江戸時代、中山道は「小紅の渡し」で長良川を渡って、加納宿から次の河渡(ごうど)宿へ向かっていました。
私は、「小紅の渡し」の少し下流の長〜い「河渡橋」を渡って、河渡へ向かいます。
(河渡橋から岐阜の市街地)
(河渡橋から岐阜城)
橋の真ん中に写真の警察署の「岐阜北署」境界標識があります。
県境や市町村の境の標識はよく見ますが、警察署の境界標識はあまり見たことがありません。
一般市民にとって、警察署の境界がどの様な意味を持つのか、よくわかりませんが・・・
岐阜県では、北署と南署の仲が悪いのでしょうか?・・・
英泉の浮世絵「河渡 長柄川鵜飼船」では、有名な長柄川(長良川)の鵜飼船を描いています。
鵜匠たちは、捕獲した鮎の大半を尾張藩に上納させられました。
尾張藩は、その一部を、鮎鮨にして、何と!、東海道をたったの4日間で、江戸まで運んで将軍家に献上したそうです。
うぅ〜ん、河渡から江戸まで、たったの4日かあ〜!、ということは海路なんでしょうね。
川面の上の写真の舟は、遠くてよく見えませんが鵜飼船でしょうか。
長良川に掛かる河渡橋を渡り、対岸の土手の向こう側に下りてゆきます。
土手の下の道を土手に沿って少し歩くと、右手に「馬頭観世音菩薩」(愛染堂)がありました。
そして、「祭 いこまい 中山道 河渡宿(ごうどじゅく)」の幟、黒い常夜灯、ポスターに導かれて、土手沿いの道から河渡宿の中に入ってゆきます。
( いこまい=行きましょう)
河渡宿は、小さな宿場でしたが、米、塩、木材の輸送が多く、川留めのたびに逗留客であふれ繁栄したそうです。
しかし、第二次大戦の岐阜空襲でほとんど焼失してしまい、現在は、宿場町らしい雰囲気はほとんど残っていません。
宿場町を抜けると、「中山道河渡宿」の赤い幟旗が虚しく感じられる様な、殺風景な倉庫や工場地帯が延々と続きます。
やがて、昔は「鯰」という字を書いたという「生津(なまづ)」集落に入り、そこを抜けると、もう田園地帯です。
そして、糸貫川を渡ると、本田(ほんでん)集落に入り、左手に下の写真の「延命地蔵尊」があります。
やがて、右手に、幕府直轄地の「本田代官所」跡の案内板がありました。
この辺りは、旧家らしき立派なお屋敷が散見されます。
代官所跡の先には「高札場跡」の案内看板がありました。
「高札場」は、幕府や諸藩が、新しい法の趣旨を民衆に告知、徹底するために作られました。
しかし、法の趣旨徹底以外にも、キリシタン(切支丹)の密告の奨励とそれに対する高額の賞金なども掲げられていました。
「高札場跡」を過ぎ、五六川を渡ります。
中山道は、のどかな田んぼとビニールハウスの田園地帯が続きます。
ビニールハウスの中を覗いてみると、何と!意外なことに全て「ミニサボテン」です!
この辺りは、日本最大級のサボテン農園地帯で、約300種類のサボテンを育てているそうです。
のどかな田園地帯ではありますが、歩道が無くて車が多いので、速足で進みます。
やがて、踏切を渡りますが、線路の右奥に樽見鉄道の美江寺駅が見えます。
この踏切を渡ったあたりから先が美江寺宿です。
時計をみると2時過ぎです。
案内書によると、ここから、次の近鉄養老線の東赤坂駅まで9キロもあります。
今日は、この樽見鉄道の美江寺駅から終点の大垣駅を経て、名古屋経由で横浜へ帰ることにします。
美江寺→(樽見鉄道)→大垣→(JR東海道線)→名古屋→(新幹線)→新横浜
名古屋駅の構内で、遅めの昼食をとるために食堂に入り、名古屋名物「鰻ひつまぶし」を注文しようとしましたが・・・
写真の「牛ひつまぶし」が余りに美味しそうなので、高額にも拘わらず(2,720円)、ついフラフラと注文してしまいました・・・
この美濃路歩きを通じて、ようやく「鰻ひつまぶし」の正しい食べ方(注)を習得しましたが、多分、「牛ひつまぶし」は、この応用編で大丈夫でしょう。
(注)正しい「ひつまぶし」の食べ方
@1杯目は、そのまま「鰻丼」として食べる。
A2杯目は、刻みネギ等の「薬味をのせて」食べる。
B3杯目は、「お茶漬け」にして食べる。
河渡宿から美江寺宿までは、約5キロです。