猪子石神明社 名東区神月町602番地にある。 祭神は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
旧猪子石村(主に農民)の氏神であった。昭和37年からの区画整理によって、山林田畑が宅地造成され新興住宅地に様変わりしてからは、新住民を含めた猪子石地区の氏神として崇敬されている。
猪子石神明社は現在も、区画整理以前からの住民およそ300世帯から、3年任期で選出される13名の氏子総代と八鳥宮司によって運営管理されている。
明治34年に修験者岸田蓬生(ほうえい)氏が逝去されて以来、職業神官が不在であった。
代々の村長・区長経験者などの村の重鎮(主に柴田憲二氏)が神官を務めてきたが、戦後、長久手村の山田宮司を猪子石村が職業神官として招請し、現在に至る。
※ 区長とは、明治39年、高社村と猪子石村が合併して猪高村ができてからの大字(旧6村=猪子石・猪子石原・藤森・高針・一社・上社)の長のこと。
一色村と下社村は、明治11年に合併して一社(いちやしろ)村になっているので、大字になっていない。
今の社殿は、昭和39年に改築されたもので、その時末社であった「天王社/祭神・須佐之男命(すさのおのみこと)」「洲原社/祭神・菊理姫命(くくりひめのみこと)」「八剱社/祭神・日本武尊命(やまとたけるのみこと)」「鍬神社/祭神・豊受大神(とようけのおおかみ)」「山ノ神社/祭神・大山祇命(おおやまづみのみこと)」が本殿内に合祀された。
この年の10月11日に馬の塔(おまんと)と棒の手が奉納された。また、平成元年5月21日にも、名古屋市制100周年を記念して、馬の塔の祭事が行われたが、これ以後は奉納されていない。
神明社社務所は、平成元年10月17日深夜、不審火によって焼失したが、平成3年4月に再建された。
神社等級九等級の旧社格村社で、現在境内地は約950坪ある。
由緒
神明社は洪水から逃れる為、「水汲坂」から「上八反田」へと遷移されているが、その年代は不詳である。
様々な説があるので、列記する。
神明社境内入り口の石碑には、
「当神明社は、正和年間(西暦一三〇〇年)以前に創建された御社で、花園天皇時代に猪子石宇水汲坂に鎮座とある。
御所より奥三河猿投山中に御巡幸の途中にて香流川の清水を汲み御休憩された所と記されている。
以後香流川の洪水に会い、御社殿が壊れそうになり、後水尾天皇(安土桃山)時代に上八反田に鎮座する」とある。
つまり、正和年間(1312〜1317)以前の創建で、花園天皇時代(1308〜1318)時代に水汲坂に鎮座、現在地には、後水尾天皇時代(1611〜1629)としている。
一方、『猪高村誌』には、
「安永二年(1773)、村民の総意により、上八反田の現鎮座地に渡御せられた」とある。
改築記念碑
境内西側にある「改築記念碑」によると、
「当神明社は、天照皇大神・豊受を祭神として、承和年間の創建にして、愛智郡猪子石村水汲坂に鎮座されしが、元和八年現在の上八反田に奉遷し時より神明社と号す」とある。
つまり、承和年間(834〜848)の創建、現在地には元和八年(1622)ということなので、創建年代は、927年成立の「延喜式神名帳」より古いことになるが、猪子石神明社は式内社ではない。
陶製の狛犬
神明社に伝わる陶製の狛犬(こまいぬ)には、「寄進 高山かまノ彦六」「元和二年八月吉日」と記されており、この頃、神明社が現在地に遷座されたのかも知れない。
棟札の記録
昭和39年、神明社は改築された。新社殿に御遷宮の折り、旧社殿にあった棟札15枚の写し(一部省略)。
@(表) 「嘉永元龍集戊申歳 秋九月重陽日 奉修復当社拝殿一宇 大工当村 孫蔵/太蔵」
(裏) 「別当 蓬莱法師辨海 氏子総代庄屋 小三治 取持年行司 富右エ門 」
A(表) 「嘉永七年寅年 八月吉祥日 奉檜皮葺替当社屋祢 別当 蓬莱法師辨海」
(裏) 「村方総代庄屋 東島 小三治/氏子総代庄屋 新屋鋪 宇兵衛/大工棟梁 引山孫蔵」
B 「明治四辛未二月 当所産土神明社猪子石両皇太神 鳥居建替 神主 岸田蓬莱基靖」
C(表) 「明治四辛申二月 猪子石神祠葺替取繕 神主 岸田蓬莱基靖」
(裏) 「柿葺替 先前桧皮葺 大工棟梁 当村 横地甚三郎」
D(表) 「明治廿一年四月成功 奉改造産土拝殿薄物造一棟 工匠 愛知郡猪子石村 横地直重」
(裏) 「天長地久匠補助 愛知郡猪子石村 横地徳三郎/春日井郡印場村 八木増五郎」
E 「明治二十七年午九月一日 当社瑞籬新設 大字猪子石氏子」
F(表) 「鳥居前石段新設 猪子石村長 高木市太郎」
(裏) 「明治三十三年九月六日 石屋 国三郎/人夫 氏子中」
G 「明治三十六年五月十日 神明社 鳥居再建 愛知郡猪子石村 村長 高木市太郎」
H(表) 「八剱宮社改造 社掌 柴田通知/村長 高木市太郎/ 信徒総代 横地権三郎」
(裏) 「明治参拾七年壱月廿三日 遷宮式執行 当村 棟梁 高木栄太郎」
I(表) 「大正弐年壱月吉日 神明社社務所新築 区長 佐藤円次郎/総代 酒井金右エ門」
(裏) 「天長地久千歳棟 永遠無窮萬歳棟 悉皆満足永久棟 組総代 新田 横地猶吉」
J(表) 「奉上棟拝殿 神職 柴田通知/区長 高木茂/氏子総代 横地徳次郎」
(裏) 「大正五年四月十有七日 大匠棟梁 横地房次郎/各組新築係総代 横地為次郎」
K(表) 「昭和弐年十月壱日 祭文殿新設 社掌 柴田通知/区長 安達友次郎」
(裏) 「昭和二年九月 大工棟梁 浅草屋 光次郎」
L(表) 「昭和六年九月参拾日 八剱宮社改造 社掌 柴田憲二/区長 柴田輝吉」
(裏) 「昭和六年九月参拾日 遷宮」
M(表)「奉修 大東亜戦争為敵機の空襲度々あり其の都度当字に於ても被害有り依而防空壕を仮宮として安置せり
昭和弐拾年五月拾五日 昭和弐拾年八月十五日令時大東亜戦争終戦に奉遷座者也」
(裏) 「昭和弐拾年八月十五日 宮司 柴田憲二/代務者 山田重義/区長 安達秀義」
N 「昭和二十四年十一月一日 官有地境内払下記念 宮司 山田重義」
「猪子石遙拝所」碑と「子石霊神」碑
神明社境内西側に、「猪子石遙拝所」という小さな石碑がある。
その由来を古老に聞くと、
「酒井善十さんが、大正年間に寄付した石碑。
昔は正月などは、神明社・猪子石神社・大石神社の3ヶ所を廻らなければならなかったが、ここを拝めば、猪子石神社と大石神社も廻ったことになる」ということであった。
ただ、遙拝(ようはい)とは「遠く離れた場所のその方角を拝む」という意味なので、方角は違うが「伊勢神宮遙拝所」ではないかと考えて、後日、再び古老に問うと、
「猪子石遙拝所は、元は旧社務所の南側に、天王社・洲原社・八剱社・鍬神社・山ノ神社・龍神社・祖霊社の各末社と共に北向きに並んでいた。
ワシは子どもの頃、籠もり堂で善十さん本人から直接聞いているから間違いない。
伊勢神宮を拝むのなら、伊勢神宮遙拝所と彫られている筈」と強調された。
しばらくして、大石神社境内西側にある御嶽心願講の「子石霊神」碑の裏に、「川南講中 大正十四年八月八日建之 酒井善十」という文字を見つけた。
そこで「猪子石遙拝所」の裏書きを再確認すると、「大正十四年十一月十九日建之 寄附人 酒井善十」であった。
つまり両石碑は、ほぼ同時期に建立されているのだ。
『名東区の歴史』に、
「今から百年ほど前、猪子石方面を天秤棒で小間物を行商する人があった。
御嶽宇兵衛と呼び、近郷を廻り親切と正直を旨とし、村々に病人または不幸がある家で、望まれるままに御嶽大権現を祈り神徳を授け法を行うので、次第に民衆の信仰がまし、遂に天保八年六月猪子石山手安左衛門宅にて、同志集まり木曽御嶽山を岩崎山に祀ることを相談し、小野村代官所に申請した。
また、これまで熱田に本部のある大先達儀覚行者の創立した丸山講(宮丸講)と合流し、新しく心願講をはじめた。
その初回に参集した者を、猪子石十人御嶽衆という。
心願講は猪子石が発祥の地とも言えるので、先達は初代成瀬安左衛門・二代高木幸三郎・三代地重右衛門・四代酒井善十・・・」(要約)とある。
酒井善十氏は、御嶽心願講の先達だったのだ。
「猪子石遙拝所」の由来は、本人から直接聞いたという古老の説が正しい可能性もあるが、「猪子石御嶽山遙拝所」ではないだろうか。
善十氏は、子どもに分かりやすく説明したか、何らかの事情(氏神の神明社境内に置くことへの遠慮等)があって、その意図を隠した(「御嶽山」の文字を彫らなかった)可能性もある。
末社(龍耳社・英霊社)
耳のある蛇を祀った龍耳社は、5月第一日曜日が奉斎日。
写真左の由来書は、龍耳社の社殿前に掲示されている。
古老によると、
「 明治初年に、猪子石字土久尻一番に祀られていた山ノ神が、神明社に移転された。
年代は不明だが、その跡地に、猪子石引山の加藤氏の親類の畑市左衛門という人が、この龍神様を祀った。
個人の管理では大変なので、猪子石神明社に管理を委託。永代管理料として、大判一枚・小判一枚・二朱金四枚を渡された。
土久尻に在る頃は一坪位の社であったが、整理組合の資金で現在の様な鉄筋コンクリート造りとなった」という。
日清・日露戦争等の戦死者をまつった旧祖霊社は、太平洋戦争の戦死者を祀る英霊社となり、遺族会が中心となって、3月の春分の日に慰霊祭を行っている。
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