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| 『ブラック・ボックス・ダイアリーズ』(Black Box Diaries)['25] | |||||
| 監督 伊藤詩織
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| エンドクレジットに記されていたことからすると、アメリカで劇場公開されて、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー部門にノミネートされた後に受けたクレームを踏まえて修正を加えたもののようだった。オープニングに現れる“流れる水に漂うひとひらの花弁”と対になる、支持者支援者も得た後の中盤に現れる“揺れる水面に浮かぶ幾つもの花弁”とは対照的に現れる「私は決して自殺はしないから、もし死んだら必ず捜査をしてほしい」との言葉を遺書として述べていたこととは対照的な自殺未遂を起こしたと思しき状況を医療ベッドとともに映し出していた構成が印象深かった。 自ら「この(告発活動の)せいで家族の傍にいられなくなる」と言いながらも止められないのは、最初のほうで言っていた「声を上げたらこうなるんだ!で終わらせたくない」との意志的な動機だけでも、「ジャーナリストとして対象化しないととても向き合えない」との情緒的な動機だけでもなく、様々に揺れ動く複雑複合的な動機のもとに、半ば手あたり次第に法的告発、出版、映画化、会見、講演を行なって忙殺することでサバイバーの道を探っていたということなのだろうと思った。 それにしても、壮絶というかタフに過ぎる日々だったことが偲ばれて言葉がなかった。逮捕状の執行停止を土壇場で指示してきた、現職首相に近い本庁幹部を直接質そうとしていた伊藤に「それは最後の最後だ」と窘めていたのは金平元TBS報道局記者だったように思うけれども、本丸は外堀をきちんと埋めてから掛からないと呆気なく返り討ちにされてしまうリスクを説いていたのだろう。半ば唖然としている口ぶりが印象的だった。言わば、ジャーナリストとしては常套的な作法さえ弁えない未熟さがその一事からも窺えるように、法的告発の場面でも出版や映画化、会見や講演の場面でも、それぞれそれらを生業としている人たちが面食らうような振る舞いを彼女は重ねていたのだろうということがよく伝わってきた。 だが、その手当たり次第のなり振り構わない切迫感こそが、警察の捜査員Aやホテルのドアマン、泥酔した彼女を山口TBSワシントン支局長がホテルに連れ込んだタクシーの運転手を動かしたのだろう。確かにジャーナリストとしては手順や手続きに瑕疵のある彼女の取り組み方だったのかもしれないが、僕が視聴を重ねてきているドキュメンタリーフィルムの作り手という観点からすれば、そう大きな逸脱があるようには映って来なかった。作品からは窺い知り得ない逸脱というか関係者の気に障ることがあったのかもしれない。しかし、彼女の蒙ったストレスと苦境からすれば、比較にならないことのような気がしてならない。 二十八歳の語る二年前に起きた出来事というのは、2015-4-3-23:22から始まっていたが、刑事事件としては不起訴相当となり、民事事件として勝訴が最高裁で確定したときは三十三歳になっていた。七年余りの歳月を要していたわけだが、司法決着という領域においては、むしろ早期の部類に入るように感じられることが、何とも情けない。食事の提供に擬えて考えると、空腹に対して温かい料理を提供できる人員体制を整えないままに食堂を営んでいるようなもので、ほとんど茶番だと言う他ない。 刑事と民事で裁定が分かれていることについては、そもそも厳密性と相当性という異なる判断基準で取り扱うものだから、認定された証拠の性質から判断が異なってくる場合があるのも無理からぬことだと思う。山口自身が会見の場で述べていた、犯罪は犯していないが倫理的には後悔しているとの弁が端的に露呈させているものが実に醜悪だった。事実行為を認めたうえで、犯罪を構成するに至るだけの証拠を調えていないなどと当人が論評的に強弁しているわけだ。自分の身に起きたことを自身の内で正面から向き合うことにとても耐えられず、ジャーナリストとして対象化して臨むことでからくも生き延びてきたと述べていた伊藤氏と同じ精神作用が働いているのだろうが、それにより露わになっているものの余りの対照性が痛烈だった。ドキュメンタリー映画としての作品的効果という観点からは、この最後に配された山口元支局長の会見場面が、とてもよく利いていたように思う。 気になったのは、刑事事件として立件するのはとても無理だと言っていた捜査員Aが逮捕状を取るに至った積極的な捜査に転換した判断分岐が何によって生じたのかが明示されていなかったことだ。性被害の問題に社会的に取り組む人々の支援動機とは違って、刑事領域における捜査員の判断は、被害者の必死な姿への同情などではないとしたものなのだが、本作を観ると妙な憶測を招く構成になっていた気がする。迫真性において効果はあっても、作品的には疑問の残る部分だった。 他方で、招かれたのであろう講演会の場での先輩女性ジャーナリストたちの数々の“身を切る”発言に対して「証言の場ではいつも丸裸にされている気がしていたけれど、今日はブランケットを掛けてもらっている気持ちになりました」と涙ながらに話していた場面には感銘を受けた。ジャーナリスト界#MeToo運動といった態を為していたように思う。師弟関係を含め、ある種、権力的な人間関係を濃密に結ぶとき、そこに性的欲望が差し込んでくるのは、同性異性に限らず起こり得ることなのだと改めて思った。権力関係の魔というものに他ならないし、人間なる者の闇とも言える。むろん是認してはならないことだ。万事そういうものだというわけではないだろうけれども決して少数には留まらない有り体というものを大阪地検での北川検事正の件への想起を含めて、改めて感じさせてもらった。 すると旧知の映友女性から捜査員Aの言動はセクハラだと思うとのコメントが寄せられた。「少しも映画では悪く描かれていないし、監督も言及せず。でも私はすごく嫌な感じでした。」とのことだった。彼女が記している「監督も言及せず」ないしは、僕が上述している「捜査員Aが逮捕状を取るに至った積極的な捜査に転換した判断分岐が何によって生じたのかが明示されていなかったこと」という形のままでこの部分を作品に収めると、映友女性のように捜査員Aに対して嫌な感じを持つ人が現われると同時に、さんざん伊藤監督が誹謗されてきた“ハニトラキャラ”“誘い女”といった中傷をまたぞろ呼び込む“ほら見た事かネタ”にされそうに思った。 だから、作品的には疑問が残るとしているわけで、捜査員Aの判断分岐が何によって生じたかを示さないと、映友女性が「(捜査員Aが伊藤監督を)誘っているんですよ」と観た部分をそのまま「(捜査員Aは伊藤監督に)誘わされていたんだ」と見る向きが現われる気がする。ちょうど映画の終盤で屋外で伊藤監督に向けて非難の大声を挙げていた女性が言ってたような誹謗を誘い込みかねない気がする。 | |||||
| by ヤマ '26. 7.12. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター | |||||
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