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予感(hunch) |
日樹は放課後の職員室を訪れていた こうして登校するの、もおよそ一ヶ月間の休学から久しぶりだった 三年生が卒業し、新一年生が入学してきたことをのぞいては校内を歩いていても特に変わった様子は無い 入院中に病院の窓から時折見かけていた満開の桜も、今ではもうほとんど散ってしまい緑葉に主役が交代している 体に触れる空気が季節の移り変わりを感じさせるぐらいだった 数日振りに顔を合わせた級友や、顔見知りとの挨拶はここにたどり着くまで尽きなかった 皆が気を使って自分に接することも神経を逆撫でしたりしない むしろもう何も感じなくなっていたのである 望みなんて・・・ない・・・ 随分前に捨ててしまったんだ、と 放課後、部活指導で出払い職員室に居残る教員も少なく、二人は誰の目も気にかけることなく対話する 「登校は連休明けからでも良かったんじゃないか?」 「授業に遅れちゃいますから」 成績も学年トップで品行方正の日樹に、実は無用の心配である 「どうした?傷になってるぞ」 穏やかに微笑みながら教師の手は日樹の目元を指差していた 「え?」 傷?どこかでぶつけでもしただろうか・・・ 相手の指先が指す通りに目元をたどる すると、ヒリっと感じる部分で手が停まった そうかあの時・・・ すぐにここへくる途中の可笑しな出来事を思い出した 出会い頭にぶつかり眼鏡がはずれた時にできた傷 体当たりしてきた下級生は “あなたの走る姿に・・・” そう言っていた そんなことで自分を褒められるのは初めてだった まして、退部届けを提出するその日にだ あまりの皮肉に笑いがもれる 「体の方はもう良いのか?」 椅子の背もたれに大きく寄り掛かり日樹に問いかけたのは数学教師で、陸上部顧問を務める時田だ 「ええ」 「大変だったな」 心底心配していたのであろう 思えば入学当初、日樹を陸上部へ誘ったのもこの顧問だった 無論、日樹の運動神経の良さを見抜いてのこと 日樹のタイムレコードが次々更新されたのも時田の適切な指導のおかげだった そしていつも親身になってくれている彼もかつて陸上走者であったことを忘れてはならない 「はい」 そう答える澄んだ笑顔は、これからまさかと思う選択を胸に抱いているとは決して思えなかった 「そうか、それなら良かった 無理しないで焦らずに少しずつ取り戻し復帰していけば良いからな」 「先生・・・」 日樹は手にしていた封書を顧問の机の上にそっと差し出した “退部届” 封書の表書きにはそう書かれている 「これは!?」 想像もしていなかった行動に時田はひどく驚いた様子だった 復学したら、まず最初にここへ来て顧問に自分の決意を伝えるつもりだった ランナーとして期待通りに復帰できるかどうかわからない いや、たとえできたとしても、もう以前のように自分が居る場所はない それが・・・退部届けを出す本当の理由 関わらなければ何も起こらない それなら今この瞬間に自分でお終いにしてしまえば良い 自分で選択できる最後の自由 それで楽になれる・・・と |
左手は無意識に足の傷に触れていた 全治三ヶ月とはいえ軽症の方だろう、後遺症もなさそうだ 傷は日が経てば治る だがこれは忠告 運命ならそれに従う 自分が生きてきた上での贖罪であるなら 喜んで受けよう 現実から目を背けず 以前と変わらない生活に戻り 堪えられなければ自分がつぶれる それだけだ 良い機会じゃないか・・・ 「申し訳ありませんが・・・」 そう一言だけ日樹は言って俯いた 決心は変わらない 陸上部には戻らない 「諸藤、どうした?何かあったのか?」 「いいえ・・・」 「怪我の経過は悪くないんだろう?」 「・・・ええ・・」 心の中を読まれないように必死に本心を隠す だが、気丈に振舞う仕草は逆に切ない笑顔を表に出していた 続く言葉を失った日樹に時田は続けて言う 「焦らなくていい ゆっくりリハビリをして取り戻せば良いんだぞ」 強く断言する時田の声が随分遠くでそう聞こえていたかもしれない しかし彼の声は日樹の耳にとどまらない 聞き入れてしまえば自分が辛くなるからだ 「先生・・・今までありがとうございました」 一年間、ひたすら走り続け、 充実していた 爽快だった もうその実感は味わえない 日樹はそれだけを時田に言残し踵を返した |
その日の練習は、いつになく心が弾んでいた 受験校の合格発表のその日に妖精との衝撃的な出逢い 彼に魅入ってしまった・・・ その日から約二ヶ月ぶり 念願の再会をほんの少し前に果たしたばかりだからである 「日樹君のこと?」 そう答えたのは野球部の女子マネージャーだった 「ひじゅ・・・?」 「諸藤日樹君このとでしょ?」 「・・あ・あぁ〜・・珍しい名前なんですね」 名前がわかればもうこっちのもの あの人と同学年の顔見知りの人間に聞くのが一番手っ取り早い 俺に任せておけ!といわんばかりに亮輔が拓真にチラリと目配せし この上級生のマネージャーから情報を聞き出そうとしていた ・・りょ、亮輔の奴・・・ 「うちのクラスのイケメン、その上勉強もできてスポーツ万能 まさに天は二物を与えた、っていう諸藤君でしょ」 相手も待ってましたとばかりに口火を切る しかもその表情はなぜか陶酔しきり、自分の宝物自慢のように瞳も必要以上にキラキラ輝かせている 「確かに美形には違いないけど・・・そんなに凄い人なんっすか?」 半信半疑で聞き返す亮輔 「彼、西蘭付属中からこっちの中学に編入したみたいよ」 「えぇっ?西蘭?!」 拓真と顔を見合わせ、さすがの亮輔も声を裏返した 「西蘭ってハイレベルで有名な都内のお坊ちゃん進学校の?」 今日の今日まで相棒拓真の憧れの人などまったく無関心だった亮輔だが、名門西蘭出身と聞いては黙っていられない 数本の指に数えられる全国の名門校のひとつ 同じ『西』の字がつけどもここ西星とは格違い、数段もレベルが上なのだ 「学年トップ成績であのマスクでしょ 高嶺の花の彼は入学当初から超人気よ〜」 「ふ〜ん」 憧れの人の秘密がひとつひとつに暴かれていく 当の拓真といえば意中の人のこと、色々聞き出して知りたいところだが、 言葉に出せばたちまち意識し顔に出てしまうだろう そんなことを百も承知している自分で、とても言い出すことはできない 逸る気持ちを抑え、亮輔にこの場を任せる 「去年の体育祭なんてカッコ良かったわよ〜、部活対抗リレーで第一走者だったんだけど ぶっちぎりのトップ!」 たとえ見ていなくても拓真にはその情景が目に浮かぶ きっとあの時と同じだ・・・ 綺麗なフォーム 「住まいは駅向こうのマンション、お兄さんと二人暮し そこそこのお金持ちってところかしら」 「兄貴と?」 名門校から編入、親元を離れてとは誰が聞いても一度は脳裏に引っかかる 亮輔は訝しげに聞き返した 「家庭の事情かしら? 詳しいことは誰も知らないみたい」 思い焦がれる人のことはどんなに小さなことでも全部知っていたい 時に噂とは尾ひれがつき、事実とはまったく関係のないことまで囁かれるが 今の拓真にはその良否の判断力などあるはずがない 「そういう謎めいたころが女心をくすぐるのよね〜」 次から次へまるで自分の親友のことのように得意気に話し続ける 女っておしゃべりだ・・・ 部室から練習用に運んできたボール入りのカゴをグラウンドに下ろすと 「今年の体育祭は、もうあの姿を見れないかもなぁ・・・」 「なんでですか?」 「怪我しちゃったのよ」 マネージャーは付け加えて拓真たちに言った 「怪我だって!?」 拓真が素早く反応する 「うん、交通事故で足を骨折したの」 残酷な言葉だった 「事故にあったのは確か・・・3月中旬、雪の降る日だったかな」 合格発表の日から数日後 春近いその時期に、雪・・・確かそんな日があたったかもしれない 「・・・で!怪我の具合はどうなんですか!?」 動揺した拓真が血相を変えて聞く 「しばらくは無理じゃないの?まだ足もかばっるみたいだし」 「足をかばって?・・・」 全然気がつかなかった 気づかなかったどころか、 そんな傷を負ってる体に体当たりして突き飛ばしてしまったのだ なのに、 思いがけない再会に感激し初対面だということも忘れ 『貴方の走る姿に魅かれて・・・』 そんな傷口を抉るようなことを言ってしまった 走れない状況なら、今は触れて欲しくないことだっただろう が、もう後の祭り 選手生命の危機、再起不能 もしかしたら彼の走る姿をもう二度と眺められない・・・ その可能性もあり得るのか 拓真の頭の中は最悪の状況で溢れかえっていた 「亮輔・・・俺、あの人になんてことを・・・」 「拓真、気にすんなよ」 がっくり俯いて立ち竦む相棒の胸元を亮輔が押し叩いてみるが つい先ほどまで心弾んでいた拓真は一瞬にしみごとに落ち込んでいる 散々喋った後でマネージャーがぽつりと付け加える 「でもあまり諸藤君の周りをウロウロしないほうが良いわよ」 「へっ?」 「おっかない番犬がいつも目を光らせてるから〜」 「番犬?・・・あ、ああぁ そうか」 そこそこの金持ちなら大型犬を飼っていてもおかしくはない だから気をつけろ、との意味であろうか 亮輔はさして気にも留めなかった 「ほれ、練習 練習!」 意味深な笑顔で言いたいことを言い尽くしたマネージャーは本業に戻っていった 一方的に退部届けを提出し職員室を出た日樹は校庭を見渡していた ついこの間まで自分が走っていたグラウンドだ 新入生の入部が増え、部活動に励む生徒達で賑わうグラウンド 知らずに時は流れている 走ることで一年間何もかも忘れることができた 自分の居ないその場所に幻を見る これでいい・・・ 名残惜しみ、グランドを端から端までゆっくりと視線を移す 陸上部脇の野球部の練習に目を移した時、廊下でぶつかったあの長身の下級生を見つけた 「あれは・・・さっきの・・・」 無心にただ白球を追っている姿を、日樹は足を止めしばらく見つめていた 自分に注がれるその瞳に拓真も気づくはずもなく 見上げた空は真っ青に澄み、あの日よりずっと高くなっていた そして日樹はグラウンドを後にゆっくり歩き出す |
拓真 |
噂 |