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向暑(KOUSYO)後編



 都内の本社ビルを出た二台の車は千葉方面下り湾岸線を連なり走っていた
先頭車にピタリ距離を離さず後続の車が追う
前を走るのが朋樹、そして後を追尾するのが鏡の運転する車だ
スピードメーターは速度120q/hを振り切っている


    行くぞ・・・


朋樹がアクセルを一気に踏み込んで加速させればエンジン音が唸る


    また・・ですか?


距離を離していく朋樹の車へ、呆れ半分の溜息を漏らしてから鏡がそれに応じる


夜10時を過ぎた湾岸高速は混雑のストレスもなく、ちょっとしたカーチェイスを興じることができる
朋樹はルームミラー越しの鏡へ、イタズラを企てた少年のような瞳を向け挑発する


    ついて来い・・・静那


朋樹は承知している
日頃、抑えるばかりの鏡のプライドをちょっとばかりくすぐって刺激してやれば
やっとのこと本心を曝け出す
それが時には必要だと朋樹は認識し、素直に反応してくる鏡が愉快でならない

この二人も同乗者がいる時には決して無謀な運転はしない
それどころか常に安定し巧みなドライブテクニックで車を走らせている
もっとも秘書、鏡の運転で移動することが多い朋樹にとって、自分が運転するこの機会は格好の羽伸ばしであり
車体を通じて風切る動体感覚が尚のこと爽快らしい

時には抜きつ抜かれつ、鏡が追い抜き朋樹の前を走ることになれば
チッ、と悔しがる朋樹の表情が伺える

しきりに点滅するウインカーに伴い変更される車線
そんな戯れを繰り返し、自宅に着いたのが2時間前だった
国産車で色違い同型のセダン
二台の車は朋樹のマンション地下駐車場で今仲良く並んで停車している




「日樹の将来を考え、正しい軌道に乗せてやりたい」
朋樹はマウスから離した手で頬杖をつく、残務整理は一時休戦状態に入った

義弟に対しての深い想いは嫌というほど知らされている
穏やかな言葉と裏腹に、その尖った視線を感じたのは拓真の存在を黙秘していたという
後ろめたい気持ちがあったからだろうか

「それがあの方との約束だからな」
「悦子夫人・・・ですね」
「あぁ」

諸藤悦子、日樹の実母であり朋樹の継母となる優美な女性
この人の為に日樹を守りたいとうのが朋樹の切なる願いである

現時点で社長の後は長男の朋樹が継ぐことになっているが、それもこの先どこでどう変わるかは想定できない
そうなれば次男の日樹にも後継ぎ話がまわってくる可能性もあるということだ

諸藤家の息子としてふさわしい学歴を残し、自社もしくはそれに並ぶ企業へ入社し、行く行くは連れ合いを娶り、
後継ぎになる子をもうけ・・・と
諸藤家の次男として、日樹にはそんな一般的な未来図を思い描く朋樹は、それが本人にとって
一番の幸せであり、母の願いであろうと信じてやまない

正しい軌道・・・
鏡は胸をチクリと刺された気がする
何か自分を否定されたような心境に陥るからだ

朋樹との関係が先の見えない、いつ終わるとも限らない間柄で
さらには男同士である二人の関係は世間でも認められない
大切な後継ぎをもうけられるわけでもない
もしこれから朋樹の子を産む女性が現れるとなれば、自分の存在が必要でなくなり
朋樹が次期社長となれば、男の愛人などゴシップ記事になるのは目に見えている
残念ながらどれをとってもプラスになる要素はひとつもありはしない

日樹の将来を考える朋樹の心境を推し量ればいくつかの推論が浮かぶ
朋樹自身が一般的な人生をまったく放棄し、このまま鏡との関係を続けていくために義弟へ求めることなのか
あるいは朋樹が捨てきれない一般的な人生を、己の代わりに日樹へ託すのか
両者は似たようで実は意味合いがまったく異なる

だからといって朋樹が一般論を日樹に強制することが良いこととは思いきれず、
最近の鏡は無意識にそれを主張したがっていた

「煙草吸われますか?」
「いや、いい」
日樹が不在でも自宅での喫煙は控えることに徹している朋樹

「では、何か飲まれますか?」
鏡がキッチンへ行くことを目的に立ち上がり、朋樹の脇を過ぎようとした時だった

「何を隠している?」
朋樹の瞳は鏡を見ていなかった
だがその瞳の奥に、表面には露にならない冷えた色を秘めていたことに鏡も気付いていた

朋樹の鋭い眼光を直接受けたわけでもないのに、心なしかトーンが下がった朋樹の口調に身が竦み、
鏡はその場で自由を奪われる
たとえ針が一本落ちた音でさえ逃さぬ静けさ
この部屋の中だけが凍る気配と共に時間が止まってしまった
まだ30代にはいったばかりにも関わらず、会社トップ役員に立つ朋樹はそれだけの度量を持ち合わせている

直に10年、長年連れ添えば相手の手の内が読めるというものか
ということはここ数日、体から滲み出た心の迷いも朋樹には悟られている可能性がある

悔しいがやはりお見通しなのだ、狼狽した相手の状況を朋樹はジリジリと責めて楽しむ
こちらから申し出なければ緊迫した持久戦がこのまま延々続くが、過去に鏡が勝ちを得た事がない
最終的には快楽というアンフェアな手段を使われ朋樹に敗退してしまう
この世で最も愛して憎い相手・・・
いつか手放されてしまうのではないかと付きまとう不安に対し
鏡が常に言葉だけでは得られない確証に飢えていることを承知している朋樹の自信
この関係は社内の主従関係と一緒で逆転することがない

コンピューターがしきりにバックグラウンドで作業している機械音が空間に割って入る
時間経過とともに、鏡のPCモニターに設定してあったスクリーンセーバーが作動し始めたのだ
張り詰め刺すこの空気から一気に抜け出せる方法はわかっている

『貴方の大切な義弟にまとわりつく “男” が現れました』
たったひとこと拓真の存在を伝え、彼は危険ではないと強調して補足してやればいい
そうすれば、いかなることに優先させてでも朋樹は事実確認に四方手を尽くすだろう
だが、今の朋樹にとって後から付け加えた 『彼は危険ではない』
この言葉はなんの意味もなさない
義弟の意思に関係なく、拓真という少年を引き離す算段が即座に施され
その役割に自分も加担しなければならなくなる

だからこそ頑なに口を噤む道を選択した

入院中に失意と虚無の表情しか見せなかった日樹は、拓真の出現で一転した
愉悦に満ちた幼い表情で自ら歩き出そうとしている
やっと芽吹いた新芽をみすみす摘み取ってしまうことは、
未来へ繋がる一筋の希望を遮断してしまう罪悪感に苛まれる

あるいはこの目の前にいる男としばらく交わっていない飢餓感が、男が義弟へ向ける愛情に嫉妬し
自分でも知らずに疼く体の苛立ちを謀反という形で欲情させようと誘っているのか
どちらにしろ、もう平常心だと自負することはできない

「お前らしくないな」
フッと小さく笑みを漏らし、情けをかけたのか珍しくも先に沈黙の幕を引き裂いたのは朋樹だった

緊張感がほぐれ小さく息を吐き出す鏡の体内は、冷静に装う外見と大よそ異なり
交錯し抑え切れない激情が今、一気に冷却されている
仕切り直すために鏡は眼鏡の位置を人差し指で修正した

「静那、疲れているんじゃないか?」
「そんなことはありません」

本心疲れている・・・
だが認めてしまえば身崩れしてしまうのだ
プロジェクトが本格的に動き出すまでは誰も同じように思考を巡らし、予期せぬアクシデントを想定しながら
気心休まらない状態が続く
きっと自分だけではないはず
目の前のこの主も・・・

「朋樹さん・・・」
「なんだ」

互いの瞳はまだ相手を見ようとはせず、相変わらずの余裕を見せているのは朋樹だけだ

「クレーム対応の2原則とは・・・何でしょうか・・・」
冷静になれ、冷静に・・・何度も心に唱えてから重々しく言葉にしてみたが
心の中の一番の蟠りを我ながら的確な例えで引き合いに出せたものだ

「ん?」
眉頭だけをピクッとさせ、反応した朋樹がようやく鏡に視線を合わせる
仕事絡みとなれば自分より優先する、間違えなく必ず食いついてくるだろうと鏡には勝算があった

「朋樹さん・・・クレーム対応の2原則は・・・原因究明、そして再発防止です」
「それがどうした、今更わかり知れたことを」
議論にまとまりのつかない無駄な会議中に見せる、嫌気を含む表情が返ってくる

「・・・今の朋樹さんは根本的な原因究明を怠われているように思われますが」
強く熱い思いとは裏腹に、絞りだした言葉の語尾には力がなくなっていた
これ以上長引けばもう言葉を選んでいる場合ではなくなり、感情任せに本題からズレた私情まで持ち込みそうだ
いや・・・もうすでに

貴方はこのまま義弟の未来を自分の思うがままに押し付け閉じ込めていく気ですか?・・・
もしそうならば、この関係もいずれ破綻を迎える


衣擦れの音、朋樹が立ち上がって歩み寄ってくるのがわかる

    くるか・・・

挑発に乗り、ついに動いた朋樹の息遣いをそして体温を身近にかに感じた
きっと体を拘束される
息をのみ込んで覚悟を決め瞳を硬く閉じた瞬間・・・
予想に反し、その足音が遠ざかる

「今日はもう終わりにしよう」
朋樹のその言葉が呪縛を解く
再び瞳を開いた時、朋樹はリビングのドアの前でこちらを振り返っていた
プライベートに見せるいつもの顔

「・・・朋樹さん・・・」
「泊まるも帰るも、静那 お前の好きにするといい」
そう言い渡すと、リビングを出て浴室に向ってしまった



もし、違う出逢い方をしていたら・・・  

流されてしまう
そんな自分は存在しなかっただろう

“お前の好きにするといい” という勧告と与えられた選択肢は
解放というより無下に放り捨てられたような寂寥感を与えられる

−パタン−

閉じた一枚の扉がリビングとリビングより向こう側を容赦なく隔て
二人は別々の空間に引き離された

取り残された鏡は一人ぽつんとその現状を目の当たりにしていた
リビングのテーブルの上には、投げ出したままになっている山積の書類、
それは、未処理と処理済の大よそに分類をされているだけ
先ほどまで朋樹が使用していたデータファイルが開かれたままのパソコンには
集計中のカラフルな統計グラフが表示されている

そして無造作に脱ぎ捨ててあるスーツの上着は朋樹のもの

相手にもされず、身をかわされ、さらにはこれからの判断を自分に委ねられる
その結果はいかようになれども選択した自己責任という重圧の付録付だ

熱くなっていたのは自分だけだったのかもしれない
もっとも、ビジネスで過去に幾多の駆け引きの場に立たされている朋樹の経験を前提にすれば
こんな浅はかな謀反は手を煩わすまでもない茶番劇
朋樹の手腕を身近で実感し学ぶ立場の鏡だからこそ冷静になればもっと違った手段をとれたはず

本来なら気が休むことのない朋樹をサポートしなければならない身
それも自分の気の乱れから生じた神経過敏による咄嗟的な行動に巻き込んだのであれば言語道断
秘書として初歩的なミスを犯したことになる
失格だ・・・
グローバルに躍進する会社の重役秘書という肩書きは、自分のような人間には
よほどの縁故がなければ配属されないセクション

「フッ・・・」
それだけの地位を与えられているのに・・・苦いため息が情けない自分を戒める

身をかがめ膝を折り、散乱した書類をテーブルの上でまとめ揃える
朋樹が作業しかけたままのファイルを終了し、パソコンをシャットダウンしようとして気づく小さな異変
それは鏡だからこそ気づくことなのだ

「これは・・・・」
手を止めた鏡が目にしたのは意表を付くものだった

“変更を保存しますか”

ウィンドウに現れたメッセージ
朋樹はデータを保存もせずに席をはずしていた

重要なデータの保存を手抜かりするとは、日頃の完璧な彼の行動からは思いもよらず
鏡の口元から力なく笑みが漏れる
ちっぽけな優越感

こんなミスを
「・・・貴方らしくない」

持ち主の代わり静かにパソコンを閉じ、そして朋樹の上着を拾い上げる
こんな細々とした世話を甲斐甲斐しく、妻という立場のように続けてきた

上着に染み付く馴染んだ愛しい男の香り
身だしなみと言って、控えめで嫌味のない万人受けしそうなコロンを愛用しているが
それでも高価なものなのだと承知している
迷い、不安、悦、鏡は常にその香りに包まれ今日まで過ごしてきた
しかし残念ながら、どんな年月の重みでさえも血の繋がりには勝ることはできないようだ
きっとこの先もずっと

ぬくもりの消えた、本体のない上着を身代わりにその腕へ抱きしめる
目を閉じれば一緒に歩んできた長い道が過去へと続く
10年間決して誰と違えることのない香りが鼻腔から体の奥深くへ浸透していく

「こんな抜け殻ならいくらでも独占できるのに・・・」
束縛したいというのは、自分が束縛されたいという心の裏返し

朋樹が上着胸ポケットに忍ばせている携帯電話は社用私用を兼ねたもの
あえて個人用の携帯を所持していない
その全てのデータを管理している鏡の不安を煽るような要素は一点も見られない
持ちあがる縁談話ですらことごとく断っている
懇意にする女性もいなければ身辺もいたってクリアーで、朋樹の身の潔白は明らかなのだ
そんな小さな確証を積み上げていけば何一つ疑問に思うことはありはしないのに・・・

手近にあるソファに二つ折りにした上着をそっと名残惜しくかけた

「朋樹さん・・・日樹さんは今、一人で歩こうとしているんですよ・・・」



強要はせずに相手を誘う常套手段
策士の朋樹らしい


浴室の半透明なデザインガラスに映し出される、身動く朋樹の曖昧なシルエットと
その体を伝わり流れ落ちるシャワーの音が脳裏へとしきりに侵入してくる

ピンと張った筋肉質の逞しい腕が、髪から滴を迸らせているのだろう
日頃ビジネス用にきっちりと硬いイメージにセットした髪も入浴の時には自然の姿に戻り
鋭角な印象をもつ表情も和らぎ、若さを引き立てる
それこそが彼の素顔だ

絡める指先が、この身を預けてもなお広く余る胸が、息が詰まるほどに力強く抱きしめる二の腕が
とめどなく高揚感を味合わせ、自分をどんな風に愛してくれるのか全て知っている
抱かれ慣れた躰が忘れるわけがない
ゆえ反射的に求めてしまう

時折見せる少年のような純な表情、くせやしぐさ
自分だけが知る
自分だけのもの

だからアンフェアなのだ

逆らえないと知っている
抑えようとする欲望を煽られ歯止めが効かなくなると、これはある意味拷問と同じ仕打ち

『今日は帰ります』

立ち寄りそう伝えるずだった・・・
浴室の外から声を掛け、マンションを後にしようと決心したはずなのに
誰に足止めされたわけでもない
そのエリアに足を踏み入れた途端、懊悩に拉がれた体がその場から動こうとしなくなってしまった

それでも幸いなことに、呪縛はまだ心の最奥の核までは支配していない
もしかしたらそれもすぐに虚しく征服されてしまうかもしれない
屈することの無い自分を信じて挑みたい気持ちと、このまま何もかも捨て流されてしまえばいいという自棄な気持ち
二つの葛藤で胸元にぎゅっと握り締めた指先が手のひらに食い込み
汗を帯びては爪痕を残す

苦しむ心が表情にあらわれ
脱衣室の大きな姿見に今の弱々しい自分がありありと映し出されている
意気地がない、これでは最初から結果が見えているではないか

手段を間違えている今のままでは・・・何変わらない
日樹自身が自分の力で乗り越えていかなければならないこと
もどかしくても見守らなければならないのだ
がんじがらめで目に余る擁護だけではこの先何も生まれてはこない
あの日、義兄が無理やり封印してしまった傷ついた心身、学校内部の者に性行為を強いられた日樹
加害者の名前も明らかにならぬまま公になることを恐れ、両親にもその事実は偽り伝え
ひた隠しに朋樹の独断で名門校を退学ということで処理し終えた
その間の日樹の意思も希望もいっさい無視した状況は後々まだ蟠っているはず


尋常ではなかった姿、
ただの暴行と片付けてしまうのではなく、当事者同士の間にあった真実を突きつめるべきだった

その見返りがこうして義弟を一生未然に事なきことで守り続けることなのだろうか

浴室の扉に身を寄り掛かからせ
その指先を弱々しくひと指ずつ広げ、ガラス越しにあて添えれば
この向こう側に居る朋樹がいずれ察するだろうと

貴方がいなければ自分は駄目になるのだろうか・・・
どうか手を下す前に気づいて欲しい
それが鏡の切なる願いだった

シャワーの水栓がひねられ水音が止まった
どうやらこちらから添えた手のひらと鏡自身のシルエットに朋樹が気づいたようだ

「どうした?」
エコーの効いた低音で囁かれれば、同時にガラス越しの朋樹の視線と合わさる
問いかける甘い囁きは、更に鏡の自由を奪っていく
立っていることさえままならない
体を支える下肢の力が弱まり不安定となったあげく、鏡はとうとうその場によろめき片膝を着いた

日々、当たり前に存在していたものを失いかける窮地がこれほどまでに身を切られる思いだとは・・・



「どうした?」

何も知らずに気遣う問いかけに心苦しく、全身が竦めば望むように応えられず

「帰るのか?」
黙するればさらに返事を求められ、それが誘いの言葉に聞こえてならない

帰るつもりだったんだろう?・・・
自問自答してみる
無謀で不利な状況であるには違いなく
この期に及んでまだ自分を信じることをできないのだろうか

自分の人生など堕ちるところまで堕ち、もう失うものなど無い・・・
そう自覚していたつもりなのに
いざ迷いの岐路に立たされ僅かでも自分に残っているものがまだあったと
こんな状況で実感することになろうとは皮肉なものだ

「静那?」
名を呼ぶ愛しい声
私欲のために身を持ち崩すつまらない人間だったと蔑視されても反論できない自分をどうか呼ばないで欲しい
思い返しても裏切られる立場には一度も置かれたことがない
なのに、これから自分が冒そうとしている事態は主への背徳行為のほかなにものでもなく
呼びかけに応えられるはずがない

あらゆるものを排除し続け、穢れないよう守り通すことは永遠には不可能だ
そして・・・
何度も何度も心の中で唱え言い聞かすことで今の脆い自分を支える
どうやら痺れを切らしたのか、朋樹がこちらに歩み寄ってくるのが気配で伺える
来るであろうと、この短時間に予測はできていた

扉に手が掛けられノブがまわる寸前に
目を伏せ顔を背け、こんな迷いだらけの本心を悟られないよう慌ててに取り繕う

扉が開くと浴室の湿気を帯びた温かい空気が脱衣室へ一気に押し寄せ、鏡自身を包み込み、
同時に本性を隠すための眼鏡が、温度差で一気にくもり視野を塞いだ

目の前に立つのは精悍で端整な顔立を、鍛えられた実用的な筋肉質の体型を、
そして男の魅力を憎いほど持ちあわせている
愛しい・・・人

鏡が決して見劣りする体をしているわけではない
細身ながらも均整のとれた美観のプロポーションはその比較に及ばない
浴室から脱衣室に一歩踏み出した朋樹の片足は床に水滴を散らし、
日の疲れを洗い流したボディソープの香りが柔らかに漂っていた
そして、差し出す腕がすーっと鏡の目元へ伸びる

「な、何をっ!」
濡れた指先が肌に触れる、レンズのくもりを拭き取るより早くその手がフレームにかかる

「気に入らんな」
「朋樹さん!」

眉尻を上げ、少し機嫌を損ねながら立ちはだかる朋樹の手には、すでに鏡の眼鏡がおさまっていた
不意の事で、頑なに言い聞かせた自分への支えなど跡形もない
見慣れていても、うっかり近距離で更にはライトの下で煌々しく
今や心のほとんどを占領している張本人の裸体など見せ付けられてはひとたまりもない

「返してください・・・」
俯きながら悪戯に取り上げられた体の一部の返却を要求してみれば

「日樹と同じ・・・本心を相手に見透かされないために眼鏡でベールを作る、違うか?」
あくまでも装飾品には大した興味もわかないらしく一度確認したそれはすぐに手元に返された

「・・・・・・」

当の本人に至っては恥じらいもなく、全く堂々としたものだ
目のやり場に困りながらも鏡の頬は上気して染まり、そのことに気づかれまいとすれば
自分の裸体を見せているわけではないのにいっそう羞恥心を煽られる

「それはあくまでも外部からの要因だな」

レンズ一枚でも印象が変わるものだ
しかし、ここまで他人を読み取れる人間が、こと自分のことになると手薄になる域があることを
自覚できていないのが残念だ

「だが静那、お前にしてみれば見せたくないというよりも、見たくない・・・
その気持ちの方が強いんじゃないか?」
耳元へ囁かれる朋樹の声

「まだこだわっているのか」
「朋樹さん・・・」

「そ、それは・・・・・・いえ」
迷い、否定できないしこりがまだ体の奥隅に残っているにも関わらず裏腹に答え
取り返しのつかない過去をいまだ拘っている自分を再認識させられる

「責めているのではないぞ」

そう、
別段、朋樹に責める様子は見受けられないが
寛大な恩恵、慈愛を注がれながらも触れられてはまだ微かに痛む胸の片隅

「過去など塗り替えられないのだからな」
「わかって・・・います」

言われるまでもなく、ことの全てを全部承知で自分を受け入れてくれた
未来への兆しを絶たれ、自虐的で人間としての感情を捨て去った人生を送っていた自分を知るこの男から
瞬きもせず鋭い眼差しを向けられれば偽りなどすぐに暴かれてしまう

コンタクトに替え視野の障害になるフレームやレンズがなくなれば、きっと今以上に視界が開ける
囲みの中の世界が開放されれば、同時に飛び込んでくるものを受け入れなければならなくなる

その勇気がない

一度手に入れたもの、それを失う時が必ず訪れるということを
嫌というほど思い知らされた今だからこそ敢えて自分で囲みを作っているのだ
自力で守れるものだけを小さな世界にしまい込み、それ以上のものには一切目もくれず、気にも留めず
自分を殻の中に閉じ込めてしまった
それこそが傷つかず自分を守る一番簡単な術

朋樹はそうしなければならない鏡の事情を承知していた
一糸纏わない姿、鏡の目の前にいる朋樹は先ほどまでシャワーを浴びていた
見せつけられる雄雄しく眩しい肢体に、脈が激しく打つ
高鳴る鼓動とともに自分の体の一点に欲望の燻る熱が集まりはじめている

欲しがっている自分
以前なら、どんなにささやかな言葉ひとつでも満足できたのに
今となっては随分と強欲になったものだ、と鏡は愚かな自分を戒める

「求めてくればいい・・・」
労わりを含めたいつもと変わらぬ声で誘い呼ばれれば体が疼く
自分の醜さを隠そうと意識的に身をかがめれば、さらに囁かれる誘いの言葉が目の前で手招きする

「何を躊躇ってる? ふっ・・・ そんな体では帰れまい」


早々に変化してしまった体も勘付かれている
何もなかったように、いつもと同じプライベートで見せる慈しみ深い瞳が、
先ほどの茶番など、もう水に流すから
そんな余裕にさえ伺える

「・・・最近かまっていただいていませんので・・・」

とても誤魔化せる相手ではない
こうなっては開き直るしかないだろう
無理と皮肉たっぷりで返せば、自慰でこと済ませるはずのない鏡を知る朋樹が揶揄した物言いで嘲笑する

「それなら、自分で処理すれば済むことだろう」
売り言葉に買い言葉

「自分で慰めるより相手が居た方が良いですから・・・」

精一杯の反論、だが朋樹は鏡がこうやって挑んでくるのを楽しんでいる
ここまで誘き出されれば、もう逃げ場などない

こんな体を晒してしまえば嘲笑われてしまうのではないかと
ネクタイの結び目を解き、朋樹が見届ける前でワイシャツのボタンをひとつ、そしてまたひとつ外していく

じっと見つめる双眸の下で身を剥いでいく
自尊心も何もあったものではない
虚勢を張りながら晒す姿はあまりにも惨めだ
滑稽すぎ、冷静な自分に戻る瞬間ボタンを外す手が止まる
情けない・・・

「どうした、途中でやめるのか?」

せめて、
「見ない・・・ください・・・」
それで精一杯だった
前身のはだけたワイシャツから胸元が露出している
こんな時にでも遠慮深けな要求しかできず、主はそれも耳に留めず聞き流すだけ
中途半端に脱ぎかけた状態というのは、恥辱的で相手を楽しませてしまうようだ

愛しているからこそ、安住を求め続けてきた
だから、これが初めての逆らいになる
最後の砦だけを守り抜くと決め、それがどんな顛末を招こうとも・・・
胸の内で何度も繰り返す鏡はワイシャツ地の裾を躊躇いがちにギュッと握り込めた

いささか痺れを切らしたのか、動作が緩慢になっている鏡に朋樹がからかうような笑みを向けてくる
そのはず

「すっかり体が冷えてしまったのだが」
「・・あっ・・・」

気づかなかった
いつまでも自分を根気よく待ち続けていた
湯でほんのり紅く染まった皮膚の色も冷めてしまい
見れば朋樹の体から発する湯浴み後の余韻も、室内に立ち込めていた湯気も
もうこの空間内からいっさい消え、浴室内は鮮明に見渡せる状態になっている

滴っていた水気もすっかり渇き、いまも徐々に体温を奪われている朋樹

こんな時だろうが気配りできなかった自分がひどく許せない

「手伝うか?」
「・・いえ・・・」

再び朋樹が手を差し伸べてくる
今まで何度も当たり前のように差し伸べられてきたこの手
その温かさ、心地よさと強さを知っている
思い返しても常に極上の待遇で扱われていた自分
だが、相手が差し出してくるのを待っているだけでは等式は成立しない
自分が相手に差し出すことができ、そして差し伸べられる・・・そんな関係でなければならないのだ

いつかこの人に自ら手を差し伸べられるときが来るであろうか

逸らさずに見据える視線を受けながら床に散らしていく着衣
屈服し、いよいよ身に纏う最後のものに手をかけ脱ぎ捨てれば
欲しくて、欲しくて抑えていた欲望が恥らう気持ちを押しのけ一気に剥き出しになる


マンションは外観に派手さはなくとも落ち着いた品のある趣深いレンガ色の建物
ともに、内装には凝ったユニバサールデザインを取り入れてある
その上、朋樹の自宅には細やかなこだわりがあった
住居とした当初、鏡もここで暮らしていたのだが
朋樹が取り揃えたこの居住空間に、僅かだが鏡との生活が考慮されていたのも事実

浴室は御影石の床、人造大理石の広くゆったりとした浴槽に真っ白なタイル張りの壁
どれも朋樹の好みにデザインコーディネイトされたもの

黒く艶めく床張りに対照的な壁材は純潔の色
清廉潔白で潔い朋樹にふさわしい

それなのに・・・
煩悩を捨てきれずこれからここで場違いな行為をいたそうとしている

猛り立った恥部を晒す醜く欲情した体
朋樹は満足そうにややしばらく上から下へ、そして下から上へと繰り返し眺めていた
当然のこと、眺められる鏡は堪り兼ね疼く一方だ

「体は素直だな、静那」
朋樹から笑いが漏れた

「・・・そうです・・」
認めるしか返す言葉がないサカリのついたこの体

「もういいか?」
「あっ・・・」

急なことに、グイと掴まれた手首ごと体を持っていかれ
その勢いで浴室へ身を放られる
体格差はない、腕力の違いは比べなくとも、共に費やした時間が嫌というほど知らしめてくれている
何度となく抱かれたその腕・・・

懊悩としながらも後ろ手で、密室にするためドアを封じた朋樹に引き寄せられ
背中から両腕で抱き竦められれば隙間なく重なる互いの体を慈しむ

「静那、仕事も人間関係も同じだ」
耳元へ吹きかかる息が、囁かれる声が、この先永遠に全て自分だけのものなら良いと
どれだけの月日を思い忍んでいただろう

「・・・・・」
「互いが向上するという良いバランスを保たなければならない
どちらの気持ちが欠落しても駄目だ」

捕らえられた我が身が解放されることはないと、すっかり身を預ければ朋樹の逞しく打ち響く心音が伝わってくる

「そして持つべきものは過信ではなく自信・・・」

履き違えてはならないことと強く、なぜこの時にそんな話を持ち出すのだろうか
今すぐ振り向いて、その表情を伺えば真意が明らかになるのにそれができない

全てを見透かし、立腹しているなら蔑む視線を
それとも、全幅の信頼を委ねた秘書の裏切りに悲哀の瞳を向けているのか
鏡が交錯する思いの中、朋樹は続ける

「私たちは対等か?」
心なしかトーンを控えた問いかけ

「・・・・」
否定してしまえばいいものを、己の心中を察してくれるのを待つように俯いた

対等なわけがない
そうなるはずがない

欲情しています、と
いやらしく理性を失った体をあからさまにしているのに、堂々とした体躯を見せつけられるだけ
朋樹にいったっては平然と心揺ぐことがないようだ

「未だ過去へ拘るお前がいる、心外だな」
朋樹は鏡の腰からまわした腕を下肢へするりと忍ばせ
迷わず目指すものをダイレクトに触れる

「・・っ・・・」
硬くなっているそれは、数日ぶりに受ける刺激を堪えきれず、鏡は押し殺した声を漏らしてしまう
だがそれも一瞬のこと
弄るでもなければしごきあげるでもない
微かに触れる程度に下から上へ一度指先を流しただけ

それが逆に焦れて焦れて仕方がない
放出感を味わいたくて、もうずっと体が求めているのだ
重ね合わせた相手の体温と、自分の体温がひとつに溶け合う
密着した体を今すぐ払いのけようとしてもそれができない

「・・・ん・・っ・・」

閉ざそうとする唇からどうしても甘ったるい嬌声が飛び出してしまう
女性を相手にするような行為を強いられようが、男としての機能を持ち合わせいるその先端が
直接受けた刺激で潤いだす
そんな様子も、色も形も朋樹にははっきり見えているはずだ

「どうした?静那」
「・・・や・・めて・・くださ・・い・・」
堪えるために歪めた視線で振り返り見れば、戯れを楽しみ何も恐れない朋樹の眼差しにぶつかる

「やめる? どうして?」

懇願など受け入れられない
一度下りていった指先が余裕を見せ付けて戻り、今度は胸元を這い
同じように乳首を掠める

「ああっ・・・」

羽毛の先で手緩く弄ぶように動き回る指先に益々焦れる
焦れて、煽られて、疼いてどうしようもなく、うっかり自分の手を運ばせてしまいそうになる

次はどこを弄られるのだろう
腰を引こうとしてもがっちり拘束された体は逃げ場がない
日頃どんなにストイックに振る舞おうがこのままこんな行為が永遠と続けば、箍が外れた自分が
たとえ朋樹の前であろうと、本当は淫らなのだと知らしめてしまうことになる

上気した鼓動に脈、細切れに荒れた不規則な吐息を散らし、体が求めて止まない

「早く忘れてしまえ!」

命令的に口にした朋樹のもう片方の手が
勢いよく下腹部に滑り込み、敏感な肉肌を掴むと
巧に指先を動かし始める
すると卑しく起立したそれが更に質量を増し、指腹に淫猥な音を立てはじめる


意識的に強く言い放ったのだろうか?
朋樹の手元が自分の下腹部を刺激し、性欲を煽る音がしきりに聞こえ続けているのに
一時正気に戻り冷めた自分がいた

過去に未だこだわる自分に対する嫉妬?
まさかそんなはずがあるわけなかろう
常に躍進的な心構えでいる人間にとって過去から脱せない人間こそ一番に嫌悪される
だから対等になれない、と
どこかで認められない今の自分が浮き彫りになっている

「・・・ぁうっ・・とも・・・・」
「なんだ静那?」

欲情を誘っておきながら、背後からわざとそ知らぬ素振りで揶揄する

続けざまに女のような嬌声を発した鏡に女性らしい面影がないとはいえない
細い眉線にどこか優しげなパーツの揃った端整な顔立ちは、品格を持ち合わせた優男
だが仕事に勤しむ彼を知る人間なら、こんな物欲しげに縋る彼を想像できはしないだろう

身じろぐたびに揺れる髪が、朋樹の慎みない嗾けで乱れていく鏡に色を添える
「・・んっ・・・あ・・・」

早く忘れてしまえ!
口にするのと同時に朋樹の指先が鏡を強く攻め立てた
括れを握り先端にぎゅっと押し付ける1本の指先の刺激が
下肢をひくつかせ背を仰け反らせる

「く・・っ・・な・・・にを・・・」
ゾクリと全身に旋律が走り乱れた息が漏れる
途切れる言葉に眇めた瞳で見返せば

「いつもと変わりないだろう?」
射抜く眼差しは余裕を見せ続ける

「・・・と・・朋樹さ・・・ん・・・」

この行為が嫉妬によるものならどんなに悦ばしいことか
触れられてその熱を自覚し驚くのも一瞬のことだけ
微妙な動きを繰り返す指先は、快楽の蜜を溢れ出しては焦らすように離れていく
もっと、もっと奥まで捻じ込んでほしく、逃げていく指先をねだり
鏡が朋樹の首に腕を絡ませ求めると、急に体を回転させられ壁際に押さえ込まれる

二人は向き合った

「自分から求めてみろ そして・・・」
なぜか途切れた言葉の端に、今までに見たこともない朋樹の表情を窺い知る

「静那、一度決めたのであるなら最後まで隠し通すものだ」
「・・・・朋樹さ・・・」

私は貴方への恩を徒で返してしまいそうです・・・
そう伝える前に唇は静かに塞がれていた
拒む気もなく受け入れた朋樹の唇は何度も位置を変えながら鏡に優しく触れるだけ

対等になりたい
どれだけそう思っていたか


私だけが知り得る貴方・・・
完璧でありながら貴方自身が見えていない
絡まった糸はひとつひとつ解いていけばいい
そしてどうしても解けなければ・・・

最期は切り離してしまえばいい


朋樹の唇を離した鏡が、今度は自ら朋樹を求め始める
首筋から肩越し、そして・・・落ちていく接吻

鏡は朋樹の前に跪く
いつも自分を穿つその場所へ

愛しい人の愛しい体の一部へ両手を差し伸ばす

いまさら躊躇などない
何度も何度も挿し込み突かれ、こよなく愛されながら同時に淫らな自分へ転身させられる
悦楽の時を、高揚感を味合わせてくれたもの
契りあった日々に陶酔した瞳で頬擦りし、鏡は触れた朋樹の性器をゆっくりと口に含む

誤魔化そうにも止まらない辱かしい音を立てながらしきりに舌を動かし始める
どこをどんな風に慈しめば良いのか我が身が心得ている
いつもは自分がこうしてもらっているのだ

早く貫かれたい・・・

それでも人並み以上に鍛え抜かれた筋骨に相応しく、
付随するそれも平常心でいながら、視覚も触覚からも十分なほどの魅力を持ち合わせ
大胆なもてなしに少し驚いた表情を浮かべながらも、朋樹は好戦的な瞳で受け迎える

「口淫か・・・フッ・・珍しいな・・静那」




どこまでも余裕を見せる朋樹に対し、
含んだものを舌で貪りながら奉仕する鏡は主人に贖う下僕のようだ
だから絶対服従・・・
刺激を与えているのは朋樹ではなく鏡自身のはずなのに
口に含んだ朋樹の性器と一緒に自分のものまでが共鳴していく

「・・・ん・・・んっ・・」
「どんな心境の変化だ?」

体中から発する熱、時折漏れる吐息
今、性器を咥えた唇は何を聞かれても答えることができない
鏡は少しだけ首を左右に揺らす
思いが強くなれば口の中の絡みも激しく強くそして、密接になり
二つに割れたその合間に滑り込ませた舌で執拗に深く攻めいれば苦味が広がり
少しずつ朋樹が高鳴っていることを察する

「何が・・・お前をそうさせる・・・?」

貴方しかいない・・・
鏡の姿は物乞いをする様でもあり、主に贖罪する姿にも窺える

欲しいから・・・
そう一言だけ伝えたい

悔いのないように
無心になることを心構え、隅から隅まで舌を這わせる
どのあたりが敏感なのか、刺激を与えてやれば反応するか
微かに身じろぐ朋樹もそれを隠せずにいる
体は正直だ

「・・・静那・・・・」

眇める朋樹の眼差しを確認し
もっと、もっと・・・
自分を弄りたいのをひたすら抑制し、添えた指先で擦りながら鏡はなおも奥深く貪り続ける
咥え込む角度を変えるときに溢れる水気を帯びた音
唾液にまみれ徐々に硬さを増し、すでに鏡の口の中いっぱいに猛りきった朋樹
冷静な男も、すでに息遣いが荒く乱れてきている

「・・・っ・・」
歪めた口角、初めて朋樹の唇が喘ぎ揺らぐ
堪えるに至らなかった

「・・・せ・な・・っ・・・」
鏡の髪を梳いていた手が止まり、そのまま力を込め固定される
わずかにひいた腰、冷笑する面差しだがそれは十分に欲情しきっている証拠

『珍しいな・・・』
つい先ほどの朋樹の言葉を思い返す
その通りだ
いつも尽くされることばかり、だから今宵はこうしたかった

これで満足だ

ようやく猛りきった朋樹を解放すると
ズルっと口元から離れた性器が艶かしく視野に飛び込んでくる
いままで自分の口腔内にあったもの
光度を落としたバスルームの灯りとはいえ、あまりにも露だった

「・・これで・・・対等です・・・」

互いを求め合うのに十分な前準備

「そうだな・・・それとも、このまましばらく続けているか?・・・」
「いえ、私の方がもちそうにありません」

陥落・・・
鏡は膝頭を浴室の床に落とす
そうだ、いくらストイックとはいえ無体な行為を続け過ぎてしまった

「それは残念だ ここから眺めるお前の姿も、なかなかだったが」

羞恥に頬を染める鏡に間髪与えず、クッと笑む朋樹の両腕が鏡を引き上げる

「・・・なっ」
「寝室へ行くか?」

寝室なら時間をかけ二人が愛し合え、果てればそのまま眠りにもつける
だが、

「いえ・・・ここで・・・・・・もう」

限界だ
抑えていなければどうにかなってしまいそうだ

「今すぐに・・・」
「静那の望むようにしよう」

わざとけしかけ試そうとする自分がいた
目で見えない、手で掴めない心の中を確かめたかった
見せ掛けだけの関係などいらない
偽善ではないと信じていたいだけ

心を開いていないのは自分なのかもしれない
躊躇いはいらない
いずれ壊れてしまうものならば
確かめれば良い
たとえ今宵が最後の夜になっても・・・・・・

朋樹の両腕が鏡の頬に添えられる
これからが渇望を癒す時間

夜更けになお静まらぬ心
浴室の床は冷たく、熱る体を中和する
そして、シャワーの冷水は行為の後の体をクールダウンさせ再び現実へと引き戻す魔術




貴方の大切な義弟の人生を捻じ曲げてしまったのは
身を委ねた私なのかもしれない・・・
あの日、彼が見てしまった私たちの行為
それに気づきながらも

     貴方に伝えなかった・・・




繋がっていたと思われた糸も
実は初めから繋がってなどいなかったのかもしれない










朋樹の代理で日樹を病院から連れ帰り、マンションで引き続き業務に就く鏡
心持ち、少々学生の自宅謹慎のようだが、こんな風に一線から離れた任務も昨日の今日には有難い取り計らいだ

病院から出た時にすでに陽が射すように肌へ照りつけていた
今日は朋樹にも外出の予定が入っている
今頃同じようにこの照りつける陽射しを感じていることだろう

移動には車を使う、勿論車内は冷房が効き快適だ
しかしながら車を降りた瞬間、アスファルトの照り返しにはうんざりさせられる
こうして都内を離れたこの地にはまだまだ緑多く自然が残り、林立する高層ビル群もない
むしろ直接受ける日差しが爽快にも感じられる
これから正午過ぎになると更に陽も高くなり気温も上昇するが
バルコニーから奥まった室内には
陽も差し込まず、幾分外気より気温も和らぎエアコンなしでも過ごせそうだ

日樹への気遣いも万全であることが仰せつかった任務のうち

体の気怠るさに反し、心は穏やかだった
昨夜、浴室でことを始め
寝室に入り、触れる肌に再び欲情をそそられ
眠りに就いたのは夜明け近く、もう辺りが白む頃

自分と示し合わせたかのように、いつになく激しかった朋樹の愛撫に
強く弄られ吸われた乳首がヒリヒリと痛み、まだ紅く熟している

一度、二度・・・何度達しただろうか
飢えて渇いた体を満たすには十分で最後の射精はもう感覚が麻痺していた
その後なだれ込むように寝入ってしまった二人
なのに、数時間の仮眠を取っただけで朋樹はいつもと変わりなく、何事もなかったように出て行った

鏡は胸元に手を忍ばせる
いつもなら薄手のワイシャツ地、しかし業務を離れたオフの今日は
幸いにもカジュアルなポロシャツを纏っているため、それが透けることも刺激を受けることもない


万事、事が全て良い方向へ向いますように・・・


鏡の脳裏には、自室に戻った日樹
そして自分の一番近くに存在する朋樹
両人の光輝な将来を願わずにはいられなかった


本社秘書室、朋樹の重役室、どちらも静寂で業務遂行には申し分ない
しかしこうして一人で身を置く時間が自分に一番適しているような気がしてならないのは
もうずっと一人で良いのだと自棄に思っていたからだろう
人間とは勝手なものだ
一度手に入れ慣れ親しんでしまったものを切り捨てるには堅い決心と多大な勇気がいる
だが、何年もかけてようやくその踏ん切りが着けられる時が来たようだ

鏡は、キーボードの上で止まっていた指先を動かし始める
PCを本社サーバーに接続して知る事実

「こ、これは・・・」

昨夜、朋樹が保存し忘れたと思われるファイルがぬかりなくバックアップを取られていた
鏡自身が保存をかける以前、恐らく朋樹が席を立つ間際のこと

「フッ・・・」

やはり自分が惚れこんだ完璧な男に手抜かりなどなかった
まんまと相手が自分よりうわてだったとその瞬間思い知る
踊らされていた、いや自分だけが勢いこんでいたのだ
苦笑がもれるものの感傷に浸っている場合ではない

PC下画面のタスクバーにメール受信の知らせが入ってきた
リアルタイムで受信される情報には常に気を配らなければならない
メールソフトを開くと2通の新規メールを受信していた

1通は、同期入社で知的財産管理室の田中からのものであった
同期入社といっても大学時代の先輩後輩という朋樹の縁故で入社した鏡とは違い
同期の中でも彼は紛れもなくエリート中のエリート
それゆえ特許がらみを仕切る小難しい業務の重要セクションに配属されている
自分を過信することなくその人柄は誰からも信望を集め、いずれ社が次世代に継がれる頃
彼は間違えなく重要ポストに抜擢されるだろう

「田中・・・?」

社内でも滅多に顔を会わすことのない彼からの内容は・・・

“ 同期会のお知らせ  期日・場所 〜・・・・ ”

開催日は今週末と記載されてあった
鏡はテーブルの上の万年筆をとり、要約を手帳に走り書きをした

そしてもう1通は、社長秘書である緑川秘書室室長からのメール
送信は定時出社後まもなくのようで、重要度が『高』に指定されている

『 ・・・・諸藤朋樹氏より、しばらく貴公を業務から外してほしいとの要請あり
  
  よって鏡氏には新人教育、OJTの方へ勤しんで頂きたい・・・ 』


心の片隅で、いつか有り得る事実と認識しながらも

    いざ目の当たりにしてみれば動揺を抑えることができなかった・・・


向暑・中編
激暑