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| 『拝啓天皇陛下様』['63] 『続・拝啓天皇陛下様』['64] 『拝啓総理大臣様』['64] | |||||
| 監督 野村芳太郎 | |||||
| 三十年近く前に市立自由民権記念館で『拝啓天皇陛下様』を観た際に、'60年代作品において軍隊を描きながら軍隊批判一辺倒ではなく、その功罪を併せて描いていることに驚きと感心を覚えた記憶がある。戦後からでも八十年が経過した今、昭和二十五年(1950年)に四十歳でようやく婚約者を得たまま酔ってトラックに撥ねられ、三度の徴兵で二度の戦地を生き延びてきながらも、呆気なく死んだヤマショーこと山田正助(渥美清)の人生をなぞりながら、得も言われぬ哀感に見舞われた。 昭和二十五年に四十歳なら、最初に入隊した昭和六年は二十一歳だ。「新兵さんは可哀想だねェ~また寝て泣くのかねェ」「起きろよ起きろよ皆起きろ~起きないと班長さんに叱られるゥ」といった詞がテロップで流される軍隊ラッパで始まった本作に現れた詞は、僕が幼い時分に亡父から教わった覚えのあるものだ。軍隊的なしごきの名のもとにある年長兵からの暴力沙汰や嫌がらせも、日中戦争前だとまだまだ牧歌的な部分があったことが偲ばれるものの、天皇の名のもとに上官命令への絶対服従を徹底的に仕込むことが最大の目的であるのは、日清戦争以降、対外戦争で利権を得ることに味を占め、ずっと戦争を続けて来ていた大日本帝国における軍隊をまさに“生命線”として維持するうえで、それを必要不可欠としていたからなのだろう。 それと同時に、ろくに漢字も読めず、カタカナという仇名をつけられていたヤマショーにとっては、読み書きを学ぶ機会を与えられ、飢える心配のない生活が保障された、厳しくありつつも娯楽もなくはない暮らしの出来る場でもあって、五・一五事件(昭和七年)を前にした当時の農村の窮状から逃れられる場だったわけだ。なんだか今どきの貧困苦から刑務所に入りたくて犯罪を繰り返す人々の存在を連想させる有様が映し出されているようにも感じた。 戦時だけでは無論なく、昭和二十年の敗戦以降も荒廃した生活が続き、開拓地などを転々としながら、ようやく家庭を持つに至った幸先を前にして死んでいったヤマショーを観ていると、戦死者も含めてヤマショーと同じ大正生まれの人々の気の毒さが沁みてきた。亡父の生まれは最後の年たる大正十五年だ。 続く『続・拝啓天皇陛下様』は、昭和十九年の軍隊ラッパに「兵隊さんは可哀想だねェ~また寝て泣くのかよォ」と添えて始まり、「拝啓天皇陛下様」とのテロップで終える形式は同じでも、前作の多賀祥介・野村芳太郎に山田洋次が加わり、山田正助から山口善助(渥美清)に変えた脚本は、続編ではなく、もう一人の“天皇の赤子”を描いた脚色作品のようだ。昭和二年に少年だった善助の二度目の入隊だったから、「新兵さん」ではなく「兵隊さん」に変わっていたのだが、セミの鳴き真似をやらされたりしていた。 仇名もカタカナからモサクレに変じていたヤマゼンの戦前戦中戦後は、ヤマショーと似たようなものでありながら、その人の好さにおいても哀しさにおいてもヤマショーほどの味はなく、ヘンにチャッカリ感もあって王万林(小沢昭一)との掛け合いには、どこか寅次郎とタコ社長に通じるような造形が施されていたように思う。 王の妻である美理(南田洋子)の造形がなかなかよくて気に入ったのだが、どこか『無法松の一生』を借りてきたようなお公家夫人のヤエノ(久我美子)への想いの描き方や、善助に替わって専ら恵子(宮城まり子)に哀れな生涯を負わせては、主題とも言うべき“天皇の赤子の哀れ”が兵隊から離れてしまう気がした。 また、恵子を輪姦して失踪させ街娼に追いやりながら罪を問われなかったであろう米兵と、花を抱えて強引に想いを告げようとして強姦未遂に問われ少年院入りさせられた善助との対照による不条理の設え方には、取って付けた感が拭えなかった。やたらと多いように感じられたナレーションにも、苦手な犬猫映画的な趣向にも肌合いの悪さを感じ、前作には及ばない二番煎じだったように思う。 拝啓シリーズ最終作『拝啓総理大臣様』は、原作棟田博の名も外れ、天皇陛下様から総理大臣様に代わり、戦後高度成長期が背景で、監督を務めた野村芳太郎によるオリジナル脚本のようだった。ラストに流れるテロップが「拝啓天皇陛下様 陛下よ、あなたの最後のひとりの赤子がこの夜戦死をいたしました」「拝啓天皇陛下様 陛下よ、このような赤子もおりました」から「拝啓 総理大臣様 この人達があなたを選んだのです 敬具」に変じていたが、公害・物価高「なにもかも行き詰まりの東京」との漫才師ルージュ(横山道代)の台詞があったように、要は、下々の苦労を御覧じろという趣旨がシリーズ作のコンセプトということなのだろう。 それにしても、見境なく浮気を繰り返す漫才師ムーラン(長門裕之)にしても、飲んだくれ子沢山の菰田三五郎(加藤嘉)五十七歳にしても、この時代の男というやつは、本当にろくでもないものだと改めて思った。とりわけ三五郎を演じた加藤嘉の苛立たしいまでのろくでなし演技に恐れ入り、漫才師が板についていた長門裕之の芸達者ぶりに感心した。 ルージュが相方の師匠が亡くなった知らせを聞いて、「まだ生きてたの? もう七十よ」と言う台詞は、江戸川乱歩の大正期の『心理試験』での「もう六十に近い老婆」に匹敵する昭和三十年代ではごく普通の感覚だったのだろう。僕も間もなくその「まだ生きてたの?」の歳になるところに来ていて苦笑した。「オコモの蚤取り」の意味が判る人は、現代日本人の何パーセントなのだろうか。 すると、旧知の映友が「オコモの蚤取り、私も解りません。私ったら、若いのかしら?(笑)。検索しても出てきませんでした。そうですよね、私も64になりましたが、私が子供の頃の60半ばの「お婆さん」は、化粧もせず、派手な色の服も着なかったですよ。私は「昔は良かった」的な思考には反対派ですが、これからも、まだまだ常識は変わるのでしょうね。」とコメントを寄せてくれたので、「お~、お若い!もしくは、お育ちがいいのですよ、お嬢様(笑)。オコモというのは、乞食のこと。芸人だった鶴川角丸(渥美清)が亡き師匠を偲んで、その十八番芸をキャバレーのボックスでホステスに披露するんですよ。兄弟弟子のムーランに見せつけるようにしてね。で、ムーランが吐き捨てるように「汚ねぇ芸だ」と言ったことに怒るんです。」と返した。 肌の色が違うことから京都の祖母の元で育てられていたアヤ子(壷井文子)の存在が利いていて、居場所のない孤独者同士の親近から角丸に懐いていたのだが、その体格のいい無骨さに『キクとイサム』['59]でキクを演じた高橋恵美子を想起した。 | |||||
| by ヤマ '25.10.28. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 '25.10.31. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 '25.11. 2. BS松竹東急よる8銀座シネマ録画 | |||||
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