(写真は、”連理”の形の松がそびえる「末の松山」)
前回の「多賀城・壺の碑(つぼのいしぶみ)」に続き、今回は「末の松山」です。
”契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは” (百人一首: 清原元輔 )
(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が、決して波を被ることが無い様に、二人の愛も
変わらないと。)
男女の変わらぬ愛を誓う上の歌では、この「末の松山」がある場所には絶対に波が来ない、ことを
前提に、絶対に心変わりしない「永遠の愛」を「末の松山」に例えています。
そして、何と!、この歌の作者の清原元輔は、あの「枕草子」の清少納言の父です。
”末の松山 波越さじ”は、歌枕として、百人一首のみならず、西行法師や藤原定家らの多くの
歌人に詠まれてきました。
そして面白いのは、この歌の”末の松山 波越さじ”は、869年の東北地方を襲った貞観地震の
事実に基づいている事です!
つまり、あの千年に一度と言われる貞観地震の大津波のときですら、海岸線にあるここ末の松山
には津波が来なかったのです。
(そして、今回の東日本大震災でも、驚いたことに、海岸線に近いにも拘わらず、現在の末の松山が
あるところには津波が来ていません。)
多賀城跡で壺碑と対面した芭蕉は、その足で、末の松山を訪ねています。
芭蕉は「契り」の歌枕の地に足を踏み入れ、「末の松山」の松の間に、墓が点在する風景を見て、
「羽をかはし 枝をつらぬる 契(ちぎ)りの末も、終(つい)には かくのごときと、悲しさも
増(まさ)りて」
(歌枕「末の松山」の変わらぬ男女の契りも、結局は、眼前に見る様な、墓の下に帰してしまう空しいものだ。)
と、末の松山で無常(むじょう)を感じた様子を、奥の細道に記載しています。
芭蕉は、上の文章で、男女間の深い契りの例えとして、伝説の鳥の「比翼の鳥」(”羽をかはし”)と、
「連理の枝」(”枝を連ぬる”)を引用しています。
そして、芭蕉は、末の松山のすぐ近くの「興井(おきのい)」を訪ねます。
「興井」は、末の松山の南に位置し、直径20メートルほどの池の中に岩(沖の石)が露出しています。
”わが袖は しほひ(潮干)に見えぬ おきの石の 人こそしらね かわくまぞなき” ( 千載和歌集: 二条院讃岐 )
上記の二条院讃岐の歌は、恋に涙するわが身を、乾くことがない海の中の石に例えています。
歌中の「おきの石」(沖の石)は、”しほひ(潮干)に見えぬ”からも分かるように、潮が引いても姿を
見せない(我々が見ることが出来ない)”海底の石”であって、目に見える特定の石を詠んだもの
ではありません。
にも拘らず、江戸初期、領内の歌枕の名所の整備を行っていた仙台藩が、歌中の普通名詞である
「沖の石」を、強引に、ここ興井の石だとして、固有名詞にしてしまったのだそうです。
出た〜!、またまた、仙台藩の強引な町興しが・・・
4代藩主・伊達綱村の時に、歌枕「沖の石」として当地に定着させてしまい、更に、ここに、代々
「奥の井守」(おくのいもり)なる職を置いて、この景観の保護のための手厚い体制をとったそうです。
う〜ん!、伊達綱村の「歌枕の保護」への熱い想いは、半端ないって!、ですねえ〜・・・!
我々のパック旅行のバスも、末の松山に到着しました。
「末の松山」(すえのまつやま)は、住宅街の中の「末松山・宝国寺(ほうこくじ)」の本堂の裏手の、
墓地に隣接した小さな丘の入口にありました。
写真の様に、推定樹齢480年、樹高19メートルの連理の枝の形の大きな松がそびえていました。
そして、この松が、前述の様に、領内の名所整備を行っていた仙台藩が「末の松山」だと定めた
ものです。
「末の松山」から、住宅街の中の道路を渡り、南へ少し坂を下ると、そこに写真の「沖の石」が
現われました。
民家の間に、突然、海の磯が出現した様な風景です。
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