(写真は、榴岡天満宮の牛の親子 )
前回の「実方中将の墓 」に続き、今回は「宮城野(仙台)」です。
芭蕉と曽良は、伊達家のお膝元、仙台( 宮城野 )に入ります。
仙台は、当時、伊達正宗のひ孫の伊達綱村が藩主でした。
芭蕉は、仙台に4〜5泊するつもりで、そのために2通の紹介状を携えていました。
しかし、1通の宛先の仙台藩士は、折り悪く病気のため宿泊を断られ、もう1通の宛先の俳人・三千風
(みちかぜ)も留守で会えませんでした。
途方にくれた芭蕉は、仕方なく、宮城野の旅籠に飛び込みで宿泊します。
俳人・三千風(みちかぜ)には留守で会えませんでしたが、三千風の弟子の「加右衛門」(俳号:加之
(かし))と出会います。
当時、仙台藩は、領内の歌枕の名所の整備に力を入れていましたが、「加右衛門」はこの作業に
加わっていましたから、仙台に於ける芭蕉の”歌枕探訪”の案内人としては最適でした。
加右衛門の案内で、芭蕉は、「陸奥国分寺跡・薬師堂」、「榴岡天満宮」などの仙台市内の歌枕の地を見物して回ります。
加右衛門の案内で訪れた木下(きのした)の「薬師堂」は、辺り一帯に、萩がうっそうと茂り、露が落ちていました。
”みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 雨にまされり”
(お供の方よ、笠を被る様に、ご主人に申し上げてください。宮城野の木の下の露は、雨よりも激しい
のですから。)
と、芭蕉は、その昔に詠まれた上記の歌の情景を想像しながら、”これが宮城野の木の下露か!”と、感慨にふけりながら、薬師堂の辺りを散策します。
仙台での歌枕探訪を満喫した芭蕉は、いよいよ仙台を出立する際に、加右衛門から心のこもった
贈り物を受け取ります。
それは、これから向かう松島や塩釜などの名所絵図と、紺に染めた緒の草鞋(わらじ)でした。
ちょうど今の端午の節句のあやめ草を連想させる、紺の麻の緒の付いた風流な草鞋を喜んだ芭蕉は、
加右衛門のことを「心憎いほどの風流人」と褒めて1句詠みます。
”あやめ草 足に結ばん 草鞋(わらじ)の緒”
(あやめ草の様な紺の染緒の付いた草鞋を履いて陸奥の旅に出発するのだ。)
その翌朝、芭蕉は、仙台の城下町の町割りの基点とされた「芭蕉の辻」から東方への道をとり、
塩釜を目指して旅立って行きました。
仙台藩は、その威光を街道を行く人々に見せるために、「芭蕉の辻」の四つ角の全てに、城郭風の
高楼を備えた建物を建てていたそうです。
ん?、「芭蕉」は初めて仙台に来たのに、既に、城下町の中心の地名が「芭蕉の辻」になっていた
のは何故?
実は、ここ「芭蕉の辻」には、伊達政宗のスパイとして働き、その恩賞として、この辻の四隅の
城郭風の高楼を授かった”芭蕉という名の虚無僧”が住んでいたそうです。
諸説あるものの、いずれにせよ、ここ「芭蕉の辻」と「松尾芭蕉」とは無関係だそうです。
そうだったんだ〜。
我々のパック旅行のバスも、名取川を渡って、仙台の市街地に入りました。
「木の下(きのした)」地区の「陸奥国分寺・薬師堂」へ向かいます。
(仁王門)
(鐘楼)
奈良時代に創建された「陸奥国分寺」は、1189年、源頼朝が奥州・藤原氏を追討した際の兵火に
よって焼失してしまいました。
1607年、伊達政宗は、「陸奥国分寺」跡を整備し、同時に「仁王門」や「鐘楼」などを再建すると共に、
新たに「薬師堂」を建立しました。
焼失した陸奥国分寺の中心部の跡は、写真の桃山様式の「薬師堂」の境内として残りました。
バス旅行は、陸奥国分寺を出て、「榴岡(躑躅岡)天満宮」(つゝじが岡天満宮)へ向かいます。
榴岡(つゝじが岡)は、奥州合戦の際に、奥州藤原氏・四代の藤原泰衡が、源頼朝軍を迎え撃つ
ために本陣を築いた地だそうです。
歌枕にもなっている榴岡天満宮は、昔は、その名の通り、ツツジの名所でしたが、仙台藩四代
藩主・伊達綱村が、枝垂れ桜を植えて以来、桜の名所として知られています。
境内には、たくさんの句碑、歌碑が並んでいますが、下の写真は芭蕉句碑です。
句碑の右側の下に、小さな字で、”あかあかと 日はつれなくも 秋の風 ”と、芭蕉の句が刻まれて
いますが、この碑の側面に、寛保三年(1743年)建立とあります。
榴岡天満宮を出て、仙台市の中心の「芭蕉の辻」へ向かいます。
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