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蘭月(RANGETU)後編



思い出すのは
いつも笑顔の遥
小さな胸に抱いていた不安

笑顔が変わった
大人っぽくなった
それは全部勝手な思い違い
ずっと子供のままでいたかったはずなのに
強くならなければならなかった遥

なのに、どうして気づいてあげられなかったのだろう・・・



随分前から遥に相談を受けていたのだろう
遥は救いを求めて小梶の部屋を訪れ
小梶は全てを知っていた
遥の家庭状況も、遥の胸のうちも

遥の父も、日樹の父親と同様に会社経営者だった
父親の経営する小さな会社は経営難が続き、いつ倒産してもおかしくない状態に陥り
子供ながらに目の当たりでその状況を把握していた遥

高額な学費を納入していくのは困難なこと
遥が入学した時すでに、いつまで西蘭に通えるかという切迫した状態だった
従業員の生活を優先させれば、家族の生活など二の次になり

そう長くは在籍できないだろうと常に不安が付きまとい
毎日をどんな思いで過ごしていたのだろう
名門の西蘭に実力で入学できたことは一生の誇りで
たとえわずかな期間であっても西蘭で過ごした証を残しておきたかったのだろう


一日たりとも無駄にできない
だからこそ、二学期が始まってからという中途半端な期日の転校は
少しでも長く在籍していたいという遥のささやかな我儘だったのだ

悲しみを閉じこめ、いつも明るく振舞って
はしゃいで、笑って

友達も教室も校舎も
目に入るもの全てを胸に焼き付け
溢れるばかりにたくさんの想い出を抱きしめて

そして
何も言わずに一人で行ってしまった

知らぬ間に日樹のまなじりから涙が頬を伝わって落ちた
引き寄せられるままに小梶の胸に身を任せる
そうすることで小梶を通して僅かに遥を感じることができた

遥は泣いていた
きっとこんな風に小梶の胸で泣いたのだ

一番身近にいながら遥のことを何一つわかっていなかった
それが口惜しい

    僕は何もしてあげられなかった・・・

「遥は・・・それで良かったんだよ」
「・・・え・・?・・」

小梶は日樹の髪にそっと触れた
濃茶の柔らかな髪に小梶の指がスーッと馴染む
まるで日樹の心の中を全部読み取ってしまったようだった
優しく響く低音の声が触れ合う肌から沁みてくる

 “僕は楽しかったんだよ” 

「そして諸藤、お前に “ありがとう” ・・・それが遥からの伝言だ」

 “諸藤君には泣き顔なんてカッコ悪いところ見せたくないからね”

  無邪気に笑う遥の声がした  

その言葉に少しだけ自分が許されたような気がする   

   遥はもういない

        風の広場から
        僕の前から
        消えてしまった・・・

    空っぽになった心
        誰か埋めて・・・






悲しくて目が覚めたのだろう
現実と夢が同化していた

西蘭に通っていた頃の夢、もう4年も前のことなのに
指先を目尻に運ぶと潤いに触れた
僕はきっと泣いていたのだろう・・・

ここは病院
まぎれもなく現実の世界だ

「諸藤君、具合はどう?」
日曜日から三日間降り続いた雨も、四日目の朝にはすっかり上がっていた
検温にやってきたナースがカーテンをいっぱいに開け広げると
窓から新しい朝陽が差し込み、それが眩しすぎて咄嗟に片目を細めた

手術が終わってから母親が傍に付き添ってくれていたのまでは記憶にあった
その後も眠りの中を彷徨っていたのか、一夜が明けていた
そのせいか麻酔が覚めた後の気だるさも無く、気分はすぐれている

「・・はい・・・大丈夫です・・・」
日樹は体温計を受け取りながらそう答えた



悲しみや
苦しみは心に閉じ込めてしまえばいい・・・





「諸藤君の病室はそこを右に曲がった302号室よ」
「ありがとうございます」
訊ねてきた男は、ナースステーションで案内を受けると日樹の病室の前で立ち止まった
ナースステーションから間近の個室
ネームプレートを確認し、それだけで満足したのか面会する気はないらしい
今来たばかりのエレベーターホールへまた戻って行ってしまった






入院して3日目、手術翌日の今日
ベッドから窓の外を眺め、その度に前回の入院を思い起こしていた

あの時は陸上部の部長としての責任を感じ、高原が毎日見舞ってくれた
彼のその行動が自分をどれだけ救ってくれたか、今なら十分過ぎるほど理解できる
そして、その誠実な高原を苦しめまいとただそれだけの為に高原と肌を重ねた

でも・・・
ずっと踏み込めない領域があった
それも今となってはどうでも良いこと

今回の入院は彼には知らせていない、きっと、知るはずもない
数日前、いや、もっと前からかもしれない
高原との間に距離を感じ始めていた

だから・・・
以前とは違うんだ
そう自分に言い聞かせてもなお、高原のことが頭から離れない

そんなことを意識的に考えてしまうせいか
追い詰められる心に食欲も進まない
日樹はベッドに上体を起こし今日一日も、空虚な時間を過ごしていた

「駄目ですよ、少しでも食べないと」

ほとんど手をつけず残された病院の夕食を見て鏡が心配そうな表情をしている
自宅で残務整理をする朋樹の名代で鏡が面会に訪れていた
面会時間も残すところ30分ほどになっている

義兄、朋樹から全幅の信頼を寄せられる朋樹の片腕として忠実な秘書
そして・・・恋人

常に公平な判断力を持つ鏡、日樹も彼のことが好きだ
何年も前から家族同様の付き合いをする彼も、心底日樹を大切に思っている
ゆえに、この状況は朋樹へ逐一漏れることなく報告される

「傷は痛みませんか?」
「・・・大丈夫・・」

少し無理して笑ったのが鏡に悟られてしまったかもしれない
傷の痛みは口にするほどでもない

それよりも・・・
胸の奥が痛い

骨折した大腿骨に添えてあった金具も取り除いた
もう自由に動き回れる
なのになぜか金具の抜けた足から胸にまでポッカリと空洞になってしまったようなおかしな感覚をもつ

もう走らないと決めた
それを押し切れば良い

「今の状態が続けば点滴のお世話にならざるを得ませんよ」
「・・・・」

朝食、昼食、この夕食
手術後どれもまともにノドを通らない
理由まではわからないとしても、、これでは鏡が心配するのも当然のこと

わかってる・・・
的を突く鏡に返す言葉もなく日樹は俯いた
こんなことで入院が長引いてしまっては自分が辛くなるばかり
することもなく、ただこうしてベッドで休んでいるだけ
与えられた時間は余計な詮索を思い巡らしてしまう
まるきり悪循環だ

当初、一週間で退院の予定だったが、これでは期日に退院できる保障がない
体調不良では退院の許可も下りまい
なのに自分はどうしたら良いかわからない
直に鏡もここを離れてしまう
今度は長い時間、夜の闇におびえる

感傷的な自分が情けない






『明日また・・・』
そう言って別れた日曜日の夕方こそ、拓真が日樹の姿を最後に見た日


今日で三日目
日樹は週明けから学校を休んでいる

「聞いてみれば良いじゃん」
それが一番手っ取り早い、と半分呆れ顔で亮輔が言う

「聞いてみれば、って誰にだよ?」
「諸藤さんの担任!」

放課後、部活へ誘う亮輔の声も耳に届かないのか、拓真は自分の机から一向に離れようとしなかった
理由を聞けば亮輔にとってはなんとも些細なこと
それは拓真にとっては一大事
週明けから日樹の姿を見かけていない、と
三日目の水曜、さすがに拓真も日を追って不安を最大につのらせていた

日樹と同じクラスの野球部女子マネージャーですら日樹の欠席理由を知らなかった
知らなくて当然といえばそうなのだが
クラス担任に聞く、確かにそれが真相を知るに一番早い手段だろう
こうまで焦る拓真の心中は
帰り際の通り雨に “僕は歩いてもすぐだから” 
自宅までわずかという日樹を一人残して帰ってきてしまったことが心に引っかかっている
もしかして・・・
冷たい雨ではないにしても、雨に濡れたのが原因で風邪でもひいてしまったのではないだろうか
呼び出しておいて最後には置き去り、そんな無責任な自分を叱責して止まない

「諸藤さんだって風邪ぐらいひくだろうし、そう心配することもないだろう?」

風邪・・・
そうかやっぱり亮輔の言うとおり風邪なのか
じゃ、あの時
諸藤さんの言葉に甘えて、先に帰ったことに原因が・・・
やっぱり俺のせいじゃないか

日樹のこととなると必以上に冷静さを失う拓真

そんなはずがないだろう
たとえ拓真が先に帰らなくても、同じように雨には濡れたのだから
亮輔の何気ない発言が、面白いぐらいに拓真をどんどん崖っぷちへ追い込んでいく
相棒の亮輔はこうして素直で単純な拓真の反応を傍らで見ているのが楽しくて仕方ない
昔から変わらない拓真と亮輔の関係
それに拓真の日樹への一途な想いも変わらないようだ

まったくからかい甲斐のある奴だ
だが、このまま部活に出ても練習に身が入らないことは目に見えている
相棒の恋の行く末も気になれば、亮輔自身も日樹との面識がないわけではない
ここは一肌脱いでやるか

「拓真、行ってみようぜ」
「行くって・・・何処へ?」
「職員室だよ」

一人じゃ行き難いだろう?



亮輔に連行され、しぶしぶたどり着いた職員室の前
扉一枚隔てた向こう側は、生徒にとって決して和やかな雰囲気の空間とは言えない

開けてみな、そう亮輔に促され
扉の前に立ち、手を掛けおそるおそる開けようとすると、引き戸は誰かの手によってスーッと開いた

「あっ・・・」
予測外だった
扉を挟み、入室者の自分と退出者が同時にはち合わせになった
もう少しで体当たりしてしまうところだったその人物は恰幅の良いおじさん、
いや、野球部の顧問、藤崎教師

「何をやっとるんだ、お前たちは?練習の時間だろうに」

よりによって自分達の部の顧問に出くわすとは運が悪すぎる
練習時は厳しくても、それ以外は自分達の父親と同じように親しみやすく頼りがいのある教師

「え・・・あ・・・」
動機が後ろめたくて言葉篭りになってしまう
職員室など好んで来る場所でもないのに、こんなところをウロウロしていては目的を怪しまれる

返す言葉が続かない
まさか
“諸藤さんが心配で、彼の担任に欠席理由を聞きにきました”
そんなことを正直に言えるわけがない

なんと言って誤魔化す?
そもそも職員室へ行こうと言い出したのは亮輔なのだから
いつものように相棒に助けを求めれば、隣にいたはずの亮輔がいない!?
相棒は拓真を盾に身を隠し、天を見上げそ知らぬふりをしている
それは自分でこの場を逃げ切れ、という合図か

「あ・・あ・・あの・・2年B組の先生って・・どの人ですか・」
「2B?」

拓真、よく言えたな!
亮輔が後ろから肘で突付いてくる
学年の違う担任の名前に顔など、教科を受けもっていなければ興味もなければ覚えようという気もしない
少し訝しげな表情をしたが、藤崎はすぐに室内のある場所を指して教えてくれた

「あそこの右端から二番目が2B担任の竹内先生の席だが・・・」

どの先生だろう・・・
諸藤さんのこと教えてもらえるかな
気忙しく職員室を覗き込む拓真に、なんとも残念な事実が付け加えられた

「竹内先生は出張でおらんぞ」
「えぇっ!?」

これで真相に近づけた
職員室に勇みよく一歩踏み出そうとした時だった
たった一つの情報源、その担任が不在というアクシデントはどうにもタイミングが悪すぎる
思わず口から飛び出してしまった大声に、職員室内の教師の視線が一斉に拓真に注がれた

「竹内先生がどうかしたのか?」
「い・・いえっ!」
「教科担任でもない先生に何の用なんだ?」

藤崎が疑問に思うのも当然だ
野球部の顧問である藤崎は拓真と亮輔、いつも一緒の二人のことを十分知っている
だからこそ疑わしいらしい
何かやらかしたのではないか、藤崎の考えはこうだった
それもどちらかといえば良し悪しに関わらず、拓真に比べ行動的な亮輔がらみというのが藤崎の予想
今回に限ってそうではないのだが

自分に迫ってくる年季の入った藤崎の顔を押し止めようと拓真は両手でガードした
藤崎は疑い深く何かを探っているが
自分に下心があるため偽ることが後ろめたくて拓真は藤崎から視線を逸らしてしまう

「拓真〜、ちゃんと言っちゃえば?」

担任が不在なら他をあたってみなければならない
上手く誤魔化して拓真は早々にこの場を引き下がるつもりだった
そんな時にはいつもそう、この相棒は自分の計画を遮る横槍を入れてくる
一抜け状態で職員室と反対側の壁に寄りかかりながらあくまでも客観視していた亮輔が
拓真の段取りを全部台無しにしてしまう

いっ・・・
頼む・・・亮輔、やめてくれ

だが拓真の心配をよそに亮輔はあっけらかんとお構いなし
「2Bの諸藤さんがここんとこずっと休んでて、拓真はそれが心配らしいっすよ」

チラッと拓真の様子を伺い、藤崎にここへきた目的を正直に話してしまった
亮輔の口から日樹の名前が出ただけで反応し、それだけで顔中が熱くなってしまうのに
動揺し始めたら頭の中がパニックになり、
自分が日樹のことを好きだということを告げ口されている様に聞こえてならない

「そうだろ、拓真?」

わぁ・・・
もう、どうしてそうはっきり言っちゃうんだよ

反論しても無駄なこと
今更違うとも言い切れない状態に、ただニヤリと笑う亮輔の顔を "よくも・・・" と睨みつけるだけ

裏切り者め・・・

「こいつ、諸藤さんにお世話になってるんで心配なんですよ」

確かに世話になってるのは嘘じゃないが
この相棒はそこまで言うのか
顔だけでなく全身の体温がどんどん上昇していく

「諸藤?・・・陸上部のか・・・」
その名を聞いて藤崎はすぐ日樹に思い当たったようだ

全学年合わせ500名以上いる生徒の中で、“諸藤”と名を聞いてすぐに思い浮かべることができるのは
日樹が陸上部で、過去にこの学校の名を上げる大会記録を出してた選手、
そして学業成績も優秀とくれば教師たちの間でも知名度は高い

そんな諸藤さんが好きなんだ・・・
拓真はは日樹と親しくなれたことが自慢でならない
もっともこれをどこで自慢するのだろうか

「それなら、副担任の時田先生ならいるぞ」
「副担任っすか?」
藤崎の言葉を繰り返す亮輔の声が耳に入り、拓真は冷静さを取り戻した

「ほれ、あそこにいる」

今度は亮輔が興味深げに歩み寄る
藤崎が指したのはグランドでよく見かける陸上部の顧問だった
藤崎よりずっと若く、彼は着任してから年数も経ていないような雰囲気で
この時田こそが日樹を陸上部へ誘い、実力ある選手へ育て上げた人物

「え?あの先生が副担任なんすか?」
「おお、そうだ」

ドア越しに職員室をのぞく亮輔
その時もやはり拓真に目配せすることを忘れない
こうやって聞き出すんだよ・・・拓真
亮輔は得意げな顔をしていた

えっ・・・?

「時田先生なら知ってるんじゃないか?」
「そうっすね、聞いてみます」

九死に一生を得る
陸上部の顧問なら諸藤さんに関する他の情報も入れられるかもしれない
だがそれも結局は亮輔の手を借りることになってしまい我ながら情けない

「それからお前たち、今日は紅白試合をやるからな」
夏の大会に向けていよいよレギュラー選出の時期
練習も本格的に始動だ

「はい、わかりました」
大げさと思われようが大きな声で返す
本日の練習プログラムを言い加えると、藤崎は室内履きのサンダルの音を引き擦りながら立ち去っていった
それを見送ったのは元気な亮輔の軽い返答だけ
その理由は

「良かったな拓真、これで諸藤さんのことがわかるな」
「良かったじゃない!!」
「なんで怒るんだよ」

手助けしてもらってその言い方は心外だと亮輔が不満顔になる

「なんであんなこと言うんだよ」
「だって本当のことじゃん」
亮輔の言うとおりだ
拓真の感情に関し余計なことには一切触れていない

「う・・・」
「別に変なことは何もいってないのに、お前意識し過ぎじゃね?」

亮輔は嘘偽り脚色もない事実を言っただけ
それに、勝手に反応しているのは自分なのだがどうも収まりがつかない

「いいから、早く聞いてこいよ」
四の五の言えば相棒に背中を思いっきりドンと押され
否が応でもその足は職員室の中へ1歩、2歩と侵入していた

こうなったら亮輔に対する不満を前進エネルギーにするだけ
その不満を作った張本人も職員室の中にまでは入ってくる気配も無い
この場所は生徒にとって校内で一番緊張する苦手な空間だからだ

有無も言わさず、拓真は押された勢いのまま職員室中央へ突き進んでいた
ただし床に落とす足音はいきり立つ心とは正反対に至って控えめだ
一度は教師たちの視線を集めた拓真、幸いにも今度は教師の誰も気に留めはしない

開け放たれた職員室の窓から校庭が見渡せる
それぞれの部のユニフォームに着替えた生徒らが窺える

早くしないと・・・
拓真の心は急く

中央の二列ひとかたまりが2年生学年担当の教員の机
藤崎に教えられた日樹のクラスの副担任、時田の脇へたどり着く

長身から見下ろす拓真、その気配を彼が先に察し振り返った

「君は・・・?」
「あ、あの・・・」

時田の両瞳が無言で佇む拓真を少し訝しげに覗く
毎日同じグランドで練習しているとはいえ
他の部の生徒のことまではあまり記憶には無いだろう
しかもユニフォーム姿と制服姿ではイメージもかなり違うはずだ

「俺、一年の北都です あ、・・野球部の」
そこまで名乗り、もし彼が少しでも自分の存在に思い当たることがあれば話が切り出しやすい

「・・あ、あぁ、そうだったね、野球部の・・・」
くるっと椅子を回転させ、拓真の真正面を向く
やがて時田の表情がほぐれた
彼の記憶の中に微かでも拓真は存在していたらしい

ならば少しは気が楽になれる

「先生は2Bの副担任って聞いたんですけど・・・」
「あぁ、そうだが」

この学校の教師の中で一番年齢が若いのではないだろうか
日に焼けた顔から若々しさが漲る
グランドで見かける彼はいつもスポーツウェア
顧問を受け持つぐらいなのだから、独特な体型は間違えなく陸上経験者なのだろう
これは勝手な先入観だが、面と向って話すのは初めてでも、スポーツに携わる人間には自然と警戒心が薄れる


「諸藤さんの・・・」
「ん?・・・諸藤?」
「はい、諸藤さんのことを聞きたくて・・・その・・・ずっと休んでて・・・先生何か知ってますか?」

いきなり聞いて良かったものか、驚いたような視線を時田に向けられたが、
それもすぐに穏やかな色に変わる

「君がなぜ諸藤のことを?」
「え・・」

やはりそう簡単には教えてはもらえず、逆に理由を問いただされてしまう羽目に

「諸藤の知り合い、かな?・・・君は確か一年生だったよね」
「はい」

まるで試されているように無言でじっと見つめられる
心の内を全てを見透かされてしまいそうで息が詰まる
顧問の人柄、方針次第でその部のカラーが変わる
野球部のオープンで父親的存在の顧問藤崎に比べこの陸上部の顧問、時田はどことなく繊細で神経質だ
それが陸上部のイメージに反映されているのだろうか

「諸藤さんは・・・俺の・・・」
拓真は自分の足元に視線を落とし俯いた
言葉には出せない胸のうちが行き場を求めている

俺の・・・大切な人だから
そう言ってしまえればどれだけ良かったか・・・
だが、

「友達なんです!」
自分の気持ちに一番近くて、遠まわしな言葉を選ぶ

“それなら、良かった”

しばらく間を置き
時田の口からそんな風に聞こえたのは気のせいだったのだろうか

「え?」
「いや、ごめん 君があまりにも真剣だったから」
時田は続け、拓真が知り得たかった答えを教えてくれた

「彼は今、入院中だよ」
時田は別段表情を変えることなく告げるのだが
抱いていた悪い予感、それを更に上回る事実を拓真は知らされることになる

やっぱり
あの日、雨に濡れたのが原因なら・・・それは自分のせいだ

「それで・・・諸藤さんの容体は・・・どうなんですか・・・」
この三日間、その不安は膨れ上がる一方だった
責任を負うつもりでおそるおそる真実を突き詰めるが、はたして時田がなんと答えるか
胸を締め付けられながらその瞬間を待つ

「一週間の予定だそうだ」

断定された一週間
長い・・・
拓真の頭の中には病室で熱にうなされ苦しむ日樹の姿が浮かぶ

「そんなに長くかかるんですか!?」

食い入るように時田の方へ身を屈め、うっかり大声を出してしまい慌てて口を塞ぐ
こじれた風邪は肺炎にでもなってしまったのか
よもや悪い方、悪い方へとしか思いが運ばない

「昨日手術のはずだから、来週早々には退院できるだろう」

拓真の高鳴る心臓と心配をよそに
時田は意外にも落ち着きのある口調で言った
が、何か違和感を感じ拓真は彼が言ったことをもう一度リピートしてみる

・・・手術のはず?・・・

「先生は今、手術って言い・・ましたよね」
「そうだ」
「手術って・・・なんの・・・」
手術するほどの状態・・・
いったい何がどうなっているんだろう
全てが途切れ途切れの断片で一つに繋がらない

拓真の様子から何か勘違いをしているのではないだろうか
そう察した時田は念のため付け加える

「入院は足の手術の為だぞ」
「・・・足の・・?」
「そう、足にはめ込んである金属を外す手術だ」
「金属を・・・」

拓真は思い返す
そういえば・・・あの日

ジーンズの上から太腿に手を添え
“ここに・・・まだ金属が入っているから”

彼はそんなことを言っていた
だから走れないんだ、と
辛いとか、苦しいとか
そんなことを一切悟られまいと、逆にその気遣いが痛々しかった

この学校に入学すれば、また憧れの人の走る姿を見ることができる
そう胸をときめかせていた
合格発表の日にグラウンドで見た、真っ白なユニフォーム姿の

諸藤さん
なのに・・・

「諸藤は今回の入院を隠すつもりはないんだ、だが公けにもしていない
君が彼と親しというなら、わかるはずだろう」

そうだ、諸藤さんはいつもこちらが聞き出すまでは自分の内面に秘めたものを出そうとはしない
入院の前日、俺と逢っていたにもかかわらずそんなことを一言も言いはしなかった

「彼は陸上部の大事な選手だ 何かと人の目を惹いてしまうが
つまらない興味や好奇心で諸藤を傷つけるようなまねだけはしないでほしい」

以前、陸上部内で口火を切った陰湿な噂のことだろうか
この噂が発端となって事故につながったと聞いている

不慮の事故
何の罪も無いのに・・・
走れなくなってしまった

下駄箱に入れられていた避妊具と、愚弄する内容の走り書き
誰かの心無い嫌がらせの一件も諸藤さん絡みのことなのだろう

彼が厳しく釘を刺す意が納得できる
そして肝心なこと、時田はまだ日樹の退部を認めていないようだ
『大事な選手』
確かに彼はそう言った

「君の真っ直ぐな眼差しに偽りはないと判断した わざわざ私のところに出向いて来てくれた君のことだ」
さらりと流すようで、受け止めればチクリと刺さる言葉
だがたった今、諸藤さんに会うことを許可される

「大丈夫だね」
「はい」

最後の確認は
他言は無用ということ
時田と拓真の瞳で交わす約束は真剣そのものだ

「教えてください どこの病院ですか」
拓真は深く頭を下げた






前回の入院同様
日樹に用意されたのは費用に糸目をつけない個室
グローバルな視野で経営を展開させる企業、その会社社長の子息となれば当然の待遇

設備も環境も整う個室は快適だが、やはり所詮は病室
清潔感あふれる真っ白な天井も壁も身の廻りのもの全て、一人になればただ殺風景で物悲しいだけ
なまじ部屋が広い分、余計な孤独感が募る
これならたとえプライバシーが無くとも大部屋の方がどれだけ気が紛れるだろうか

いや、日樹に限ってはそれも当てはまらない
もともと内向的な日樹
ことさらに人と関わるのを避け、いつからか自分で築いた砦の奥深くに身を閉じ込めるようになってしまった
それが自分を守る術であり、同時に相手を傷つけない最良の方法
関わらなければ何も起こらない
相手に感情移すことなく、心を揺れ動かされること無く

高原との関係もそのはずだった

自分のことで彼を苦しめないため、それが唯一の望みだった
なのに今となっては幻影の彼を追っている
空虚な心を埋めるものを何でも良いから手探りで求めている
これだけ高原を意識して囚われている自分
何度となくループする想い

手に入れたものを失うのは
手に入らない悲しみより数倍辛い
いずれ失う日が来るなら手にしなければ良いと、単純な等式が成り立つ

高原自身が今の状態を最良とし、自分を不要とするなら
役目が終わったことを認め身を引き静かに消えるだけ
それで何もかも終わる

無になる

この心さえ抑えきれればいいのに、感情をコントロールできない自分
一度味わい知った悦からの状況の変化が今は苦し過ぎる

「私はそろそろ戻ります  さ、日樹さん少し休んでください」

上体を起こしている日樹へベッドに横になるように促す鏡
面会時間終了時刻が近づいていく

「傷に障りますよ」

今回の手術は金具を取り外すため、大腿部より上の臀部に近い部位を切開した
傷も小さく4針
とはいえ全身麻酔の手術後、そして傷もすぐにふさがるわけではない
鏡の気遣いが耳に入らないのか日樹はしばらく虚ろな瞳をどことなく向けていた

誰よりも繊細な貴方だから・・・
鏡は日樹に届かなかった自分の言葉にフッと苦笑いをする
「日樹さん?」
今度は耳元近くで囁く

咄嗟に我に返った日樹は慌てて鏡に返事をする

「ごめんなさい・・・」
話を聞いていなかったと謝る

「日樹さんの心ここにあらず、ですね」
「それは・・・」

「心配です だからもう少しここに居ますよ」

帰りに足を向けようとした鏡は溜息を落とし、もう一度付き添い用の椅子に腰を下ろした
日樹を一人残して帰るにはやはり心苦しい

「・・・でも・・」
「仕事は朋樹さん一人で片付けていただきましょう」

朋樹の有能な片腕、滅多に聞けない鏡のちょっとしたジョークだった
自宅マンションで朋樹は残務に追われている
その朋樹のかけがえのない義弟、日樹の為となれば多少時間が押したところで主人も大目に見てくれることだろう

日樹にとっても身近な存在
「鏡さん・・・」

誰でも良い
少しでも傍にいて欲しい
そんな気持ちを鏡が察してくれたのだろうか

「少しお話をしませんか?」
眼鏡越しに鏡が穏やかな瞳をのぞかせたのは、面会時間残り30分を少し切ったところだった

鈍色のスーツを着こなす彼は実年齢よりずっと歳上に見える
なまじ “若造”、と見下げあしらわれるなら外見の良し悪しなどには拘らない
そうして義兄、朋樹に仕えてどれくらいになるだろう
鏡 静那(かがみ せな)
名が現す通り、どことなく女性のようにしなやかさを持つ麗姿だ

仰向けに横たわる日樹は、真上の天井から鏡へ視線を移す

「・・・と、言ったところで、朋樹さん付きの私に、日樹さんご自身のことを話されるとも思いませんので」

「鏡さん・・・」
「そんな顔をしないで下さい」

胸中を悟られまいと気構えしていた日樹は図星を突かれ戸惑う
鏡は重々承知している
何を聞き訊ねたところで日樹が本心で答えるはずがないことを
その上ここで話したことは朋樹へ報告しますと
先もっての告知
残念ながら鏡の方が一枚も二枚も上手だ

以前、日樹が睡眠薬を服用していたことを即座に義兄へ告げたのも
朋樹と深い信頼関係にあるこの鏡であり全て筒抜けなのだ
鏡にじっと見つめられる日樹
フレーム越しに覗く真っ直ぐな瞳を見る限り、彼に誤魔化しは通用しない


互いに様子を見合う沈黙の時間が流れる
日樹は義弟として、鏡は秘書として、朋樹を通じ相見る間柄
その想いは異なる
鏡に嫉妬した時期もあった
その記憶は、時と共にすでに塗り替えられている


先に目を逸らしてしまったのは日樹だった
この間が苦手だ
やがて鏡が日樹へ静かに語り始める

「私ごとですが・・・」

日樹はリクライニングで起こしたベッドに横になったまま瞳を閉じて鏡の話を聞き入る
自分が何か話さなければという義務感からやっと解放された
話を聞く側、受身のずっと方が楽だ

「もう何年前になるでしょう・・・私には絶望の淵を彷徨っていた時期がありました・・・」

再び鏡に戻す視線、それは予期しない前振りだった
なのに鏡は何の躊躇いもなく、はるか昔を恋焦がせ懐かしむ言葉は途切れることはない
個室のここでは誰に話を聞かれることもないからだ

「自分だけでは解決できない問題に直面していました、もっともその原因は自分で作ってしまったものですが・・・」

苦笑いをする鏡
思えば鏡のことは知っていることの方が少ないのかもしれない
義兄の秘書、恋人、そして家族同様に諸藤家を出入りする人間
それが当たり前に過ごしてきた

「そして、それを救ってくれたのが日樹さん・・・貴方のお義兄さんだったのです」

いつも実直な鏡
その一瞬、他人には滅多に見せることのない、はにかんだ表情を見せた
30歳男のそれはまるで少女のように純粋だった

「義兄さんが・・・」

大学で一緒だったというlことは知っていたが、二人の馴れ初めは聞いたことがない
いつしか父付きの秘書になり
その後、義兄の秘書へと肩書きが変更になった

知らない彼の過去
鏡はいったい何を言おうとしているのだろう
義兄から監視のほどをどう仰せ付かっているのだろうか

「どうか、一人で苦しまないでください」

何を思い悩んでいるのか鏡は気づいているのだろうか
それは助言というより、鏡自身に重複させる願いと受け取れた

「朋樹さんは、いつも日樹さんのことを心配しています」
鏡は付け加えた

言われなくても承知している
義兄の過剰なまでの警戒心がひしひしと伝わるのだから
マンション前で居合わせてしまった拓真に対し必要以上の威圧、それが何よりの証拠

西蘭を退学した時から、義兄も自分の生活も何もかも全て変わってしまった
それは自分が起こしてしまった事実

「朋樹さん、そして私も日樹さんを守ります」

守る?
今はそれが重荷で仕方ないのにわかっていない

違う・・・
そんなことじゃない

日樹がそう言いかけた時だった

「諸藤さんっ!!」

息を切らした少年が日樹の病室に駆け込んできた



消燈時間までは開放されている病室のドア
緊急時には迅速に対応できるようにとの病院側からの指示
もしくは患者が重病でないことを標す

「拓真君・・・」

鏡より先にその姿を確認した日樹が少年の名を呼ぶ

「君は!?」
拓真の姿を見た鏡は眼鏡の下の瞳を曇らせた
日樹に続き、外部から完全に保護されているはずの空間に
躊躇いもなく足を踏み入れてきた拓真を鏡が鋭く冷たい視線で刺す
朋樹と共に自宅マンション前で行き会った少年、拓真へは
今まで日樹に向けていたものとは全く違うビジネスの眼光だ

この個室を用意した朋樹の意図には
身分上、そして素性知れない部外者の侵入を阻止する警戒目的もあったのだ
大部屋と違って人の出入りもなく、ナースステーションからも間近
日樹にとってこの上ない入院生活の環境を整えたはずだった

なのに予想外にも彼は簡単に踏み込んできた

二人の視線を一度に感じ、拓真はハッと一歩後ずさる
「あ・・・」

気まずい雰囲気
拓真を見る鏡の表情はまさに訝しげだった

「すみません・・・」
威圧する視線に思わず拓真は詫びてしまう

「失礼だが君はこの前の」
すかさず日樹の盾になるように鏡が拓真に歩み寄る

君はなぜここにいる
その存在を否定するような口調だった
招きたくない客・・・

「あ・・・はい 北都です、諸藤さんの後輩の・・」
拓真は伏目がちに “後輩”、今はそう自己紹介をする
果たして鏡がその“後輩”という言葉をどれだけの意味に受け取ったか


きっとここを訪れてきたことを義兄に伝えられてしまう
予期しなかった好機にも関わらず日樹としては喜んでもいられない

「鏡さん、席をはずして・・・」
思い立って日樹は鏡に告た
時計をチラと見やればもう面会時間終了まで10分もない
かといってこのまま鏡が監視のもとでは拓真も気が休まらないだろう

「日樹さん・・・」
しかしながら朋樹の代役としてやってきた鏡の立場からもそう簡単には引き下がれないのだ

「彼と少し話したいから」
日樹も引かない
どうせ義兄に筒抜けなら拓真の好意を無駄にしたくはない
わざわざ駆けつけてくれたのに、このまま時間ですから、と追い返すわけにもいかない
大事な友人だから・・・

「お願い、鏡さん」
しばらく間を置き、本来持ち合わせている意志の強そうな朋樹と同じ日樹の瞳を自分に向けられ、
仕方ないと鏡が重たく唇を開く
「面会時間はもう残り数分です、手早く切り上げてください」

「は・・はい・・・わかりました」
なんとか許しを得た拓真は鏡に従う

鏡は拓真にそう言い渡し、

「では、私はこれで」

日樹に軽く会釈し病室を出て行く
彼なりに気遣いをしてくれたのだろうか
どちらにしてもあまり快く思われていなかったことを拓真も承知していた


鏡が立ち去る姿を確認し、二人きりになった病室で拓真の緊張も幾分解けたようだ

「あの人はこの前の」
「うん、義兄さんの秘書」
「すみません・・・突然押しかけてきて」
「ううん・・・」

数日振りの会話は少しぎこちなく、言葉も短く途切れる

「拓真くん・・・どうしてここへ?」

「陸上部の顧問の先生に聞きました・・・」
心配でしかたなかったのだから

「手術・・・だったんですね・・・」
「うん」
「なんであの日、教えてくれなかったんですか」
「ごめんね・・・」
「俺・・・今日諸藤さんに会うまでは心配でどうしようもなかったんです」

高原にさえ伝えてないこと
だが、糸をたどっていけば答えは見つかるところにある
この入院も全てを隠していたわけではない
必要ならばその糸をたぐり寄せれば解けること
日樹にとっては小さな賭けだった

もし、今でも彼が自分が必要としてくれるなら
高原自身がそうして答えを見つけ
ここに来てくれるだろう

しかし、今目の前にいるのは
高原ではなく拓真なのだ
拓真は自ら答えを解いてここに来た

「それで傷の具合は・・・」
「大丈夫」
日樹の笑顔は拓真をほっと心を落ち着かせる

「なら・・・ヨカッタ・・・諸藤さん・・・」

今までの意気込みがどこかへ抜けていってった
体を萎縮させていた緊張が解けた拓真は、無様にもヘナヘナと床に両手両膝をついてしまった


「拓真くん!」
拓真を気遣おうとし、日樹は慌ててベッドから起き上がり足をおろす
咄嗟のことで自分の足を庇うことすら忘れていたのだ

「・・痛・・」
ズキン!と傷に痛みが走り、体を強張らせ唇をかみ締め
力が抜けた片足は不意にバランスを失った
日樹は拓真のもとへ身を崩し倒れていく
歪めた唇に果たして拓真が気づいたかどうかは不明だが
拓真にはその姿こそ空から堕ちてくる天使にも似て見えた・・・

「諸藤さん・・・」
日樹の姿に見惚れながらも、その体を受けとめようと構える拓真

「あっ・・」
「わっ!」

その声はほぼ同時であった

いくら華奢な日樹といえ、高い位置から勢いついた全体重が押しかかれば
拓真でもそれをキャッチするのは容易ではない
二人は弾みで床に転がり倒れていた

自分が下敷きになり床を背にする拓真、そして拓真の胸に大切に抱え守られた日樹
互いの顔はかろうじて接触を逃れた距離にあった
拓真が自らクッションとなり身を挺して守られたこのシチュエーション・・・日樹は何か懐かしさを感じてならない

拓真の想いは・・・

今、自分のすぐ目の前にいる
それは、ずっとずっと恋焦がれていた人で、ダークブラウンの髪とお揃いの瞳の色
その大きな瞳の中には今、自身が映っている

諸藤さん、これって
神様のちょっとしたご褒美かな・・・
だって、やっと貴方に逢えたんです
そう受け取っていいのかなぁ
それにしちゃ
ちょっと痛かったけど

洗い立てのパジャマからは柔らかくて良い香りがしている
それとも日樹の香りだろうか
重なり合う体、予期していなかったハプニングに頭はのぼせ上がる寸前だ

「痛かったでしょ、拓真くん」

心配そうに呼びかける声が聞こえているのだろうか?
拓真は一心に日樹を見つめたままだった

すみません
もうしばらくこうしていてもいいですか
亮輔・・・信じるか? 俺、諸藤さんを抱きしめてしまったよ・・・
なんとも我ながら悠長だ

拓真の両腕はこんな時でも遠慮勝ちに日樹をよそよそしく包んでいた

「頭を打ってない?」
日樹が更に顔を近づけ心配そうに覗きこむ
それはあくまでも拓真だけの解釈だが、受け取り方によっては唇を重ねてくるしぐさにもとれる


諸藤さん・・・
それはいくらなんでも
この状況で不謹慎です・・・それも大きな勘違い

「だ・・・駄目ですっ!!やっぱりこんな時に」
「拓真君?」

「え・・・・?」
「大丈夫?拓真くん?」

「あれ?・・・俺どうして・・・」
「やっぱり頭を打ったの?」

頭は打っていない、それに正気だった
なのに途中から段々ぼーっとして、そうしているうちに勝手な妄想が現実と倒錯していた・・・

「い、いえ・・・・・・あ・・・・・・・綺麗な百合ですね」
ベッドサイドの花瓶に活けられた花に話題をはぐらかし
自分の邪な思いと恥ずかしさを紛らわすために拓真は顔を背けた





「わざわざ時田先生を訊ねて、そしてここを聞いて来てくれたんだね」
無心な拓真の好意、それは日樹に十分伝わった

「ありがとう・・・拓真クン」
並んで歩く二人、拓真の肩口で日樹は囁く

トクトクトク・・・と高鳴る心臓の音が聞こえてしまうのではないか
先ほどのことといい、今日はどうも心臓に良くないことばかり起きる
「い・・いえ・・」

10分なんて・・・短い時間だった
何を話したかと言われて思い出せることはひとつもないし、大した会話もしていない
ただ・・・
あの後、二人はふきだしてしまった

拓真の突拍子もないセリフ、『い、いえ・・・・・・あ・・・・・・・綺麗な百合ですね』
ベッドサイドにある客用のテーブルとソファは個室ならではの設備
そのテーブルに置かれた眼鏡ケースと文庫本
そして、花瓶に活けられた大輪でありながら清楚な花
誰かが見舞いに届けた品だろう、少年の病室には少々不似合いだが、これが日樹となれば話は別で
拓真もその花の名前ぐらいは心得ていた
『百合の花』、これを照れ隠しの話題にしてしまった

時間の余裕も無く慌てて飛び出し、手ぶらで見舞いにやって来た拓真は少々気が引けていたのだ
「何か必要な物とかないですか、その・・・今日は手ぶらで来ちゃって」

常々偽りの無い瞳をしている拓真を察すれば
君が着てくれただけで十分だと日樹は黙ったまま首を左右に振る


何もいらないよ・・・


「本が必要だったら、タイトルを教えてもらえれば図書館で探して借りてきます」
「ありがとう・・・」

拓真の誠意に日樹は何度目の“ありがとう”を言っただろうか
拓真にとってはこの上もなく嬉しい日樹の笑顔付きのお礼
この時間が永遠に続けば良い
残念ながら病棟に面会時間の終了を告げるアナウンスが流れる
拓真と時間同じく面会を終える見舞い客が足早に階下へ降りていく

「こんなに歩いても大丈夫なんですか」
「うん」

病室を出てエレベーターホールまで拓真を見送りに出た日樹
傷をかばう歩き方はどこかまだ痛々しく拓真もそれが心配でならない

「俺、明日も練習が終わったら来ますから」
「ありがとう、でも無理しないで 大会も近いから」

夏の大会目指し時間ギリギリまでの練習
それが終わってからでも自転車を飛ばしてくれば面会時間に30分ほどは猶予を見積もれる
有難いことに夏の陽は長く、宵の口はまだまだ人通りもにぎわっている
苦になんてなるはずがない

エレベーターに乗り込む拓真
そしてゆっくり二人を隔てるように閉じる扉

「じゃ、また・・・」
「気をつけて」

日樹の言葉は最後まで拓真に届いただろうか
名残惜しそうな拓真を見送る日樹の笑顔は晴れやかだった

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