『ビフォア・サンセット』(Before Sunset)['04]
監督 リチャード・リンクレイター

 たまたま愛のさざなみ['70]を観て思い出した恋人までの距離(ディスタンス)['95]は、六年前に十八年越しの宿題を片付けた映画なのだが、九年には及ばないものの程よく時間経過を果たしたので、この機会にと続編を観ることにした。

 なかなか味わい深い作品で、これは、前作よりも優れているのではないかと思った。二十代のときのV.S.O.P.というものは、ジェシー・ウォレス(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルピー)の二人ほどに劇的ではなくとも、大なり小なり少なからぬ人の記憶のなかにあることのような気がする。ある種の運命を感じさせながらも、ある種、運命に妨げられて縁がなかった異性との九年後の再会と再燃は、二十代でのヴェリー・スペシャル・ワンナイト・パフォーマンスよりも遥かに稀有のことだと思う。

 九年前の一夜の出来事を小説にして成功したジェシーと、そのサイン会に現れた三十二歳のセリーヌが、例によって延々と話し続けるリアルタイムな会話劇を観ながら、そのリアルさと互いの言葉に潜む、虚勢と配慮と吐露の入り混じった虚実の妙味をその表情とともに堪能した。手元にあるチラシに記された忘れられない人がいる、すべての人のための85分。よりも4分短い81分作品だった。

 私、変わった?とのセリーヌの問い掛けに裸を見なきゃと冗句で返すジェシーの観測気球の上げ方の巧みさに舌を巻いた。セリーヌの吸う煙草を求め、回し飲みをしてから、一本貰う手順を踏んでインティマシーを取り戻してから後は、際どい話題を振って来るのは専らセリーヌのほうになっていたように思う。

 ジェシーの書いた小説を思わず二度読みしたというセリーヌが、最初のうちは、ウィーンでの一夜の最後にセックスをした記憶はなく、小説としての創作だと思っていたと言っていたのは、偽りではなかったような気がする。時々、記憶をしまい込んじゃうのと洩らしていた際の噛み締めるような口調に、過去に囚われ、細部ほどよく覚えている彼女の負った痛手が偲ばれる気がした。それがやがては夜の公園で二度も続けてしたことを彼女が思い出すまでに至る物語だ。

 ニューヨークにいるはずのない彼女を11番通りで見掛けた擦れ違いを“千載一遇の機会を逃した無念”として二人が心に刻んだのちのA Waltz for a Nightを聴いて、あのままジェシーが空港に向かえるわけがないと思った。サンセットまでなら、まだまだ猶予はある時刻だった気がする。

 昔から馴染んでいて付いたり離れたりしていた同窓生との出来婚で生まれたとの四歳の息子を持つジェシーが、四年間で十回くらいしか妻とはしていないと零していたことの虚実は、どちら側とも言えない気がしたが、セリーヌの言葉のほうには何故か確信を覚えた。“運命の人”か否かよりも生じた事態に対する責任と覚悟を全うすることのほうが自分にとって重要だったという述懐のほうは、十回の件と違って本心だったように思う。他方で、ジェシーの夢の話がセリーヌを口説き落とすための作り話だったという件も、セリーヌの歌ったワルツの歌詞に出てくるジェシーの名は他の男に替えて歌ったりもするという件も、おそらくは事実とは異なる嘘であり、そして、それが虚言であることを二人は互いに確信しているに違いないエンディングだったような気がする。

 もし九年前に半年後の再会を果たしていたらどうなっていたのかは神のみぞ知ることながら、そのような「もし」を反芻せずにはいられない二人の風情と距離感に、むしろそのようなV.S.O.P.を得ている人生の滋味を覚える感じが強かったのは、古稀も視野に入ってきた僕の年齢のなせることかもしれないが、さればこそ、本作から九年後の『ビフォア・ミッドナイト』['13]は、かなり繰り上げて観ておかなくてはと思ったりした。

 それにしても、世紀跨ぎとなった2004年の再会までの九年間での兵器産業の成長にセリーヌが憤っていたのが、今から二十一年も前であることが感慨深い。いまや世界に冠たる平和憲法を掲げた我が国でさえ、経済成長の基軸に据えようとし始めている。実に情けないことだ。

by ヤマ

'26. 1. 2. BSプレミアムシネマ録画



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