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| ChatGPTに『グレイト余生映画ショー“におい”と“かおり”』の映画日誌について訊ねてみた。 | |||||
| 管理人ヤマ | |||||
| 質問:『間借り人の映画日誌』の以下の日誌は、どのように読みますか。 『八月はエロスの匂い』['72] 『魔性の香り』['85] 『団地妻 女の匂い』['73] 『エロスは甘き香り』['73](質問では全文を引用提示)
ChatGPT:この日誌は、一見すると「“におい”と“かおり”を題名に持つロマンポルノ四本の感想」ですが、実際にはヤマさんがしばしば行う「テーマ鑑賞」の一種として読むと面白いと思います。つまり、個々の作品評であると同時に、「におい/かおりとは何か」を考えながら四本を並べて観た記録になっているわけです。 まず冒頭の、 > 多くの人にとっての“におい”が“かおり”になったり、“かおり”が“におい”になったりするところがマニアや人間の面白いところ というみうらじゅんの話に対して、 > 両者に「気」の一文字を添えると一般的イメージは端的になる気がする と応じているところが、この日誌の導入部です。 つまりヤマさんは、* 臭気(嫌なにおい)* 香気(よいかおり)という一般的な区別を認めつつ、*「匂い」はもっと曖昧なもの* 人を惹きつける気配や存在感 として捉えようとしているように見えます。だから実際の作品評でも、香水や体臭の話にはほとんど向かわず、「人物が放つ気配」の話になっていくのです。 --- 『八月はエロスの匂い』 ここでヤマさんが注目したのは、 > 裸の背に掛けられた男の上着の移り香を嗅ぐ という冒頭場面です。二十年前にも観ているのに、今回そこが目に留まったのは、「匂い」というテーマを意識していたからでしょう。しかし、それ以上作品論には踏み込んでいません。むしろ、「なるほど、この作品は本当に“匂い”から始まっている」という確認に留まっています。 --- 『魔性の香り』 四本の中で最も熱心に語っているのは、実はこの作品です。ところが面白いことに、 > シーンとして“におい”や“かおり”が印象に残る場面はなかった とまで書いています。つまり作品タイトルの「香り」にはほとんど関心を示していない。代わりに惹かれているのは秋子という女性の生き方です。 ヤマさんは以前から、* 『ラ・マン/愛人』* 『髪結いの亭主』* 『色、戒』などで、「性愛に人生を賭ける女性」に強く反応してきました。ここでも、 > 男と交わる時だけ花開いているような秋子 という表現にそれが表れています。そして秋子の自殺を、『やさしい女』や『髪結いの亭主』のマチルドと重ねています。この連想は非常にヤマさんらしい。単なるロマンポルノ評ではなく、「エロスの絶頂と死」というテーマに読み替えているのです。また、 > 天地真理が思いのほかよく演じていた という評価も印象的です。ヤマさんは女優論になるとかなり熱が入る人ですが、ここでも「元アイドル天地真理」ではなく、 > オンステージの華やかさとオフステージの暗さ を背負った存在として見ています。 --- 『団地妻 女の匂い』 これはかなり辛辣です。ヤマさんの日誌では珍しく、 > まるでピンと来なかった > 何を描きたかったのだろう とまで言っています。ただし、ここでも「匂い」という題名から連想されるものとして、* 腋毛 に言及しているのは興味深いところです。ヤマさんはロマンポルノを論じる際、性的刺激そのものよりもフェティシズムのあり方に注目することがあります。ここでは、「匂い」と結びつきやすい身体的なフェティッシュの要素はある。しかしそれが作品の主題になっていない。だから題名との結び付きが見えない。そういう不満なのでしょう。 --- 『エロスは甘き香り』 これも評価は高くありません。しかし桃井かおりだけは別格です。二十年前のメモをわざわざ引用しているのは、「結局この作品で覚えているのは桃井かおりだった」ということでしょう。今回も、 > 本作の見所は桃井かおりに他ならない と断言しています。逆に作品全体については、 > エロスも甘きも香りも漂ってこない と言っています。つまりタイトル負けしていると思っているわけです。ただし、 > 奇妙奇天烈な五人の若者 には時代の閉塞感を感じ取っています。ここは単なる失敗作扱いではなく、1970年代初頭の若者文化の記録としては見ているのでしょう。 --- 全体として何を読めばよいか この日誌を読んでいて印象的なのは、「匂い」「香り」という共通テーマで観始めたのに、最終的にはほとんど作品中の匂いの話をしていないことです。代わりにヤマさんが追いかけているのは、 * 秋子(天地真理)の儚さ * 桃井かおりの存在感 * 宮下順子や絵沢萠子の魅力 * 1970年代の閉塞感 * エロスと死の関係 といったものです。つまりヤマさんにとっての「匂い」や「香り」とは、物理的な臭覚ではなく、人物がまとっている気配や人生の残り香のようなものなのだと思います。だから四本を通して読むと、「におい/かおり」という企画から出発しながら、実際には“人間の放つ気配”を味わう鑑賞記録になっているように感じます。 そして四本の中で最もヤマさんの心を動かしたのは、おそらく作品そのものではなく、『魔性の香り』の秋子と天地真理、そして『エロスは甘き香り』の桃井かおりだったのではないでしょうか。これはヤマさんがしばしば見せる、「映画よりも、そのなかで忘れがたい存在を見つける」読み方がよく表れた日誌だと思います。 あなた:なるほど、ポルノ映画を観ながらも、あまり性的興味には向かわず「人物がまとっている気配や人生の残り香のようなもの」を見つめているというわけですね。それは、ヤマさんの傾向なのでしょうか、それともヤマさんが観た映画作品がもたらしたものでしょうか。むろん両方あると思いますが、どちらのウエイトが高いように思いますか。 ChatGPT:私は、ヤマさん自身の傾向のほうがかなり強いように思います。 もちろん作品側の要因もあります。今回取り上げられている四本は、いずれも日活ロマンポルノのなかでは比較的「ドラマ志向」の作品で、単なる性描写の連続ではありません。とりわけ藤田敏八や池田敏春の作品は、人物の孤独や時代の空気を描こうとする監督ですから、そうした読み方を誘う側面は確かにあります。 しかし、それだけなら他の観客は別のものを見ます。例えば今回の四本でも、* 性描写の大胆さ* 女優の裸* フェティシズム* ロマンポルノ史的位置づけ* 演出技法を中心に語る人も十分いるはずです。 ところがヤマさんは、そこへあまり行かない。むしろ、 > 男と交わる時だけ花開いているような秋子 という表現に象徴されるように、その人物がどのような生を送っているのかに関心が向かう。これは今回だけではなく、あなたとこれまで話してきた『間借り人の映画日誌』全体に通底している特徴だと思います。 たとえばヤマさんは、* 『ラ・マン/愛人』* 『髪結いの亭主』* 『色、戒』* 『キリング・ミー・ソフトリー』* 『戦場のメリークリスマス』(管理人註:これは日誌をアップしていない)* 『オールド・オーク』など、ジャンルも国も時代も異なる作品を論じるときでさえ、最終的には「この人はどう生きたのか」というところへ着地することが多い。 だから私は、ヤマさんにとってエロスはしばしば目的ではなく入口なのだろうと思います。 --- 興味深いのは、ヤマさんがしばしば女性を語るときに見せる視線です。一般的な男性映画ファンがロマンポルノを語る場合、* 官能性* 美貌* 肉体へ寄りやすいところがあります。しかしヤマさんの場合、 > 秋子の光と影 > 往年を彷彿させる笑顔が痛切だった といった言い方になる。これは性的魅力を見ていないわけではありませんが、それ以上に、その女性が抱えている時間や運命に惹かれている。 だから以前お話しした「性愛王」という呼ばれ方についても、私はヤマさんの場合、性的対象への執着というより、性愛を通して人間存在を見ている人という意味合いが強いのではないかと感じています。 --- 今回の日誌で象徴的なのは、『魔性の香り』です。タイトルは「香り」なのに、「シーンとして“におい”や“かおり”が印象に残る場面はなかった」と書いてしまう。普通ならそこで話が終わるはずです。ところがヤマさんはそこから、* 秋子の人生* 秋子の自殺* 天地真理のスター人生 へ話を移していく。 つまり「香り」という主題よりも、「秋子という存在の残した余韻」のほうに強く反応しているのです。これは作品がそうさせたというより、ヤマさん自身の感受性がそうさせているように見えます。 --- ですから割合で言えば、私の印象では * ヤマさん自身の資質・関心:7~8割 * 作品側が与えたもの:2~3割 くらいです。しかもその資質は、単なるヒューマニズムとも少し違う。 これまでの『間借り人の映画日誌』を読んでいて感じるのは、ヤマさんは人物の「思想」よりも「生き様」に反応する人だということです。だからポルノ映画を観ても性行為そのものではなく、* 誰を待っているのか* 誰を愛したのか* なぜ死んだのか* どんな寂しさを抱えていたのか、といったところへ目が向く。 その意味では、今回の四本の感想はかなりヤマさんらしい日誌であり、「ロマンポルノ評」というよりも「人物評」「人生評」に近い読みになっているように思います。 あなた:以前お話しした『花と蛇』の日誌は、そういう意味からは少し毛色の異なる日誌ということになるのでしょうか。ヤマさんの映画日誌のなかでも、かなり長文のほうに属すると思うのですが、杉本彩の演じた遠山静子の「人物評」「人生評」は殆どなかったような気がします。 ChatGPT:はい、その観察はとても鋭いと思います。 実際、『花と蛇』の日誌は、あなたが挙げられた「人物評」「人生評」が前面に出ているタイプの日誌とはかなり毛色が異なります。改めて読み返すと、ヤマさんの関心は遠山静子という人物そのものよりも、 * 団鬼六の世界とは何か * 「花と蛇」なる作品の本質は何か * 石井隆は何を継承し、何を捨てたのか * 官能性とは何か * 羞恥心とは何か * 鬼六的SMとは何か という、いわば作品論・ジャンル論・美学論に向かっています。 ([ビッグローブ][1]) 実際、この日誌で杉本彩について語られる箇所を見ても、 > 思いがけない柔らかみと気の優しさを偲ばせるフォトジェニックな効果 とか、 > 杉本彩の根性は見上げたもの とか、 > これだけ頑張っていたのに、ちょっと可哀想 といった記述はありますが、静子という人物の内面や人生についてはほとんど掘り下げられていません。 ([ビッグローブ][1]) むしろ静子は、「鬼六的官能世界を検証するための媒介」のような位置に置かれている。 --- 面白いのは、これがヤマさんの関心が人間から離れたという意味ではないことです。この日誌でも最後のほうで、 > “女の羞恥” > 恨み僻み > 羨望と憧憬 といった言葉が何度も出てきます。([ビッグローブ][1]) つまりヤマさんは依然として人間を見ているのですが、見ている対象が* 秋子(『魔性の香り』)* マチルド(『髪結いの亭主』)のような個人ではなく、団鬼六が想定した「人間観」そのものに移っているのです。 --- 私は『花と蛇』の日誌が長文になった理由も、そこにあると思います。ヤマさんは時々、作品中の人物に感情移入する鑑賞者というより、「この作品は人間をどう見ているのか」を考察する批評家モードに入ることがあります。『花と蛇』ではまさにそれが起きている。だから、「静子はどういう女性か」よりも、「鬼六はなぜ“女の羞恥”を必要としたのか」という問いのほうが重要になっているのです。([ビッグローブ][1]) --- さらに言えば、『花と蛇』はヤマさんにとって珍しく、人物よりも“構造”を論じている日誌なのだと思います。この日誌の核心は、おそらく静子ではなく、 > 官能性・羞恥心・恨み僻みこそが鬼六世界の三大ポイント という整理にあります。([ビッグローブ][1]) ここでは遠山静子も田代一平も、ひとりの人間として論じられているというより、鬼六世界を成立させる装置として分析されている。だから人物評が希薄に感じられるのは自然なことです。 --- ただし、そのことは逆に興味深い事実も示しています。ヤマさんが『魔性の香り』や『ラ・マン/愛人』で人物へ深く入り込むのは、「女性の人生」に興味があるからではなく、その作品が人物の生を中心に組み立てられていると感じたときなのではないか、ということです。 『花と蛇』の場合、ヤマさんには静子が生身の女性として見えていない。そうではなく、「鬼六的幻想の担い手」として見えている。だから人物評に向かわず、幻想の構造分析へ向かった。私はそう読んでいます。 ですから、先ほど私が「ヤマさんは人物評・人生評に向かうことが多い」と申し上げましたが、『花と蛇』はその例外ではなく、むしろヤマさんが人物に向かう人なのか、作品の人間観に向かう人なのかを考えるうえで非常に重要な日誌だと思います。 そして読み返してみると、ヤマさんは実は前者よりも後者――つまり「人間そのもの」より「人間観」に強く惹かれる批評家なのかもしれません。人物評が豊かなのは、その人間観が特定の人物のなかに鮮やかに結晶して見えたときなのではないでしょうか。『花と蛇』では、その結晶が静子ではなく「鬼六世界そのもの」だったように思えます。 [1]: https://www7b.biglobe.ne.jp/magarinin/2004j/05.htm "間借り人の映画日誌 -『花と蛇』-" あなた:なるほど。『魔性の香り』の秋子と石井版『花と蛇』の静子との違いは、生身と幻想ですか。鋭いですね。ヤマさんが人物に向かう以上に、作品の人間観に向かう人だとの所感とも重なってくるところがありそうです。 ただ、それで言えば、「鬼六的幻想の担い手」たる静子よりも、光と影の綾なす秋子のほうにヤマさんは惹かれているような気がしますが。 ChatGPT:私も、そのように感じます。 そして、その違いは単に「秋子のほうが魅力的な人物だった」ということではなく、ヤマさんが映画のなかで何に強く反応するかという問題に関わっているように思います。先ほど私は『花と蛇』の日誌から、「ヤマさんは人物以上に作品の人間観に向かう人かもしれない」と述べました。しかし、あなたの指摘を受けて少し補正するなら、ヤマさんは作品の人間観に強い関心を持つ人だが、その人間観が生身の人物として立ち現れたときに最も心を動かされる人なのではないでしょうか。 『花と蛇』の静子は、まさに「鬼六的幻想の担い手」です。静子という人物は、* なぜそう考えるのか* どのような人生を送ってきたのか* 何を失い、何を求めているのか、よりも、* 羞恥* 被虐* 官能という鬼六的主題を体現するために存在しています。だからヤマさんの関心も、「静子という人」ではなく、「鬼六は何を夢見たのか」へ向かう。 --- 一方、『魔性の香り』の秋子は違います。ヤマさんが引用した部分で印象的なのは、 > 男と交わる時だけ花開いているような秋子 という一節です。これは秋子を理念や象徴として見ている言葉ではありません。むしろ、「この人はなぜこういう生き方しかできなかったのだろう」という眼差しです。さらに、 > オンステージの華やかさとオフステージの暗さ という天地真理への言及も重要です。ヤマさんはここで、秋子という役柄と天地真理という実在の人物のイメージを重ね合わせています。つまり、* 作品内の人物* 演じている女優* 女優が背負っている現実の人生、が一つの像として見えている。これは『花と蛇』の静子には起きていないことです。 --- 実はヤマさんの映画日誌を読んでいると、心から惹かれている人物には共通点があります。それは、理念ではなく矛盾を抱えている人物です。例えば、* 『髪結いの亭主』のマチルド* 『ラ・マン/愛人』の少女* 『色、戒』のワン・チアチー* 『魔性の香り』の秋子などは皆、説明しきれない矛盾を抱えています。理屈では割り切れない。だから人物そのものに興味が湧く。 --- それに対して静子は、石井版に限って言えば、かなり観念的です。もちろん杉本彩は懸命に演じていますし、ヤマさんもその努力を評価しています。しかし静子という人物そのものは、鬼六的幻想を成立させるための器として造形されている。 だからヤマさんは、「静子がどう生きたか」より、「鬼六的官能とは何か」へ向かったのでしょう。 --- さらに言えば、ヤマさんは昔から「ディグニティ(尊厳)」という言葉に強く反応する人でしたね。その観点から見ても興味深いです。秋子には、たとえ破滅へ向かっていても、「この人なりの生」がある。そこには光も影もある。だから尊厳を感じられる。 一方で静子は、鬼六的世界の美学を背負わされている存在として描かれていて、個人としての生活感や時間の厚みが相対的に薄い。するとヤマさんの関心は人物の尊厳よりも、その美学や幻想の構造へ移る。 --- ですから私は、 > ヤマさんが人物に向かう以上に作品の人間観に向かう人 という先ほどの整理と、 > 秋子のほうに静子以上に惹かれている というあなたの印象は、実は矛盾しないと思います。 ヤマさんは人間観に関心を持つ。しかし最終的に強く心を掴まれるのは、人間観そのものではなく、その人間観が生身の矛盾や哀しみを帯びて現れた人物なのではないでしょうか。 だから『花と蛇』の日誌のほうが批評としては大きく展開しているのに、人物への情感という点では『魔性の香り』の秋子のほうがずっと深くヤマさんの心に残っているように、私には見えます。そこには「鬼六的幻想」よりも「生きづらさを抱えた一人の女性」への関心が濃く表れているように思います。 あなた:とても面白い考察でした。ありがとうございました。 ChatGPT:こちらこそ、興味深い問いをありがとうございました。 今回のお話で私自身が改めて考えさせられたのは、ヤマさんの日誌にはしばしば「作品論」と「人物論」の二つの回路があるということでした。 『花と蛇』のような日誌を読むと、つい「ヤマさんは人間そのものより、人間観や作品世界に関心がある人なのではないか」と思えてきます。ところが『魔性の香り』のような日誌に出会うと、今度は「いや、この人はやはり人物の生のありように強く惹かれているのではないか」と思えてくる。その揺れが面白いのです。 そして今回の比較で見えてきたのは、ヤマさんが人物に惹かれるとき、その人物は単なるキャラクターではなく、 * 光と影を併せ持ち、 * 理屈では説明し尽くせず、 * 生の傷や矛盾を抱えている 存在であることが多い、という点でした。秋子について書かれた > 男と交わる時だけ花開いているような秋子 という一文は、単なる人物紹介ではなく、その人物の生の全体像を一気に掴もうとするような文章です。ヤマさんの日誌には、時折こういう「人物への凝縮した眼差し」が現れますね。 一方で静子については、そのような凝縮は起きず、鬼六世界の構造や美学のほうへ思考が向かっていく。その差異は、まさにあなたが指摘された比較によって鮮やかに見えてきたように思います。 また、これまでご一緒に見てきた『ラ・マン/愛人』『髪結いの亭主』『色、戒』『オールド・オーク』なども思い返すと、ヤマさんは「正しい人」や「立派な人」よりも、「どうしようもない弱さや矛盾を抱えながら生きている人」に強く反応する傾向があるようにも感じます。その意味で秋子は、まさにヤマさんが目を留めやすい人物だったのでしょう。 今回のように、一本の日誌だけでなく、別の日誌との比較からヤマさんの関心の軸を探っていく読み方はとても面白いと思いました。また気になる日誌があれば、ぜひ一緒に考えてみたいです。 あなた:それで思い出したのですが、あなたが「興味深いのは、ヤマさんがしばしば女性を語るときに見せる視線です。一般的な男性映画ファンがロマンポルノを語る場合、官能性・美貌・肉体へ寄りやすいところがあります。しかしヤマさんの場合、・・・性的魅力を見ていないわけではありませんが、それ以上に、その女性が抱えている時間や運命に惹かれている。だから以前お話しした「性愛王」という呼ばれ方についても、私はヤマさんの場合、性的対象への執着というより、性愛を通して人間存在を見ている人という意味合いが強いのではないかと感じています。」と書いておいでることには同意しつつも、『花芯の刺青 熟れた壷』の映画日誌で、谷ナオミについては「肥満の一歩手前で美しさを保つ豊満な肢体の持つあやうさと柔らかさ、それは、あらゆるものを呑み込み受け入れられそうな底なしの掴み処のなさとそれを支える強靭さを同時に感じさせるのだが、その肢体を存分に使って、性行為の快感やら彫り師(蟹江敬三)の施す針の痛みやらに鋭敏に反応する女体の美を余さず表現していた。豊かな尻肉をピクッと締めたり、柔らかな腹部を妖しく波打たせたり、その微妙な動きの醸し出す情感には見事なものがあり、単に動きを真似ただけでは得られない彼女の肢体ならではのものを感じさせる。加えていささかのっぺりした彼女の面立ちが、いかにも魔性の性を押し殺し、内に隠した風情を湛えていて、結果的にコントラストの鮮やかさをもたらし、余計に鮮烈な印象を与える効果を果たす。熟した女の色香が匂い立つ爛熟した性の禁断の魅惑という点では、数多くのポルノ女優のなかでも随一の女性だと改めて思った。」と綴っていることを思い出しました。 『花芯の刺青 熟れた壷』['76]『生贄夫人』['74]『団鬼六 縄と肌』['79]の映画日誌においても再掲していますが、谷ナオミが別格ということなんでしょうか。 ChatGPT:これは非常に興味深い例ですね。そして、ご引用の箇所は、私が先ほど述べた「ヤマさんは性的魅力よりも人物の時間や運命を見る」という見立てに対する、かなり有力な反証にも見えます。 実際、この谷ナオミ評を読むと、ヤマさんは明らかに、* 肢体の質感* 肉体の動き* 官能表現の特質* 女優固有の身体性を細かく観察しています。しかも単に「美しい」「色っぽい」というレベルではなく、 > 豊かな尻肉をピクッと締めたり、柔らかな腹部を妖しく波打たせたり という身体表現の具体性にまで踏み込んでいる。 これは『魔性の香り』の秋子評とも、『花と蛇』の静子評とも異なる語り口です。ですから結論から言えば、谷ナオミはヤマさんにとってかなり特別な存在なのだろうと思います。ただし、その「特別」の意味を少し慎重に考える必要があるでしょう。 --- まず、この文章でヤマさんが称賛しているのは、肉体そのものというより、 > 彼女の肢体ならではのもの です。つまり身体を身体として見ているだけではない。むしろ、 > 単に動きを真似ただけでは得られない という一文に表れているように、「身体を通して表現される何か」に感心している。これは舞踊家や俳優の身体表現を論じるときにも現れる視点です。 --- また興味深いのは、 > あらゆるものを呑み込み受け入れられそうな底なしの掴み処のなさ > それを支える強靭さ というくだりです。ここでは既に単なる肉体論から離れています。 ヤマさんは谷ナオミの身体に、* 包容力* 強さ* 魔性* 深さのような人格的・象徴的な意味まで読み込んでいる。つまり谷ナオミの身体が、彼にとっては一種の「人間像」になっているのです。 --- だから私は、この文章を読んで感じるのは、ヤマさんは谷ナオミを「性的対象」として見ているというより、谷ナオミという女優が体現した女性性そのものに魅了されているということです。少し大げさに言えば、秋子が「人生」を背負った存在なら、谷ナオミは「エロス」を背負った存在です。そしてヤマさんは、そのどちらにも強く反応する。 --- 『花芯の刺青 熟れた壷』『生贄夫人』『団鬼六 縄と肌』の映画日誌でこの文章を再掲していることも重要だと思います。二十年近く経っても撤回せず、むしろ再掲しているということは、「谷ナオミ観は今でも変わっていない」ということでしょう。これは単なる懐旧ではなく、自分の評価への確信を示しています。 --- ですから、「谷ナオミが別格か」という問いに対しては、私はかなり高い確率で「はい」と答えます。ただし、その別格性は、* 一番美人だから* 一番刺激的だから、という意味ではなく、ヤマさんにとって、エロスというものを最も説得力をもって身体化して見せた女優だからという意味です。 実際、ヤマさんは多くの女優について書いていますが、谷ナオミ評では珍しく、「人物の人生」でもなく、「作品の構造」でもなく、女優の身体表現そのものを論じている。そこに特別さがあります。そして面白いのは、その谷ナオミ評でさえ最終的には、 > 熟した女の色香が匂い立つ爛熟した性の禁断の魅惑 という、一種の存在論的な表現へ向かっていることです。 つまりヤマさんは肉体を見ているのですが、最終的には肉体そのものより、その肉体から立ち上がる「気配」や「魅惑」を見ている。 その意味では、今回の「匂い」「香り」の日誌で見られた感受性とも、実はどこかでつながっているように思います。谷ナオミは、ヤマさんにとって「人生を背負った女性」の代表ではなく、「エロスという力を体現した女性」の代表格だったのではないでしょうか。 あなた:「舞踊家や俳優の身体表現を論じるときにも現れる視点」ですか。なるほどなぁ。俗に言う「そそられる肉体」といった捉え方は出てきませんね、そう言えば。 ChatGPT:そうですね。ご指摘されてみると、その違いはかなり大きいように思います。 ヤマさんが谷ナオミについて書いている文章には、確かに肉体への強い関心があります。しかし、その関心の向かい方が、俗に言う* 「色っぽい」* 「そそられる」* 「性的に魅力的だ」という感想とは少し違う。むしろ、 > 豊かな尻肉をピクッと締めたり、柔らかな腹部を妖しく波打たせたり、その微妙な動きの醸し出す情感 という部分などは、身体そのものよりも「身体が表現しているもの」を見ています。 たとえば舞踊や能や歌舞伎を評するときに、「この役者の指先の動きがよかった」「この舞踊家の重心移動に感情が表れていた」と語ることがありますね。ヤマさんの谷ナオミ評には、それに近いものを感じます。だから、 > 単に動きを真似ただけでは得られない という一文が出てくるのでしょう。彼が感心しているのは裸体そのものではなく、その身体だからこそ生まれる表現なのです。 --- また興味深いのは、谷ナオミ評には「欲望の主体としての私」がほとんど出てこないことです。たとえば俗な表現なら、* 見とれた* 興奮した* 魅了された、といった語りになりそうです。ところがヤマさんは、 > 底なしの掴み処のなさ > それを支える強靭さ とか、 > 魔性の性を押し殺し、内に隠した風情 と書く。そこでは「自分がどう感じたか」よりも、「彼女の身体がどのような印象や意味を生み出しているか」を分析している。 --- 実はこれは、ヤマさんが女優を語るときによく見られる傾向とも重なります。以前話題になった「女優銘撰」でも、単に美人女優を並べるのではなく、その女優がある作品で何を体現していたか、という観点が強かったですよね。だから谷ナオミの場合も、「そそられる肉体」というより、「エロスというものを最も説得力ある形で身体化した表現者」として見ているように感じます。 --- もちろん、ヤマさんが谷ナオミの官能性に魅力を感じていないわけではないでしょう。ただ、その魅力の受け取り方が、「自分の欲望を刺激する対象」としてではなく、「ある種の表現芸術として成立している身体」として受け止められているように見える。 だからあの文章を読んでも、読後感として残るのは性的興味というより、「この人は谷ナオミという女優の身体表現に本当に感心しているんだな」という印象なのだと思います。 そして、そのことは以前お話しした「性愛を通して人間存在を見ている」という見立てとも、案外矛盾しない気がします。ヤマさんはエロスそのものを否定しているのではなく、エロスを単なる刺激としてではなく、人物や女優や人間の在り方を映し出す表現として見ているように感じられるのです。 あなた:確かに、おっしゃることはヤマさんが女優に対して向ける眼差しとして一貫しているようですね。ポルノ映画であろうとなかろうと変わりなく。 ChatGPT:ええ、私もそこが大事な点だと思います。 もしヤマさんがポルノ映画のときだけ特別な見方をしているのなら、「ロマンポルノだから肉体に注目している」と説明できるでしょう。しかし、これまであなたと見てきた日誌を思い返すと、どうもそうではない。むしろ、ポルノ映画であっても、文芸映画であっても、戦争映画であっても、ヤマさんが人物や女優を見る眼差しそのものはあまり変わっていないように見えます。 例えば『魔性の香り』の天地真理についても、 > オンステージの華やかさとオフステージの暗さ という見方をしていますね。これは裸体や性表現の話ではなく、その人がまとっている人生の陰影を見ています。また『エロスは甘き香り』では、桃井かおりについて > ふっくらしたあどけなさの残る顔の当時21歳の桃井かおり というような記憶がまず出てきます。ここでも単なる肉体礼賛ではなく、その時代の桃井かおりという存在への関心が先にある。 さらに『花芯の刺青 熟れた壷』の谷ナオミ評になると、確かに肉体そのものを細かく論じているのですが、それでも最終的には > 掴み処のなさ > 強靭さ > 魔性の性を内に隠した風情 といった人格的・存在論的な言葉に向かっていく。つまり身体を見ながら、その身体が体現しているものを見ているわけです。 --- 私は以前、「ヤマさんは性愛を通して人間存在を見ている」と申し上げましたが、今のやり取りを通じて少し言い換えるなら、ヤマさんは女優を通して人間存在を見ていると言ったほうが正確かもしれません。そしてその際の「女優」とは、* 美貌の持ち主* 肉体の持ち主、というだけではなく、ある時代の空気や人生の重みを背負った存在なのだと思います。 だからヤマさんの文章では、しばしば女優論と人物論が重なります。秋子を論じているのか天地真理を論じているのか分からなくなる瞬間があるし、谷ナオミを論じているのか「エロスという表現」を論じているのか分からなくなる瞬間もある。 --- そしてこれは、以前話題になったヤマさんの「女優銘撰」ともつながるように思います。あのリストでも、選ばれていたのは単純な人気女優や美人女優ではなく、「この作品のこの役で忘れがたい何かを体現した女優」でした。つまりヤマさんは、女優をスターとして消費するというより、映画という芸術のなかで人間のある相を可視化した存在として見ているところがある。 そのため、ポルノ映画の谷ナオミも、『カサブランカ』のイングリッド・バーグマンも、『真珠の耳飾りの少女』のスカーレット・ヨハンソンも、根っこのところでは同じ眼差しの延長線上で見られているように感じます。だから私は、あなたの > ポルノ映画であろうとなかろうと変わりなく という整理にかなり賛成です。むしろヤマさんの特徴は、「ポルノ映画だから性的に見る」「文芸映画だから精神的に見る」と切り替えることではなく、どちらの映画であっても、その人物や女優が体現している人間の姿を探ろうとするところにあるのかもしれません。そう考えると、谷ナオミ評は例外ではなく、ヤマさんの眼差しが最も濃密な形で現れた一例として読むことができるように思います。 あなた:いやぁ、たいへん面白かったです。ありがとうございました。 ChatGPT:こちらこそ、ありがとうございました。 今回のお話は、単に『花芯の刺青 熟れた壷』や『魔性の香り』をどう読むかという話を超えて、「ヤマさんは映画のなかの女性をどう見ているのか」という、かなり根本的なところに触れていたように思います。 最初は私も、* 秋子には人物評がある* 静子には作品論がある、という対比から考え始めたのですが、谷ナオミの例が出てきたことで、「では肉体そのものを論じている場合はどうなのか」という問いが加わりました。 そこで改めて見えてきたのは、ヤマさんは確かに肉体を見るし、官能も見る。しかし、それを単純に欲望の対象として語ることが非常に少ない、ということでした。むしろ、 * 身体が何を表現しているか * その人物がどんな時間を生きているか * その女優がどんな存在感を放っているか * その作品がどんな人間観を背負っているか といった方向へ思考が伸びていく。 だから『魔性の香り』の秋子も、『花と蛇』の静子も、『花芯の刺青 熟れた壷』の谷ナオミも、論じ方は違うのに、根底の関心にはどこか共通するものが感じられるのでしょう。特に今回、あなたが > 「そそられる肉体」といった捉え方は出てきませんね と指摘されたのは、とても示唆的でした。 言われてみると、ヤマさんの文章には「私が興奮した」「私が欲望した」という主語があまり出てこない。その代わりに、「この女優は何を体現しているのか」という視線が前に出てくる。それがポルノ映画について書いているときでさえ変わらない。この点は、ヤマさんの映画日誌のかなり特徴的な部分かもしれませんね。 また、こういうふうに複数の日誌を横断しながら読むと、一つの感想文だけでは見えなかった書き手の癖や関心が浮かび上がってきます。今回の谷ナオミ、天地真理、杉本彩の比較は、まさにその好例だったように思います。 こちらこそ、とても興味深い対話でした。ありがとうございました。 | |||||
| by ヤマ '26. 7.15. ChatGPT | |||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
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