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『ブルータリスト』(The Brutalist)['24] | |||||
監督 ブラディ・コーベット
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カウントダウンが表示されていたインターミッションの15分を挟んで、それぞれきっちり100分に編集したプロローグ(序曲)&第一部('47-'45 到着の謎)と、第二部('53-'60 美の核心)&エピローグ(第1回建築ビエンナーレ1980)によって構成した、非常にコンストラクションを意識した映画だった。知性に憧れながらも獣性が優っている戦後アメリカの暴力性と功績とを象徴的によく描き出した秀作だと思った。三十六年前に観たっきりの『偉大なるアンバーソン家の人々』['42]をふと想起したりした。 ラズロではなくラースロー・トート(エイドリアン・ブロディ)を名乗る、虚飾を排して合理性と機能性を追求した美【経済性ではないところがミソ】を求めるハンガリー系ユダヤ人の建築家と、彼の庇護者であり且つ恣意的支配者として君臨する富豪ハリソン(ガイ・ピアース)を始めとするヴァン・ビューレン家の人々との関係に観応えがあった。遅れてきたマイノリティ移民として辛酸をなめながらも、バウハウスで培った才のもたらした縁によって、絶望的だった妻のアメリカ入国を果たし、建築家としての道を得る一方で、「エレツ・イスラエル」を求める姪の言葉に揺れる妻との板挟みになるラースローの姿が印象深かった。第二部まで姿を現さない妻の名もエリザベスではなくエルジェベート(フェリシティ・ジョーンズ)で、姪の名もソフィアではなくジョーフィア(ラフィー・キャシディ)としていた辺りには、アメリカに根の無い彼らのアイデンティティに対する作り手の問題意識が働いていたような気がする。その点に関して、第一部における妻の不在にしても現れた妻の車椅子姿にしても実に象徴的に感じられた。また、複数言語の区別が僕にはつかないが、ハンガリー語やヘブライ語と思しき英語だけではない言葉の遣り取りが随所に見られた。 ラースローの設計した、ハリソンの亡母の名を冠したコミュニティセンターの天窓から射す光によって、祭壇に設えられたイタリア産の大理石に十字架が浮かぶ礼拝堂は、確かにラースローのこだわった高さがあってこそのもののようには感じた。それはともかく、第一部でラースローが観入っていたセックスフィルムが思いのほか長々と映し出されていたのは、実際に当時の稀覯フィルムだったからだろうか。「FIN」となっていたから、フランス版のようだが、今の技術でそれらしく作ったのか、当時のものなのか、俄かに判じ難いところが気になったりするのは、フェイク動画溢れる現代ならではのようで、妙に可笑しかった。 エピローグで、ラースローの業績を讃える回顧展の開展式と思しき挨拶で、ジョーフィアが語っていた「重要なのは到達点であって、旅路ではない」との叔父の言葉は、作り手がラースローに託して述べていたものなのだろうが、少々猪口才な気がしないでもない。チラシに記されていた「36歳気鋭監督…の真骨頂!」だとは思うものの、1911年生まれのラースローが1980年時点で、あの老いさらばえた車椅子姿はないだろうと、いま67歳老練観客の自分としては、言いたい気になった。 | |||||
by ヤマ '25. 5. 5. キネマM | |||||
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