左写真の右側が、長福寺本堂。 左側の書院には、旧庫裡の座敷「谺声軒(がせいけん)が復元されている。 「谺声」は、開山千丈禅師の号である。 ※長福寺については、『紫磨山 長福寺略縁起』に簡潔にまとめられているので、これを参考にした。 現在の香流小学校の位置に、猪宝山(ちょほうざん)長福寺という寺があった。 天正12年(1584)の長久手合戦の折、それまで攻勢に立っていた徳川勢の大須賀康高率いる一隊が、長久手の桧ヶ根(ひのきがね)の攻防で羽柴勢の大逆襲に逢った。 悪戦苦闘の揚句、劣勢となった大須賀隊は踵(きびす)を返して猪子石の方へ遁走した。 その時彼等は、羽柴勢を欺くため、周辺の寺院や民家に火を放って狼煙(のろし)代わりとした。 如何(いか)にせん長福寺もその渦中に巻き込まれ、一切の堂宇(どうう)は完全に焼失してしまった。 この情景をひそんでいた猪子石村民が目敏(めざと)く見つけ、長福寺の本尊である丈六(じょうろく/4・8メートル)の大悲像を、濛々(もうもう)たる火煙をものともせず飛び込んで扶(たす)けだして地中に埋め、難を遁(のが)れた。 しかし、戦禍(せんか)後これを知る者もなく、百年近くの歳月が過ぎ去った。 延宝4年(1676)、村民がこの跡地を開墾していて偶然大悲像を堀りだしたところ、朽ち果てていた。 幸にも胎内に納められてあった千手観音菩薩像は無事で、猪子石の領主肥田孫左エ門(ひだまござえもん)を中心に、村民挙(こぞ)って観音堂を建てて祀(まつ)り奉った。 偶々(たまたま)、睡雲亭(後の地蔵堂/徳川園の西)におられた千丈(せんじょう)道巌禅師が、天和3年(1683)燕居(えんきょ)の地として八幡の勝地(しょうち)を得られた。 肥田氏等は師の道貌を貴び、大悲聖像及びその旧地を奉納すると、師はおおいに喜び、現在地に堂宇を建てて安置し、紫磨山(しまさん)長福寺として発足した。 元禄10年(1697)に黄檗宗大本山萬福寺の直末寺(じきまつじ)となって、今日に至る。 千丈和尚は、元禄9年(1696)11月6日から断食に入り、12月17日に座禅の姿のまま、享年72才でこの世を去った。 肥田家は代々「孫左エ門」を名乗っているが、ここに登場するのは肥田孫左エ門忠勝である。 写真上左は、400年以上前の千手観音菩薩像。長福寺の秘仏で、50年に一度ご開帳される(前回は、平成の初め頃)。 写真上右は、「千手観音菩薩像」絵図。讃(さん)は、長福寺2世大活(だいかつ)和尚が、正徳4年(1714)に記したもの。 左の写真の「掲額」は、3〜400年以上前のもの。 香流小学校の位置に、1584年まで長福寺があったこと、1676年に「千手観音菩薩像」が発見され、そこに観音堂を建てたということは、猪子石村の「上道地」「下道地」の字名の由来(道地は堂地から)かも知れない。 古老によれば、中島公園(香流小学校北)近辺は、低地の水田で、「堂の下」と呼ばれていたという。 伽羅(から)笠 伽羅笠は、明治12年、植物学者・伊藤圭介によって、 「長福寺開山千丈禅師の師、黄檗宗萬福寺二代木庵禅師が、明暦元年中国より来朝された折り着用された被り笠で、弟子千丈和尚に伝えられたものという。 この笠は竹の六ツ目編みの篭製で、表面は伽羅葉で覆われている。 伽羅葉はシダ科の植物で日本にはないという珍しいもので、一部には骨砕補葉といって、その根を砕いて貼用すると筋骨損傷には極めて効用大であるといわれている」と記されている。 笠の頭頂に珊瑚(さんご)玉がはめ込まれており、長福寺の寺宝となっている。 祟石(たたりいし) 長久手合戦後に、戦死者を葬(ほうむ)った時に使われた石で、これをいじったりするとタタリがあると、村人は恐れていた。 新屋敷の畑のド真ん中にあり、これを聞いた長福寺十代和尚がお祓いをし、新屋敷住民の手によってコロを使い、二日半がかりで運び込んだ名勝石である(大正7年3月10日のこと)。 |