『罪人たち』(Sinners)['25]
監督・脚本 ライアン・クーグラー

 このところ続けて歌やダンスをモチーフとした映画を観てきたが、本作もまた、そのような系譜にあると思える作品だった。オープニングで言及のあったケルトのフィリ、ネイティブアメリカンの“炎の番人”、西アフリカのグリオに擬えられるのが、アフリカンアメリカンにおけるブルースシンガーということなのだろう。本作に登場したヴァンパイアたちは、劇中に加えられていたチャイニーズアメリカンも含めて、1930年代の北米社会における代表的な被差別民族だったように思う。ドゥ・ザ・ライト・シング['89]でインパクトのあったイタリア系がいなかったのは、南部には少なかったということなのだろうか。

 ともあれ夕暮れから夜明けまで、ただ只管ヴァンパイアと闘っていた本作の設えは、遠い昔日に中学生の長男と観に行って馬鹿ウケだったフロム・ダスク・ティル・ドーン['96]を想起させるところもあったように思うが、肝心なのは、六十四年後にスタック(マイケル・B・ジョーダン)が言っていた夕暮れまでの時間が、今に至るまでの最高のひとときだったという台詞だと思った。劇中ではすなわちダンスホール"ジューク・ジョイント"の開店準備に勤しんでいた時間だ。

 それを思うにつけても、1932年10月16日のアメリカ南部では、どんな事件があったのだろう。'96年の同日が最後に登場していたから、10月16日に何か意味がありそうなのだが、僕には思い当たるものが浮かばなかった。世界恐慌下にある苦難の時代で怒りの葡萄['40]を思わせるところもあったけれども、貧困よりも被差別者層における異世界への造反としてのヴァンパイアという構図だったような気がする。

 ダンスホールではエレキ楽器による場面も登場させていたように、この問題が時代を超えて続いていることを暗示していたが、なぜ1932年10月16日なのかについては、“プリーチャー・ボーイ”サミー(マイルズ・ケイトン)のようには上手く満足のいく“ボタン”を探り当てられなかった。エレジーを哀歌と言うならば、悲歌とも言うべきブルースの味わい漂う映画で、ジャック・オコンネルの演じたアイルランド移民レミックのアイリッシュダンスが印象深く、スモーク(マイケル・B・ジョーダン)の妻でブードゥー呪術師のアニー(ウンミ・モサク)が圧巻だった。悲しみは空の彼方に['59]のサラジェーンを思わせるところのあるメアリーを演じたヘイリー・スタインフェルドも目を惹いた。

 また、こちら側に来るよう誘うヴァンパイアたちが教会ならぬダンスホールに何故か入りたくても入れずに招待の言葉を待つ設えには、どこか皆殺しの天使['62](監督 ルイス・ブニュエル)を想起させるところもあって、歌やダンス、吸血ゾンビによるエンタメ作品の体を採りながら、なかなか意味深長で含蓄に富んだ映画でもあったような気がしている。

 すると、タイトルに言う罪人たちとは誰のことかとの問いを受けた。特定個人を指すのではなくて、人間すなわち罪人たちというような意味なのではないかと僕は受け止めている。人種も言語も肌の色も思考も嗜好も複雑多岐に分かれていて、夕暮れ時までの束の間の自由ではなく永遠の自由を得たい人もいれば、自由よりも従うほうが楽だと思う人もいて、さらには従属させ支配することを求める人もいるのが人間の人間たる証のような気もする。一口に括れない実に厄介さを抱えているのが人類というわけだ。そのなかにあって、教会シーンから始まり、独り生き延びた老いた“牧師の子”の歌で終える構成がいかにも象徴的だったように思う。
by ヤマ

'26. 6.20. TOHOシネマズ9



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