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| 『五月の七日間』(Seven Days in May)['63] 『合衆国最後の日』(Twilight's Last Gleaming)['77] | |||||
| 監督 ジョン・フランケンハイマー 監督 ロバート・アルドリッチ | |||||
| 今回の課題作には、フランケンハイマーVSアルドリッチ、男性映画の両巨頭とも言えそうな二人の監督によるポリティカル・サスペンスが並んだ。ともにバート・ランカスターがクレジットトップを飾り、揃って謀反軍人を演じながらも、対照的な役どころだ。先に観たのは、'60年代の『五月の七日間』。 ソ連との間で核廃絶条約を締結しようとして“国論を二分”しつつ、支持率を史上最低の29%に落としたアメリカ大統領ライマン(フレドリック・マーチ)の記者会見での弁で終える六十三年前のハリウッド映画を観ながら、この演説に記者たちが拍手を送るかつてのアメリカの姿をこそ、現大統領のトランプと彼に抱きつく我が国の現首相に見せたいものだと思った。 曰く「つい最近までこの国は、己の偉大さを失ったと思わされていた。戦争なしでは、自由を求める戦いに勝てないと吹き込まれた。 それは間違いだ。我々は…誇り高いから寛容になれる。中傷と暴力を使うのは間違っている。 我々は強くて誇り高い、平和を愛する寛容な国だ。いつの日か、この地上で人々は暴政という長い闇から抜け出す、自由という光の中へ。」 これに対して記者たちは起立して拍手を送るわけだが、武器輸出を産業振興の軸に据えようと企てている我が国の現首相なら、二十年前に亡くなった宮澤元首相の外相時代における「我が国は兵器の輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれていない」との発言に対して悪びれることなく「時代が変わった」と言ったように、平然と「むかしの、それもたかだか週刊誌ならぬ映画で言ってることですよね」と歯牙にも掛けないことは間違いない気がする。 大統領の核軍縮方針に危機感を抱いた米軍統合参謀本部議長のスコット空軍大将(バート・ランカスター)が熱狂的な国民支持を得て、野心を抱くプレンティス上院議員(ウィット・ビセル)と結託してクーデターを企てる話が遠い日の異国の話とも思えない状況が、昨今の我が国の自衛隊を巡る動きや空気にあるような気さえしているところに観たものだから、感慨深いものがあった。 スコット将軍を政敵のように言う側近に対し、敵は彼ではなく時代だと明言し、クーデター計画を通報したケイシー大佐(カーク・ダグラス)が入手したエリーことエレノア・ホルブルック(エヴァ・ガードナー)との醜聞の証拠となる手紙を一旦は受け取りながらも、裏工作で政敵を陥れるのではなく真正面から辞任を求めて、手紙の束のほうは「ホルブルック嬢に返しておいてくれ」とケイシー大佐に渡す姿に、日米の現大統領や首相には欠片もない品位と威厳を感じた。 ところで、劇中にソ連を憎んで二十五年という台詞があったが、いつから二十五年という設定だったのだろう。建国以来とすれば、1947年だから流石にそうではないだろうし、1945年のヤルタ会談以降だとすれば、1970年となって本作製作当時の近未来となる。本作製作の契機となったと思しき1962年のキューバ危機からだと1987年となって、冷戦終結宣言がなされた1989年のマルタ会談前夜ということになる符合が面白かった。 すると「クーデター発覚の予兆部分からクライマックスの「対決」まで、派手なアクションがないにも関わらず緊迫感の途切れない、見事な作品でしたね。我が国の防衛省内部に本作のカーク・ダグラスのような良識ある制服組がいるかどうか・・・、かなりアヤシイです。」とのコメントが寄せられた。対決と言えば、裏切り者呼ばわりする直属上司のスコットに向って「ユダは、尊敬する将軍だったのに制服を汚した貴男のほうだ」と言い放つケイシー大佐が見事に決まっていた。 大統領からの密命によって繰り広げられる調査を巡るさまざまな男たちの人物造形が流石のフランケンハイマー作品だったように思う。それからすると、どうしても女性像の造形は苦手そうにも映ってくる。それはともかく、内情をご存じの方から「かなりアヤシイ」と聞くと改めて心配になる。自衛隊内部の空気がかつてからは随分と変質してきているように感じているからだ。おかしな研修教育が幅を利かせるようになってきている気がしているのだが、制服組もさることながら、それ以上に酷くなっているのが文民のほうだとも思う。実に厄介なことだ。 翌々日に観た '70年代の『合衆国最後の日』は十三年ぶりになる再見で、先に観た『五月の七日間』から十四年後の '77年に「1981年11月16日」と日付をテロップで映し出し、近未来フィクションであることを明示していた。 核ミサイル施設占拠という非常事態への対応協議をするためにスティーヴンス大統領(チャールズ・ダーニング)が招集した専門家に法律・外交と合わせて倫理という観点からの知見を求める人物を配していることが目を惹いた。映し出された国防長官ザック(メルヴィン・ダグラス)がその任に足る人物だったか否かは最後に問われることになるわけだが、大統領とはしばしば意見対立をしながらも信を置かれている人物だった。 本作でローレンス・デル元将軍(バート・ランカスター)が公表を求める、六年前に終結したベトナム戦争を総括し、国の威信を御題目に軍のメンツと対ソPRのために数多の犠牲者を出した愚かな戦争だったとする正式文書を満場一致で採択した事実は果たしてあったのだろうか。『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(監督 スティーヴン・スピルバーグ)にも描かれたペンタゴン文書が暴かれたのは、本作の設定である1981年のちょうど十年前になる1971年だから終結後の文書ではないし、この時点で、デル元将軍が命をかけ職を賭してまで公表させようとする文書ではなくなる。むしろ本作を1981年の近未来設定にしている81年が選ばれたのは、このペンタゴン文書スクープのあった年を踏まえてのことだったのではないかという気がする。 そのペンタゴン文書は、確か勝機の見込めない甲斐なき消耗戦になる見込みを報告した文書だったように思うけれども、本作でデルが公表に執着した文書は、単なる戦況見込みではなく、多大な犠牲を払う戦争の目的自体が「威信」方針にあることを正式に認めた文書つまり、戦争継続が邪心と悪意によるものであることを記した文書であり、そのようなものが政府に存在していることになっていた。「もっと兵隊が死ぬと言うのか」という大統領の問いに対して肯定し、「その死は無駄になるのか」との問いに対しても肯定しつつ、「陣地は奪えず勝てる望みもなく敵を破れもしない」戦争を「たとえ同胞が血を流そうと断固 虐殺を行ないまた耐えることで我々の強い意志をソ連に見せること」すなわち「威信」のために戦争は止められないとの協議を記録した文書であることにスティーヴンス大統領が衝撃を受けていた。「これがこの国の首脳の態度なら、私は…」と苦悩する大統領から、どうしてこういう事態に至ったか意見を求められた国務長官レンフルー(ジョセフ・コットン)が言っていた「核兵器をチラつかせるような外交政策をこの国が必要としたからです」との弁が実に印象深かった。そして、開かれた政府か、強権の大統領かと、自身の選択を迫られ、苦悩するスティーヴンス大統領の姿に、今は昔とも思えるような、職責なるものに真摯に向かう政治家の造形を観る気がした。またしても、現首相が平然と「むかしの、それもたかだか週刊誌ならぬ映画の話ですよね」と言ってのけそうに思えた。 また、冷戦について1945年以降、との台詞も出て来ていたように思う。発言者は、別室に逃れた大統領を追い、「どうすればいいと思う?」と問われて、大統領の職責を果たせと死地に赴くよう迫り、大統領が「クズめ 最低だ クビにしとくんだった」と笑いながら意を決する諫言をしていたオルーク軍事補佐官(ジェラルド・S・オローリン)だったかもしれない。 '63年、'77年、どちらの映画に出てきたアメリカ大統領とも、職責に対する自覚のある立派な人物だったように思う。バート・ランカスターの演じた謀反軍人の人物像は、両作で対照的に造形されていたことが、また興味深いところだ。加えて、奇しくも両作とも音楽はジェリー・ゴールドスミスだったことが目に留まった。 すると「内容が内容なので西ドイツ資本で作られたようですね。故瀬戸川猛資氏がアルドリッチの作風を「南部人らしい反骨精神」と評していましたが、『攻撃』と『合衆国最後の日』はそれを具現化した例だなと思います。叩きつけるような激しい内容とは裏腹の、上品で美しいOPもいいですね。」とのコメントが寄せられた。「黄昏の最後の輝き」との原題が映し出される“黄昏時の自由の女神像の後ろ姿”のことを指しているのだろう。思えば、ネオコン出現によるアメリカの宵闇は、本作時点では近未来であった1981年(奇しくもレーガン政権発足の年)という黄昏時から始まっているような気がする。図らずも本作は、そのことを予言していたかのようだ。然るべき大統領の姿が政府権力の手によって意図的にか偶発的にかも判然としない形で葬り去られていた。 また、デル脱獄者が核ミサイルのスイッチを入れた際の攻撃目標を何処に置いていたのかと問う論考を見掛けたが、僕は元々彼は本当に実射するつもりはなかったとみている。それは、論考の筆者が「ロシアに打ち込めば核戦争間違いなしだし、アメリカ国内に打ち込めばアメリカ国民に迷惑をかけてしまうというわけでバート・ランカスターが国民の為を思う行動に相反してしまう。」と記していたとおりだからだ。言うなれば『理由なき反抗』['55]のチキンレースのようなものだったと解していて、もし大統領が要求に応えなくても、最後には止めていただろうと思っている。それと同時に、大統領なら、自分を陥れたマッケンジー将軍(リチャード・ウィドマーク)とは違って応えてくれる可能性があると信じていたのだろう。ニクソンによって大きく傷つけられながらも、アメリカ人にとって大統領の職に就いている者への期待と信頼がまだそう損なわれてはいなかった時代の作品だからこそ、脱獄してまで大統領に賭ける姿を描くことができたと言えるように思う。 それと同時に、彼ら二人の軍人と政治家がそれこそ“黄昏の最後の輝き”となる時代としての'80年代アメリカをまさしく予見している映画だったようにも感じた。その後に続いた大統領たちがその貴職を続々と汚していったわけで、僕が同時代を過ごして観てきたなかでも、同じスキャンダルではあってもニクソンの政治的スキャンダルではなく余りにも情けないホワイトハウスでの“不適切な関係”行為という性事スキャンダルを暴露されたクリントン、ネオコンのやりたい放題を呼び込んだレーガン、ネオコンよりも更に酷いネオリベに操られていたかのようなブッシュ、そして桁違いの下品さと横暴を重ねるトランプと、'80年代以降、アメリカ大統領の権威は地に堕ちてしまっている。 同世代の男5人が参集した合評会では、どちらに1票入れるか迷った挙句、140分を超える長尺で前半が少々冗長に映ってきた『合衆国最後の日』ではなく、『五月の七日間』のほうにした。結果は、3対2で『合衆国最後の日』に軍配が上がったが、両作ともを評価する声のほうが多かったように思う。両作とも近未来設定だったように思うから、言うなれば、ポリティカル・サスペンスというよりは、ポリティカル・フィクションのような気もすると言うと「改めて、この手の政治サスペンスは苦手やなぁと思った」と言っていた主宰者が成程と賛同してくれた。 政治サスペンスという観点からすると『合衆国最後の日』のほうが緊迫感に優っていて長尺を感じさせなかったという意見があった。軍曹殺しや金庫破りに係る顛末やらヘンに笑いネタを入れていた前半部をやや冗長と観て『五月の七日間』のほうに軍配を挙げた僕には少々意外だったのだが、賛同者を得ていた。それからすると『五月の七日間』は最後のハイライト場面も含めて屋内中心の画面が些か単調で映画的妙味に乏しかったという意見には、確かにそういう側面はあるかもしれないと思った。また『五月の七日間』に対しては、七日の意味がまるで判らなかったという意見も出たが、それは僕も同感だった。原作小説からは大胆な割愛が施されているのかもしれない。 野心家の謀反人も、良心に基づく告発者も、共に演じられるバート・ランカスターへの賞賛があったなか、『五月の七日間』のスコット将軍も正義に立ってクーデターを企てたのであって、邪心ではなかったのではないかとの提起から、正義とはとか、アメリカにおける大統領のステイタスの変遷といった、普段にはない政治ネタの話に広がった。僕は、政治映画という以上に、男性映画の巨匠として、ホームドラマや恋愛映画がまるで思い浮かばない二人の作品対決という面でのカップリング妙味を堪能したと言うと、主宰者が嬉しそうにしながら、「アルドリッチには女性映画はあるけどね、『カリフォルニア・ドールズ』とか『何がジェーンに起ったか?』とか…」と言いつつ、「けど、恋愛映画じゃないね」と笑っていた。そう言えば、フランケンハイマーのほうには、シャーリーズ・セロンが小振りのバストを見せていた『レインディア・ゲーム』['00]があったことを思い出したが、『五月の七日間』のエヴァ・ガードナー以上にシャーリーズ・セロンをまるで活かせていなかった気がするから、フランケンハイマーには向いていないことの証左になると思ったりした。 | |||||
| by ヤマ '26. 6.11. DVD観賞 '26. 6.13. DVD観賞 | |||||
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