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時の流れは残酷に
美しい想い出さえも薄れさせる
忘れてしまおう、決してそう願うわけではない
次から次へと受け入れる真新しい鮮烈な場面に追いやられ
完全に消えることがなくても褪せては霞んでいく
大切な想い出




日樹、西蘭学院で迎える
〜三度目の秋〜



激暑(GEKISYO)3
        
                        
三度目の秋・・・
ここから風の広場を眺める
そんなのんびりとした時間を過ごすのが好きだった
準備室の机の上には見慣れた文字
特徴のある筆跡は小梶のもの
達筆とはいえないが、角、角した几帳面な文字はまるで何かの模様のようで
一度それを見れば、美術教師らしい彼の筆跡とすぐに判別できる

遥を通じて知り合った高等部美術担当教師
年のころには義兄に近く、ことさら親近感が沸く

いつもならその彼が出迎えてくれるこの空間
このところこうして彼不在の時間を過ごすことが多くなったような気がする
沸きあがる不安にあり得ないことを仮定しては打ち消す
結びつけてみれば思い当たる節はいくらでも浮かび、傍にいる自分が原因ではないかと思い至る時もある

小梶の心情を推し量ることはできない
まして彼の現在の境遇を知る術も無い

思い返してみればその頃からだったろうか
運命の歯車が少しずつ乱れ出したのは・・・

持ち前の性格それだけではなく
遥がもちかけた相談内容が誰のものより小梶が共感したのだろう
その遥との別離から、丸2年が過ぎた
連絡先もわからないまま・・・
それが遥らしいといえばそうなのだが
もしかしたら、全てを承知の上で一切を口外しない小梶に
遥がそれを望んでいるのかもしれない

だから尋ねることもしない
遥が残してくれた
『またいつか逢えるよね』

その言葉だけを信じて

『一流の人間になるためだよ』
西蘭に入学した遥の目標はそれだ
事情あってここを去らなければならなかったのはどんなにも口惜しいことだっただろう

遥ならきっと大丈夫だ

一陣の風に揺れる “風の広場” の木々を眺めながら時折思い描く
それから何も変わっていない
失うものも無く平穏に過ぎていく毎日
それが心地よかった





準備室の扉がカタッと音を立て開く

「すみません、小梶先生はいらっしゃいますか?」
中等部の生徒であろうか
小柄な生徒がおどおどしながら遠慮がちに立っていた

救いを求めてここへやってきたのだろう
小梶に悩みを打ち明けたくて美術教室を訪れる生徒は今も後を絶たない
かつての自分もこんな姿に映っていたのか
中等部最上学年となった今、当時より少しではあるが背も伸びた
知らずに成長していく心身、時は確実に流れている


「まだ職員会議中かな?」
ここへ出入りする生徒が何人もいる中で、
日樹は美術部員の特権で小梶の助手を気取り、準備室を自由に行き来することができるようになっていた

「そうなんですか・・・」
何度も空振りを食らったのか、残念そうだ

「うん」
「・・・じゃぁ駄目かな・・・また伺います」

自然に流れる滑らかな言葉遣い
どこか洗練された上品さが見受けられる
やはり良家の息子なのだろう

「待って!ここで先生を待っていれば?」
しょんぼりと俯き引き返そうとするのを呼び止めれば

「良いんですか!?」
少年というよりソフトで幼い顔立ちは、少女のように優しげであり
日樹が呼び止めたことで不安顔は見る見るうちに華やいでいく

「小梶先生はこの頃お休みが多いみたいなので、なかなか逢えなくて・・・」

彼の言う通りだった
夏過ぎた頃から気にかかるほどに休暇をとっている
どこか体調でも悪いのだろうか・・・

準備室の中へ通し、小さな訪問者をソファに導く
自分が末っ子ということもあって、こうして年下の面倒をみることが日樹には照れくさいながらにも嬉しかった

「あの・・・先輩は美術部の方なんですか?」
温かいもてなしに警戒心も緩んだのだろう、真っ直ぐに尋ねてくる少年

「え?・・・うん」
小梶の傍に居付いてしまった自分
見よう見まねでドリップした珈琲は、小梶がホームグランドに戻ってくるのを楽しみに先回りして準備していたもの
日樹自身も顔を合わせるのが久しぶりの小梶、ゆっくり話もしたくて彼の戻りが今かと待ち遠しい

「珈琲・・・飲む?」
この小さなお客の口には、にがすぎるだろう
しかしこの部屋を訪れるゲストにはお約束のこと
小梶のセリフをそのまま真似てみる

「はい!」

笑顔で元気良く返ってきた返事に顔をほころばされる
勝手知ったる身で棚からマグカップを取り出しコポコポと珈琲を注ぐと
すぐにふんわりと深みのある香りがこの準備室に立ち込める

「先輩のこと知ってます」
カップを両手で受け取った小さな少年は友好的な挨拶で日樹に訊ねる

「あの・・・小梶先生とよく一緒に居らっしゃるから・・・」

核心をついてきた
さして深い意味はないのだろうが、本人達以上に傍目から見る印象はシビアなのだ
自分の分の珈琲をカップに注ぐ手が少々落ち着かなくなった

「ボク・・・好きな人がいるんです」
「・・・え?」
「その人は高等部の人で、なかなか逢う事ができないから、高等部の美術を教えている小梶先生に
いろいろ聞きたくって」

驚くべきこの発言が、珈琲を注ぎ終わった後で良かったと
日樹がどれだけ冷や冷やしたことか、この少年は知る良しも無い



どうやら彼は恋の悩みを相談にきたらしい・・・

「1年の湯浅といいます」

日樹が少年の真向かいに腰を落ち着けると同時に
礼儀正しい挨拶が中央のテーブルを越えてきた
まだ初々しく少し大きめの制服が最小学年と一目でわかり
かつて自分が1年生だった頃、遥に連れられてここに訪れてきたことを思い起こす

今、目の前に居るのは、ほろ苦い珈琲よりも甘い洋菓子の似合いそうな少年

少年は飾ることも無く、なんとも嬉しそうな表情で
時に、くっきりした瞳を更に大きく開き
主の不在を守る日樹へ息もつかずに話し続ける
どうやら今まで誰にも話せず心に秘めていたことを一気に吐き出せたようで
それはとどまることを知らない

そうであろう・・・
相談内容は流石の小梶にとっても難題の部類になる
こと恋愛に関してだ
だが肝心の小梶はまだ職員会議から戻らず
その間永遠と、日樹は下級生の相手をすることになってしまった

駆け込み寺のような小梶のこのホームグラウンドを訪れる生徒の中には
思いがけない相談を持ち込む者もいるのだが、堂々と後押ししてやるわけにもいかず
慎重に取り計らってやらなければならないこともある

少年の相談というのは
どうやら先に行われた体育祭で活躍した高等部の生徒に一目惚れしてしまったことらしい

「先輩はどう思われますか?」
「・・・え?・・・」
「おかしいでしょうか?」
「う、ううん・・・」

うっかり口に含んだばかりの珈琲を噴き出してしまいそうになり
返事に間をあけてしまえば、少年の語尾が段々消え行くようにその表情も沈んでいく

「男の人を好きになるって、やっぱり変ですよね・・・」
「そ、そんなことはないんじゃないかな」

どうも歯切れが悪かった
何か自分の心に引っかかるものがあるようで否定ができない
とはいえ、大切な友人であった遥との関係も友情以上のものではなく
恋愛とは少し違うような気がする

1クラス40名で1学年8クラス、それが中・高等部3学年ずつになれば
単純計算しても2,000名、その生徒は全て男子なのだから
恋愛対象が同性になることもあり得なくはない


「先輩はこんな気持ちになられたことがありますか?」
「僕が?」

自分へふられた質問だ
いい加減な答えを出したくなくて、しばらく沈黙を置く

義兄と鏡の関係を知り、その後、義兄が実家を出てしまった時の嫉妬と喪失感こそが、
恋愛に近いものではないかとも思える

世間で異端と蔑視され認められなくても、現実に義兄は鏡と体の全てで愛し合っていた
当時は理解することも、事実を受け入れることもできなかった自分だが
それから5年、学校で性に関する教育を受け何もわからなかったあの頃とは違う

恋愛とは、穏やかにときめきを少しずつ育てながら
意識した時には心の奥深くまで独占されているもの
失った時に気づいた自分の感情は、少年のそれとは少し違うような気がする

「よくわからないけど・・・憧れとか、その人を大切にしたいとか、
そういう気持ちはあってもおかしくないんじゃないかな」

恥を忍んで真剣に相談を持ちかける下級生を傷つけない様に、
こちらも誠意をもった返答を試みる

「スポーツマンで逞しくて、チームのまとめ役的存在で・・・先輩もその勇姿をご覧になりましたか?」
日樹に否定をされなかったことで少年の顔が綻ぶ

世の中の何よりもキラキラと輝く想い人であり
並べ上げたらキリがない美辞麗句は一時の熱病としても
今の彼にとっては一大事なのだ

とにかく、中・高等部合同の体育祭となれば大人数であり
そう言われてみれば、確かに際立っていた上級生がいたような記憶が片隅に残っている
少年の瞳には、無論その勇姿が一部始終焼き付けてあるのだろう
想い人の姿をこと細かに語る少年の黒髪がしなやかに揺れる

「校内で数度お見かけしたのですが・・・」
「その人とは話をしていないの?」
「挨拶程度しか・・・」

シュンと頷く
真っ直ぐで真っ白な気持ち
中等部の生徒が高等部の校舎をうろつくわけにも行かないのだから
校内で偶然の対面を期待するのは確率としてもかなり低い

「優しくされたら勘違いしてしまうことってありませんか?」
「・・・?」
「笑顔で声を掛けられたら、ボクのことを少しでも想ってくれているのかもしれない・・・って」
「・・・あぁ・・・そういうことね」

一挙一動を意識しては、ほのかな想いに心揺れ動かし
正面からぶつかろうとしているこの小さな少年が健気でならない

「いきなり告白したら驚かれちゃうでしょうか」
「・・・それは僕にも・・・」

曖昧な返事ではあるが、
煽ったり引き止めたり、少年に影響を与えてしまうような言葉はむやみに言うことはできない

「そうですよね・・・先輩はどなたかお付き合いされている方がいらっしゃいますか?」

真っ直ぐな分、遠慮ない物言い
矛先が自分に変わってしまった

「ううん・・・いないよ」

そう、自分を守るために封鎖してしまったもうひとつの分岐道
想いが深くなればなるほど傷も深くなるから
二度と経験したくないと自ら閉じ込めてしまった記憶と潜在意識
そして今・・・
新しく芽吹いた心にまだ気づいていない自分

遥、そしてこの少年との出逢いが、途切れた想い全てを連鎖させ、
自分が歩いて行こうと決めた道から、過去に封鎖した分岐へレールが切り替えられる


長く眠らせておいた心が呼び起こされる

もう二度と悲しい想いをしたくないから
失いたくないから
傷つくのが嫌だから

忘れてしまえ
閉じ込めて鍵をかけてしまえば
繰り返すこともなかったはずだったのに

どうして安易に開いてしまったのだろう・・・

そうしてはまた粉々に砕ける




「そうですよね・・・いきなり告白したら相手の方に驚かれちゃいますよね」

少しばかり軽はずみだった言動を自ら封じた少年は自嘲気味だ
だが少年は、小さな体に反した堂々たる態度でめげることもなく、今度は話題を日樹へと向けてきた

「先輩はどなたかお付き合いされている方がいらっしゃいますか?」

一瞬、耳を疑う

「ううん・・・いないよ」
否定になってしまうが、
日樹は年長者らしく少年の自尊心を損なわないように優しく答える

「でも・・・」

想いを寄せている相手もいなければ、交際している相手もいない
日樹もこの時は正直に答えたのだが、それがどうも納得いかないらしい

男子校となれば右を見ても左を見てもターゲットとなるのは同性、
積極的で仕草の愛らしいこの少年のことなら周りも放っておかないはず
流されてしまうよりは少々小生意気な方が人受けもいいのだ
もしかすると告白された経験があるのかもしれない
身に覚えがあることだからこそ、こうして日樹へも問いかけてくるのだろう
少年というよりはどこか少女のような柔らかい容姿は日樹も一緒だ

彼の言う"付き合っている"がどういう意味なのか
プライベートの休日を一緒に過ごしたり
手を繋いで歩くとか、食事をしたり、映画を見たり
あるいは挨拶程度に唇を重ねたり?
精神的な繋がりのことなのか、あるいは・・・

遥との別れの後、少しずつ周りと打ち解けていきはしたが
隙なく媚びず、慎ましさの前には近寄りがたく、内向的な日樹には周囲の人間も気遣いし、
惜しくも手をこまねいて遠巻きに見守る人間が多く、境界線はきちんと引かれていた
少年がいくら根掘り歯掘り聞き出そうとしても日樹からは埃ひとつ出てこない

となれば、
「じゃ・・・あの、小梶先生とは?」

この部屋に招き入れてから最初にドキリとさせられたその名前を再び問いかけられる
教師と生徒の関係、学院の中で実際耳にした事がなければ当事者として自分が対象にされるのも初めてだった

「えっ・・・それは」
「もしかして小梶先生とお付き合いされているのですか」
年少でありながらも丁寧な言葉遣い

「まさか・・・」

小梶と一緒にいるところを多く見かけられようが、発想が極端すぎる
二人でいる時にも誤解を招くような行動は決してとっていないし、そんな事実もないわけで
一方的に自分のことを話すより
共通の話題に意気投合すればより親近感も沸き、気兼ねなく打ち明けられるということだろう
日樹にはどしても自分と同じような立場であって欲しいらしい

小梶の名に触れられ動揺した
特に親しいクラスメイトも上下級生もいない、この学院内では皆一律に誰彼に対しても同じように接している日樹
遥のいたポジションを誰かに埋めてもらう気などなかった
しいていえばその小梶こそが今、一番身近に存在する人物であり
彼の傍にいることで自身が支えられているということは既に自意識の中にあった
遥がいなくなってしまった後も長い時間を共有し続け
そして、小梶と共にこの学院で三度目の秋を迎えている

誰に知られることのないはずの秘密を突然暴かれたようで、日樹にしては珍しく揺らいでしてしまった

傍に居て当たり前と日々過ごし
それをある日突然失ってしまった果ての虚無感
本心では求めているのに抑制し、何も無かったように立ち振舞う自分

歳の離れた兄の大きな手のひらが好きだった
不在がちの父に代わっていつも傍らにいてくれた義兄の手のぬくもりが温かく安らげた
自分から遠ざかってしまった義兄の代わりに小梶を?
自覚はまったくなかったのだが
まさか、そんなはずは・・・

じっと期待の返事を待ち構える少年へ

「残念だけど・・・」
数度首を横に振った

外見のたおやかさに反し、曖昧さを残さないきっぱりとした答え
好奇心旺盛な少年を諭すには、日樹の言葉少ない返事だけでも説得力は十分だったようだ
この先何を訊ねられても答えは一緒
少年が思うような関係を望んだこともない上に

"お付き合い"などしていないのだから

「違うんですかぁ・・・」

憧れの人の話題に触れるだけでも心がときめく
二人一緒なら恋の話も盛り上がるところだったのに、少年の思惑はあえなく期待はずれに終わってしまった
元はといえば、この少年が勝手な憶測で先の展開を楽しんでいたのに
ガッカリした表情を目の当たりにし、それが少々気の毒になってしまう

「あ・・・もし、君がその人のことを好きなら、何か言葉にして伝えてあげれば良いんじゃないかな?」
少年の想いが少しでも形になって相手に届けば良いと、あまり気の利いたアドバイスではないが
軽く後押してやるそれは我が身の経験から得たもの
伝えたくても遥には伝えられなかった

「言葉で・・・?」

「うん、『好きです』とかじゃなく、もっと具体的に君がその人に対して思うことはない?」
「具体的に・・・ですか?」

「えぇっ〜と、たとえば君はその人のどんな姿を思い浮かべるのかな?」
「・・・僕は・・・あの方の優しい笑顔と勇姿が忘れられなくていつも・・・」
大好きな人を想い含んだ少年は頬を染める

一途だ

「それそれ、自分を気にしてもらえることって、きっと嬉しいと思うから」
「はぁ・・・そうなのでしょうか」
「届くといいね、君の想い」

秘密の相談話に心が弾み
小梶の不在時に偶然出逢った少年は日樹の眠る心を覚醒させる



伝えたくても伝えられない想いがある
それならせめて、伝えることができる時に・・・

二度の別れ
気づいたのは大切なものを失ってしまってからだった

悲しいこと、嬉しいこと
言葉にすれば真っ直ぐ相手に伝わる
後悔しないためにも

伝えてあげて・・・


随分と思い切ったアドバイスをしたものだと我ながら思う

本人が解くことのできない絡まった糸も、第三者なら案外簡単に解けてしまったり
目の前にいなくても当人の話題に触れ、独りよがりの空想に浸るだけでも満たされる
願わくば、自分の想い存在を認めてもらえることが一番なのだが
それにはことを急いたり、一方的で押し付けな運びは好ましくない

「先輩のおっしゃる通りかもしれませんね でも・・・」
「でも?」
「あの方は高等部なので・・・」

中等部1年生のこの少年から見て、3歳以上年上になる高等部の生徒は
さぞや大人に見えることだろう
それぞれの校舎は異なるうえ校内で偶然出くわすのは稀である
中等部の生徒が同じ敷地内でもまったく世界が違う高等部の校舎へ出向くのには
それなりの覚悟が必要だ

「あ・・・」
肝心なことを忘れていたと、日樹の口元が困惑しだす
伝えたくとも、チャンスがなければ伝える手段がない

「あの方とはあまりお逢いする機会もないので」
「そう・・・だったよね」

名案だったが、実行に移すとなると更なる壁が待ち構えていた
せっかく意気投合して盛り上がったテンションも苦笑いと共にクリアされていく


ペースはすっかりこの愛らしい下級生のものになっていた
日樹は積極的な彼にただ相槌を打つことを繰り返す
少年を準備室に迎え入れ、かれこれ一時間ほど談話し続けた
意中の人、その笑みは自分だけのもの
心を捕らわれ夢中になる
秘めた想いは小さな少年をまばゆく輝かせていた

ドリップした珈琲は大人の味、少年の口にはきっとニガく、しぶ過ぎるだろうと心配したが
熱弁の合間にすっかり飲みほされ、二つのお揃いのマグカップは既に空になっていた
夕暮れを迎えるこの時間、校舎の一室に一人で待つには物悲し過ぎる
美術部員の出入りも少ないこの静かな準備室に突然現れた
幸運を振りまきながら歩く天使のような少年と一緒に、
日樹は暇を持て余すことなく小梶を待つことができた

秋の夕陽はつるべ落とし
この時間から一気に陽が暮れていく

「・・・小梶先生遅いね」
「いいんです・・・先輩に聞いて頂けたし、それより僕のことばかり話してしまってごめんなさい」

素直で純粋で、色で例えるなら真っ白
ハキハキと歯に衣着せないストレートな物言いは、どこか遥を思い出させ
自分の想いを素直に表現できる彼が少々羨ましかった

「そろそろ戻って来ても良い頃だと思うんだけど・・・今日の職員会議は随分時間がかかってるなぁ・・・」
「あ、もうこんな時間・・・僕、またこちらへ伺っても良いでしょうか」

都内屈指の名門校、この西蘭学院への通学圏は果てなく広く
電車やバスを乗り継いで来る生徒も少なくない
この少年もここから多少の時間をかけて帰宅するのだろう

「うん」
日樹が頷く
自分が許可するのではない
この場所は小梶に心の安らぎを求めてくる生徒たちが自由に出入りできる場所
誰にでもその権利があり、小梶ならきっとそう答える
傍でそんな小梶の姿を見続けてきた

「今度は小梶先生と先輩のご都合を聞いてから伺います」
「・・・僕の?」

"先輩のご都合?"
小梶の都合というなら話はわかるが、自分の都合までという発言を
うっかり聞き流しそうになっていた
聞き返すまでもなく、少年は明らかに日樹を慕う眼差しを向けている
呆れ顔ひとつせず親身に相談相手となってくれていた日樹をすっかり気に入ってしまったようだ

「ありがとうございました」
どの動作ひとつをとっても愛らしい下級生
胸の内を全部打ち明けて満足した少年がソファから立ち上り、ペコリと頭を下げ
準備室を出て行こうとした時、同時に出入り口扉のくもりガラスに人影が映った

下校時刻まもなくの時間、この部屋の扉を利用する人間は限られる
ここの主が戻ってきたのだ

扉が開いた瞬間、既に身構えしていた少年が先に迎えた
「小梶先生!」
「おっと・・・」
来客者の訪問を知らない小梶は入室時に少年とぶつかる寸前で足を止めた

「君は・・?」
高等部美術教科担当の小梶には初対面の少年が自分の受け持ち外の中等部の生徒と
一目でわかったようだ

「中等部1年の湯浅といいます はじめまして」
「ようこそ」
小梶は準備室を訪れてくる生徒全てを温かく受け入れる

「彼、先生を待っていたんです」
久しぶりに見る小梶の姿を追い慕うように、日樹から言葉が流れ出た
少年との今までのいきさつ、いや
もしかしたら自分の本心だったかもしれない

“待っていたんです”
言ってしまってから、なぜか気恥ずかしく
本当に自分の口からでた言葉なのか?と半信半疑で小梶を見る

「諸藤・・・来ていたのか・・・」
「はい」
さして広くないこの準備室、扉を開ければすぐに中の様子は一望できる
長引いた会議のせいか、もはや西に沈む陽の陰りのせいか
日樹に向けられた小梶の顔はやや疲労を隠せない表情だった

「ん・・・?」
いつもと違う室内の様子、小梶の視線が一点を見つめている

「すみません・・・勝手に」
中央のテーブルに置かれた二客のマグカップのひとつには小梶のために淹れた珈琲を注ぐはずだった
小梶の代わりにこの部屋で少年をもてなしていたのだと正直に告げる


「それは待たせしてしまって申し訳なかった」
「いいえ、諸藤先輩にお話を聞いて頂けたので、今日はこのまま帰ります」

準備室の柱時計を見れば、もう17時を少しまわっている
この少年は、学院で最年少学年の生徒であって
これ以上遅くに下校させるのは教師として望ましくなく
せっかくの訪問者だが小梶自身が引き止めるわけにはいかない

「そうだね、私が居る時ならいつ訪ねて来てくれてもかまわないよ」
「ありがとうございます」

今日のところは満足したのか、やって来た時にはどこか迷いある落ち着きない振る舞いも
胸の内にためていた思いを吐き出しスッキリしたのか、
さすが名門校に通う生徒らしく堂々としたものに変わっていた

「先輩、ありがとうございました」

ここを気に入り、また訪れてくるであろう
小さな心は少しばかりの幸福で満たされる
少年は小梶と入れ替わりに、今の心境を表すような軽い足取りで準備室を出て行った


手に持つ書類の束をひとまず置こうと窓際の机に向う
夕陽射す小梶の表情がすれ違い様、青白く見えたのは気のせいだろうか
前髪の根元を濡らしているのは額の汗か・・・

「先生、珈琲飲みますか?」
「・・・・」

答えない背中
聞こえていなかったのだろうか、念のためもう一度訊ねる

「先生」
「・・・・なんだ」

小梶が振り向く
返事は遅れたが今度はきちんと聞こえていたようだ

「珈琲を飲みますか?」
「あぁ・・・そう・・だな」

だがひどく歯切れの悪い返事だった
なにか考え事でもしていたのだろうか 長引いた職員会議の議題か
それに・・・

単に下校が遅くなることを避け、時間が時間だけにことを急いてしまったのか
いつもここへ来る生徒を快く迎える小梶なのに、今日に限って
その小梶にどこか余裕がないように見受けられた

「あ、いや・・・諸藤も遅くならないうちに下校しなさい」
「でも・・・」

そんな言葉を交わして間もなくだった
小梶の後姿がグラっと揺れ崩れていく
よろけた拍子に身近にあるソファにぶつかり、ガタッと音を立て位置を乱す
胸騒ぎがした
今も消えることのない悔いが既視感となって
自分が引き止めなければそのまま先の見えない暗闇に連れて行かれてしまうのではないかと
おかしな妄想を巡らせる
そんなの嫌だ、どうか間に合って!
その後姿を受け止めようと駆け出したのは日樹だった

床に膝を落とした小梶に駆け寄り
抱き支えるというより、自分より大きな体の小梶にしがみついた格好であった
数枚の紙切れが空を舞っている

「先生っ!!」
いったい何が起こったというのだ
日樹の胸に大きな高鳴りが一つ響いた

「先生!大丈夫ですか!?」

肩越しに覗く、歪めた小梶の横顔は眉根を寄せ痛みを堪えているようで
やはり額のそれは脂汗に間違えなかった
「先生!先生ー!」
小梶の身を案じて、なおかつ自分の心の中に突然湧いた大きな不安を打ち消そうと
何度も何度も叫んでいた

「・・・・大丈夫だ・・・」
頼りなくても精一杯支えようとする日樹の手に小梶の手が重なる
小梶の掌は温かだった

「先生・・・」
「心配するな」
「え・・・?」

力を込めてギュっと包み、握ってくる大きな掌から
いつもと変わらない小梶の優しさ、思いやりが伝わる

この状況で、どちらがどちらを気にかけているのか
どんな切羽詰った顔で小梶を見ているのだろう
小梶に自分がなだめられるのは逆ではないか、と思いながらも
そうしていることで高鳴った鼓動、熱くなった体を静められていくのが心地い

同時に今この手を放してしまえば、
もう二度と逢えない別れを迎えてしまうような気がしてならなかった

二人は互いに身を離さずにその場にいた
かつてはごく身近にあり、与えられることに安らぎを覚え
永遠に存在するものだと思い違い、やがて突如として失った
小梶の背中越しから伝わる人肌の温かさが懐かしい
先ほど少年に煽られたことが起因なのだろうか
冷静だったら誤解を招きそうなこんな状況を人に見られてはならない、
すぐに身を離さなければと躊躇ったに違いない
少年が帰った後のことで良かったと安堵する

「本当に・・・大丈夫ですか」
何度も何度も確認をする
そのたびに小梶は

「大丈夫だ」
もう先ほどの苦痛の面持ちではない
繰り返す問いかけにも飽きずに、日樹の胸に湧いた不穏な兆しを消してしまうほど
穏やかで柔らかい囁きで答えた

二年以上の歳月を共に一緒に過ごして来た人
気付かなかっただけで、実は無意識に求めていたのかもしれないということを
この瞬間、はじめて認めることになる
この人を大切に想い、失いたくないのだと

日樹の人生を大きく変えていくその出来事
それが始まりでもあり、始まりがあれば必ず終わりを迎えるという現実と
我が身を成長させるために乗り越えていかなければならないひとつひとつの体験でありながらも、
幾重にも心を深く抉られる、その試練を自ら受け入れることになる




激暑2
激暑4