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「あ・・・あの・・・諸藤さん・・」 「拓真君・・・大丈夫?」 覗き込む日樹の顔が間近になり、それだけで体中が火照り直視できないほどだ その上、驚くことに自分はこの腕にしっかりと憧れの人を抱きとめている 体温を感じて・・・ こんなことって、アリ? 「・・・はい・・だ・・だっ大丈夫です・・・」 「どこか打った?」 当たり前のことだが、平常心を失っている 『大丈夫』と言うわりになぜか大丈夫でなさそうな頼りない口ぶりは声も上擦っている 「いえ・・その・・・」 「・・・・?」 単純で真っ直ぐな性格はどうしても隠し事ができず表面に出てしまうのだ 何か様子がおかしい、と日樹は気が気ではない 「本当に大丈夫?」 何度も何度も訊ね伺えば その度に大きな瞳が拓真を吸い込もうとするほどに近づく 見た目華奢なその体も重さを感じる これはまさしく実像なのだ トロ〜んと熱病にでもおかされたような拓真はやがて、やっとの思いでその理由を口に表した 「・・・諸藤さんの腰骨が俺にあたって・・・上に乗ってると・・その・・・」 これが女性にだったら大変失礼にあたる発言なのだが なぜか日樹に対しても例外で無いような気がしてなかなか言い出せなかった まさか下腹部があたってその形までハッキリわかってしまう・・・とは言えまい ようやくハッとする日樹は、一緒になだれ込んでからずっと拓真に身を委ねたままだったことに気付く 「・・・あ・・ごめんね、重かったでしょ」 「そんな・・重いなんてこと・・・」 すぐに体を起こさなければと思いつつも 自分を庇ってくれたのだから相手対して失礼にならないようにタイミングを十分見計る 「・・・多分嬉しいんだと思います・・・だからこのままだと体が・・・」 「・・・ぇ?・・」 「・・生理現象で・・・」 今にも離れていってしまう体を惜しむように拓真が付け加える 本当はいつまでだってこうしていたいのだ この上なく恥ずかしいことをこの世で一番知られたくない人に打ち明けた 「・・・あ、あぁ・・・」 拓真が散々躊躇し致し方なく口にした言葉の意味がやっと理解でき、日樹も思わず赤面する 生理現象・・・ 互いに気の利いた次の言葉が探せず会話が途絶えてしまう 「・・あ・・・・綺麗な百合ですね・・・」 拓真は一点に目を泳がせた どうしてもこの話題から話を逸らしたかった ハプニングとはいえ意中の人が体を密着させている しかも上手い具合に拓真が日樹の体が抱えている状態だ 触れ合えば薄手のパジャマ着の日樹の体のラインがくまなくわかってしまう それに反応してしまう拓真の体 ここへ誰かが入室して来ようものならどんな誤解を受けることか 綺麗な百合ですね・・・ あまりにも唐突過ぎ、日樹が体を離すのも忘れクスっと笑いだせば、拓真もやがてつられて苦笑いをする 拓真の誠意、そして気遣い そして居心地が良い人肌は、しばらくぶりで日樹に安らぎを与えてくれた ありがとう 拓真くん・・・ |
バシッ!! 弓なりにしなる体から勢い良く上腕を振り下ろし投げ込まれ、亮輔のキャッチャーミットに心地よい衝撃と快音が走る 拓真の手を離れた球は速度を増し空を切っていった 受けたミットの音で察知する それだけの長い期間こうして拓真の投球を受けている 「拓真ナイスピッチング〜!! その調子だぜ」 キュキュッと球を擦り撫でて亮輔は拓真に返球する そして今度は拓真がその球を自分の頭上でキャッチする リズム良く繰り返される投球練習 “諸藤さん、明日退院?” “うん・・予定通り” “拓真、なんか良いことあった?” “別に何もないさ・・・” 夏本番を間近、 空は青く澄み、陽射しは高く 今年の夏は格別暑くなるだろう・・・ |
向暑(KOUSYO)前編 |
出逢いは ある日突然やってきた・・・ 「病院には行っているんだろ?」 陸上部顧問の時田が訊ねる 「諸藤には会ったのか?」 二つの問いに答えることも無く少年は微動だにしない だがそのキーワードに瞳だけが微かに反応する もはや自分の想いを閉じ込めてしまった暗く深く、険しい色の瞳 「最後の大会、諸藤からバトンを受け取りたい それがお前の本心じゃないのか 高原?」 本心? そうだったろうか 記録を伸ばして勝ち取ること、それが届かぬ夢なら 勝敗のこだわり無しに、ただ “一緒に走ること” それすら叶わない今はただ そっと見守ってやりたい・・・ いったいどれが本心なのだろうか わからないまま、どんどん小さなカゴの中へと自分の心を抑えていく 時田の言う通りだった 去年の大会のリレー400m種目 1年生ながらにスターターをこなした日樹からバトンを受け取ったのが第二走者の高原だった 好スタートを切った日樹に続き高原の好走、そして第三、第四走者への繋ぎも完璧にタイムレコードを更新、県大会上位入賞の成績を残した 手渡す、そして受け取る瞬間 バトンパスが二人を繋ぐ・・ それが高原にとっては今、記録よりももっと価値のあるものに変わっていた 何を訊いたところでその場しのぎの言葉すら望めない不器用な男 目の前の高原が何も答えはしないと承知したところで時田は大きく諦めの溜息を吐く 「悔いだけは残さない大会にしような」 それが顧問として、彼にかけてやれる唯一の言葉だった この数週間、無心にひたすら走る姿を見届けてきた 傍から見ていると、まるで自分の体をいたぶるような振る舞い 何が彼をそこまでさせるのだろうか 時田には高原の気持ちが痛いほど伝わる 諸藤日樹・・・ この少年のことで高原の頭の中は溢れかえっているのだ そして彼に対する感情を押し殺し、走ることに挑んでいる 四ヶ月前の事故の責任を感じ、 そして・・・ やがて高原は時田に一礼すると背を向けグランドを後にした 部長としての責務を果たし、誰よりも長い時間グランドに身を置き 練習後のグランド整備や雑務に毎日最後まで残っていた高原だったが この数日間は誰よりも先にグランドから姿を消していた しかしその理由を知る部員はいない |
校庭の一角に設けられた運動部の部室 グランドを使用するサッカー、野球、ラクビー、テニス、そして陸上部の部室が隣接していた 「3年主体のスタメンにはなると思うけど、今年はキツイなぁ・・・」 「あぁ、去年のメンツが恵まれ過ぎだ」 「飛びぬけて速いのが高原だけ、あとはタイムも似たり寄ったり」 「やっぱり勝負はAチームで、ってとこか」 400mリレーにはA、Bの4名一組の2チームが参戦する 高原とチームを組むことになる 三年の糸川と佐伯が銘々のロッカーの前で着替えながら向き合っていた 高原と同学年の三年生7名、日樹と同じ二年が6名 そして今年の一年生の新入部員4名が所属する陸上部は、全員で17名 個人競技の部活にしてはそこそこの人数が揃い 心に深く蟠りを残したまま、日樹の事故当時のことを知る部員も残っている こんな大事になるとは想像もせず、軽はずみに口から出てしまった嫉妬を含む陰言 それが直接の原因ではないにしろ後味が悪い顛末だ 「あとは中西に期待だな」 自分の名前が耳に入り、着替え終わっていた1年の中西が糸川たちのもとにやってきた 中西 和也 今年期待の新一年生であり すでに高原を含むAチームのメンバーの座を獲得している拓真と亮輔のクラスメイト 「先輩、高原さんってこのごろ練習が終わるとすぐに帰っちゃうんですね」 少なからずとも部員の誰もが気に留めていながら、あえて口にはしない 一番年少の中西はしがらみもなく疑問に思ったことを堂々と発言してくる それがあまりにもストレートで、先輩後輩の縦社会であっても難なく受け入れられてしまう もっとも彼が1年生さながらその実力を認められ対等に扱われているということも含めてなのだ 勝気な性格の中西 「あぁ・・・最近の高原は何を考えているかさっぱりだ」 「最後の大会にかける執念みたいなものはこっちにも伝わるけどね」 同じ3年生で、チームメイトでありながらもその理由は明確ではない 納得には足らない先輩の返事に、少し不満そうな中西は次にその名前を挙げる 「諸藤さんって・・・」 いきなりの核心だった とたん、糸川と佐伯の視線は中西に向く 今年4月に入部したばかりの中西には3月に起きた事故の話題も部内にいれば薄々感じるものの 事実を知る手立てがない 以前、亮輔に訊ねられ自分が知っている範囲で答えもしたが 日樹との接点がない中西に入ってくる情報は全て不確かな噂でしかないのだ 「諸藤さんって、どこの中学出身なんですか?」 県大会で好タイムを出した選手の中にまったくノーチェックの日樹がいたのだから 中学時代から陸上をやっていた中西にとっては当然疑問になる 彗星のごとく現れたなどというドラマチックな偶然はまさかあるまい そんな優秀な選手がどこに埋もれていたのか興味を惹く 一連の事故とその事実、それに関わる人間模様 いや、本当は諸藤日樹という人間を知りたいのだ・・・ 「もし諸藤さんがケガをしないで今も走っていたとしたら俺、選手に選ばれてましたか?」 「あん?」 「その代理だっていうなら諸藤さんのことが気になるじゃないですか それに、高原さんが諸藤さんに入れ込む理由」 ライバル意識むき出しの気迫ある瞳で押し迫る いつかは触れられるだろうと気構えしていた佐伯が糸川と目を合わし辺りを警戒して見回す 残っているのは中西以外の1年生だけ それもスポーツバッグを肩に背負い部室をでる間際だった 部室に残ったのはこの3人 それなら話してもかまわないだろう、糸川が重々しく口を開く リレーチームを組んでから学年の壁を越えて親しくなった佐伯と糸川は短髪で、 日に焼けた顔がスポーツマンらしく好感を持て、中西には上級生のどの先輩達よりも話し易く 噂の事実には関与していまいと確信する 「諸藤は地元の西中出身だ、だけどその前は都内の西蘭学院にいたらしい」 「西蘭?・・・あ・・」 隣県に在学の生徒でも “西蘭” と聞けば一度でも耳にした事のある校名に思わずため息をもらす 言わずと知れた名門校だからだ 「中西、お前が知りたいのは諸藤ほどの選手が どうして今まで一度も名前があがらなかった、ってことだろ?」 「そうです、なら西蘭にいるころから陸上を?」 校名は別として、都内の学校内部のことまではさすがにリサーチできない 「いや、諸藤が陸上を始めたのは多分ここに来てからだ」 「えっ!?」 過去に実績のない人間がどうしてここまで 中西にとっては意外な事実が明かされようとしている |
去年入部した1年生の中で陸上の経験がなかったのは日樹だけだった そしてその日樹が陸上を始めるきっかけとなったのが陸上部顧問、時田の誘い 「未経験で飛び込んできた諸藤を誰もが気に留めた 何せ周りは皆 中西、お前と同じようにそこそこの経験者だったからな」 今まで扉に付いている鏡越しに中西と話していた糸川が パタンとロッカーの扉を閉め振り返る 「諸藤にとっては並大抵じゃない努力を要求されることになっただろうよ」 糸川に佐伯が付け加える 時々耳にする断片的な噂、そして部内の雰囲気から察していたが こうして二人の話を聞けば聞くほど諸藤日樹という人間に興味を持ち、惹きこまれていく 「なぜ、そこまでして諸藤さんは?」 「さぁな、それは俺らにもわからない 普通ならとっくに挫折してるほどの練習量だった だけど諸藤は走ることで何かを忘れようとしていたのかもしれない」 「その甲斐があってあいつ、1年生でリレーメンバーに入ったんだ それからだろうな、高原が変わったのは・・・ それまでは皆と同じように遠巻きに諸藤を見ているだけだったからな」 明かされていく真実に、中西はただただ糸川の真摯な瞳を見つめていた 「諸藤は弱音ひとつ吐かなかった だが、感じる周囲の風当たりは強かったはずだ」 「きっと高原だって心のどかに僅かでもそう思ってた頃があったに違いない だからこそ今・・・」 「それを考えると、諸藤・・・あいつ・・・今までいったいどんな思いで陸上部にいたか」 去年一年間を思い起こす二人の話を中西は無言で聞き入る 顧問が必要以上に目をかける人間は、いったいどんな実力を隠し持っていたのか 「今の高原にとって諸藤は女でも男でもなく、唯一自分が “認めた人間” だからこそ惚れてるんだ」 そして忘れてはならないこと 「興味や憧れが反して妬みに変わる 顧問が諸藤を贔屓するように見えて 少しでも嫉妬を感じずにはいられなかったのは俺らも同じ」 「で、可笑しな噂が?」 直接関わっていないにしろ後味は決して良くない 「あの日、最後に諸藤の姿を見たのが高原だ その後に事故・・・新しく部をまとめることになった部長の高原にしてみれば、悔やみきれないだろうな」 部員の一部から発せられた日樹を愚弄する言葉 “ 前の学校で教師と関係でも持って退学になったんじゃないの ” 中西は眉を顰めた険しい表情で不在のライバル、そして憧れる高原とのしがらみを知り得た |
「それじゃあ、諸藤さんに体裁良く縛られている高原さんが可哀相ですよ」 決して大柄な体格ではないものの、背筋をぴんと伸ばした姿勢良い立ち姿は 2学年上級の先輩にも負けない威圧感をアピールする 同情すべきは日樹にではなく高原の方にだと、微かに棘のある中西の見解だった 傍目で見ていれば納得できなくもない あまりにも切迫している最近の高原の行動は、3年間部を共にしている者にでさえ近寄りがたい それを遠慮なしに日樹のせいだと中西は言う 「ちょ、ちょっと待てよ中西! 運が悪きゃ諸藤は選手生命を失ってたかも知れないんだぞ」 「でも現実には失ってないわけでしょ」 「ま・・・そうだが」 「事故は起こるべくして起きてしまった 先輩たちが罪の意識を感じるのは勝手ですが 高原さんまでが責任を感じる必要なんてないんです」 今まで皆が心に蟠りを残していた 複雑な思いがもつれ絡み合い、時の流れの中で静かに修復を待ち、 わずかでも解れてくれれば良い、そう願うしかなかった そうすることで罪の束縛からやっと放たれるからだ 誰の心にも重々しく圧し掛かる事故だったはずなのに 躊躇なく核心に触れる新参者によって、こんなにも簡単に紐解かれていくとは 全く以って意識下になかった 1年生部員の中で一歩秀でた実力を持ち、目立たぬ容姿でありながらも 真面目で裏表のなさそうな瞳、落ち着いた身のこなし その体中から常に自信が溢れている彼の口調は穏やかでも容赦なしに相手を刺す 中西に異論はない 「走りたければ、諸藤さんがここへ戻ってくれば良いことだし、そうでなければ追う必要もないでしょ」 「う・・・・」 佐伯と糸川は、中西に返答できない きっと、あの日も この部室で同じように部員たちが談笑していたのだ ただ残念なことに、話題は日樹を蔑視するような内容だった もし日樹がこの中西のように自分の感情をあらわに出せる人間だったら全てが違っていただろう 今さら遡れやしない 後輩を前にし、二人は塗り替えることのできない澱んだ過去を悔やむ ただその場に居合わせてしまい、たった少しでも日樹に嫉妬を抱いたことがある為に 間接的に事故に関わったと己を戒めずには居られなかった 糸川も佐伯も他の部員もそして高原も、皆同じ気持ちのはずだ 「美談に作り上げても何も変わりませんよ」 美談・・・ そうだ、そうでもしなければ罪の重さに堪えきれないたった一つの逃げ道だったからだ 誰もが避けて触れなかった真実 それをあえて無関係の人間が冷静かつ公平に着目し審判を下す 「・・そうかもな」 やがて佐伯が小さく発した |
すでに陽はぐっと西へ傾き 隣並びの部室の物音も聞こえなくなっていた 賑わっていたグラウンド使用の部活もすでに終了し、生徒達もほどんど下校済みのようだ いつかは消えてなくなる 心の片隅に残りはするものの、記憶は必ず薄れていく 糸川、佐伯らとその下の代の学年が卒業してしまえば陸上部も事故とはもう無関係の人間ばかりになるのだ 「だいたいわかりました」 聞き知っていた通りだった いっそ恨んでくれた方が当事者たちにとってはどれだけ気が楽だったろう 一方が静かに身を引いたつもりでも実は逆効果、相手の胸中に大きなしこりを残している この連鎖に気づきもしない、"事を履き違えた偽善者" 哀れだ・・・ そんな意味を込めて中西が冷笑しながら俯く 大人びた言葉選びをするこの少年も、数ヶ月前まで中学生だったとは殊更信じがたい 目立たない存在、誰もが抱くその第一印象 それは故意的に自分の存在を制御しているせいなのかもしれない 「そんな一件から、高原が諸藤を守っていたんだが・・・」 断片的な噂、一連の流れで欠けている部分を得て、繋ぎ合わせることさえできれば満足だった中西は、 足元に置いた私物のバックに手を伸ばしていたが 続く話が興味をそそったのか、その手の動きをピタリと止め視線だけを返す 「“番犬”と、まで噂になっていた、あれですか?」 校内の一部では随分と知れ渡っている、体格の良い高原を番犬にたとえた噂 そして中西は再び糸川と向き合う あくまでも先輩に対する敬意は忘れない律儀な後輩 「あれだけ諸藤をガッチリガードしていた高原だったのに・・・今は互いを避けているようにさえ見えるんだ 二人の間に何かあったんじゃないかと・・・」 「単純に仲違いでもしたんでしょう」 気持ちが良いほど簡潔即答は呆れ顔を隠せない ここでいくら憶測しても事実とは合致しないからだ その上、論議しなければいけないのは二人の関係がもつれた原因などではないということ 「そういや中西知ってるか?最近になって野球部の1年が諸藤の傍にまとわりついているらしいが」 「・・・野球部の一年・・・?」 「背の高い、投手ポジションの奴だ」 野球部1年、背の高い、投手・・・ ご丁寧にそこまで揃った検索キーワードを並べられれば必然的に一人の人間が特定される 自分のクラスメイトだ 果たして糸川がそれを承知でかまをかけてきたのかを察するには唐突過ぎ 「なら、なお更のこと 諸藤さんの行動が納得いきませんね」 不覚にも動じてしまった自分を悟られないように破顔一笑を試みる |
「時田先生、まだ残っていらしたんですか?」 時刻はすでに午後19時をまわったところだった 日没の遅くなった時期でも、さすがにこの時間になれば室内に灯りがほしくなる 帰り仕度を終えた保健医の越智谷が職員室の前を通り過ぎようとした時 少しばかり開いた扉からもれる灯りに居残っていた時田の姿を見つけた 「あ、あぁ・・・そういう越智谷先生こそ遅くまで大変ですね」 声の主が誰だかすぐに判明した時田は、振り向き様に返事をする 「日誌を書いていたらこんな時間になってしまいましたわ」 腕の時計を見やり、彼女は品のある笑みを浮かべながら職員室に入って来た いつも生徒達に目線を合わせた彼女の仕草とはまったく違う大人の女性の印象 「今日は1年の神城君が二度も遊びに来てくれましたの」 「保健室は越智谷先生目当ての生徒が多いですからね で、彼も仮病ですか?」 「えぇ、それはもう重病で」 二人はいつもと変わらぬ掛け合いに、互いの顔を見合わせ含み笑いをする 「そういえば諸藤君は・・・」 「予定通りに退院のようです」 「それは良かったわ」 少し前、何度か保健室で休むことが多かった日樹のことは越智谷としても気がかりであった そして、陸上部顧問の時田にとっても常に頭から切り離すことができない大切な部員 「僕は時々後悔するんです 諸藤を陸上部に誘ったことを・・・」 時田が囁いた言葉の語尾は心痛に消え入るようだった |
蘭月・後編 |
向暑・中編 |