです。)
(「風流亭跡」の石碑:盛信亭跡の道路向かい)
山形銀行新庄支店の近くの上の写真の「新庄市民プラザ」の正面に、
下の写真の「芭蕉句碑」が建っています。
”風の香も 南に近し 最上川 芭蕉”
(句意は前述)
現在は、この句碑、それに盛信亭跡と風流亭跡の石碑以外には、当時を
偲ぶものは何も残っていません・・・
山形銀行新庄支店からJR新庄駅の前のメインストリートに戻り、更に歩いて、
近くの「新庄城跡」へ向かいます。
「新庄城跡」の入口の脇に、城下町新庄の歴史的変遷の資料が展示されている
写真の「新庄ふるさと歴史センター」がありました。
新庄ふるさと歴史センターをチラッと覗いてから、「新庄城跡」を散策します。
新庄藩6万8千石の「新庄城」は、2重の堀と天然の川で囲われた「平城」で、
主要部が石垣である以外は土塁が主流です。
本丸に3基の2重隅櫓があり、城門には、枡形の櫓門が設けられていました。
明治時代の戊辰戦争の際には、当初は奥羽列藩同盟に参加したものの、途中で
新政府軍に転じたために、幕府側の庄内藩に襲撃され、新庄城は落城して
しまいました・・・
(二の堀跡)
(城址跡)
(本丸土塁)
(本丸土塁)
(表御門跡石垣)
(表御門跡石垣)
(天守台跡)
(御物見跡)
(御役所跡)
( 裏御門跡)
(御玄関跡)
新庄城跡の散策を終わり、JR新庄駅に戻って、駅の隣の「もがみ物産館」で、
今回の旅行の土産物を買います。
(ふきのとう味噌パック、さくらんぼゼリー、ポッキー佐藤錦、山形の芋煮、
えごま葉茶など)
土産物を買って、JR新庄駅から奥の細道号に乗り、古川で東北新幹線に
乗り換えて帰りました。
新庄 18:05 →(陸羽東線・奥の細道号)→ 19:53 古川 20:39
→(東北新幹線)→ 22:56 東京