猪子石村


 村の中央を、香流川がゆったりと流れる。かつては堤防すらなく、大雨が降ると、中島は土砂で埋まった。この土砂でできた中州が中島で猪子石村は、ここから始まったと思われる。水田を作っても、洪水時には泥水につかってしまう。それで人々は大石山山麓や引山(低き山からの転化、大石山より低いから)に移る。そのあとに、新田と新屋敷が生まれた。

 香流川は、『 尾張志』にもあるように「金連川」あるいは「金流川」と書いた。金とは金物の「かな」で、砂鉄のことであろう。

 ※『尾張国本貫諸姓略記』に、「石作連・高尾張連・金連・印葉連」と長久手市・名古屋市名東区・尾張旭市近辺と関係する 姓氏名が列挙されている。この「尾張金連(おわりかねのむらじ/天香語山命15世の孫)」に由来している可能性もある。

 「昔、鉄穴(かんな)流しが行われた」という説があり、そうであるなら、それは色金山ではないかと推測し、香流川上流を歩いてみたが、それらしき場所は見あたらなかった(色金山は、「色嶺山」からの転化)。       

 化者業(かしゃご/カシャゴウ)という、鍛冶屋集団が住んで居た地域をさす字名がある。香流川周辺だけでなく、矢田川周辺まで範囲を広げると、製鉄(鍛冶)が盛んであったことを示す地名は多い。化者業、香流、鋳物師洞、金屋、鍋屋上野など。

 鍛冶屋集団は各地を経巡(へめぐ)る山人たちのことで、村人との交流は鉄製品の修理などに限られていた。山々を関所も通らずに動きまわる山人たちは、それを危惧する江戸幕府の圧力もあって、やがて村里に住み着くようになる。

 山人の宗教は修験道である。修験道は、鉱物資源を求めて各地を経巡る山人によって作られたとも言われている。この人たちが、かつて猪子石村に広がっていた修験道をもたらしたのではないだろうか。

 「尾張名所図会」に描かれた猪子石村
『尾張名所図会』

 『尾張名所図会』には、中央に「かなれ川」が流れ、手前に「牡石」が、「牝石」の奥に「八剱宮」「観音」「蓬来谷」が描かれている。

 この絵の俳句 は、「 蝉なくや まつのひだりは 小石川  存古 」と読める。

 存古とは、石原存古斎のことで、犬山藩士である。白梵庵馬州に俳諧を学び、その高弟となり、酒を好み杯を離すことがなかったと伝えられている。1806年没なので『尾張名所図会』著者の岡田啓(ひらく)らが猪子石の風景を見た時には、すでに故人となっていた。

※『尾張名所図会』は、歌に詠まれるような名所を巡るガイドブック。

 『尾張名所図会』にも、「村の名此石より起る」と書かれているように、猪子石の由来は牡(おす)石・牝(めす)石からきていると思われる。

 しかし、江戸時代に「猪子石原村」を「猪之越原村」と書いた(『尾張q行記』)ので、「猪子石」は「猪之越」からの転化とする説が『猪高村誌』や『猪高村物語』で紹介されている。その証拠に、猪子石をイノコシと発音すると。     

 だが、テニスの錦織圭選手は、ニシコリと発音する。日本語の連母音は回避(省略)されやすく、NISHIKIORIの3番目のが取れたように、INOKOISHIの真ん中のがとれただけという可能性が高い。

 ※ 津田正生(まさなり)も、著書『尾張國地名考』で、「地名正字也ゐのこしはゐのこいしの約るなり」としている。

 それに猪子石原村と猪子石村では、同じ様にみえても成り立ちが違う。猪子石原村は、明治時代初期まで春日井郡に属していた。明治22年の「市制町村制」の公布の際に、愛知郡の猪子石村に編入されたが、今でも氏神は和示良(かにら)神社であり、「一町村一社」という観点から見ても別の村といえる。                         

 ※ ただし、中世まで遡(さかのぼ)ると、猪子石も猪子石原も共に山田郡に属していた。

  「薬師寺霊園」付近の旧地名は、「交換」である。『香流川物語』によると、《今の「交換」はもともと猪子石原のものであったのを、今は新引山と呼ばれて市営住宅が並んでいるあたりと交換したもの》とある。同じ村なら、交換する必要はなかったであろう。

 猪子石が香流川流域の村であるとするなら、猪子石原は矢田川流域の川南の村であろう。猪之越原の越は竹越や打越と同じような使い方ではないだろうか。

 『猪高村物語』によると、文献上に初めて猪子石の名が登場するのは、貞治4年(1365)の『足利義詮(よしあきら)御教書』。この中に「猪子石郷」という文字があるそうなので、この村の名は相当古くからあったといえる。



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