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向暑(KOUSYO)中編



外は宵闇
診察時間も終わり面会時間を終わろうとしている待合ロビーは照明も落ち非常灯だけと
薄暗く静まり返り人影も見えない
面会人及び来客の出入りはこの時間になると警備員室のある裏口からとなる

ロビー片隅に設置されたジュースの自動販売機
時折モータが唸りだす音とその灯りだけが皓皓とその位置を主張している
院内を清掃する業者の人間が日中は患者でごった返すロビーに今日一日のドラマを思い描きながら作業を始める

大学付属病院となれば来院患者数も半端ではない
救急で搬送されてくる患者
長い入院生活に仲間と病室を抜け出て気分転換のひと時を過ごす患者
ロビーで恋人との面会、全快しての慶ばしい退院,、避けられない悲しい別れ
ここには日頃健常者にとっては全く無縁の世界が存在し、それぞれのドラマが絶え間なく繰り広げられている

ここ数日間、このロビーの決まった位置の長椅子に深く腰掛け
面会時間が終わるまで、ただじっと一人過ごす少年を目にしていた
闇の周囲に同化し、気配の無さについ見落としがちだが確かにその存在はある
場所だけに、この世のものではないのか?と 思わず息を殺して見つめてしまったこともある

まさか・・・そんな時間にはまだ早すぎる
注意を払えば僅かに体勢も変化している
安堵してもう一度見直せば、この近辺で見かける学生と同じ制服
間違うことなく生身の人間だ

誰かと待ち合わせをしているのか、それとも面会者の付き添いだろうか
相手がよほど重病で、ここまで来ながら面会を許されないのだろうか
こんなことが何日も同じように続けば否が応でも気に留めてしまう

普段なら、すれ違う患者や面会に来ている子供らに声をかけたりするのが仕事の合間の楽しみだったが・・・

耳を澄ませば闇の静寂の中に、瞳を閉じたままずっとその場から離れることなく
毎日同じ場所で変わりなく時間を過ごしている彼の息遣いだけが聞こえてきそうだ

いつもなら彼が帰った後、彼が座っていた辺りの拭き残しをモップがけし、それを最後にその日の仕事を終えていたが
今日は孫との約束があるため早く仕事を切り上げたい

少年が気配に気づいたか、ゆっくりと瞳を開き無表情な顔でこちらを伺ったのを機に
いつものように声掛けをする

「毎日いらしていますね
どなたか入院されているんですか?」
 

    大切な人・・・


その方にお逢いにならないんですか
それとも
お逢いになれない状況・・・ですか?


    同じ空間に・・・
    身を置くだけでいいから
   

言葉をかわしたわけではない
彼の心が流れこんでてきたのだ
大切な人・・・
その “大切な人” に貴方の気持ちが伝われば良い

 「早く良くなられるといいですね」

そんな思いを込めたった一言伝えると、彼が少しだけ安らかな表情をしたように感じられた
真っ直ぐ向けられる彼の瞳が、暗闇でたよりの非常灯の光を吸い込んだ深い色の瞳が
穏やかで温かな色にうつり変わった








「・・・暑い・っ・・」

第一声、病院正面玄関の自動ドアを通り越え、外に解放された瞬間
思わずそう囁いてしまった

見上げた空は雲ひとつなく、肌を照らす陽射しがじっとりまとわりつく
湿度を多く含んだ空気はやや重い
院内の快適な空調の中で過ごしていた一週間
外気に晒された日樹の肌は気温の変化に対応できなかった

胸ポケットの携帯電話の電源スイッチをONにし、電話を掛けはじめた鏡
コール数回で相手が出たらしく
「今、病院を出るところです・・・・はい、わかっています・・・では」

手短に用件を済ませると、再び携帯をポケットに戻しニコリと振り返る
「このところ晴天続きで、随分蒸し暑くなっていますよ」

片方に日樹の入院中の小さな手荷物
もう片方の手の平を空に翳せば、そこから漏れた陽光がメガネのレンズに反射する
今しがたの電話の相手は義兄の朋樹だろう
こうして義兄の秘書である鏡は常時、朋樹と密接に連絡を取り合っている

入院当日は、あいにくの雨だった
週明け、雨の月曜日に生徒達が重々しい気分で登校しているころ、日樹は自由を得る為にここへ向っていた
その引き換えに、今までやんわりと自分を守ってくれていた見えない盾を失うことになる

「朋樹さんも、今日は早めに戻られるとおっしゃってました」
「・・・相変わらず、ですね」

今までに何度となく交わされた同じようなセリフ

「ええ・・・今、新しいプロジェクトの話が進んでいます
   その会議をどうしてもはずせないので、今日は私が・・・」

多忙な義兄
無論、社長である父の後を継ぐことになるのだから、あらゆる会議の席をはずすことができない
その義兄と日樹が一緒に暮らすようになってから約1年が過ぎ、
朋樹は自分が自宅を留守にするようなことがある折りには必ず鏡を代理で置くように配慮していた

その有難い配慮も日樹にとっては “監視” そう、身に感じてならない
駐車場へ向う鏡の足取りは日樹を気遣い少しゆっくりとしたペースだった
義兄より少し低い背丈
いつもなら鈍色のスーツに身を固め、規則正しい皮靴の音を立て歩く鏡も
オフとなれば容姿もそれなりに砕け、藤色の開襟シャツに白のスラックスは清廉知的な彼らしく
細身でありながらも着衣の中身は鍛えられた肉体が存在することも幼いながらに記憶している

義兄が最も信頼し、その全てまでも知り得ているパートナー

「この時間、駐車場はどこも満車で一番奥のスペースになってしまいました 申し訳ありません少し歩きますが・・・」

「大丈夫ですよ」
心配には及ばないと
陽に透ける髪を揺らしながら日樹は首を横に振った

退院手続きが終えた午前10時半は来院患者が殺到し、
駐車場スペースもほぼ埋め尽くされている
とはいえ、鏡が標す場所まで実際大した距離ではなかった
すでに見慣れたワインレッドの車が整地された駐車場の木陰すぐ横に停まっているのを目に留めている

朋樹の車

わざわざ正面玄関に横付けでは大げさすぎる

「大丈夫ですか? 」
眼鏡越しの視線が日樹の足元へ移り、日樹はそれに頷く

別段何も変わりない
骨折していた部位に埋め込んでいた整骨用の金属を取り除くため
今回の手術は大腿部より上、足の付け根裏辺りに4針の傷を残したものの少し攣れた痛みがするだけ

それよりも日樹は不可思議に思い、いち早く鏡に確認したいことがあった
そんな心情を鏡に見抜かれたのか
まるでこちらの思いを見透かしてる笑みにも疑えた

「日樹さん、どうかしましたか?」
鏡から聞き訊ねてきた

ゴゴゴォッー

轟音を響かせ上空を旅客機が通過する
壮大な青空に白銀の機体が交わる様子は
雄大な姿とともに天空を飛翔し、人々の心を異国の地へ馳せる
何度目視することがあろうとも、ついまた目を向けてしまう

しばし響く唸音に話を中断されながら
日樹と鏡も例外ではなく、二人の瞳は高く空を見つめていた

ここから更に東へ下った国際空港へ向うものか、その方向から飛び立ってきたものであろう
最も空港寄りの地になると、高速道路を低空で横断する旅客機を望め
運良くそのタイミングに出逢えれば誰もがスリリング、迫力を超えた感動の一瞬を味わうことができる


入院して三日目、面会時間終了間際に病室へ飛び込んできた拓真
その拓真とバッタリ居合わせた鏡、
この事実は間違えなく義兄、朋樹の耳に入っているものだと思っていた

なのに・・・
部活帰りに立ち寄る拓真が、この鏡や朋樹と一度も行き会うことがなく
言い換えるなら、義兄達がその時間を意図的にずらして面会に来ていたような気さえする
偶然にしてはできすぎた話だ

部活を終えてから大慌てでやってくる拓真
そのわずかな時間を日樹も心密かに待っていた
拓真と過ごす短い面会時間が、重苦しく締めつけられている日樹の心に精粋を注ぎ込んでくれたが
その間にも、いつ朋樹が目の前に姿を現すのではないかという微かな不安を抱かずにはいられなかった
だが、それが無駄な心配に終わったということに安堵するわけでもなく
むしろ不安を煽られるのだ
朋樹がこの状況を黙認するには何か裏があるのではないか、と
詮索をしては別の不安を湧き起こされる

義兄が拓真の存在を知れば、まずそんな緩慢な事態は認められない
かつて自宅マンション前で、帰宅した朋樹と鉢合わせになってしまった時の
拓真への目に見えぬ仕打ちを考えれば益々腑に落ちない

日樹に近寄る “男” と名の付く生き物を、朋樹は許さない
あの時の朋樹の外見とははるかに異なった内面を誰が知り得ようか
穏やかに接する表面とは裏腹に、血流と一緒になり体中を流れ廻る怒涛を隠していた朋樹
拓真が気づかぬとも、傍にいた日樹は強く身にこたえていた

義兄が執拗に自分の周囲を警戒していること

「・・・鏡さん・・」
聞いたところで真実が返ってくるだろうか
それでも今、この場で確認しておきたい

「何でしょう?」
事務的な返事
ビジネスでは他人に腹のうちを読まれないような立ち振る舞いを要求される職務に就く鏡は
感情を表に出さずあくまでも常時クールな表情だ
尚更のこと、眼鏡越しでは瞳にベールがかかり彼の心理を見透かすことができない

「義兄さんには伝えてないんですか・・・」
「・・?・・・何を・・・ですか?」
知らぬ振りをするわけではなく、鏡には日樹の問いかけの真意がわからなかったようだ

実際、不眠の苦しさに堪えかね睡眠誘発剤を飲用していたことも
この鏡を通じ義兄に知れてしまったことは記憶に浅い

「あの日・・・拓真君と・・」
「・・・拓真?・・・・」

威圧する朋樹へ怯まず自らを名乗った拓真
その横に鏡もいたのだから、鏡と拓真の面識は二度目になる
仕事柄、多くの人間と接する機会の多い鏡は洞察力、記憶力ともに優れ
そんな鏡が拓真を忘れるはずなどない

しばらくの間をもち、上向きの視線を日樹へ戻した鏡
「あぁ・・・、あの少年のことですか・・・」

覚えていないといえば嘘だ
案の定、鏡の記憶の中に拓真は存在していた
それもたった今思い出したような口ぶりは、一度何かを躊躇ってからだ

「義兄さんへは伝えていないんですか・・・」
「彼は・・・純粋そうな良い少年ですね 」

日樹に微笑し答えをはぐらかした
義兄が今動かないということは、この鏡に全てを一任している可能性もある

「鏡さん・・・義兄から何か言い付かっていますか?・・・」
「・・・いいえ・・・」

相変わらず表情ひとつ変えない鏡

「だったら・・・拓真君のことは・・・」
返事はかわされる、わかっていても聞かずにはいられない
また自分を見失ってしまいそうで自分の知らないところで義兄やこの鏡が動くのは嫌なのだ

「・・・さぁ、日樹さん 帰りましょう」
上手く宥め抑えられてしまった
かつて大好きだった義兄
その義兄が、いつかこの鏡にとられてしまったと漠然と思ったこともあったが
その話はもうこれで終わりだと言いたげに、鏡はすでに朋樹の愛車へと足を向けていた






       目をソラシテモ

               イイデスカ・・・




高原が、そして拓真がそれぞれの想いで日樹を訪れた
二つの異なる時間を過ごした空間、今出てきたばかりの病棟に別れを告げるため
日樹はもう一度振り返る




パタン−
日樹が乗り込んだ後部座席のドアが閉まるのを確認すると、鏡は車を静かに走らせ始めた



病院から自宅までの距離は、車で平行して走る私鉄一駅分
渋滞に巻き込まれなければ、たかだか5分しかかからない

カーオーディオから朋樹の好みの曲が流れていた
車の中での会話は一言二言
会社が現在携わっている新プロジェクトのことについて鏡が一方的に日樹へ語っただけだ
まだ未成年の高校生とはいえ日樹も朋樹同様、社長の息子にかわりなく
今から社の内情について少しでも関心を持つように心掛けさせたい
そんな意味合いもあり朋樹にしろ鏡にしろ、日樹には日頃から小難しい話を聞かせている
勿論小さい頃からの生活習慣もあり、賢い日樹のこと
全てをスムーズに受け入れ理解するのは容易だった

「先にお部屋へ戻っていてください」
自宅マンションのエントランス前で日樹を車から降ろすと、鏡は建物地下にある駐車場へ車を移動させに行った



一週間ぶりに足を踏み入れた自宅
病院へ迎えに来る前、鏡が部屋の窓を少し開けておいてくれたのだろう
こもった不快な空気は感じられず、
玄関ルームに足を入れた瞬間、外気の蒸し暑さとは異なる冷んやりとした風が主を心地よく迎え入れてくれた

自宅はマンションの5階
立地が道路沿いにあるおかけで、ベランダからの侵入は人目につき不可能だ
無用心かもしれないが多少の時間なら窓を開け放っていても心配はない

まっすぐリビングルームへ歩けば白で統一された明るい部屋は静まり返り、
時折カーテンが何かを囁くように揺れている
窓際近くにあるローテーブルの上にはノートパソコンが開かれたままだった
少し前まで鏡がここで仕事をしながら朋樹と緻密に業務連絡を取り合っていたのだろう
自分が留守の間、もしかするとここに寝泊りしていたかもしれない

日樹がここに住むようになる以前のこと
もう何年もの間、鏡はここで朋樹と半同棲をしていた
・・・

そしてこのリビングルームは
事故で入院の後、気遣って来てくれた高原を初めて迎えた場所
ここで彼の望む通りに足の傷を見せ、それから二人は肌を触れ合わせることになったが
何度繰り返しても、とうとう高原を満たすことができなかった

高原がもの足らなさを感じ、自分が至らなさを感じ
それが二人の間に溝を作ってしまったのか・・・

誘われるようにゆっくりと窓辺へ歩く日樹
この窓から目の前に広がるのは拓真と半日を過ごした緑地公園
思いがけない拓真の誘いで、僅かなひと時を童心に戻って心の底から楽しんだ
それが今回の入院前日のこと

失って得たもの・・・

そもそもどこから道を誤ってしまったのだろう
記憶を手繰り寄せていかなければもうわからない


「自宅が一番落ち着くでしょう 今日は少しゆっくりされた方がいいです」
背後からは、いつの間にか戻った鏡の一声だった
窓辺に佇む日樹はまた現実に引き戻される

時刻はまだ11時過ぎ
これから学校に行っても十分午後の授業には間に合うのだが

「大丈夫ですよ、今日までは休みの届けを出していますから、堂々と欠席してください」

うっかり表情に出ていたのだろうか
鏡が先読みをして不安を取り除いてくれる
学校へも戻りたいという気持ちはあまりないものの
今この時間、学校で通常授業が行われていると思えば少々後ろめたい

「先ほどの中国との業務提携と工場新設のお話ですが、この下旬に日樹さんを含めたご家族全員で
渡航されることになります」
勝手知った鏡がリビングとキッチンを行き来しながら車内での話の続きを始める

「・・・家族全員で?」
「あちらの総経理、日本でいう会社社長から親睦を深めるため、ご家族を招待したいというアポを頂きました」
コップに飲み物を注ぐとキッチンのテーブルに二つ揃えて並べた
朋樹と暮らしていた頃も、こんな風に鏡が世話を焼いていたのだろうか

「日樹さんが夏休みに入られる頃が良いと、朋樹さんの提案でこの月末に」

「・・・・」
いつの間にそんな話が持ち上がっていたのか、急過ぎて日樹もどう返事をしていいのかわからない
鏡は佇む日樹の傍らに歩み寄り、半分ほど開けられていたサッシ戸を全開にする

「気分転換になられるのではないかと」
確認するように鏡が覗き込む
こちらが聞きたいことは上手くはぐらかされ、
逆に不要で止め処なく羅列される言葉は頭には入らない
全て朋樹の判断で事が運ばれ、自分には承諾の余地なく進められていく話は気分転換どころか重荷だ

きっと気を悪くするだろう
そう思いながらも、日樹は鏡の脇をスルリと抜け
「部屋で休みます・・・」
逃げるような足どりで背中越しにそう伝えた

こちらが刺々しい態度をとろうが、鏡は朋樹に言い付かったことを忠実に守る
「何かあったら呼んで下さい 私はこちらにいますので」

「・・・はい・・・」
背後に鏡の視線を感じながら、日樹は返事をしてリビングを後にした






日樹が自室に戻ると、鏡は病院へ行く寸前まで仕掛かっていた業務に戻る
静かで物音一つしないリビングにキーインの音だけがカシャ、カシャと響く
滑らかな一定間隔のリズムは、鏡の指が正確に文字を入力している証拠
それも見事なブラインドタッチでだ

退院後、日樹の傍にいるように言い付かった鏡は
朋樹が社から戻る夕刻までここでこうしていることになるのだが

昨夜もこんな感じだったろうか・・・






静那・・・せ・・・な・・・



「静那!」
「・・・え・・っ・・あ、・・・申し訳ありません」

何度か呼ばれていたようだが、気づかなかったのは意識をどこかに飛ばしていたせいだ
PC画面も流れ作業のように文字を流して見ていただけで、頭の中には何も入っていない
うっかりしていたと、慌ててスクロールし画面を振り出しに戻す

向かい合わせに並べたパソコンのキーを打ち込む朋樹が、鏡を姓ではなく名を呼んでいた
背広の上着を傍らに脱ぎ捨てた朋樹は襟元のネクタイを緩め、ワイシャツの袖を無造作にめくり上げていた
露出する筋肉でおおわれた腕が逞しい

静那・・・
仕事中には絶対その名では呼ばれない

「朋樹さん・・・何か・・・」
「どうした、考えごとでもしていたのか?」

「・・・いえ・・・」

このニ、三日、鏡は迷っていた
朋樹に伝えるべきかどうか迷った挙句、とうとう彼には伝えず終いだった
目の前にいる恋人にとって世の中で最も大切な義弟の退院を迎える
それは自分の位置づけとどのくら差があるのだろうか

隠しごとなどしたことがなかった 
なのに・・・なぜそうしてしまったのか自分でも不思議でならない
それに勘の良い朋樹のこと、もしかしたら取り繕った今の反応から何かを察してしまったかもしれない
そう思いながらもつとめて平静を装う

「もう遅い、今日は泊まって行くがいい」
時刻を確認し、手を休め囁いた朋樹
すでに明日へ日付が変わろうとしている

『泊まって行くがいい・・・』

以前なら聞き慣れていた言葉なのに、なぜか新鮮だった
日樹と入れ替わりに鏡はこのマンションを出た
出たと言っても週の半分を寝泊りに訪問していただけだが
それを失うということは状況が大きく変わった
家族の絆を前に恋人という薄っぺらな関係では、馴染んだ居心地の良い空間も今では敷居が高すぎる

優しく呼びかけてくる主を慌てて見返せば、朋樹は再び真剣な眼差しでPC画面に向っている

通訳を含めた現地への人材派遣、資材調達、設備設計の詰め
工場の落成式典までの段取りなど
押し迫った会議続きのせいでこうして自宅にまで残務整理を持ち込んでいる
そのためか、表情に少し苛立ちと疲れが見え隠れする
そんな時にこそ自分が支えにならなければと
朋樹付きの秘書として連れ添ってもう何年になるか記憶を後戻りする

その上、スケジュールが過密なところへ最愛の義弟の入院とあっては
たとえ恋人同士という関係であっても、家族の絆を前に
優先順位が下がろうが不平を言うことができなかった
やっと自分に番が廻ってきたのだ

「明日の退院のお迎えには」
「あぁ・・・すまないが私は行かれそうにない 10時頃、日樹を迎えに行ってもらえるか」
「わかりました」

拓真という少年が日樹を訊ねてきていることを朋樹は知らない
彼がやってくる時間帯と意図的に面会をずらすようにし向けていたのは
他でもない、この鏡なのだ

「これでやっと日樹も落ち着くだろう・・・」
「・・・ええ・・・」

退院の喜びが隠せず
15も歳が離れた義弟のこととなると、朋樹はこの上なく柔らかな面持ちになり
長年の関係を続けながらもつい嫉妬してしまいそうになる

「日樹に変わった事があったらすぐに伝えてくれ」
「はい」

鏡はあの日、病室で出会った拓真を直感的に邪気のない少年と判断した
日樹にとって危険ではないと

とはいえ、なぜ自分が朋樹を裏切るような行為にでてしまったかわからない

鏡自身が、そして恋人の朋樹が、義弟の日樹が、今のままでは何も変わらないと
胸の奥に抱いていた不安の欠片を、自らの手で抹消したいと願っていたからなのだろうか

向暑・前編
向暑・後編