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| 『らしゃめんお万 雨のオランダ坂』['72] 『雨のヘッドライト』['72] 『赤い通り雨』['80] 『ママと私 とろけモードで感じちゃう』['22] | |||||
| 監督 曾根中生 監督 小沼勝 監督 小原宏裕 監督・脚本 吉行由実 | |||||
| シリーズ『みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ#120』とともに収録されていたディスクの「らしゃめんお万 雨のオランダ坂【サリー・メイ】、雨のヘッドライト【田中真理】、赤い通り雨【風祭ゆき】、+1が女高生偽日記【荒井理花】」というラインナップの共通テーマは、「雨」。何のことはない、タイトルに雨の付いた三作品を並べた以上の意味はなさそうだった。テーマを雨としながら「天使のはらわた」シリーズが一作もないのは、いただけない。 最初に観た『らしゃめんお万 雨のオランダ坂』は、昭和初期の上海から始まった設えにロマンポルノ作品らしからぬ本格的なセットを感じて吃驚してしまった。日本語の上手な金髪外国人女性の出演で予算を張り込んだにしても、なかなかのものだったように思う。劇中設定がハーフの万玲(サリー・メイ)だったので、サリー・メイ自身が日本生まれのハーフだったのかもしれない。それはともかく先ごろの朝ドラ『ばけばけ』にも出てきた“羅紗緬”というのは、西洋人相手の娼婦を言うのであって、西洋人娼婦のことではないように思うけれども、そのあたりの出鱈目さというか、語感重視の意味蔑ろという今のテレビでの用語を半世紀前に先取りしていたことを面白く観た。いや、先取りというよりむしろ、テレビのロマポ化と観るべき現象のような気がする。そして、言葉の出鱈目な使用においては今やテレビ以上に国会が惨憺たる有様になっている。 上海から横浜に転じた舞台のどこにオランダ坂が?と思っていたら、最後にきっちりと長崎に渡り、確かにタイトル通りの雨のオランダ坂で終えていた。女衒ヤクザ竜二(武藤周作)に娼婦として売られる金髪娘の哀歌かと思いきや、彼女が苦界に身を落とす契機となった養父殺しに加担した政吉(大和屋竺)の命を懸けた贖罪によって解放され、壺振り師として渡世人になる物語であった。とことん和風な任侠世界を金髪娘に演じさせる、意表を突いた造りが売りだったのだろう。だが、肝心の万玲にあまり魅力が感じられず、話の運びの乱暴さにも呆れた。万玲に壺振りを教えるお秋(林美樹)の気っ風と、万玲の生母おりん(南寿美子)の哀切のほうに味があったように思う。 続いて観た同年作の『雨のヘッドライト』は、黄色のクロッカスと思しき花を敷き詰めたベッドでの性交シーンの、殊更のソフトフォーカスによってフォトジェニックに映し出された蜜月感がなかなか好かった。真偽のほどはともかく姉の子を連れての妻との結婚生活に草臥れていた長距離トラックの運送屋稼業である静原征二(武藤周作)が、妻帯者に弄ばれていたと思しきマキ(田中真理)と巡り会ったのは、掛け替えのない幸であり不幸であったことが悲恋物語として綴られている作品だったように思う。 マキを悲劇のヒロインたらしむべく、親代わりと自称するドライブイン親父からの暴行、恋人小島の不実、征二との道ならぬ恋から身を引く克己を誂えたうえで、取って付けたような不慮の事故による死去を配していた。 姿を消した自分を探し訪ねてきた恋しい征二との最後の逢瀬と決意した内心を秘めて抱かれる歓びと哀しみを湛えた己が顔を母の形見である鏡台のなかに観て涙するマキを演じた田中真理は、その白い裸身ともども確かに美しかった。 夜勤帰りの征二を待っていた、前夜の麻雀の後片付けもせぬまま乱れた寝姿をだらしなく伸ばしていたヤスヨ(乱孝寿)や、ふいに訪れたマキが恋人の不実を知ることになった、朝からしどけなく貪欲に愛欲に耽る淫蕩さの漂っていたミツエ(曽野節子)との対照を利かせていたような気がする。マキの来訪によって中断された性交を再開させて誤魔化そうとした小島に「イヤ、不潔」と拒みながらも、後ろから差し込まれて身悶え始めると、側臥後背位で挿し込まれたまま中断されて「ね、早くして」と催促してしまうミツエの場面での小道具としての煙草の使い方が何とも可笑しかった。 征二に向って、子連れでどうしようもなくなってたときに助けた恩を着せていたヤスヨの言い分はありがちなことで、マキとのことも帰って来るなら不問にしようとしていた感のあるヤスヨながら、おそらく後々もチクチク蒸し返すのであろうことが容易に見込める人物造形が果されていて、未練を残しながらも決然と身を引くマキとの対照が施されていたような気がする。 ドライブイン親父から暴行を受けて乱れた姿で逃げ出したマキを夜中に拾ってトラックに乗せたときに一瞬、好色なギラついた視線を見せながらも、その境遇に同情して自制するばかりか、親身に世話を焼いてやりつつ、何とか欲情を堪えて「俺、帰るわ」と言っていた征二の火蓋を切って落としたのは、明らかにマキのほうだったのだが、その寄る辺なさからは致し方ない風情もまた、確かにあったように思う。 征二の服から取れた金釦を今度繕ってあげると言いながら、ペンダントに仕立て上げているのを遺品として見つけ、涙する征二であったという終わり方がまさしく総てを象徴しているような仕立てのドラマだった気がする。先に観た「雨のオランダ坂」に続いて武藤周作が主演男優を務め、ヘッドライトを点灯して雨中を走行するトラックの姿で終えていたが、なかなか劇中の声がよく、オランダ坂よりも数段見栄えのする存在感だった。 翌日観た、ディスコでの乱闘から始まった『赤い通り雨』は、これが先輩映友ご贔屓の風祭ゆきロマポデビュー作かとの思いとともにクレジットを眺めていると、音楽:三枝成章の文字が目に留まった。観終えると、二十歳前後の若者の獣欲こそは、危険な(すなわち「赤い」)通り雨だという作品タイトルだったのかと思った。そのような不条理で無軌道な獣欲に“愛”などというコーティングを施す欺瞞への憤慨が込められているかのようなエンディングにしていた、那須真知子の脚本に恐れ入った。事後の始末をしたと思しきティッシュに数匹の蝿がたかっているショットがあったが、フェロモンに誘われて悠子に群がった男たちの隠喩のようでもあった。 八年前に製作された『雨のヘッドライト』に続いてトラック野郎が登場していたわけだが、この運送屋稼業の高木信(田浦智之)こそが、性犯罪による少年院帰りの弟である勝(山本祐二)ともども、植草悠子(風祭ゆき)を強姦しておきながら魔が差したかのように詫びて、愛しているなどと口にするばかりか、その後は「まだ許してはいないわよ」と言われながらも恋人関係に至った自分の目の前で、弟が悠子を再び犯し始めるのを凝視しながら、「感じるな、悠子、感じちゃだめだ」などと叫ぶ、呆れた唐変木だった。それに対して「達したぜ、この女」と嗤う勝といい、婚約者だった悠子が強姦されるや退職金を持参して引導を渡しにきていた安田(中丸信)といい、作り手の造形していた男性像には、ある種の絶望感が込められているような気がした。悠子が高木兄弟に向って呆けたように「二人の女になってもいいわ」と応える姿に、男という存在への絶望感の深さが漂っているように感じたからかもしれない。 +1の『女高生偽日記』については、二年前に特集テーマ「ビニ本」のなかで視聴済みだったので、今回は省略。 続いて観た『ママと私 とろけモードで感じちゃう』は、『みうらじゅんのグレイト余生映画ショー in 日活ロマンポルノ#120』収録ディスクになぜか紛れ込んで録画されていた今世紀作品。それも僅か四年前の映画だ。監督・脚本をピンク女優出身の今や還暦となる吉行由実が担っている今どき作品だけのことはあって、往年のロマンポルノに頻出する暴行シーンが一切でてこない。強引な迫り方やリモコンバイブを装着してのお出かけプレイといった破廉恥は、3Pも含めてアラカルト的に繰り出されるけれども、基本的に青春恋愛映画だったように思う。 エリカ(花音うらら)の童顔とアンバランスな肢体さながらに、いささか幼稚で軟弱で掴み処のない手応えに気を揉みつつ心寄せる幼馴染の秀坊こと秀一(可児正光)とエリカの関係の“回り道を辿りながらの進展”が描かれていた。マッキーことエリカの母マキコ(愛葉るび)のキャラクター造形がなかなか面白かった。演じていた愛葉るびの実年齢は幾つなのだろう。眼鏡を掛けたマキコのときは、四十路に違和感のない風情だったのに、濡れ場も演じるマッキーになると、エリカの少し先輩くらいで違和感がなくて驚いたが、近頃の女性とはそうしたものなのだろう。花音うららのアンバランスな魅力が全開で、成人映画としての見せ場もそれなりに充実していて、思いのほか面白かった。 | |||||
| by ヤマ '26. 5.30~31. スカパー衛星劇場録画 | |||||
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