『黒川の女たち』['25]
監督 松原文枝

 歴史修正主義が横行し、利権に賤しい国家主義者たちが、力の論理に沿うよう都合の悪い事を「なかったことに」すべく臆面もなく跋扈しているなか、外国人でも主義者でもない日本の戦時性被害女性たちが勇気をもって実名証言をし、当事者の思いとして惨事を語り継ぐことを求める声に感銘を受けた。今こそ意義ある作品だと改めて思う。

 当事者たちのその声に対して「“彼女たちのため”にも公表する形で残すべきではない」と主張する加害側の声には欺瞞しかないのは明らかなのだが、彼女たちの思いは自分が一番知っていると述べる当人は本気でそう思っていることがまた露わになっているところに力のある作品だ。守りたいのは犠牲となった彼女たちの恥や名誉ではなく、その犠牲によって守られた自分の内にある忸怩たる思いなのだろうが、当人にはその自覚がないことがありありと映し出されていたように思う。

 五百人余りの黒川分村と称する満蒙開拓団という名の、開拓するまでもない農地と家屋を徴用していた満蒙収奪団は、国策として強引に進められた満蒙移民だったのに、見捨てられていたわけだ。突如、日ソ不可侵条約を破棄して侵攻してきたソ連軍に対して、軍隊が守るのは国家権益であって決して国民ではないことを証左するように関東軍が早々に撤退していった“歴史的事実”が示されていた。軍の撤退により、収奪された土地家屋を取り戻しに襲ってくる中国人から守ってもらうため、分村の未婚女性十五人を差し出して、侵攻してきたソ連軍将校の性接待に充てるという醜悪極まりない構図のなかに押し込まれた女性たちとその家族の証言が記録された映画だ。満州国利権を動かす中心人物の一人として要職を歴任した、岸信介の姿が見える当時の記録写真も映し出されていた。

 十五人のうち四人が性病やチフスの発疹によって亡くなるなか、他村のような集団自決に追いやられずに、四百五十一人の帰国を果たしたようだが、生贄となることを強いられた女性が残していた満州にいる時より帰国してからのほうが悲しかったとの言葉が胸に痛い。性接待は二カ月余だったが、帰国後の差別や蔑視、中傷、黙殺は半世紀以上にわたって続いていたことになる。半世紀近く経って建立された慰霊碑「乙女の碑」(1982年)にその所以を記す碑文を添えるのに、更に三十六年もの歳月を要していた。

 発端は、父親が性接待の呼び出し係を務めていたという四代目の遺族会会長の藤井宏之さんが慰霊碑建立の際に当事者の安江善子さんが寄せた文章を遺族会が無断で黙殺したことを知り、会長として当時の事情を確認しに回ったことからだったようだ。自身の父親に代わっての贖罪という意識も働いたのかもしれない。当事者たちの言葉を封印するわけにはいかないと御夫妻で奮闘したようだった。十五人の乙女を人柱にした黒川分村は、満蒙開拓団を人柱にした当時の日本と同じ構図だったように思うと言っていたのは、その安江さんの息子だったように思う。実に正鵠を射た歴史認識だという気がする。

 絶対になかったことにしてはいけないと言っていたのは、藤井会長夫人だった。安江善子さんとともに証言活動に携わっていた佐藤ハルエさんが伝え継いでいくことの大切さに目覚め、己が生きた甲斐とまで思えるようになっていた姿が印象深い。帰国しても生まれ故郷の村にはいられなくなって村外に出た方だ。長らく匿名証言で顔出しを拒んでいたのが近年になって解けたことで、笑顔を取り戻すことができるようになっていたのは、鈴村玲子さんだったか。証言自体を拒んでいたのが解けたのは、水野たづさんだったろうか。

 そういった勇気を彼女たちが得ていた過程に“彼女たちの記憶を継ぐ意思”を明らかにする若い人々の姿があったことはとても重要で、また、そういう若者たちを彼女たちの孫子以外にも映し出していたことが感慨深かった。この佼成学園女子高等学校の高野晃多先生の授業は、たいへん優れた授業だった。そのなか、女性を軽んじる差別感覚が日常的に沁みついた男目線についての指摘がされていたが、この惨事がタブー化されてきたことについては、男の女性軽視というよりも、力の論理に追従する者の卑小な保身からのことだったように僕の眼には映って来た。

 それはともかく、記録映像のなかに「天皇陛下万歳!」ではなく「天皇陛下弥栄!」と音頭をとる集団の映し出されるものがあって目を惹いた。当時はどちらが主流だったのだろうか。
by ヤマ

'25.11. 2. 喫茶メフィストフェレス2Fシアター





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