『ザ・ブライド!』(The Bride!)['26]
監督 マギー・ギレンホール


 これは、きっと女性が監督・脚本・製作を担った作品に違いないとプロミシング・ヤング・ウーマン['20]を想起したりしたが、エンドロールを眺めていたら、マギー・ギレンホールが『プロミシング・ヤング・ウーマン』のエメラルド・フェネル同様に、その三役ともを務めていて納得するとともに、大いに感心した。

 フランケンシュタインものとしても、同じく女性監督・脚本による『メアリーの総て』['17]が些か凡庸だったことに比べて数段、面白かったような気がする。先ごろ観たばかりの同じく女性監督・脚本によるハムネットが印象深いジェシー・バックリーがなかなか強烈で、これまた大いに感心した。

 エンドクレジットでは三役として記されていたから、ユーフォロニウス博士(アネット・ベニング)によって蘇生された“花嫁”(ジェシー・バックリー)は、プリティ・ペニーことペネロペ・ロジャースではあっても、娼婦だったと思しきアイダ・ボリンスキ(ジェシー・バックリー)ではなく、彼女に憑依していたのか内在していたメアリー・シェリー(ジェシー・バックリー)でもない別人格として認識されるべき存在だったように思う。最期は、マフィアのボスであるルピーノから口封じを命じられたチンピラのクライドが口火を切った銃撃によって、独りハチの巣にされていたボニーならぬペニーの無軌道な生き方を俺たちに明日はないに重ねていたからこその時代設定だと見込まれる1936年に、劇場でアナグリフ方式の3D映画が公開されていたことが目を惹いた。

 だが、同じようにハチの巣にされても、ボニーと違ってペニーのほうは、博士の最後の選択によって三たび蘇っていたから“明日はない”というわけではないところがミソだ。ユーフォロニウス博士が言っていたように、生前の記憶を失くしてアイダの家にも帰れなくなっていたペニーだが、ダンスのほうはしっかと覚えていたことが示していたように、身体性や性分は変わらない感じだった。メアリー~アイダ~ペニーに通底するボニー的な“女性の荒ぶる魂”というのが、作り手たるマギーのコミットしていたものなのだろうから、『俺たちに明日はない』の三度目の観賞日誌ある種の美学というか恰好を付けた生を貫こうとしているように描かれていた気がすると記していた生き方を、再びフランケンシュタイン夫妻として始めるのかもしれない。それでも“フランケンシュタインの花嫁”ではなく、ペニーとフランク(クリスチャン・ベール)として生きて行くのだろうから、「フランケンシュタインの」を削って只の“花嫁!”として作品タイトルにし、エンドクレジットでも記していたのだろう。ラストは、作り手たるマギーの宣言した「私たちには明日がある!」であったわけで、もう一つの『ボニーとクライド』ならぬ『ペニーとフランク』だったように思う。

 野獣より怪物よりおぞましいのは、銃器を携え、見境なしに発砲する人間であることが印象づけられる作品であった『フランケンシュタイン』['25](監督・脚本 ギレルモ・デル・トロ)でヴィクター(オスカー・アイザック)の創り出した怪物(ジェイコブ・エロルディ)と少女アナマリアのエピソードに、ミツバチのささやき['73](監督 ヴィクトル・エリセ)を想起したが、本作のフランクにもそのキャラクターが継承されているように感じた。

 こうなると、ジェイムズ・ホエール監督による名のみぞ知る未見作『フランケンシュタイン』[1931]&『フランケンシュタインの花嫁』[1935]を観てみたくなった。『フランケンシュタイン』のほうはテレビ視聴しているような気もするが、「花嫁」のほうは観ていないはずだ。

 僕が観ているフランケンシュタイン映画は、手元の記録によると上記の他は、『ヤング・フランケンシュタイン』['74](監督 メル・ブルックス)、『フランケンシュタイン』['94](監督 ケネス・ブラナー)、ヴァン・ヘルシング['04](監督 スティーヴン・ソマーズ)、フランケンシュタイン:ベネディクト as 博士版['11](舞台演出 ダニー・ボイル)、『フランケンウィニー』['12](監督 ティム・バートン)となっていた。
by ヤマ

'26. 4.25. TOHOシネマズ4



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