以下の全ての文章は、故猪子国雄氏(明治38年4月〜平成元年2月)が、晩年(昭和の終わり頃)に記憶をたよりにして記録されたもので、時代背景はいくぶん前後している。
手書きの原稿を、執筆者が活字にしたが、読みやすくする為に見出しをつけたり、写真を挿入したり、ルビをふったりして多少アレンジしている。
執筆者には、区画整理前の猪子石村の、雲雀(ヒバリ)が空高く舞い上がるのどかな田園、洪水で湖になった田園、ホタルが乱舞する田園、黄金の稲穂に群がるイナゴの大群等の記憶が脳裏に焼き付いている。
以下の文章は、猪子石育ちでない人にとっては、イメージしにくいが、一定の年齢に差し掛かった当村育ちの人にとっては、しばし感慨にふけさせてくれる貴重な文章である。
新田散策
鍋屋上野村を経て田籾(たもみ)街道を東に進むと、香流川に架かる土橋(現香流橋)に着く。
少し手前に一本杉があり、その横に雑木が4〜5本、こんもりと茂って日陰をなしていた。
その木陰に馬頭観音菩薩が安置されており、道路が水田より6〜7メートル高かったので、風通しが良かった。
夏ともなれば、水田の上を涼風が吹き、道行く人の絶好の憩いの場所になっていた。
汗をふきながら一服、あるいは昼寝し、時を忘れて夕方まで寝そべった人もあった。
この馬頭観音に、素朴な村人は絶えることなく花を供えた。ここを村人は杉の木と呼んだ。
村の出入り口であり、人々は喜びも悲しみも噛みしめて往来した。
軍国主義はなやかなりし頃、若人の入除隊には、村人挙(こぞ)ってここまで送迎した。
召集令を受け、肩に赤い襷(たすき)をかけ、日の丸の御旗を高々と風にはためかせ、小学校の生徒・在郷軍人会をはじめ村人全員に送られて来た出征軍人は、挙手の礼をし、一同に挨拶した。
「御国のため、花と散って靖国に帰ってきます」と力強い言葉を最後に、群衆に取り囲まれて万歳三唱で出立する若人の健気(けなげ)な後ろ姿を見送りながら、「どうか日本が勝ちます様に、無事凱旋(がいせん)できますように」と辻の馬頭観音に手を合わせた。
この観音様も、宅地造成により、古より鎮座されし場所を遷移せねばならなくなり、現在は香流橋の南東角の袂(たもと)に安置されている。
信仰によるのか、或いは移転業者のサービスの行き過ぎか、尊像が洗い磨かれていた。
台座に彫り刻まれた文字が、うっすらと「安永」と読める。
この観音様に一礼して降りると、一段と道が狭くなる。
でこぼこ道を歩くと、道の中央に大きな石が地面から頭を出していて、これが一級村道とは嘆かわしい。
前方右側の宮根山の中腹に古杉が生い茂り、その間から寺院が見え隠れする。
この寺は黄檗(おうばく)宗・紫磨山長福寺といい、300年前に建立された古刹(こさつ)である。
10代目住職は山本悦心(えっしん)氏であった。
今は11代目住職の千秋(せんしゅう)氏に譲り、悦心氏は宇治の万福寺とかいうお寺にて読経に余念がないとか。
長福寺参道入り口は、水田で久留里・大林等広い農耕地であり、中央に村道が一筋あるのみであった。
少し行くと、一台の大八車が待機していた。振り向くと後ろからも大八車が来ており、すれ違う為と分かった。
一級村道でも大八車さえすれ違えない。
札木
この道の北側に『猪高村誌』の発刊に当たり、郷土の歴史を担当された横地長吉氏の家屋敷がある。
更に進むと、新田部落の中心部に差しかかる。
この地を札木(ふだぎ)と呼んでいた。
昔、奉行所・庄屋等が庶民に知らせる御触書(おふれがき)を掲示した場所を地名にしたと聞く。
その札木の坂道を登ると、八前川に架かる石橋がある。
八前川は、平素は少しの水しか流れていないが、集中豪雨に見舞われると、奥の谷から茶褐色の濁流が押し寄せる。
札木のあたりの堤防の決壊もしばしばで、住民は眠ることが出来なかった。
大石山の北に廻ると、前方に広い平野が一望できる。
人家のない広い猪子石平野の中程に只一つある建物は、香流尋常高等小学校である。
5〜6月ともなると、学校を取り巻くように耕作されている菜の花が一面に咲き乱れた。
学校は、まるで黄金色の波の上に浮かぶ殿堂のように見事であった。
その上を空高く舞い上がる雲雀の囀(さえず)りと調和して、何とも言えない風情があった。
前山散策
前山へ来た時、何処からか一発の号砲が響いてきた。それと同時に各工場の汽笛が鳴り渡る。
世の人に昼の12時を知らせてくれる唯一の温かい思いやりであった。
その号砲は第三師団の東練兵場より発射されていた。人々はこれを「どん」と呼んでいた。
その号砲が打たれると百姓に従事していた人々は、弁当を広げて昼食にかかる。
また家に食事に帰る人、家からお茶を運んで来る人等で行き交い、昼の憩いのひとときが長閑(のどか)に思われた。
この親しまれてきた「どん」も、太平洋戦争前に中止となり淋しくなった。
前山部落は、高い大石山の裾(すそ)に一列に家が並んでいる。台風の被害を避けて集まった農家の生活の知恵である。
前山の部落の中程に大石神社へ登る参道があった。その道筋に^子才蔵の出生地があった。
永禄年間に武田信玄の忠臣として川中島の合戦で武勲を立てた才蔵の遺徳を崇(あが)めて、^子12家は誇りを持って、わが郷土の英雄としてその霊を祀った。
前山・福部の組境迄くると、その辻に天王様と庚申堂が祀られている。
その横に九尺四面の共同精米所があり、前福実行組合員が利用していた。
数歩先の藪の横には桑の古木があり、枝が生い茂って日陰を作っていた。
茣蓙(ござ)を敷き、4〜5人が笑いながら大きな声で雑談している。
傍(かたわ)らの鋤(すき)を見ながら、「こんなところで冗談を言っていたら、田に水がかかりませんよ」というと、「嬶(かかあ)は田を廻って来いと言ったが、水をかけて来いとは言わなかったでな。俺らここで田を見張っているのだ」と呑気(のんき)そうに構えておられる。
生存競争に追われる都会生活者にとっては羨(うらや)ましい光景だろう。
後ろ髪を引かれ乍(なが)らその場を去ると、魚屋が「魚だ、買った買った」と威勢のいい声で近づいてくる。
今にも魚が箱から飛び出しそうだ。自転車の荷台の4〜5箱は空箱のようで、大部売り尽くしたらしい。
「無塩の鰯(いわし)だ。どうだ、大丼(2〜3寸)に一杯5銭。こちらの秋刀魚(さんま)は一本2銭にしておくが」と奨(すす)められたが、買う気がない。
すると、お婆さん連中が4〜5人集まってきて、買って行かれた。
福部散策
福部一の資産家作蔵さんを訪れると、家の表の庭で多くの子供が集まって庄屋拳をやっていた。
庄屋とは、ボール紙を直径7センチ位の丸型に打ち抜きしたもので、表には武士の姿が印刷されていた。
一人1枚ずつ出して積み上げ、親玉(直径8センチ)の庄屋を打ち付けて表側を出しただけ取れる仕組みで、子供の娯楽ナンバーワンだ。
駄菓子屋で、一銭で庄屋(めんこ)が10枚買えた。
古い庄屋は、儲けた子供から買えば、1銭で30枚から40枚分けてくれた。
作蔵さんは、「よう来てくれた」と老眼鏡越しににこやかに迎えて下さった。
楽隠居ではあるが、52〜3才だと思う。
小説が好きで、当時流行した猿飛佐助・霧隠才蔵の忍術ものを読んでおられた。
この頃、大須の活動写真に行っても、ほとんど忍術映画であった。
さて秋葉山の麓(ふもと)に天理教会があったので、お参りに行ったら都合よく5〜6名の参拝客がおられた。
社殿の表に「天理教甲賀流赤坂分教会」と表札が掲げてあった。
神殿にうやうやしく入ると、参拝者が「天理王神、悪(あ)しきを払い給え」と唱和して居られたので、共に唱和していたら奥から教会長さんが出て来られ、参拝客に教祖中山ミキ氏と天の中主命についての講話をして下さった。
「やがて日本はおろか世界中の人々が天理教の信者になり、教祖中山ミキさんの元へお国帰りができる」と熱のこもった説教を聞いた。
一礼して、竹藪が両側に生い茂っている谷の様な細道を転がるように降りると、老夫婦がささやかな駄菓子と一杯の酒売りをしておられた。
夕方にもなると、上戸連中が集まって来る。
ある人は農耕帰りに、ある人は嬶に内緒で家から抜け出して来て、一杯の酒にのどを鳴らしながら、もう一杯、もう半杯と請求して、自慢話をしたり不満を打ち明けたりして、一日の労を癒(いや)した。
鼻歌まじりの酔客の後をついて行くと、朝鮮へ開拓移民に行かれた徳次郎氏の屋敷が騒がしい。
覗(のぞ)いて見ると5〜6人の餓鬼大将達が集まって、暗くなっても庄屋拳に夢中になっていた。
探しに来た親に促されて、「また明日遊ぼうね」と三々五々帰って行った。
赤坂散策
その昔、福部と赤坂の境とされた所は、両側に竹藪が生い茂り昼でも暗く、通称カンネン藪と呼ばれていた。
4〜50メートル続いていて、夜間ともなると女子供は恐くて通ることを嫌った。
夏の夜には、藪の中から豆狸が道の真ん中に出て来て寝そべり、通行人が踏むと慌てて藪の中に駆け込んだ。
狐・狸は昔話に人を惑わすとあるが、この豆狸(イタチ科に属すムジナであるが、通称豆狸と呼んでいた)は決して人を化かさない。
狸は愛嬌者だが、時々蝮(まむし)が現れることもあった。この竹藪を抜けると、右側に煙草屋があった。
秋葉山にお参りしようと思い近道もあるが広い道を行くと、道の北側に大峰山参拝の先達を永年続けられた行者様の信仰家の柴田和蔵(わぞう)さんの邸(やしき)がある。
そこを通り、角を右に廻った東側に二段構えの石垣の邸宅がある。
材料の石は、近くの山で集めた茶褐色の砂礫(されき)岩で、巧みに積まれ一度も崩れたことがない。
この石垣の広い邸宅は、猪高村の村長・柴田憲二氏の屋敷であり、この北裏側に2〜30坪の広場があった。
そこを壇徒(だんと)場と称し、奥行き五尺、間口二間半と思われるお堂があった。
その中に12体の観音像が安置されており、赤坂組が祭事管理を掌(つかさど)っていた。
この観音堂には、直径9尺位の輪になった百万遍の数珠があり、その中に大きな玉数珠が2〜3個あった。
20人近くが車座になり、御詠歌(ごえいか)を唱和しながら膝の上の数珠を右へ廻し、大玉が自分のところに廻ってくると、南無阿弥陀仏と唱え、何回も廻して観音様の御利益を授かるのである。
この行事は、お盆の24日の夜、老若男女を問わず盛大に行われ、広い檀徒場も人で一杯になった。
ただ露天だったので、雨天の場合は中止になった。
この檀徒場の観音様は、宅地整理により、月心寺の裏手にお堂とともに祀られている。
前山と福部の境に南方に通ずる農道があり、その道を1町(109メートル)ほど行くと急坂があり、その右側に墓地があった。
この墓地は山手地域の故人となられた亡骸(なきがら)を埋葬し、先祖代々をお祀りする霊地である。
さらに進んで、打越・深場・小坂を通ると先方に山並みが望める。
そこを蓬莱山と呼んだ。
蓬莱山に着くと、最初に墓地に行きお参りする。
墓標に合掌して、ありし頃の岸田法印を偲(しの)び、古(いにしえ)より伝えられた氏の呪術に勝れたる物語を思いながら、屋敷跡を一巡する。
奥の院に入ると小さな祠(ほこら)があり、古くなり痛んでいたが修築することもできず、淋しいお堂であった。
道が悪いので参拝する人もなく、岸田家がお守りする程度であった。
その祠は八剱(やつるぎ)様で、なお奥に行くと、十一面観音が鎮座されていたお堂の跡らしき所があった。
法印なき後、観音様は月心寺に、更に数年経て八剱様は神明社に、それぞれ遷(うつ)り、現在に至る。
猪高小学校
大正2年、上社字丁田山の山頂に猪高小学校が設立された。
山の中の校舎への通学路は、つづら折りの道で、水田に落ちないよう段々畑の横に張りついて通った。
他に化者業(かしゃご)廻りの道もあったが、時間が倍以上かかるので嫌だった。
姥ヶ谷を奥深く進んだ高い山頂に秋葉様の祠があった。
往古(おうこ)は、この谷は恐ろしく怪動物の棲息地であったと想像される。
それで姥ヶ谷と名付けたのではなかろうか。その谷間も、先人の努力により開墾され美田となったのである。
この田園の突き当たりの山を登ると、前方に碧(あお)い水を満面に湛(たた)えた大きな池が見える。
この池を菅狭間(すげのさま/すげはざま)と称し、重要な用水路の一つであった。
学校帰りのガキ大将連中は、先生に隠れてこの池でよく水泳をした。
ある時、柴田憲二村長に見つけられ、翌日、校長先生の前で直立不動の姿勢で、お目玉を戴(いただ)いたこともあった。
このあたりは人家もなく淋しい山中であった。
道の両側は笹が生い茂り、夜露で濡れていたので、着物の裾(すそ)が濡れ、先頭を歩くのが厭(いや)だった。
村の方々が時々、通学路清掃に出て両側の笹を刈り取ってくれたが、すぐ笹が芽を出し道をふさぐので、上級生が竹杖で露払いをしながら登校した。
大正9年頃、工兵第三大隊の秋期検閲を兼ねて、姥ヶ谷を中心に道路建設工事が施工された。
その間、民家に宿泊した兵卒は、工事完成の為にと必死に働いた。
かくて学童は、以後大手を振ってこの通学路を歩くことができたが、相変わらず淋しい山道ではあった。
この山中に、菅狭間の西側一帯を買い占めて、山を崩した事業家荒川氏の邸宅と工場があった。
その工場(昭和29年頃に出来、昭和34年に事業廃止)はメリヤス製造所で、近在の婦女子がそこで働いていた。
農家の正月
農家は正月をどう過ごしたであろうか。農家は早朝から夜暗くなるまで働かねば、生活できなかった。
自ら生産した米・麦も良品を売り、まずい不合格米を食べて更に節約しても、都会生活者の真似は出来なかった。
年の暮れともなると、鍛冶屋・酒屋・雑貨店より「つけ」の回収がくる。
田舎の習慣として、盆と暮れの半年毎につけの勘定をするのが常識である。便利な様だが、苦しみでもあった。
商店は、昔からの土着の客として信用の上で貸してくれたが、その信用を失わぬ様に務めねばならなかった。
つけを払い、掟米(おきてまい) を納め、家の煤(すす)、身の煤を払い落とし、一夜明けると子供たちの待ちかねた正月が来る。
元旦は、家族揃って夜中から提灯を持って、凍(い)てついた道をカランコロンと下駄の音をたてて、氏神様まで競って早参りする。
参詣から帰ると、子供たちは家を飛び出し家々を廻り、暗がりの中を手探りで門松に供えてある蛤(はまぐり)・タツクリ・洗米等の中から蛤だけを探し集めて、家の火鉢で焼いて食べた。
格別に美味(おい)しいのが忘れられず、毎年かかさずにやった。
子供たちが帰って来ると、一家揃(そろ)って雑煮を戴いた。
やがて東の空が白み、初日の出のご来光に接するのである。
正月の儀が終わると、健脚家は熱田の宮に参拝した。明治末期で交通の便はなく、若い衆の他は無理であった。
しぜんと室内か、暖かそうな屋敷に集まって屋外で遊んだ。
大衆的娯楽といえば、婦女子でも出来る穴入れ(一銭講)であった。
足の爪先に線を引き、そこを起点として前方2メートル位の所に直径1尺位の丸を書き、その丸の中央に直径2寸・深さ1寸位の穴を掘り、穴を狙って銭を投げ入れるのである。
穴に多く投げ入れた人が勝ちで、昭和40年頃より流行したパチンコに似ていた面白い遊びであった。
当時はラジオもテレビもなく、こうして正月を過ごした。
正月2日になると、打初めといって苗代田(なわしろだ)に行き、昨年の古い稲株2〜3株を鋤で起こして積み上げ、その上に松飾りをし、田作り・米・蛤等を供えて、今年の豊作を地の神に祈願した。
子供は書き初めといって、3尺位の半紙に思い思いの字を書き、正月14日まで室内に掲げておいた。
14日の朝、松飾り・しめ縄を燃やす、どんどの神事に書き初めを持参し、炎の燃え盛る頃を見計(みはか)らって、竹の先につけて差し出した。
煙と共に天高く舞い上がると、字が上達するとの言い伝えがあった。
正月3日が過ぎると、農家は今年の仕事の準備にかかる。
去年使い古した物を修理し、鋤・鍬を打ち直しに出さねばならなかった。
交換(地名)にあった鍛冶屋は、時々弟子を連れて御用聞きに各戸を廻って来たが、忙しくて来れない時は、こちらから鍛冶屋まで持参した。
村の鍛冶屋は都築という名で、なかなか良く働いた。
松チャンという弟子を一人やとって、朝早くからトテンカンと威勢の良い槌(つち)の音が山手側にこだまして景気が良かった。
昔から鍛冶屋が栄えれば百姓も栄え、百姓の景気が良ければ鍛冶屋も良いという関係だった。
交通手段
乗合馬車が長久手村岩作(やざこ)を起点に、名古屋市の千種駅の西裏の終点まで定期的に走っていた。
朝一番馬車が猪子石原の街道を西に向かってラッパを吹きながら行くと、「それ馬車が通る。早く新屋敷前か土橋へ走れ」と急いで乗せて貰った覚えがある。
客は10人位乗れ、岩作から西裏まで30銭位で、道程3里強であった。
猪子石村には人力車が一台あった。
急病人か嫁入りか、または金持ちの旦那が利用し、普通は勿体(もったい)ないので手が届かなかった。
明治末期から大正初期に、山手の梅三郎さんが自転車を4〜5台置いて、貸し自転車屋をしていた。
近所の若い衆が時間借りして、自転車乗りの稽古(けいこ)をした。当時、自転車を持つ家は少なかった。
所有していた家は、息子が名古屋市内の上級学校へ通学する為ぐらいであったが、次第に交通の必需品になり、各家に備えられるようになった。
山手から町へ行く途中に萱場(かやば)と呼ばれた鄙(ひな)びた町並みがあった。
そこに軍国主義華やかなりし頃、兵器廠(へいきしょう)と兵器部が置かれていた。
その地は鍋屋上野まで跨(またが)った約1万坪の広大な敷地であった。
兵器廠長は大佐、兵器部長は少佐であったと思う。
そこには多くの職工さんが勤めていて、武器の手入れに余念がなかった。
この兵器廠は、我が村人に取って馴染(なじみ)深いのであった。
農閑期には人夫として働き、現金収入の一助とする唯一ともいえる場所であった。
1905年当時、大人60銭、小人30銭の割で1日の賃金が支払われた。
朝7時から夕方5時までの長時間であったが、先輩や職工さんたちは、人夫を大切にしてくれ恵まれた働き場であった。
陸軍の御用人をしていた馬糧倉庫経営の水野さんが、「人夫廻し」を2人雇って、人夫の調達をしていた。
人夫廻しは権右兵衛さんと、もう一人は「桶屋」と呼んでいた。
出来町・大幸・猪子石・遠くは長久手方面から集まって来た連中が、兵器廠の門前で待つ人夫廻しに連れられて、2列に整然と並び、営門前に立つ歩哨(ほしよう)の許可を得て入門し、司令部前で厳しい点検を受けるのである。
予(あらかじ)め人夫廻しが大人と小人を区別して並ばしておく。
事務所より工長(軍曹)が出てきて一瞥(いちべつ)すると、背の低い人を一人ずつ引っ張り出し、小人の列に送る。
その瞬間に、1日の賃金の格差がつくのである。
ある日、お友達4〜5人と連れだって働きに来た娘さんは、19才の立派な娘であったが、背が低く小人に廻されてしまった。
大人であるにもかかわらず自分一人小人扱いを受けた娘は、翌日高下駄を履(は)いて来て後列に並び、大人として通ることができた。
娘は20才になっても嫁にいけないと「売れ残り」と言われ、男子は22〜3才で嫁をもらうのが常識という早婚の時代であった。
男子は現金収入を得る為、農閑期に働き場を求めた。
兵器廠の他には、矢田川で砂利採取業者「大幸の圓蔵」という人が、重労働ではあるが出来高払い(砂利1荷3銭〜5銭)の営業をしていた。
香流青年会も基金を作る為、全員が出て砂利採取をしたこともあった。
私も青年会に入会した時、まだ小学校を卒業したばかりの年の暮れ、上級の会員と共に1日我慢して勤めたが、夕方には肩が赤く腫(は)れ上がり、数日痛かったことがある。
慣れた人なら1日30〜40荷(か)、素人なら20荷位採取できた。
市の水道濾過(ろか)池の砂の入れ替え作業に、人夫が10〜15人常時雇われていた。
人夫として働いているうちに市の職員に採用される人もあった。
その他には、賃金は低いが村人足と称し農作地の灌漑(かんがい)用水路の清掃・補修等の土木仕事があった。
1日30銭(大正元年)、50銭(大正中期)の賃金で、まとめて盆暮れに支払われた。
1銭でも金の欲しい時は、支えにもなった。
以上、思いつくまま、昔の百姓がこうして生活してきたぞと、一文を記すものである。
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