(写真は、多賀城跡)
前回の「宮城野(仙台)」に続き、今回は「多賀城・壺の碑(つぼのいしぶみ)」です。
もともと、芭蕉の「奥の細道」の旅の目的は、「歌枕」の地を訪ね歩くことでした。
にも拘らず、しのぶもじ摺り石は土に埋もれ、白河の関はどこかも分からなくなってしまっている、
という具合に、荒れ果てた歌枕の地を見て、芭蕉は侘びしい気持ちで旅を続けていました。
しかし、ここ「多賀城跡」に来て初めて奈良時代に建立された「 壺の碑(つぼのいしぶみ) 」に遂に
出会えた!、と感激し涙を流します。
もともと、ここ「多賀城」は、奈良・平安時代を通じて、陸奥国の国府が置かれ、蝦夷(えみし)の
攻撃を防ぐために、東北各地に設置されていた城柵の中心的な存在でした。
つまり、当時、多賀城までが「日本」で、その奥は「蝦夷の国」だった訳で、多賀城は、蝦夷の
勢力圏との境界に位置する最前線の軍事拠点でした。
多賀城は、外側は900メートル四方で、南・東・西の門があり、内部には政庁のほかに兵士の
宿舎などがありました。
その後、802年の坂上田村麻呂による蝦夷討伐により、この蝦夷との境界が、多賀城から更に
北進していきました。
このため、10世紀頃には、多賀城は、蝦夷に対する軍事拠点としての役割を終え、荒廃していき
ました。
一方、平安末期の歌学書には、坂上田村麻呂が蝦夷討伐の時、鉾(ほこ)で、”ここが日本の
中央である”旨を書き付けたのが「壺の碑(石文:いしぶみ)」だと記載されていました。
そして、古代から、西行や源頼朝などが、歌枕で「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として詠んでいた
ものの、「壺の碑」そのものは、長い間、所在地不明の謎の歌枕でした。
そして、何と!、江戸初期に、ここ多賀城跡から、「多賀城碑」なるものが発見されたのです!
高さ196センチ、幅92センチの「多賀城碑」の碑面には、平城京や各国境から多賀城までの距離、
多賀城の創建や修造の説明、そしてこの碑の建てられた年月日の141字が刻まれていました。
多賀城跡からのこの「多賀城碑」の発見は、長い間所在不明だった著名な歌枕「壺の碑
(つぼのいしぶみ)」と結び付けられ、江戸初期に、全国的に大きな話題とり、広く世に知られました。
芭蕉は、仙台で加右衛門から贈られた「多賀城」の名所絵図を頼りに、多賀城跡の南門近くに
あるという「壺の碑(つぼのいしぶみ)」へ向かいます。
多分、芭蕉も、この多賀城跡での”壺の石碑・発見”のビッグニュースを耳にしていたのでしょう、
発見されたばかりの「壺の石碑」と体面します。
この時は、「壺の石碑」は、未だ発見されたばかりの野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠す
ほどの苔で覆われていました。
芭蕉は、この碑だけは、古代から変わらぬ姿を留めていると、時を超越する感動に心を揺り
動かされ、「これも旅のおかげであり、生きていればこその幸せ」、と感激のあまり涙します。
「おくのほそ道」のクライマックスシーンの一つです。
当時、徳川光圀は、「大日本史」編さんのために派遣した家臣から、壺の石碑の碑面が苔で
覆われているとの報告を受け、仙台藩主・伊達綱村に、碑を保護する覆屋(おおいや)の建設を
依頼します。
これを受けて、間もなく覆屋が建てられ、今日に至るまで、碑が覆屋に守られています。
我々のパック旅行のバスも、多賀城跡に到着しました。
多賀城の建物は残っていませんが、綺麗で分かり易く環境整備されており、政庁跡などは当時の
礎石がしっかりと残っています。
また、政庁復元の模型や、説明書きも随所にあるので、当時の様子をイメージし易く、古代ロマン
を感じます。
一方、建立から1,200年も経つという多賀城跡で発見された「壺の碑(つぼのいしぶみ)」は、
あまりの保存状態の良さから、逆に、長く真偽論争にさらされてきました。
特に、江戸末期〜明治初期と、明治後期〜昭和初期の2度、真偽論争が活発化し、このときは、
2度とも、以下の理由により、偽作説が優勢でした。
@「壺の石碑」とは、「壺」という土地にある石碑という意味なのだが、ここは壺という土地ではない。
Aこの「多賀城碑」が歌枕の「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と結びつけられたのは江戸初期のこと
であり、この時、古来からの歌枕を領内に置きたいという仙台藩の強い意図があり、仙台藩が
作らせた偽作である。
⇒ う〜ん、当時も、現在と同様に、町興しのため、仙台藩が、”こちらの石碑が本物”的な
宣伝活動を繰り広げたんでしょうかねえ〜・・・
しかし、昭和44年、綿密な多賀城跡の調査と検証が実施され、その結果、碑は奈良時代のもので
間違いないと結論されました。
そして、平成9年、石碑の覆堂の解体修理に際して、碑の周囲の発掘調査を行った結果、古代の
据え付け跡が確認されました。
この事により、碑は建碑当初からこの場所にあった可能性が強まり、碑の真作説を後押ししました。
その結果、平成10年、国の重要文化財(古文書)に指定され、真偽論争に一応の決着がつきました。
それでも、一部にはまだ偽作説がくすぶっているらしいです。
現在、上の写真の「壺の石碑(国重文)」は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑
(なすのくにの みやつこのひ)と共に、日本三古碑の一つとされています。
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