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バスで行く「奥の細道」(その11) (「多賀城(日本100名城)・壺の碑 」)  (宮城県 ) 


 

(写真は、多賀城跡)

前回の「宮城野(仙台)」に続き、今回は「多賀城・壺の碑(つぼのいしぶみ)」です。


もともと、芭蕉の「奥の細道」の旅の目的は、「歌枕」の地を訪ね歩くことでした。

にも拘らず、しのぶもじ摺り石は土に埋もれ、白河の関はどこかも分からなくなってしまっている、
という具合に、荒れ果てた歌枕の地を見て、芭蕉は侘びしい気持ちで旅を続けていました。

しかし、ここ「多賀城跡」に来て初めて奈良時代に建立された「 壺の碑(つぼのいしぶみ) 」に遂に
出会えた!、と感激し涙を流します。



もともと、ここ「多賀城」は、奈良・平安時代を通じて、陸奥国の国府が置かれ、蝦夷(えみし)の
攻撃を防ぐために、東北各地に設置されていた城柵の中心的な存在でした。

つまり、当時、多賀城までが「日本」で、その奥は「蝦夷の国」だった訳で、多賀城は、蝦夷の
勢力圏との境界に位置する最前線の軍事拠点でした。

多賀城は、外側は900メートル四方で、南・東・西の門があり、内部には政庁のほかに兵士の
宿舎などがありました。

その後、802年の坂上田村麻呂による蝦夷討伐により、この蝦夷との境界が、多賀城から更に
北進していきました。

このため、10世紀頃には、多賀城は、蝦夷に対する軍事拠点としての役割を終え、荒廃していき
ました。


一方、平安末期の歌学書には、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の時、鉾(ほこ)で、”ここが日本の
中央である”旨を書き付けたのが「壺の碑(石文:いしぶみ)」だと記載されていました。

そして、古代から、西行や源頼朝などが、歌枕で「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として詠んでいた
ものの、「壺の碑」そのものは、長い間、所在地不明の謎の歌枕でした。

そして、何と!、江戸初期に、ここ多賀城跡から、「多賀城碑」なるものが発見されたのです!

高さ196センチ、幅92センチの「多賀城碑」の碑面には、平城京や各国境から多賀城までの距離、
多賀城の創建や修造の説明、そしてこの碑の建てられた年月日の141字が刻まれていました。

多賀城跡からのこの「多賀城碑」の発見は、長い間所在不明だった著名な歌枕「壺の碑
(つぼのいしぶみ)」と結び付けられ、江戸初期に、全国的に大きな話題とり、広く世に知られました。

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂

芭蕉は、仙台で加右衛門から贈られた「多賀城」の名所絵図を頼りに、多賀城跡の南門近くに
あるという「壺の碑(つぼのいしぶみ)」へ向かいます。

多分、芭蕉も、この多賀城跡での”壺の石碑・発見”のビッグニュースを耳にしていたのでしょう、
発見されたばかりの「壺の石碑」と体面します。


この時は、「壺の石碑」は、未だ発見されたばかりの野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠す
ほどの苔で覆われていました。

芭蕉は、この碑だけは、古代から変わらぬ姿を留めていると、時を超越する感動に心を揺り
動かされ、「これも旅のおかげであり、生きていればこその幸せ」、と感激のあまり涙します。

「おくのほそ道」のクライマックスシーンの一つです。

当時、徳川光圀は、「大日本史」編さんのために派遣した家臣から、壺の石碑の碑面が苔で
覆われているとの報告を受け、仙台藩主・伊達綱村に、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を
依頼します。

これを受けて、間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで、碑が覆屋に守られています。




我々のパック旅行のバスも、多賀城跡に到着しました。



多賀城の建物は残っていませんが、綺麗で分かり易く環境整備されており、政庁跡などは当時の
礎石がしっかりと残っています。











また、政庁復元の模型や、説明書きも随所にあるので、当時の様子をイメージし易く、古代ロマン
を感じます。



一方、建立から1,200年も経つという多賀城跡で発見された「壺の碑(つぼのいしぶみ)」は、
あまりの保存状態の良さから、逆に、長く真偽論争にさらされてきました。

特に、江戸末期〜明治初期と、明治後期〜昭和初期の2度、真偽論争が活発化し、このときは、
2度とも、以下の理由により、偽作説が優勢でした。

 @「壺の石碑」とは、「壺」という土地にある石碑という意味なのだが、ここは壺という土地ではない。

 Aこの「多賀城碑」が歌枕の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と結びつけられたのは江戸初期のこと
  であり、この時、古来からの歌枕を領内に置きたいという仙台藩の強い意図があり、仙台藩が
  作らせた偽作である。
   
   ⇒ う〜ん、当時も、現在と同様に、町興しのため、仙台藩が、”こちらの石碑が本物”的な
     宣伝活動を繰り広げたんでしょうかねえ〜・・・

しかし、昭和44年、綿密な多賀城跡の調査と検証が実施され、その結果、碑は奈良時代のもので
間違いないと結論されました。

そして、平成9年、石碑の覆堂の解体修理に際して、碑の周囲の発掘調査を行った結果、古代の
据え付け跡が確認されました。

この事により、碑は建碑当初からこの場所にあった可能性が強まり、碑の真作説を後押ししました。

その結果、平成10年、国の重要文化財(古文書)に指定され、真偽論争に一応の決着がつきました。

それでも、一部にはまだ偽作説がくすぶっているらしいです。







現在、上の写真の「壺の石碑(国重文)」は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑
(なすのくにの みやつこのひ)と共に、日本三古碑の一つとされています。