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| 『冬の光』(Nattvardsgästerna)['63] 『野いちご』(Smultronstället)['57] | |||||
| 監督・脚本 イングマール・ベルイマン
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| '50年代作の『野いちご』は既見だったので、'60年代作の『冬の光』のほうから観た。パンと赤ワインについて語るトーマス牧師(グンナール・ビョルンストランド)の言葉と、欠伸を繰り返し演奏中にも懐中時計を取り出す有様で祈りの欠片もなくなっているオルガン奏者(オロフ・トゥーンベリ)による讃美歌演奏で始まった映画を観ながら、これが“神の不在”“神の沈黙”を描いたと言われるベルイマンの代表作だったのかとの感慨が沸いた。僕には、そのような作品には映ってこなかったからだ。 驚いたのは、春から塞ぎ込んでろくに口も利かなくなった夫ヨーナス(マックス・フォン・シドー)の話を聞いてやってほしいと冬の光射す季節に牧師のもとを訪れたペーション夫妻における夫の心痛の源が中国の原爆開発にあるとの設えだった。'60年代の北欧に住む、間もなく四人の子持ちになる男の心労の種がそんなところにあるとは俄かに信じがたいのだが、妻(グンネル・リンドブロム)の勧めに従って一人で牧師と相対した彼が「(生きなければならないって、)何のために?」と問い掛けたことに対して、おざなりな「神を信じなさい」という言葉を返したことに対して、ヨーナスからの睨みつけるような鋭い視線を浴びて思わず目を逸らして怯んでいた姿が印象深かった。ヨーナスが内に抱えている自殺願望に言及しながら事もあろうに「医者にはかかったか」などと言っていたのも痛烈だった。あたかも信仰によって救われるものなど何もないのだと神職者が通告しているようなものだ。 四年前に妻を亡くし、一人暮らしが五年続いているということからは、亡妻は一年間の入院生活をしていたということなのだろう。いまだに彼女の写真を眺めては偲んでいる思いの深さの一方で、半年程前になる夏までの二年を共に暮らしてきたという学校教員マッタ(イングリッド・チューリン)からの求婚に対しては、つれないどころか「拒むのは体面からではない、愛せないからだ」と言ってのけ、小うるさく煩わしいから嫌なのだと言いつつ、銃自殺したヨーナスの顛末を夫人に伝えに行く段にはマッタを連れて赴くトーマスだった。 墓守の男がイエスの受難に関して、彼が本当は何に苦しんだかについて、磔刑の苦痛ではなく、弟子に見放され、父なる神にも見捨てられたように感じる孤独を挙げ、イエス自身の内に湧いた“神への疑い”に苦しんだのではないかとトーマス牧師に訴える終盤の場面が印象深かった。この墓守の弁がすなわち脚本・監督を担ったベルイマンの想いなのだろう。『大地と自由』(ケン・ローチ監督)にも描かれたスペイン内戦に従軍牧師として参加したとヨーナスに話していた彼が、若いころに抱いた大志についてマッタに語る中盤の場面で「人生に意味は必要か?」と問い掛ける言葉を発していた際にも言及していた「神よ、なぜお見捨てか?」とも呼応していたように思う。 だからこそ“神の不在”“神の沈黙”を描いたと解する向きが多いのだろうが、作り手の主題はそれよりもマッタが口にしていた「不信心」とは何か、不実とは何かということだったような気がした。一点の疑いもなく信じ従うことが信心なのではなく、疑念も含めて我が事として問う姿にこそ信心があり、神職者としての誠実があるとしていたような気がする。どこか悪人正機説に通じるような人間観、信仰観のようなものを感じた。そして、この「意味は必要か」との問い掛けを発したことで、ようやく解き放たれたかのように映るトーマスの姿が描き出されていたように思う。 また、同様に終盤に再登場するオルガン奏者の「愛なんて馬鹿げている」との言葉が触発してくる、マッタへのトーマスの臨み方、ヨーナスが妻子に遺したもの、更にはトーマスが遺影を偲んでいた妻が実は浮気女であったとのオルガン奏者の言葉が問い掛けてくるものとしての「不実」という主題が、不信心以上に響いてくる作品だったような気がする。映画の中盤で「憎しみを憐れみに変えようとした」と言っていたマッタが最後に「優しさを示す勇気が欲しい」と漏らしていた。 そして、マッタから「他人にも自分にもうんざりしている」と指摘されていたトーマス牧師が、そのうえで「聖なるかな、全能にして主なる神、その栄光は地に満ちる」と祭壇で堂々と述べている姿で終えている作品だった。さすがはベルイマンだ。 三日後に観た『野いちご』は三年ぶりの再見で、思うところは前回とそう変わりないが、課題作として『冬の光』と並べ観ると、改めて神職者と医師という、言わば、人を救う職務に就いた者としての対比が際立つとともに、イサク(ビクトル・シェストレム)の息子(グンナール・ビョルンストランド)が囚われていた希死念慮に『冬の光』のヨーナスを想起させられた。 イサクの抱えていた孤独もまた、トーマス牧師と重なり、イサクの妻の浮気と密会が『冬の光』でオルガン奏者の言っていたトーマス牧師の亡妻の浮気と呼応してくるように感じた。底にあるのは、夫の“冷たい優しさ”というわけだ。なかなか刺激的な流石のカップリングだと大いに感心した。 今回はベルイマンだから無理して来たとの女性メンバーの参加を得た男女六人が集った合評会では、牧師の言葉がヨーナスの自殺の引き金になったと思うかどうか、メンバーの意見を訊いてみた。映画の構成からして元より皆が引き金になったと観ていることを想定して「どの言葉が?」と問うてみたかったのだが、思い掛けなくもトーマス牧師の話のせいではなくて元からヨーナスの抱えていたものだと観る向きのほうが多かったようで驚いた。妻の勧めに従って言わば“微かな期待”を託して訪れたものの、大きな失望を受けたことが契機になったように思われるという観方をしていたのは、御一人だったように思う。僕は上述のとおり事もあろうに神職者が心の病については医者を訪ねるよう言い、信者の苦衷を訊くこともなく牧師自身の経験を語って只「神を信じなさい」とあたかも冷たく突き放すように述べた言葉が大きく作用していたと、少なくともトーマス牧師自身は受け取っていたはずだと観ていたものだから、大いに驚いた。 また、マッタから指摘されていたトーマスの“牧師にあるまじき不信心”について妻の死が影響を及ぼしていると観るか否かについてさえも観方が分かれたことには更に驚いた。元々信仰から神職者の道に入ったのではないと思われるトーマス牧師が元から抱えていた問題であって妻の死によって信仰が揺らいだのではないとの意見だったように思う。僕は、ヨーナスに語っていたスペイン内戦への従軍経験から抱き始めた“神の不在”が、妻の死に対して後追いさえ考えたというトーマスにおいて、救済に係る“神の沈黙”を身に沁みて感じるようになったという経過を辿ったものに違いないと解していた。 だからといって、そのこと自体を主題にしている作品だとは思えず、むしろ磔刑に処されたイエス同様に“疑念を抱きつつ問い掛ける姿にこそある信心”を描いているように僕は受け取っていたから、別のメンバーからの「本作は宗教や信仰を描いた作品ではないと思う」という意見にも驚かされた。彼においては、牧師たるトーマスという中年男の“実存の危機”を描いた作品であって、妻の死去やヨーナスの自殺、マッタからの求婚に対して何ら為す術なくルーティンワークに帰って行くしかない無力な姿を描いていると受け取っているようだった。信仰について描くのであれば、もっと神との直接的な対話が描かれなければならないという意見が示されていたように思う。僕は、神の国や神の言葉について解釈も含めてダイレクトに語ることのみが神との対話だとは思っていなかったので、これにもまた大いに驚かされた。むしろ日々の出来事のなかで繰り返し神について思うことのほうを神との対話だと受け取っているようなところが僕にはある。 そして、非常に面白かったのが、彼と同様に本作を特に宗教映画だとは思わなかったという別のメンバーからの、最後に牧師がルーティンワークに帰って行く姿で終えている本作に、むしろ救いを感じたという意見だった。ルーティンワークというか、仕事として為すべきことがあって、それに携わることができることによって支えられるというか、救われる部分があるのが人間だというわけだ。神や信仰による救いとは異なる厳然たる救いを描いて終えているという解釈は、なかなか新鮮で刺激的だった。ある意味、力強く終えている本作のエンディングを支持し、さすがはベルイマン作品だと思っていたものの、そこに“救い”を観るまでには至っていなかったので、大いに感心した。 それにしても、求婚してきたマッタへの悪態には「あそこまで言うのかとの酷さがあって呆れた」という声が挙がったので、あれはヨーナスに自死の契機を与えたように感じていると思しきトーマス牧師が、自身の自責の念を転嫁する形で、マッタから攻撃の言葉を引き出したくて無意識に挑発している側面があるような気がすると返したのだが、特に賛同は得られなかった。 また、かつては素晴らしかったトーマス牧師の説教が駄目になったのは浮気女の妻にのぼせ上がったせいだというオルガン奏者の最後の台詞が気になっていた点に対して、観ようによっては二重写しに見える『野いちご』とのカップリング観賞で僕の得た示唆に関しては、直接的な賛同は得られなかったものの今回のカップリングが非常に効果的だったという賛同はあった。僕においてはトーマス牧師の亡き妻とイサクの亡妻カーリンを二重写しにすることで得られる“冷たい優しさ”というキーワードが決定的だったのは前述のとおりだ。 その『野いちご』は、夢のシーンを借りた映像表現としての卓抜さ、ベルイマン作品らしからぬ救いに満ちたエンディングが大いに支持を集めていたように思う。『野いちご』というタイトルは、何を意味していたのだろうかとの問い掛けがあったので、三年前に観たときの映画日誌に記した「『市民ケーン』['41]における薔薇の蕾のようなものなのだろう」との見解を示すと、面白がってもらえた。三十八年前に観た『市民ケーン』の映画日誌に「ケインが死に際して「rose bud」という言葉を残したのは、自分の人生は、あの六歳の時のとんでもない財力を身につけ始めた時から狂ってしまったんだという歎きなのであろうが、同時にウェルズの自身への戒めでもあったのだろう。」と綴っているのと同じような意味合いだ。 本作に登場するキーワードたる“冷たい優しさ”について、自分にも思い当たるところがあると表明するメンバーがあった。僕など、三年前の映画日誌に記してあるとおり、二十代前半に直に投げかけられた覚えのある言葉だから、大いに親しみを感じた。悪夢という形で訪れる“自己回復のためのプロセス”が観ていて微笑ましかった。ベルイマン作品らしからぬユーモアが随所に込められているところが好い。 恒例の支持作への投票は、両作とも神への踏み込みが甘く物足りないとして棄権があったなか、3対2で『冬の光』のほうに軍配が上がった。ベルイマン作品に深みが足りないという見解からの棄権があるとは思い掛けなかったが、それも含めて今回の意見交換には、いろいろ驚きがあって普段以上にとても面白かった。僕自身は、両作拮抗のなか迷いに迷って、尺の短いほうにすることにしたと言うと、女性メンバーに「なに、それ!」と笑われた。 | |||||
| by ヤマ '26. 7.14,17. DVD観賞 | |||||
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